Batch-V6-02:死体を見るということ──膖脹想と十不浄の雛形

第六巻 行門品の七の三 Batch 02

前の物語 → Batch-V6-01「十一切入の閉じ──虚空・識・散句」
次の物語 → Batch-V6-03「青淤・潰爛・斬斫離散──不浄の三相」
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目次

目次

  1. 所縁の反転──抽象の頂点から最も具体的なものへ
  2. 念処経からの継承──経が指示し、論が実装する
  3. 膖脹相の定義──排嚢の中の死屍
  4. 「厭う」が味となる──不浄観の独自性
  5. 九つの功徳──欲・色憍・無病憍の対治
  6. 死屍処への往き方──四つの準備と三つの作法
  7. 距離の精密性──「遠からず近からず」
  8. 周囲の物から始める──石・土・樹・杌・藤
  9. 十行相──対象を多軸で観る
  10. 作法の意味──「無二行とは何の義ぞ」
  11. 「不愚痴」の構造──驚怖の対治
  12. 次第の法──取相の継続装置
  13. 死屍が珍宝となる──喜楽の発生
  14. 初禅のみ起こる三つの理由──覚観への依存
  15. 不耐の事が喜楽を起こす逆説
  16. 十不浄の雛形として

1. 所縁の反転──抽象の頂点から最も具体的なものへ

前バッチで、十一切入は閉じた。虚空と識──所縁の最も抽象的な形態。物質を離れた空間、そして客体化された意識。修行者の所縁は、ここで最高度の抽象化に達した。

そして本バッチで、原典は所縁を反転させる。

膖脹想(ぼうちょうそう)。膨れ上がった死体。最も具体的な、最も生々しい、最も避けたい所縁。

抽象の頂点から、具体の極致へ。この反転は急激である。前のバッチで、修行者は「ない場所」(円孔穴の空虚)を所縁とすることを学んだ。本バッチで、修行者は「ありすぎる場所」(腐敗した死体)を所縁とすることを求められる。

なぜ、この配置なのか。原典は理由を述べない。しかし機能から読めば、見えてくる構造がある。

十一切入は、所縁の自在性──修行者がどんな所縁でも定の起点とできる──を仕様化する道だった。地・水・火・風から始まり、色、光明、空間、意識まで。最後の二つで、所縁は最も希薄なものになった。

十不浄は、その正反対の方向で、同じ命題を確認する。最も嫌悪すべき所縁、最も避けたい現実、最も具体的な物体──それすらも、定の起点となりうる。発見2.13(喜楽の源泉は対象ではなく蓋の離脱)が、ここで最も劇的に検証される。所縁が何であれ、蓋が離れれば喜楽が生じる。それが本当に成り立つかは、最も「ありえない」所縁で試される。死体で。

第六巻の構造は、この対比を骨格としている。一切入の閉じと、十不浄の開き。両者を経て、修行者の使える所縁のスペクトル全体──最も抽象から最も具体まで──が完備される。


2. 念処経からの継承──経が指示し、論が実装する

十不浄は、念処経(DN 22 / MN 10)の身念処における不浄観の、論としての展開である。念処経は、修行者に九段階の屍体を観ぜよと指示する。膨れ上がった屍、青く変色した屍、膿が出る屍、断壊した屍、食残された屍、散乱した屍、骨だけになった屍、骨が朽ちた屍、塵となった屍。

この経の指示を、解脱道論は十不浄として整備した。九段階を十項目に細分化し、各項目に九功徳・十行相・坐処の選び方・距離の取り方・取相の作法・継続の方便を加える。経が「観ぜよ」と指示したことを、論が「どう観じるか」として精密化した。

これは上座部の標準的な経-論関係である。経(sutta)が修行の指示を簡潔に与え、論(śāstra)がその実装を体系的に展開する。本プロジェクト固有の発見ではなく、ウパティッサが当然の前提としていた構造である。

しかし、その前提を背景に置いておくことには意味がある。十不浄が突然に立ち現れる業処体系ではないこと──念処経という経の権威に支えられた実装であること──を踏まえると、本バッチで展開される膖脹想の精密な仕様が、なぜここまで詳細に書かれるかが見えてくる。経の指示を実装するためには、論的な精密化が必要である。修行者が実際に死屍処に赴いて、どう坐り、どう観じ、どう戻り、どう相を維持するか。それが論の役割である。


3. 膖脹相の定義──排嚢の中の死屍

増長相とは、一切処に満つ。猶お排嚢の中に臭穢の死屍の満てるがごとし。これを膖脹と謂う。

排嚢(はいのう)とは、ふいごのこと。鍛冶屋が火を吹くために使う、皮で作られた袋。空気が入って膨張する。その中に、臭穢の死屍が満ちている。

これが膖脹相の定義である。死後、ガスが体内に発生して、屍体が膨れ上がる。皮膚が張り、原型が変わり、かつての姿が認識できないほどになる。死は、生前の身体性を急速に変容させる。

「これを膖脹と謂う」と原典は記す。修行者は、この膖脹を「正智を以て知る」。これが膖脹想である。

そして:

彼の修、この想において心住して乱れず、これを修と謂う。

膖脹想において、心が住して乱れない。これが修である。地一切入と同じ枠組み。所縁が変わっても、修の構造は同じ。心住して乱れず。


4. 「厭う」が味となる──不浄観の独自性

膖脹想の四軸は、地一切入と並べると、一つだけ性格が違う。

膖脹想において相に随い観ずるを相と為し、膖脹想を厭うを味と為し、臭穢不浄を作意するを処と為す。

味が「厭う」。

これまでの業処では、味は「離れない」「保持する」「除かない」だった。所縁を心に留め置くことが、味だった。地相を離れず、虚空想を離れず、識処を保持する。

ところが膖脹想では、味は「厭う」である。所縁を保持しつつ、所縁を厭離する。

これは矛盾ではない。むしろ、不浄観の独特の構造を示している。修行者は、膖脹相を見続けねばならない(相を保持する)。同時に、膖脹相を厭わねばならない(嫌悪する)。両者の同時成立が、不浄観の修である。

なぜそうなるか。所縁の性格による。地・水・火・風・色などの所縁は、それ自体としては中性的である。修行者が惹きつけられも嫌悪もしない、ただの自然物。だから「離れない」だけで足りる。

ところが死体は、中性ではない。生命の終わった姿、自分自身の未来の姿、避けたい現実。所縁そのものに強い情動が結びついている。だから単に「離れない」では足りない。修行者が所縁の性格に流されないために、能動的な「厭う」が必要となる。所縁を見ながら、所縁の魅力(色憍・無病憍を生む生身の身体への執着)から離れる。

「厭う」が味となるのは、所縁の特殊性に対する、修の特殊化である。


5. 九つの功徳──欲・色憍・無病憍の対治

膖脹想に九の功徳あり。内身に念を得、無常想を得、死相を得、多く厭患し、婬欲を伏し、色憍を断ち無病憍を断ち、善趣に向い醍醐に向う。

九つの功徳が列挙される。

一つ目、内身に念を得る。自分の身体への念が確立する。膖脹相の死体は、いずれ自分の身体がそうなるものである。他人の死体を見ながら、修行者は自分の身体を念じる。

二つ目、無常想を得る。生きていた身体が、これほど変容する。無常の現実が、抽象的な教義ではなく、眼前の具体として把握される。

三つ目、死相を得る。死の想が獲得される。

四つ目、多く厭患する。世間への厭離が強化される。

ここまでは、不浄観の一般的な効果である。しかし続く三つが、不浄観の核心の機能を示す:

五つ目、婬欲を伏す。 六つ目、色憍を断つ。 七つ目、無病憍を断つ

婬欲(性的な欲望)、色憍(色身の美しさへの慢心)、無病憍(健康への慢心)。これら三つが、不浄観によって直接的に対治される。

第三巻 Batch 11 で示された業処の処方──欲行人には不浄観、瞋行人には四無量心、癡行人には呼吸念──の根拠が、ここに具体的に現れる。欲行人は、性的欲望や身体的魅力への執着が強い人。その執着の対象である生身の身体が、死後どうなるかを直接見ることで、執着が砕かれる。死体は、最も強力な欲の対治の所縁である。

そして、注目すべきは「色憍を断つ」という功徳の位置である。第三巻 Batch 13 では、戒の縁修における慢心の話があった。第五巻全体で、色界の禅定における色憍の超越が扱われた。それでも色憍は完全に消えるわけではない──禅定で色界を越えても、色身を持って暮らす日常に戻れば、色憍は再び湧く可能性がある。

不浄観は、その色憍を現実の身体の有限性から砕く。禅定で得た自在性が、生身の身体の変容可能性によって検証される。色憍は、生きた身体を見て生まれる。死した身体を見ることで、その慢が断たれる。

八つ目、善趣に向う。九つ目、醍醐に向う。涅槃の方向。不浄観は、単なる厭世観で終わらず、解脱への方向を持つ。


6. 死屍処への往き方──四つの準備と三つの作法

不浄観は、坐禅処の中で完結しない。修行者は、実際に死屍のある処に赴かねばならない。

新坐禅人は現に膖脹不浄の想を取るに、無二行を以て、念不動不愚痴を以て、諸根内入を以て、心外に出ださざるを以て、彼の処に往く。

死屍処へ赴く際の四つの準備:

一つ目、無二行(むにぎょう)。一にして二無き行。専一の行。心が二つに分かれず、修行に専念する。

二つ目、念不動不愚痴。念が動かず、愚痴ではない。念が安定し、状況を正しく把握する。

三つ目、諸根内入。眼・耳・鼻・舌・身・意の諸根を内に入れる。外的刺激に流されない。

四つ目、心外に出ださず。心を外に出さない。

これら四つを保ちながら、修行者は死屍処へ赴く。これは戒・頭陀の作法と同じ仕様の精密化である。

到着したら、三つの作法。

是の処は不浄にして諸の死屍あり。彼の処に住して逆風を離れ、不浄の相に対して遠からず近からず、あるいは倚りあるいは坐す。

一つ目、逆風を離る。風上に立たない。死屍からの臭気が直接来ないようにする。

二つ目、遠からず近からず。これは次節で詳しく扱う。

三つ目、倚るあるいは坐す。死屍に対して身を整える。立ったままではなく、何かに倚るか、坐る。


7. 距離の精密性──「遠からず近からず」

距離の指定は、極めて精密である。原典は理由を明示する:

坐して遠近を取らざるとは何の義ぞ。もし遠きを取れば除相を成ぜず、もし近きを取ればその厭を成ぜず、その性を見ず。その性を見ざるを以て、彼の相起らず。是の故に遠きを取らず近きを取らず。

遠すぎると、除相を成じない。除相とは、所縁から立ち上げる相のこと。遠ければ対象が小さく、ぼんやりとし、相が立たない。

近すぎると、厭を成じない。圧倒され、厭離の心ではなく、別の情動(恐怖、嫌悪、衝撃など)に占められる。そして「その性を見ず」──対象の本性が見られない。本性が見られないから、彼分の相が起こらない。

この距離の精密性は、発見1.18(物理依存から心的自在への質的転換)の段階の前提として機能する。修行者はまず、物理的距離を正しく取ることを要求される。心的な彼分相が立ち上がるためには、物理的所縁との関係が、まず正しく設定されていなければならない。

具体的な距離の例として、原典は後に「二尋・三尋」を挙げる。一尋は約1.8メートル。二尋から三尋、つまり3.6メートルから5.4メートル程度の距離。これが、膖脹相を観じるのに適切な距離の目安となる。


8. 周囲の物から始める──石・土・樹・杌・藤

死屍に対して、いきなり相を取るのは難しい。原典は、緩衝装置を用意する。

もしは石、もしは土埵、あるいは樹、あるいは杌、あるいは藤、為に相を作し事を作し思惟す。「此の石は不浄なり、此の不浄の相なり、此の石はかくの如し土埵等もまた然なり」と。

死屍の周囲にある物──石、土埵(土の盛り上がり)、樹、杌(くい・切り株)、藤(つる)──に対して、まず相を作る。それらを「不浄である」と思惟する。これは石、これも不浄の相、これは土埵、これも不浄の相──こうして周囲に相を広げていく。

なぜか。死屍そのものに対して、いきなり相を取ることの困難を緩和するためである。死屍は強い情動を引き起こす。修行者の心は乱れやすい。そこで、周囲の中性的な物から始めて、徐々に死屍の所縁性を確立していく。

これは取相の段階的な実装である。中性的な物→死屍そのもの。この移行を経ることで、修行者は死屍に対しても、一切入と同じように相を立ち上げられるようになる。


9. 十行相──対象を多軸で観る

已に為に相を作し已に事を作し、十行を以て膖脹不浄の相、その自性より修行して当に観ずべし。色を以て、男女の形を以て、方を以て、処を以て、分別を以て、節を以て、穴を以て、坑を以て、平地を以て、平等を以て、一切処において観ず。

十行(じゅうぎょう)。十の観察軸である。

:黒か、不黒不白か、白か、臭皮か。死屍の色の状態。

形(男女の身):女形か男形か。少(若)・長(壮年)・老。長(高い)・短(低い)・肥(肥える)・小(小さい)。死屍の形態的特徴。

:死屍の各部位がどの方位に向いているか。「此の方において頭を擲ち、此の方において手を擲ち、此の方において足を以てし、此の方において背を以てし、此の方において腹を以てし、此の方において我坐する所、此の方において不浄の相あり」。

:光明処を介した位置の確認。「此の光明処においては是れ手を擲つ処なり、此の光明においては是れ足を擲つ処なり」。光と影の関係で、各部位の位置が確認される。

分別:髪皮を辺(境界)として、頭から足までを「一の屎聚(しじゅ・糞の聚)」として観る。これは仏典伝統の身体観の継承。身体は本質的に汚穢の集合である、という見方。

:身体の関節を数える。二手の六節、二脚の六節、寛節(腰)・項節(首)。合計十四大節。身体を構造的に把握する。

空穴:口、眼、手の間、脚の間。身体にある孔穴。

坑・平地・平等:不浄の相がどの場所にあるか(空処、地上、上下)、一切処を平等に観じる、二尋・三尋の距離設定。

これら十軸で、対象が多面的に把握される。発見1.19(比喩群による多面的把握)の不浄観における実装。一つの対象を、十の異なる視点から観る。これにより、対象が「一面的な印象」から脱して、構造的な所縁になる。


10. 作法の意味──「無二行とは何の義ぞ」

原典は、各作法に対して「何の義ぞ」(どういう意味か)と問い、答える。

無二行とは何の義ぞ。身の寂寂を得んが為なり。念をして動ぜざらしむとは、愚痴ならざるを以て、諸根内に入り心外に出ださざるを以てす。

無二行は、身の寂寂(身体の静けさ)を得るため。念不動は、愚痴ならざるため、諸根が内に入り心が外に出ないため。

去来の道路とは何の義ぞ。身の寂寂を得んが為なり。逆風を離るとは何の義ぞ。臭気を離れんが為なり。

去来の道路を観るのは、身の寂寂のため。逆風を離れるのは、臭気を離れるため。

これらの問答は、形式的に作法を守ることではなく、作法の意味を内面化して動くことを要求する。修行者は、なぜそうするのかを知った上で、そうする。意味なく動作を繰り返すのではない。

これは戒・頭陀の精神とも通じる。第二巻の頭陀品で示された各作法──糞掃衣、一座食、阿蘭若住など──も、形式の遵守ではなく、機能の実装として説かれた。本バッチの不浄観の作法も、同じ姿勢で展開される。


11. 「不愚痴」の構造──驚怖の対治

坐して遍く一切の相を観ずとは何の義ぞ。愚痴ならざるが為、不愚痴と名づく。もし坐禅人、寂寂処に入りて不浄の相を見ることその前にあるが如くせば、心に驚怖を起さん。

修行が進むと、坐禅処に戻った修行者の心の中に、不浄相が眼前にあるが如く現れる。これは彼分相(paṭibhāga-nimitta)の力である。物理的に死屍は遠くにあるのに、心の中に死屍が現前する。

ここで、修行者の心に驚怖が起こる可能性がある。

是の故に坐禅人、もし死屍の起ちて逐うとも起たず。

極端な例として、原典は記す。死屍が起ち上がって追ってきても、修行者は逃げない。

心に思惟することかくの如く、已に知りて念じ正智に受持し、已に相を観じて遍ねくす。是れその遍相なりとかくの如く作意す。是を不愚痴と名づく。

すでに知り、念じ、正智に受持する。これは死屍ではない、これは修行の所縁としての膖脹相である──こう識別し続ける。これが不愚痴である。

ここで、発見2.21(識別としての「〜ではない」)が、不浄観の特殊な形で現れる。「これは現実の死屍ではない、これは修行の所縁としての相である」という識別。識別の継続が、修行の継続を可能にする。

これは現代の修行者には実装の機会が少ないかもしれない。しかし構造としては重要である。修行が深まれば、所縁が眼前に現実として現れることがある。一切入の彼分相も、不浄観の彼分相も、修行者にとって主観的にはほぼ現実となる。その時、「これは修行の所縁である」と識別し続けられるかどうかが、不愚痴と愚痴を分ける。


12. 次第の法──取相の継続装置

去来の道路を観ずとは何の義ぞ。次第の法を起さんが為なり。

去来の道路、つまり死屍処への往復路を観るのは、「次第の法」を起こすためである。次第の法とは、修行の段階を順次再構築する装置のこと。

次第の法と名づくは、もし坐禅人、寂寂処に入るに、時に心乱るることあらん。常には観ぜざるを以て不浄の相起らず。是の故に坐禅人、一切の心をおさめ、当に去来の道路を観ずべく、当に坐禅の処を観ずべく、当に遍相を観ずべく、当に十種の取相を観ずべし。

寂寂処に入った修行者の心が乱れて、不浄の相が立たない時。原典は、四段階を順次思い出すよう指示する。

一、去来の道路。死屍処への往復路を心に思い浮かべる。
二、坐禅の処。死屍処で坐っていた場所。
三、遍相。全体相。
四、十種の取相。十行で観じた具体的な細部。

彼の坐禅人、かくの如く数数現に観じ、復た更に相を起すこと、眼を以て見るが如くす。これを次第の法を起すと謂う。

数(しばしば)現に観じることで、相が再び立ち上がる。眼で見るが如く。これが次第の法である。

これは、所縁との関係が物理的接触から心的接触へ完全に転換することを示している。発見1.18(物理依存から心的自在への質的転換)の核心実装点。修行者は、もはや死屍処に行く必要がない。心の中で、死屍処への往復、死屍処での坐、観の対象、観の細部を、順次再構築できる。

そして、もう一つ重要なこと。この次第の法は、修行の中断と再開を可能にする。一度立てた相が乱れても、四段階を順次思い出せば、再び相が立つ。修行は完璧な連続を要求しない。乱れても、再構築できる。これは修行の現実的な仕様である。


13. 死屍が珍宝となる──喜楽の発生

初の坐禅人、此の死屍において珍宝の想を成し、かくの如く歓喜して心に受持し、心常に修行して諸蓋を滅すれば、禅分、成じ起る。

ここで原典は、不浄観の最も逆説的な表現を見せる。

此の死屍において珍宝の想を成す

死屍が、珍宝になる。

修行者にとって、定を成立させるための所縁である死屍は、もはや嫌悪すべき対象ではなく、定への門を開く宝物である。世間の人にとって最も避けたい対象が、修行者にとって最も価値ある対象になる。

そして:

かくの如く歓喜して心に受持し、心常に修行して諸蓋を滅すれば、禅分、成じ起る。

歓喜が起こる。心に受持し、諸蓋(五蓋:貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑)が滅すると、禅分(禅の構成要素)が成じ起こる。

彼の坐禅人、已に欲を離れ已に不善法を離れ、有覚有観にして、寂寂所成なり。喜楽ありて初禅定及び膖脹相に入る。

欲を離れ、不善法を離れ、有覚有観、寂寂所成、喜楽あり──初禅の定義そのものが、ここで成立する。死屍を所縁として、初禅が起こる。

これは発見2.13(喜楽の源泉は対象ではなく蓋の離脱)の最も鮮明な実装である。所縁が嫌悪すべき対象であろうと、蓋が離れれば喜楽が生じる。喜楽は所縁から来るのではない。蓋の離脱から来る。

修行者の主観の中で、何が起こっているか。死屍を見て、最初は心が乱れる(蓋が現前している)。十行で観じ、距離を取り、作法を守り、心を整える。蓋が次第に薄れる。蓋が完全に離れた瞬間、所縁の性格にかかわらず、喜楽が湧く。所縁は依然として死屍である。しかし修行者の中には、初禅の喜楽が成立している。


14. 初禅のみ起こる三つの理由──覚観への依存

不浄観で起こせるのは、初禅だけである。第二禅以上は起きない。

問う、何が故に不浄行を以て初禅を起し、余の禅を起さざるや。

なぜか。原典は三つの理由を挙げる。

答う、此の行は未だ観を作さざるが故に。此れ縛処を成ずるが故に。常に覚観に随い、覚観恒に現じてその相起きるを得。覚観を離れてはその心安きを得ず。是の故に初禅のみ起りて余禅は非なり。

第一の理由:この行は、未だ観を作さない。縛処を成じる。

第二の理由:覚観に常に随う。覚観が現じることで、相が起きる。覚観を離れれば、心安きを得ない。

復た説く、此の不浄の相、色形等、一ならざる行を以て思惟し、行を起さしめて思惟するは、是れ覚観の事なり。覚観を離れて思惟の行と為すに堪任することあたわず。

第三の理由:不浄相は色・形などの一様でない行で思惟することを要する。それは覚観の働きである。覚観を離れては、思惟の行ができない。

第二禅は、覚観が滅した状態の禅である。覚観が消えれば、不浄相そのものを思惟する装置が失われる。だから不浄観では、第二禅以上に進めない。

これは、不浄観の限界ではない。不浄観の機能の特化である。不浄観は、深い禅を作る業処ではなく、特定の煩悩(欲・色憍・無病憍)を直接対治する業処である。深さで測るなら、地一切入や呼吸念には及ばない。しかし対治力の精密さでは、不浄観は他に代わるものがない。

第三巻 Batch 11 で示された業処の処方──欲行人には不浄観──の構造的根拠が、ここで明らかになる。欲行人にとって、深い禅に至る前に、まず欲を伏することが急務である。不浄観は、まさにそのために設計された業処である。初禅のみで十分である。なぜなら、その初禅の中で、欲が伏されるから。


15. 不耐の事が喜楽を起こす逆説

最後に、原典は核心の問答を立てる。

問う、不耐の事において云何にしてか喜楽を起す。

不耐の事(耐えがたい対象、嫌な対象)において、なぜ喜楽が起こるのか。常識では矛盾する。嫌な対象から、喜楽は生まれないはずである。

答う、不耐の事は因として喜楽を起すに非ず。復た次に、善く蓋熱を断ずるが故に、心を修めて自在なるを以ての故に、喜楽の行を起す。

不耐の事は、喜楽の因ではない。

喜楽の因は、蓋熱を断つことである。心を自在に修めることである。

これは、発見2.13(喜楽の源泉は対象ではなく蓋の離脱)の最も明示的な原典的肯定である。

修行者は、地一切入で喜楽を経験する。水一切入でも、火一切入でも、呼吸念でも、同じ喜楽を経験する。所縁を変えても喜楽が連続する。それは、喜楽が所縁から来ないからである。

ところが「所縁を変えても喜楽が変わらない」だけでは、所縁が中性的なものである場合の証明にすぎない。地は中性、水も中性、呼吸も中性。中性的な所縁の間で喜楽が連続することは、所縁と喜楽の独立性を完全には証明しない。

不浄観は、この証明を完成させる。所縁が最も嫌悪すべきものであっても、喜楽が起こる。死屍を所縁として、初禅の喜楽が成立する。これは、所縁の性格と喜楽の性格が完全に独立していることの、最も強い証拠である。

「比丘よ、所縁は方便である。本体は定の状態である」──ウパティッサがそう明言することはない。しかし、不浄観の構造そのものが、この命題を証明している。所縁が珍宝でも、所縁が死屍でも、蓋が離れれば喜楽が生じる。所縁は、蓋の離脱の場でしかない。


16. 十不浄の雛形として

膖脹想は、十不浄の最初に置かれている。そして本バッチで、膖脹想の精密な仕様が展開された。

九功徳、十行相、坐処の選び方、距離の取り方、四つの準備、三つの作法、不愚痴、次第の法、珍宝の想、蓋の離脱と喜楽、初禅のみ起こる理由──。

残る九不浄(青淤・潰爛・斬斫離散・食噉・棄擲・殺戮棄擲・血塗染・虫臭・骨)は、本バッチで確立される雛形の所縁差し替えとして、簡潔に展開される。地一切入が十一切入の雛形であったのと、構造的に同型である。

雛形が一度確立されれば、変奏は自動的に展開できる。地→水→火→風→色…と所縁が変わっても、雛形の構造は保持される。膖脹→青淤→潰爛→…と死屍の段階が変わっても、雛形の構造は保持される。

これは、発見1.4(雛形提示型の設計)の不浄観における実装である。原典は冗長を避ける。最初の業処で雛形を完全に展開し、後続の業処はその所縁差し替えとして記述する。修行者は、最初の業処の構造を完全に理解すれば、残りの業処を自分で展開できる。

次のバッチでは、その所縁差し替えとしての三不浄(青淤・潰爛・斬斫離散)を扱う。死屍の腐敗が進む。色が変わり、肉が崩れ、形が散る。雛形の構造は同じ。所縁の段階が変わるだけ。


第六巻 Batch 02 の閉じ

ここまで:

  • 所縁の反転──抽象の頂点から最も具体的なものへ
  • 念処経からの継承──経が指示し、論が実装する
  • 膖脹相の定義と「厭う」の特殊性
  • 九功徳──欲・色憍・無病憍の対治
  • 死屍処への作法と距離の精密性
  • 十行相による多軸観察
  • 作法の意味の内面化
  • 不愚痴と次第の法──取相の継続装置
  • 死屍が珍宝となる──喜楽の発生
  • 不浄観で初禅のみ起こる構造
  • 不耐の事が喜楽を起こす逆説
  • 十不浄の雛形としての膖脹想

詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-V6-02.md を参照。


原文(書き下し)

【十不浄・増長相(膖脹)】

問う、云何なるか増長相なる。何なるか修、何なるか相、何なるか味、何なるか処、何なるか功徳なる。云何にしてかその相を取る。

答う、増長相とは、一切処に満つ。猶お排嚢の中に臭穢の死屍の満てるがごとし。これを膖脹と謂う。膖脹の相において正智を以て知る、これを膖脹想と謂う。彼の修、この想において心住して乱れず、これを修と謂う。膖脹想において相に随い観ずるを相と為し、膖脹想を厭うを味と為し、臭穢不浄を作意するを処と為す。

何の功徳かとは、膖脹想に九の功徳あり。内身に念を得、無常想を得、死相を得、多く厭患し、婬欲を伏し、色憍を断ち無病憍を断ち、善趣に向い醍醐に向う。

云何にしてかその相を取るとは、新坐禅人は現に膖脹不浄の想を取るに、無二行を以て、念不動不愚痴を以て、諸根内入を以て、心外に出ださざるを以て、彼の処に往く。是の処は不浄にして諸の死屍あり。彼の処に住して逆風を離れ、不浄の相に対して遠からず近からず、あるいは倚りあるいは坐す。彼の坐禅人、もしは倚りもしは坐して不浄処に近づく。もしは石、もしは土埵、あるいは樹、あるいは杌、あるいは藤、為に相を作し事を作し思惟す。「此の石は不浄なり、此の不浄の相なり、此の石はかくの如し土埵等もまた然なり」と。已に為に相を作し已に事を作し、十行を以て膖脹不浄の相、その自性より修行して当に観ずべし。色を以て、男女の形を以て、方を以て、処を以て、分別を以て、節を以て、穴を以て、坑を以て、平地を以て、平等を以て、一切処において観ず。

色を以てとは、もしは黒ならば以て黒と観じ、もしは不黒不白ならば以て不黒不白と観じ、もしは白ならば以て白と観じ、もしは臭皮ならば以て臭皮と観ず。形を以てとは、もしは女形、もしは男形、随いて観ずるにもしは少くもしは長けもしは老いたるを随いて観ず。随いて観ずとは、もしは長ければ長きを以て、もしは短ければ短きを以て、もしは肥えたれば肥を以て、もしは小ならば小を以て、随いてこれを観ず。方を以てとは、此の方において頭を擲ち、此の方において手を擲ち、此の方において足を以てし、此の方において背を以てし、此の方において腹を以てし、此の方において我坐する所、此の方において不浄の相ありと。

かくの如く随いて観ずるに光明処を以てす。此の光明処においては是れ手を擲つ処なり、此の光明においては是れ足を擲つ処なり、此の光明においては是れ頭を擲つ処なり、此の光明においては是れ我坐する処なり、此の光明においては是れ不浄の相の処なり。分別を以て観ずとは、頭より足に至り、下より頭に至るまで、髪・皮を辺と為し、是れ一の屎聚なりと分別を以て観ず。節を以て観ずとは、二手の六節において、二脚の六節において、寛節・項節、これを十四大節と謂う。空穴を以てとは、謂く口あるいは開きあるいは閉じ、随いて眼あるいは開きあるいは閉じ、随いて手間・脚間の孔穴を観ず。坑を以て平地を以てとは、不浄の相その処所に随い、あるいは空処、あるいは地上、是の処に随いて観ず。

復た次に、我は空処に在り不浄の相は地上にあり、あるいは不浄の相は下にあり我は地上にあり、随いて一切処を以て観ず。我より近遠を取らず、もしは二尋・三尋、随いて観ず。

彼の坐禅人、かくの如く一切を正しく随い観じて彼の相を見るに、「善哉善哉」と。かくの如く受持し、善を以て自ら安んず。彼の坐禅人、已に善く相を取り、已に善く受持し、已に善く自ら安んじ、一にして二無きの行、念不動を以て、心愚痴ならず、諸根内に入り、心外に出ださず。去来の道路、もしは行きもしは坐し、彼の不浄を観じて心常に受持す。

無二行とは何の義ぞ。身の寂寂を得んが為なり。念をして動ぜざらしむとは、愚痴ならざるを以て、諸根内に入り心外に出ださざるを以てす。去来の道路とは何の義ぞ。身の寂寂を得んが為なり。逆風を離るとは何の義ぞ。臭気を離れんが為なり。坐して遠近を取らざるとは何の義ぞ。もし遠きを取れば除相を成ぜず、もし近きを取ればその厭を成ぜず、その性を見ず。その性を見ざるを以て、彼の相起らず。是の故に遠きを取らず近きを取らず。坐して遍く一切の相を観ずとは何の義ぞ。愚痴ならざるが為、不愚痴と名づく。もし坐禅人、寂寂処に入りて不浄の相を見ることその前にあるが如くせば、心に驚怖を起さん。是の故に坐禅人、もし死屍の起ちて逐うとも起たず。心に思惟することかくの如く、已に知りて念じ正智に受持し、已に相を観じて遍ねくす。是れその遍相なりとかくの如く作意す。是を不愚痴と名づく。

問う、十種の行相を取るとは何の義ぞ。答う、心において縛せんが為なり。

去来の道路を観ずとは何の義ぞ。次第の法を起さんが為なり。次第の法と名づくは、もし坐禅人、寂寂処に入るに、時に心乱るることあらん。常には観ぜざるを以て不浄の相起らず。是の故に坐禅人、一切の心をおさめ、当に去来の道路を観ずべく、当に坐禅の処を観ずべく、当に遍相を観ずべく、当に十種の取相を観ずべし。彼の坐禅人、かくの如く数数現に観じ、復た更に相を起すこと、眼を以て見るが如くす。これを次第の法を起すと謂う。

初の坐禅人、此の死屍において珍宝の想を成し、かくの如く歓喜して心に受持し、心常に修行して諸蓋を滅すれば、禅分、成じ起る。彼の坐禅人、已に欲を離れ已に不善法を離れ、有覚有観にして、寂寂所成なり。喜楽ありて初禅定及び膖脹相に入る。

問う、何が故に不浄行を以て初禅を起し、余の禅を起さざるや。答う、此の行は未だ観を作さざるが故に。此れ縛処を成ずるが故に。常に覚観に随い、覚観恒に現じてその相起きるを得。覚観を離れてはその心安きを得ず。是の故に初禅のみ起りて余禅は非なり。

復た説く、此の不浄の相、色形等、一ならざる行を以て思惟し、行を起さしめて思惟するは、是れ覚観の事なり。覚観を離れて思惟の行と為すに堪任することあたわず。是の故に唯だ初禅のみ起りて余禅は非なり。

復た説く、此の不浄の相は不可耐の事なり。不耐の事においては心を挙ぐることあたわず。不浄処において心は喜楽に由るが故に、覚観の方便を除くも、覚観の方便力を以て、是の時修行すること臭屎の如し。是の故に唯だ初禅のみ起りて余禅は非なり。

問う、不耐の事において云何にしてか喜楽を起す。答う、不耐の事は因として喜楽を起すに非ず。復た次に、善く蓋熱を断ずるが故に、心を修めて自在なるを以ての故に、喜楽の行を起す。余は初めの如く広く説くべし。

膖脹相、已に竟りぬ。


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