第六巻 行門品の七の三 Batch 05
前の物語 → Batch-V6-04「食噉・棄擲・殺戮棄擲・血塗染──不浄の四相」
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目次
- 二相の前に──十不浄の閉じへ
- 虫臭想──白珠の如く、内側に虫が満ちる
- 食噉と虫臭の対比──外部の干渉と内部の発生
- 骨想──三段階の連続的変容
- 骨想という到達点
- 不浄散句の構造──十不浄全体の総括
- 不種類の禁止──同性の死屍を所縁とする
- 起こり方の三軸──色・空・不浄
- 十の数の根拠──身失の十種と修行者の十タイプ
- 増長の禁止──不浄観の独自運用
- 増長の例外──大心を修する者
- 大徳摨狗父の偈──比丘は仏家の財なり
- 阿毘曇の引用──本論の立脚点が原典に支持される
- 十不浄の閉じ
- 第六巻の第三ブロックへ
1. 二相の前に──十不浄の閉じへ
前バッチで、十不浄の第八段階(血塗染)まで完結した。膖脹から血塗染まで、八つの所縁が並んだ。腐敗の進行(膖脹・青淤・潰爛)、武器による破壊(斬斫離散)、動物の食害(食噉)、散乱(棄擲)、意図的殺害(殺戮棄擲)、血の汚染(血塗染)。
本バッチで扱うのは、残る二相──虫臭(ちゅうしゅう)と骨。そして十不浄全体を総括する不浄散句。これで第六巻の第二ブロック(十不浄)が完結する。
二相は、十不浄の最も深い段階に位置する。虫臭は、死屍の内部から虫が発生する状態。食噉が外部からの干渉だったのに対し、虫臭は内部からの発生である。同じ「他の生命の干渉」でも、方向が逆転する。骨は、すべての肉が消えて骨だけになった最終段階である。死屍の腐敗・破壊・解体の終着点。
そして、十不浄の総括である不浄散句は、本バッチで最も重要な部分である。十不浄が業処体系の中でどのように機能するか、誰がどの不浄を修すべきか、そして不浄観の運用が他の業処とどう異なるか──これらが、原典の問答の形で展開される。中心命題は二つ:不種類(性別の異なる死屍など)では相を取るな、不浄観は通常、相を増長させない。
これらの命題は、不浄観の固有性を浮き彫りにする。同時に、本プロジェクトの立脚点(発見1.17:排除による純化、発見2.17:所縁=物自然/定が主役)が、原典の中で実装的に確認される地点でもある。
そして散句の末尾に置かれる阿毘曇(アビダルマ)の引用と、大徳摨狗父の偈。これらは、本論がアビダルマの伝統と継続的に接続していることを、原典自身が示す箇所である。本プロジェクトの立脚点(アビダルマの我空・法有を背景とする)が、原典の引用によって支持される。
2. 虫臭想──白珠の如く、内側に虫が満ちる
虫臭とは、諸虫生じてその身に満つ。猶お白珠の純ら是れ虫聚なるが如し。これを虫臭と謂う。
第九段階、虫臭(ちゅうしゅう)。死屍の身に、諸の虫が生じて満ちる。
ここで原典は印象的な比喩を置く。「白珠の純ら是れ虫聚なるが如し」──白い珠(おそらく真珠)が、よく見ると純粋に虫の聚まりであるように。
この比喩は、二重の構造を持つ。表面の白さと、内側の虫。生前の身体は、白く美しく見えた。修行者がかつて欲望し、執着した身体である。ところが内側を見ると、それは虫の聚まりにすぎなかった。表面の美と内側の現実が、極端に乖離している。
この乖離が、虫臭想の核心である。修行者は、生前の身体への執着を、白珠への執着として経験していた。死後、その白珠が虫聚であることが露わになる。表面の美が、最初から虚構であったことが見える。
そして比喩は、生前にすら適用される。生きている身体も、皮膚の下では同じ構造を持つ。血、肉、骨、内臓、糞──仏典伝統が「身念処」で繰り返し示してきた、身体の三十二分の現実。生きている時から、身体は内側に「他者」を抱えている。死は、その「他者」を露わにするだけである。
虫臭想の四軸は、雛形通り:修は心住して乱れず、相は虫臭想を受持する、味は厭う、処は作意して不浄。九功徳は膖脹想と等しい。取相は「初めの如く広く説くべし」。
3. 食噉と虫臭の対比──外部の干渉と内部の発生
虫臭想を理解する鍵は、第五段階の食噉想との対比である。
| 項目 | 食噉(第五段階) | 虫臭(第九段階) |
|---|---|---|
| 干渉の方向 | 外部から | 内部から |
| 主体 | 動物(鳥獣十二種) | 虫 |
| 関係 | 死屍の表面の食害 | 死屍そのものからの発生 |
| 修行者の心への作用 | 外的脅威の認識 | 内的疎外の認識 |
食噉では、修行者は「死屍が他の生命に食われる」のを見る。死屍は、外部の力(動物)に対して受動的である。食害は、外から来る。
虫臭では、修行者は「死屍そのものから他の生命が生じる」のを見る。死屍は、内部から他者を生み出している。虫は、外から来たのではない。死屍そのものの中から、湧いてくる。
この差は、修行者の心の動きを変える。
食噉を見る時、修行者の心には「外部の脅威への警戒」のような反応が起こりうる。動物が死屍を食う光景は、生命の連鎖の一部として把握される。
虫臭を見る時、修行者の心には「内的疎外」のような反応が起こる。身体そのものから他者が生じる。修行者は、自分の身体の中にも、自分でない何かが潜んでいることを察する。「自分の身体」という同一視が、虫臭想によって揺さぶられる。
これは、識別としての「〜ではない」(発見2.21)の精密な実装である。「これは私の身体ではない、これは虫の聚まりである」という識別が、現実の身体の上で成立する。修行者は、身体への同一視を解体する所縁を得る。
4. 骨想──三段階の連続的変容
骨とは、謂く鉤鎖相連なり、あるいは肉血筋脈に縛せられ、あるいは血肉無くして但だ筋纏あるのみ、あるいは肉血無し。これを骨と謂う。
第十段階、骨。三段階の連続的変容として規定される。
第一段階:鉤鎖相連(こうさそうれん)。骨が鉤(かぎ)鎖(くさり)のように連なり、肉血筋脈で縛せられている。骨格は組まれているが、まだ筋脈で繋がれた状態。
第二段階:血肉無くして但だ筋纏(きんてん)あるのみ。血肉は消え、筋(すじ)だけが纏(まとう)。骨と筋の組合せ。
第三段階:肉血無し。肉も血も完全に無い。純粋な骨。
これは、骨想が単一の所縁ではなく、骨化のプロセス全体を所縁とすることを示す。修行者は、ある段階の骨だけを所縁とするのではない。三段階のいずれか、あるいは三段階の連続を、所縁として扱える。
これまでの不浄(膖脹から血塗染まで)は、すべて「死屍」を所縁とした。肉と血を持った身体である。骨想は、その肉と血が消えた後の状態を扱う。死屍の腐敗・破壊・解体の終着点。
5. 骨想という到達点
骨想は、十不浄の中で特別な位置を占める。
理由の一つ:所縁の安定性。膖脹・青淤・潰爛・斬斫離散・食噉・棄擲・殺戮棄擲・血塗染・虫臭は、すべて時間とともに変化していく状態である。死屍は腐敗を続け、虫が満ち、やがて消えていく。これらの所縁は、いずれは骨に至る通過点である。
骨は、その通過の終点である。ここから先、骨はゆっくりと風化していくが、肉と血を持った身体としての変化は終わっている。所縁としての骨は、安定している。修行者は、長い時間にわたって、同じ所縁を観じ続けられる。
理由の二つ:伝統での重視。経典の身念処における不浄観でも、骨は最終的な観察対象として位置づけられる。「やがて自分の身体もこうなる」という想念が、骨を見ることで最も鋭く立ち上がる。
理由の三つ:増長との結びつき。後で扱う不浄散句で、骨想は唯一、増長(虚空への拡張)の例外として明示される。原典は大徳摨狗父の偈を引用し、骨想を「普く此の地に満たしむ」(大地全体に満たす)修行として描く。これは、骨想が他の不浄と異なる運用を許される業処であることを示す。
骨想の四軸は、雛形通り。九功徳は膖脹想と等しい。取相は「初めの如く広く説くべし」。原典は、骨想についても、雛形参照の経済性を維持する。
6. 不浄散句の構造──十不浄全体の総括
骨想で十段階が完結した後、原典は不浄散句に進む。これは十不浄全体の総括である。
問う、不浄処において云何なるか散句なる。
この問いから、五つの重要論点が展開される:
- 不種類(性別など異なる種類の身体)では相を取るな
- 起こり方の三軸(色・空・不浄)で、対応する業処が変わる
- 十の数の根拠(身失の十種と修行者の十タイプ)
- 増長の禁止(自性の身想を保持するため)
- 増長の例外(無欲を得て大心を修する場合)
そして最後に、大徳摨狗父の偈と阿毘曇の引用。
これらは、不浄観が業処体系の中でどのように機能するか、誰がどう修すべきか、不浄観と他の業処の運用差はどこにあるかを、論理的に整備する。十不浄を機械的に十並べるのではなく、それらを修行者の状況に応じて選択し、運用する精密な仕様が、ここで提示される。
7. 不種類の禁止──同性の死屍を所縁とする
初の坐禅人、重き煩悩あり。不種類において当に相を取るべからず。不種類とは男女の身の如し。
最初の坐禅人(初心者)は、重き煩悩を持っている。だから、不種類(自分と異なる種類の身体)では相を取ってはならない。不種類とは、男女の身などである。
これは、修行者の性別と所縁の性別を一致させることを意味する。男性修行者は男性の死屍を、女性修行者は女性の死屍を所縁とする。
なぜか:
もし不浄業の人ならば、不浄の相、作意すべからず。何が故ぞ。常に事を観ずるが故に厭を成ぜず。
理由は明瞭である。煩悩のある修行者が異性の死屍を所縁とすると、煩悩が動く。「常に事を観ずる」──修行者は所縁を見続けるのに、欲の対象としての観察になってしまい、厭離(不浄観の核心)が成立しない。
不浄観は欲を対治するための業処である。所縁が欲を喚起する性格を持っていれば、対治は機能しない。逆に対象を強化してしまう。
そして畜生(動物)の身体についても、同じ構造で禁じられる:
畜生の身において浄想を起さず。
動物の身体では、浄想(美しいという想)が起きないから、不浄観の対象として機能しない。動物の死屍は、もともと修行者にとって欲の対象ではない。それを観じても、浄から不浄への転換が経験できない。
ここで、不浄観の本質が露わになる。不浄観は、生前に欲の対象だったものが、死後どうなるかを見る業処である。生前と死後の対比が、修行の力の源泉である。生前の美と、死後の腐敗。生前の執着と、死後の現実。この対比が、修行者の中で「身体への執着は虚構だった」という識別を成立させる。
異性の死屍では、その対比がうまく働かない。煩悩が動いて、対比そのものが見えなくなる。動物の死屍では、最初から対比が成立しない。だから、修行者と同じ種類の身体──同性の人間の身体──が、最も適切な所縁となる。
8. 起こり方の三軸──色・空・不浄
不浄散句の次の論点。同じ死屍を観じても、修行者の心がどの側面に反応するかによって、適切な業処が変わる。
もし不浄の相、色を以て起らば、一切入に由りて当に観ずべし。もし空を以て起らば、界を以て当に観ずべし、不浄を以て起らば、不浄を以て当に観ずべし。
| 起こり方 | 修すべき業処 |
|---|---|
| 色を以て起こる | 一切入(色一切入など) |
| 空を以て起こる | 界(四界差別観) |
| 不浄を以て起こる | 不浄(本不浄観) |
修行者が死屍を見て、まず色(表面の色彩)に反応するなら、それは色一切入の起点となる。死屍の青、赤、白などが、業処の所縁となる。
修行者が空(空間性、断片化、骨と骨の隙間など)に反応するなら、それは界(四界差別観)の起点となる。身体を構成する四界(地・水・火・風)のうち、空間性に関わる側面が業処化する。
修行者が不浄(腐敗、汚穢、厭離すべき性格)に反応するなら、それが不浄観の起点である。
ここで、業処は固定的に割り振られるものではないことが見える。修行者の心の現実状態が、業処を決定する。同じ墓場で、同じ死屍を見ても、修行者によって起動される業処は異なる。
これは、第三巻 Batch 11 で示された業処の処方──行人のタイプによる業処の分配──の、より精密な実装である。行人のタイプは静的に決まるものではなく、修行者の心がその瞬間に反応する側面によって、動的に決まる。修行者は自分の心の動きを観察し、起動した側面に応じて、適切な業処を選ぶ。
これは、業処の運用の柔軟性を示す。不浄処に赴いた修行者が、必ずしも不浄観を修するとは限らない。色に反応すれば色一切入、空に反応すれば界差別観に切り替わる。一つの所縁(死屍)が、三つの異なる業処の起点となりうる。
9. 十の数の根拠──身失の十種と修行者の十タイプ
なぜ十不浄は十なのか。多くも少なくもない理由は何か。
問う、何が故に十不浄は多からず少なからざるや。答う、身失に十種あるが故に。復た十人に由るが故に十想を成ず。
二つの根拠:
身失の十種:身体が経験する十の喪失状態。膖脹・青淤・潰爛・斬斫離散・食噉・棄擲・殺戮棄擲・血塗染・虫臭・骨。これらは、身体が「身体としての完全性」を失う十の様態である。膨れ上がること、変色すること、潰れること、断片化すること、食われること、散らばること、殺されて棄てられること、血で塗れること、虫に侵されること、骨化すること──。
十人の差別:修行者の十のタイプ。原典は具体的に対応関係を例示する:
| 修行者のタイプ | 修すべき不浄 |
|---|---|
| 欲人 | 膖脹想 |
| 色愛欲の人 | 青淤想 |
| 如浄欲(浄を求める欲)の人 | 壊爛想(潰爛想) |
| 余 | 残りの不浄 |
「余もまた知るべし」と原典は記す。残りの七つの不浄も、それぞれ対応する修行者のタイプを持つ、と。原典は具体的な列挙を省略するが、構造は明らかである。十不浄は、十のタイプの欲行人に対する、十の処方である。
これは、修行者の煩悩の細分化に対応する処方の細分化である。同じ「欲行人」でも、欲の対象によって適切な不浄が変わる。一般的な欲には膖脹想(身体の全体的変容を見る)。色への愛欲には青淤想(色の変色を見る)。浄を求める欲(「浄」という観念への執着)には壊爛想(浄が崩れる現実を見る)。
第三巻 Batch 11 で示された処方論(欲行人には不浄観、瞋行人には四無量心、癡行人には呼吸念)が、ここでさらに細分化される。「不浄観」という大きな枠組みの中に、十の精密な処方が含まれている。修行者は、自分の煩悩の具体的な性格に応じて、十の中から選ぶ。
10. 増長の禁止──不浄観の独自運用
不浄散句の最も重要な論点が、ここに来る。
問う、何が故に増長せしめざる。答う、もし人、欲を厭うを楽わば、自性の身想を起さしむ。何が故ぞ。もし自性の身想あらば、想において速やかに厭を得。彼分の故に。
不浄観は通常、相を増長させない。
これは、一切入の運用と完全に対照する。一切入では、修行者は彼分相を立ち上げ、それを虚空に遍満させる(増長させる)。地一切入なら、地相を大地全体に満たす。水一切入なら、水相を世界に満たす。これが一切入の核心の運用である。
不浄観では、それをしない。所縁の相を保持するが、虚空に拡張しない。
なぜか。
不浄観の機能は、欲を厭うことである。そのためには、修行者が「自性の身想」(自分自身の身体への想)を起こす必要がある。死屍を見て、「やがて自分もこうなる」という想念が立ち上がること。この想念があれば、想において速やかに厭が得られる。
已に不浄想を増長せしめば、是れその身相除くを得。已に自身の想を除けば、速やかに厭を得ず。是の故に当に増長せしむべからず。
ところが、もし不浄想を増長させると、所縁としての身体の相が除かれてしまう。不浄相が虚空に遍満すれば、特定の身体(死屍、そして自分の身体)という焦点が失われる。自身の身想が消えれば、厭離は速やかには得られない。
だから、増長させてはならない。
これは、発見1.17(排除による純化)の不浄観における逆実装である。
一切入では、増長(拡張)が純化を生む。所縁の相を世界全体に満たすことで、所縁が単一の純粋な相として確立される。地一切入なら、世界全体が地相になる。雑多な現実は背景に退き、地相だけが前面に立つ。
不浄観では、増長させないことが純化を生む。所縁(自身の身体への想)を、特定の焦点として保持する。雑多な世界の中で、自分の身体に焦点を絞り続ける。その焦点が、欲対治の力を生む。
業処の機能が、所縁の扱い方を逆転させる。一切入は世界化(全体への拡張)、不浄観は集中化(個別への保持)。
そしてこの差は、所縁=物自然(発見2.17)が業処の性格に応じて運用が変わることの、構造的証明でもある。所縁は物自然──地でも、水でも、死屍でも、修行者の側で同じく扱える物自然である。しかし、業処の機能(色界禅の起点 vs 欲対治)が、運用方法を決定する。
11. 増長の例外──大心を修する者
ただし、原典は例外を立てる。
又た説く、もし無欲を得んとし、大心を修むるが為には、増長せしむるを成ず。
無欲(欲のない境地)を得て、大心(広大な心)を修する者には、増長を成ずる。
これは、欲対治の段階を超えた修行者の運用である。欲がすでに伏された者にとって、不浄観は欲対治のためではなく、無常観や慧の起点として機能する。その時、不浄相を虚空に拡張することが、慧の対象を広げる装置となる。
修行の段階によって、同じ業処の運用が変わる。初学者(欲の対治を必要とする者)は、増長させない。熟達者(欲を超えて大心を修する者)は、増長させてもよい。原典は、両方の運用を仕様として認める。
12. 大徳摨狗父の偈──比丘は仏家の財なり
不浄散句の末尾に、大徳摨狗父(なつくふ)の偈が引用される。
比丘は仏家の財なり 怖畏の林処において 既に已に骨想を修し 普く此の地に満たしむ 我、彼の比丘を知る 速やかに当に欲染を断ずべし
四句の偈である。
「比丘は仏家の財なり」──比丘の存在価値の宣言。比丘は、仏陀の家(仏教の僧団)にとっての財(宝)である。この第一句は、本論が比丘(出家修行者)を主たる読者として想定していることを示す。
「怖畏の林処において」──墓場・屍林での修行の場。インドの伝統で、屍林は怖畏(恐怖)の場であった。社会から隔絶し、死屍が放置される場所。比丘はそこに赴いて修行する。
「既に已に骨想を修し」──骨想の修行。十不浄のうち、骨想がここで明示される。
「普く此の地に満たしむ」──大地全体に骨想を満たす。これは増長である。前節で述べた「無欲を得て大心を修するために増長を成ず」の例外の、具体例。骨想は、十不浄の中で唯一、増長と組み合わせて記述される運用を持つ。
「我、彼の比丘を知る 速やかに当に欲染を断ずべし」──偈の作者(大徳摨狗父)の認知。私は、彼の比丘(屍林で骨想を修し、大地全体に満たす者)を知っている。彼は速やかに欲染を断つだろう。
この偈は、骨想と大心の修行の結びつきを、具体的に示す。骨想を増長させて大地全体に満たす修行は、欲染の断滅に直結する。これは前節の論理(無欲を得て大心を修する者は増長を成ず)の、実装例である。
そして、この偈の存在は、不浄観が単なる欲対治を超えた射程を持つことを示す。骨想の増長は、世界全体を骨で満たす想念である。世界が骨でできている、すべての生命がやがて骨になる、という想念。これは、無常観の極限的実装である。修行者は骨想を通じて、世界の根本性格を見る。
13. 阿毘曇の引用──本論の立脚点が原典に支持される
阿毘曇に説くが如く、処・離欲等の初禅正受は膖脹に住す。及び無量の事を起す。
本論は、ここでアビダルマ論書(阿毘曇)を引用する。アビダルマでは、「処・離欲等の初禅正受は膖脹に住す。及び無量の事を起す」と説かれる。
「処」(場所)、「離欲」(欲を離れること)などの諸要素を備えた初禅の正受(正しい受持)は、膖脹想に住する。そして無量の事(働き)を起こす。
これは、本論がアビダルマ伝統の中に位置していることの明示である。本論は孤立した著作ではなく、上座部のアビダルマの文脈の中で書かれている。
そしてここで、本プロジェクトの立脚点が原典自身に支持される。発見ログ v3 で確認された通り、本プロジェクトは「アビダルマの我空・法有」を背景としている。これは本プロジェクトが新規に主張する立場ではなく、ウパティッサが当然の前提としていた構造である。本論の不浄散句で阿毘曇が引用されることは、その前提が原典に明示的に現れる地点である。
ご指摘の論点(継続が回復された立脚点を持って読むと、原典が明晰になる)が、本箇所でもう一つの形で確認される。本論はアビダルマと連続している。本プロジェクトはアビダルマを背景とする。ゆえに本論は本プロジェクトの立脚点と整合的である。立脚点と原典が同じ伝統に立っている。
14. 十不浄の閉じ
十不浄、已に竟りぬ。
一句で、十不浄が閉じられる。第六巻の第二ブロック──Batch 02 から本バッチまでの四バッチ──が、ここで完結する。
膖脹想で確立された雛形(Batch 02)。三相での雛形参照の確認(Batch 03)。四相での雛形参照の極限的経済性(Batch 04)。本バッチの二相と散句。
修行者にとって、何が確立されたか:
十の所縁:身体が経験しうる十の状態。修行者は自分の出会う死屍がどの状態にあろうと、対応する不浄想で業処を起動できる。
業処の運用差:不浄観は一切入と運用が異なる。増長させず、自身の身想を保持する。これは欲対治の機能に対応する仕様である。
処方の細分化:十のタイプの欲行人に、十の精密な処方が対応する。修行者は自分の煩悩の具体的性格に応じて、十の中から選ぶ。
起動の柔軟性:同じ死屍が、修行者の心の反応に応じて、色一切入・界差別観・不浄観のいずれの起点ともなりうる。業処は静的に固定されるものではない。
例外の許容:大心を修する者には、増長が許される。修行の段階に応じて、同じ業処の運用が変わる。
伝統的連続性:本論はアビダルマの伝統の中にある。引用と偈が、その連続性を示す。
これらが、十不浄の長い展開で確立されたものである。第六巻冒頭の十一切入の閉じ(Batch 01)と並んで、十不浄の閉じは、第六巻のもう一つの中核を成す。
15. 第六巻の第三ブロックへ
次のバッチ(Batch 06)から、第六巻の第三ブロック──六念が始まる。
所縁が、再び大きく転換する。死屍(具体・厭離の対象)から、仏・法・僧・戒・施・天(抽象・恭敬の対象)へ。
| 業処群 | 所縁の性格 | 味 | 修行の方向 |
|---|---|---|---|
| 十一切入 | 物自然(地・水・火・風・色・光明・空間・意識) | 離れない・受持する | 定の起点・増長 |
| 十不浄 | 死屍(腐敗・破壊の様態) | 厭う | 欲対治・非増長 |
| 六念 | 仏・法・僧・戒・施・天(抽象・恭敬の対象) | 恭敬・歓喜 | 信の確立・外行禅 |
味が「厭う」から「恭敬」「歓喜」へ転換する。これは三度目の大きな運用転換である。
そして、六念の最初である念仏は、第六巻の最大セクションを占める。仏の十号の精密な解釈、四種の修念(本昔の因縁・自身を抜く・勝法を得る・世間を饒益する)、十力・十四仏智慧・十八仏法など、長大な展開が続く。
念仏は、座る人間にとって最も日常実装可能な業処の一つである。寂寂処に入らずとも、信を媒介とする念は、生活の中でも機能する。修行者は座る前から、座っている間も、座った後も、仏を念じることができる。
第六巻の中核は、ここから始まる。
第六巻 Batch 05 の閉じ
ここまで:
- 二相の前に──十不浄の閉じへ
- 虫臭想──白珠の如く、内側に虫が満ちる
- 食噉と虫臭の対比──外部の干渉と内部の発生
- 骨想──三段階の連続的変容
- 骨想という到達点
- 不浄散句の構造
- 不種類の禁止──同性の死屍を所縁とする
- 起こり方の三軸──色・空・不浄
- 十の数の根拠──身失の十種と修行者の十タイプ
- 増長の禁止──不浄観の独自運用
- 増長の例外──大心を修する者
- 大徳摨狗父の偈
- 阿毘曇の引用──本論の立脚点が原典に支持される
- 十不浄の閉じ
- 第六巻の第三ブロックへ
詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-V6-05.md を参照。
原文(書き下し)
【虫臭想】
問う、云何なるか虫臭想なる。何なるか修、何なるか相、何なるか味、何なるか処、何なるか功徳なる。云何にしてかその相を取る。
答う、虫臭とは、諸虫生じてその身に満つ。猶お白珠の純ら是れ虫聚なるが如し。これを虫臭と謂う。虫臭想において正智を以て知る、これを虫臭想と謂う。心住して乱れず、これを修と謂う。虫臭想を受持するを相と為し、厭うを味と為し、作意して不浄なるを処と為す。膖脹想の功徳に等し。
云何にしてかその相を取るとは、初めの如く広く説くべし。
虫臭想、已に竟りぬ。
【骨想】
問う、云何なるか骨想なる。何なるか修、何なるか相、何なるか味、何なるか処、何なるか功徳なる。云何にしてかその相を取る。
答う、骨とは、謂く鉤鎖相連なり、あるいは肉血筋脈に縛せられ、あるいは血肉無くして但だ筋纏あるのみ、あるいは肉血無し。これを骨と謂う。此の骨想において正智を以て知る、これを骨想と謂う。心住して乱れず、これを修と謂う。骨想を受持するを相と為し、厭うを味と為し、作意して不浄なるを処と為す。膖脹想の功徳に等し。
云何にしてかその相を取るとは、初めの如く広く説くべし。
骨想、已に竟りぬ。
【不浄散句】
問う、不浄処において云何なるか散句なる。
答う、初の坐禅人、重き煩悩あり。不種類において当に相を取るべからず。不種類とは男女の身の如し。もし不浄業の人ならば、不浄の相、作意すべからず。何が故ぞ。常に事を観ずるが故に厭を成ぜず。畜生の身において浄想を起さず。一骨を以て相を起し起すに、骨を取ることにおいて自在なるも、また復たかくの如し。
もし不浄の相、色を以て起らば、一切入に由りて当に観ずべし。もし空を以て起らば、界を以て当に観ずべしとは、不浄を以て起らば、不浄を以て当に観ずべし。
問う、何が故に十不浄は多からず少なからざるや。答う、身失に十種あるが故に。復た十人に由るが故に十想を成ず。欲人は当に膖脹想を修すべし。色愛欲の人は当に青淤想を修すべし。如浄欲の人は当に壊爛想を修すべし。余もまた知るべし。
復た次に、不浄の相は得べからざるが故に。一切不浄想は欲を対治するが故に。もし欲行の人は是れその所得なり。彼は当に相を取るべし。是の故に一切の不浄を説いて、十種の不浄想と為す。
問う、何が故に増長せしめざる。答う、もし人、欲を厭うを楽わば、自性の身想を起さしむ。何が故ぞ。もし自性の身想あらば、想において速やかに厭を得。彼分の故に。已に不浄想を増長せしめば、是れその身相除くを得。已に自身の想を除けば、速やかに厭を得ず。是の故に当に増長せしむべからず。
又た説く、もし無欲を得んとし、大心を修むるが為には、増長せしむるを成ず。阿毘曇に説くが如く、処・離欲等の初禅正受は膖脹に住す。及び無量の事を起す。大徳摨狗父の偈を説くが如し。
比丘は仏家の財なり 怖畏の林処において 既に已に骨想を修し 普く此の地に満たしむ 我、彼の比丘を知る 速やかに当に欲染を断ずべし
十不浄、已に竟りぬ。
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