第十一巻 Batch 05 / 物語版 章題:解脱道論分別諦品第十二之一 略号:BETSUTAI(継続)
1. 分別智から起滅智への移行
「分別智已に竟る」── Batch 04 が閉じた。
坐禅人は、五方便を経由し、名色を分別し、四諦を起こさしめ、180法門で分別し、三相による分別で四顛倒を解体し、三解脱門の前に至った。
しかし、ここで止まらない。坐禅人は、次の段階に進む。
彼の坐禪人、五受陰に於いて、已に三相に於いて分別し、諸行を斷ぜんことを樂しみ入らんと欲す。
「諸行を斷ぜんことを樂しみ入らんと欲す」── 諸行の断絶を楽い、入ることを欲する。
この「樂しみ入る」も、第十巻冒頭の「楽わば」、第二章開口の「欲を作す」と同じ系列の心の傾きである。渇愛(taṇhā)ではなく、欲(chanda)。三十七菩提分の動的展開への、心の澄んだ傾き。
分別智で諸法を「分けて」観じた坐禅人が、起滅智で諸法の「動き」を観じる。前者が静的なら、後者は動的である。法は留まらない。起こり、滅する。その動的な相を、慧眼で見る。
これが起滅智の入口である。
2. 三種の「相を取る」──蛾、象、毒蛇
是に於いて、相を取るとは、相を取ること三種あり。煩惱の相を取る。定の相を取る。毘婆舍那の相を取る。
「相を取る」(nimittaggāha)に三種の差別がある。これは決定的に重要な弁別である。坐禅人が坐の中で何かに「心を向ける」とき、その向け方が三種のいずれかである。
2.1 蛾の相──煩悩の取
是に於いて、愚癡の凡夫、見聞覺知の境界に於いて、樂・常の想の顛倒する所を以て成ず。初心、好を以て相を取る。此に於いて煩惱に著す。蛾の燈に投ずるが如し。此れを煩惱の相を取ると謂う。
愚癡の凡夫は、対象を「楽」「常」と顛倒した想で取る。Batch 01 で確認された四顛倒のうち二つ──苦を楽、無常を常── が、ここで相の取の中で動いている。
「初心、好を以て相を取る」── 心の最初の動きで、好(好ましさ)を以て相を取る。受陰の楽受が起こるやいなや、それを「好」と取り、その対象に飛び込む。
比喩は美しい。「蛾の燈に投ずるが如し」── 蛾が燈火に飛び込むように、対象に飛び込んで焼ける。
蛾は、燈火が美しいから、惹かれて飛び込む。しかし飛び込めば、焼ける。焼かれることが分かっていないわけではない。蛾の本能的な動きが、そうさせる。
凡夫の相の取も同じである。対象に飛び込めば、煩悩に焼かれる。それが分かっていても、飛び込んでしまう。これが「煩惱の相を取る」の構造である。
2.2 象の相──定の取
問う、云何が定の相を取るや。 答う、此の坐禪人に於いて、定を得んことを樂しみ、念正智の所を以て、初心、三十八行にして、一一の行に於いて相を取りて心を繋く。亂れざらんが爲の故に、象を繋ぐが如し。此れを定の相を取ると謂う。
定を得ようとする坐禅人は、念正智(sati-sampajañña)の働きで、三十八業処の一一の行に相を取り、心を繋ぐ。乱れないために。
比喩は「象を繋ぐが如し」── 象を繋ぐように、対象に心を繋ぎ止める。
象は強大である。放っておけば、どこへでも行く。象を一処に留めるためには、強い縄で繋ぐ必要がある。
定の坐禅人の心も同じである。心は強大である。放っておけば、どこへでも飛ぶ。心を業処の一処に留めるためには、念正智で強く繋ぐ必要がある。これが定の相の取である。
第四〜八巻の業処カタログ38の修習が、ここで定の相の取として位置付けられる。地一切入を取る、不浄観を取る、念死を取る、念仏を取る、四大観察を取る── これらすべてが、心を業処に繋ぐ作業である。
2.3 毒蛇の相──毘婆奢那の取
問う、云何が毘婆奢那の相を取るや。 答う、常に觀ずる人、慧の所を以て、初心、色・受・想・行・識、各各其の自相を分別す。彼の相を捨て修せんことを樂欲す。毒蛇を捉うるが如し。此れを毘婆奢那の相を取ると謂う。此に於いて毘婆奢那の相を取るは樂しむ可し。
観を修する坐禅人は、慧の働きで、五陰の各々の自相を分別する。そして「彼の相を捨て修せんことを樂欲す」── 取った相を捨てて修することを楽い欲する。
比喩は「毒蛇を捉うるが如し」── 毒蛇を捉えるように。
毒蛇を捉える人は、何のために捉えるか。蛇を所持するためではない。捨てるためである。あるいは、安全な場所に運ぶためである。捉える瞬間から、捨てることを意識している。
毒蛇は危険である。指を噛まれれば、命を失う。捉える瞬間に、注意深く、しかも素早く、捉える。
毘婆奢那の坐禅人の取も同じである。五陰の自相を取る。しかし、取りつつ、捨てる準備をしている。「色・受・想・行・識、各各其の自相を分別す。彼の相を捨て修せんことを樂欲す」── 自相を分別して、その相を捨てる。
蛾のように飛び込まない(煩悩の取)。象のように繋ぎ止めない(定の取)。捉えつつ、捨てる。これが毘婆奢那の相の取である。
2.4 三種の比喩の構造的意味
| 取の種類 | 比喩 | 結末 |
|---|---|---|
| 煩惱の相を取る | 蛾の燈に投ずる | 焼ける(自滅) |
| 定の相を取る | 象を繋ぐ | 繋がれる(止) |
| 毘婆奢那の相を取る | 毒蛇を捉う | 捨てる(観して離れる) |
三つの比喩が、それぞれの取の構造を立体的に示す。
座る人間は、坐の中で「心を向ける」とき、自分がどの取をしているかを観察する必要がある。
定が深まると、対象との一体感が生じる。「私は地一切入と一つになっている」── これは定の取である(象)。間違いではない。これは正しい定の作業である。しかし、ここに留まれば、観に進めない。
毘婆奢那の取は、定の取と質が違う。「私は今、地一切入の自相を観じている。その相は無常・苦・無我である」── これが毘婆奢那の取である(毒蛇)。取りつつ、その相が空であることを覚知している。捉えつつ、捨てる。
そして煩悩の取は、坐の中で起こっても、それを煩悩の取として自覚すれば、もはや煩悩ではない。「あ、今、私は対象に楽の想で飛び込もうとしていた」── 自覚されれば、蛾の動きは止まる。
「此に於いて毘婆奢那の相を取るは樂しむ可し」── 本バッチで主題となるのは、第三の取である。坐禅人は、毒蛇を捉る人として、五陰の自相に向き合う。
3. 五陰の自相──毘婆奢那の対象
問う、云何が受・想・行・識の相を取るや。 答う、彼の色の識の相、或いは地界を以てし、或いは水界を以てし、或いは火界を以てし、或いは風界を以てし、或いは眼入、或いは身入なり。是の如く彼の受の受の相を觀ず。或いは樂と爲し、或いは苦と爲し、或いは不苦不樂と爲す。是の如く觀ず。彼の想の想の相、或いは色の想と爲し、或いは法の想と爲す。是の如く觀知す。行の行の相、或いは觸と爲し、或いは思と爲す。或いは覺と爲し、或いは觀と爲す。或いは作意と爲す。是の如く觀ず。彼の識の識の相、或いは眼識、或いは意識なり。是の如く觀ず。
毘婆奢那の坐禅人が、五陰のそれぞれの自相を、具体的に分別する。
| 陰 | 自相 |
|---|---|
| 色 | 地界・水界・火界・風界、眼入・身入 |
| 受 | 楽・苦・不苦不樂 |
| 想 | 色の想・法の想 |
| 行 | 觸・思・覺(尋)・觀(伺)・作意 |
| 識 | 眼識・意識 |
これらすべては、第十巻の方便で構築されたものである。第八巻の四大観察、第十巻陰方便の30色、第十巻 Batch 02 の受陰の自性の三、行陰の31の心数法、識陰の七識界。これらの体系が、本バッチで毘婆奢那の対象として動員される。
修行者の坐の中で、「今、起こっているこの色」が、地界・水界・火界・風界・眼入・身入のいずれかとして分節される。「今、起こっているこの受」が、楽・苦・不苦不樂のいずれかとして分節される。「今、起こっているこの想」が、色の想か法の想として分節される。
これが、毒蛇を捉る人の作業である。注意深く、各々の自相を見極める。しかし、その相に住まらない。捉えつつ、捨てる。
彼の坐禪、是の如く善く彼の相を取る。善く起こさしむるを以て、起こさしむ。是の如く色・受・想・行・識の相を取る。
「善く彼の相を取る」── 善く相を取ることが、本バッチの第一段階の到達点。
4. 二行による心の相の取──事と作意
毘婆奢那の坐禅人は、五陰の自相を取った後、さらに精密な観察に進む。心の相を取る作業に、二つの道がある。
復た次に、二行を以て心の相を取る。事を以て、作意を以てす。
4.1 事を以て──「何が、この心を起こさせたか」
問う、云何が事を以て心の相を取るや。 答う、此の事を以て我が心起こる。當に彼を觀ずべし。此の色の受の事を以て、此の想の事を以て、此の行の事を以て、此の識の事を以て、我が心起こる。是の如く當に觀ずべし。彼れ是の如く事を以て心の相を取る。
「事」(vatthu)── 根拠・対象。これを以て心の相を取る。
「この事(対象)によって、我が心が起こる」── 坐禅人は、自分の心が今、どの事によって起こっているかを観察する。色の事、受の事、想の事、行の事、識の事のいずれか。
これは外的・対象的な観察である。「何が、この心を起こさせたか」を観る。
坐の中で、ある心が動いた。例えば、貪欲の心。坐禅人は問う:「何の事が、この貪欲を起こさせたか?」── 観察すれば、何かの色(色の事)、あるいは何かの受(受の事)、あるいは何かの想(想の事)が、起こさせたことが分かる。心は、空中から起こったのではない。何かの事を縁として起こった。
4.2 作意を以て──「何を作意して、この心を起こしたか」
問う、云何が作意を以て心の相を取るや。 答う、是の如く我、色を作意すれば此の心起こる。是の如く當に觀ずべし。是の如く我、受・想・行を作意すれば我が心起こる。是の如く當に觀ずべし。是の如く已に作意もて心の相を取る。
「作意」(manasikāra)── 心が対象に向かうときの最初の働き。これを以て心の相を取る。
「我、色を作意すれば、この心が起こる」── 坐禅人は、自分の作意を観察する。
これは内的・主体的な観察である。「何を作意することが、この心を起こさせたか」を観る。
第十巻 Batch 03 入方便で確認された「正作意・非正作意」が、ここで作動する。心の相の取の中で、自分の作意を観察する。それが正作意か非正作意かが、心の起こりを決定する。
事と作意の二行は、一つの心の起こりを、二つの角度から観察する装置である。
事は対象側、作意は主体側。両者を観じることで、心の起こりの全体構造が見える。
「色という事(対象)があり、それを作意することで、心が起こる」── 事と作意の両方が必要である。事だけでは心は起こらない。作意だけでも心は起こらない。両者の出会いに、心が起こる。
これは座る人間の坐の中で、極めて具体的な観察である。
坐っているとき、足が痛い。痛みの心が起こる。
- 事を観じる:「足の触の事(身入の事)が、この痛みの心を起こさせている」
- 作意を観じる:「私が痛みに作意することで、この心が起こっている」
両者の観察を経た後、坐禅人は気付く。事(足の触)は、修行者が止められない。坐っている以上、足の触は起こる。しかし作意は、修行者の中の働きである。痛みに作意し続けることを、止めることができる。
これが「能く除く」の最も具体的な作動点である。事を変えることはできないが、作意を変えることはできる。
5. 起滅の通達──二句から三行へ
起滅を通達するとは、起有り、滅有り。起滅の通達有り。 是に於いて、色已に生じ現在す。彼の生相は起なり、變相は滅なり。彼の二句、慧眼を以て見る。起滅を通達す。
起滅の通達には、三つの相がある:起・滅・両者の通達。
色がすでに生じて現在する。そのうちの「生相」(発生の相)が起、「變相」(変化の相)が滅。
これは深い記述である。起と滅は、別々の出来事ではない。一つの法の中に、生相(起)と変相(滅)が同時に含まれている。色が今ここに現在するという事実そのものが、「生じた」という起と、「変じつつある」という滅を、両方含んでいる。
第十巻 Batch 01 の「江の流れの如く、灯焔の相続の如し」が思い出される。連続して見える色は、刹那ごとに違う色である。各刹那の色が、生相としての起と、変相としての滅を、同時に含んでいる。
「彼の二句、慧眼を以て見る」── この二句(起と滅の二相)を、慧眼で見る。これが起滅の通達である。
そして、原典はさらに精密な分析に進む。
復た次に、三行を以て起の相を通達す。三行を以て滅の相を通達す。是の如く、因を以て、縁を以て、自味を以てす。
起と滅のそれぞれを、三行で通達する。因・縁・自味の三行。
5.1 因による通達──愛・無明・業
問う、云何が因を以て起の相を通達するや。 答う、愛・無明・業、是の因、陰の起と爲す。慧眼を以て見る。因を以て起の相を通達す。
愛・無明・業の三が因である。これらが陰の起の根本的因である。
第十巻 Batch 06 因縁方便の十二支を思い出す。十二因縁の中で、煩悩(無明・愛・取)と業(行・有)が、苦(他の九支)を生じさせる構造であった。本バッチでは、この十二支の構造が「愛・無明・業」の三因に集約される。
そして滅の側で:
是に於いて、愛の滅を以て、無明の滅を以て、業の滅を以て、陰、滅を成ず。
愛・無明・業の三因が滅すれば、陰が滅する。これが因による滅の通達である。
5.2 縁による通達──食・触・名色
云何が縁を以て起の相を通達するや。食の縁、色陰の起と爲す。觸の縁、三陰の起と爲す。名色の縁、識陰の起と爲す。
縁による分節:
- 色陰は食(āhāra、四食のうち主に段食)を縁とする
- 受・想・行陰は觸を縁とする
- 識陰は名色を縁とする
これは四食の体系の応用である。そして識陰と名色の相互関係は、第十巻 Batch 06 因縁方便の「荻の相い倚り」と直接接続する。識と名色は互いに縁となる。本バッチでは、識陰の起の縁として名色が示される。
滅の側でも対応する:
- 食の滅 → 色陰の滅
- 觸の滅 → 三陰の滅
- 名色の滅 → 識陰の滅
5.3 自味による通達──燈の焔の相続
問う、云何が自味を以て起の相を通達するや。 答う、燈の焔の相續、間無きが如し。初後、新新に行起こる。相を以て慧眼を以て見る。自味を以て起の相を通達す。
「自味」(sarasa)── 自身の作用・自身の本性。これによる通達。
「燈の焔の相續、間無きが如し」── 燈の焔が間断なく相続するように。「初後、新新に行起こる」── 初も後も、新たに新たに、行が起こる。
これは諸行の刹那的な自己生成の相である。外的な原因(因)、外的な条件(縁)を超えて、行そのものの自身の働きとして起こる相。
そして滅の側でも:
燈の焔の相續、間無きが如し。初めに滅の行有り。慧眼を以て見る。自味を以て滅の相を通達す。
各刹那の行は、それ自体の自味として起こり、それ自体の自味として滅する。これが自味による通達である。
5.4 三行と二諦の対応
ここに本バッチの最も精密な構造的観察がある。
| 起の通達の三行 | 対応する諦の相 |
|---|---|
| 因(愛・無明・業)を以て起を見る | 集諦の相 |
| 縁(食・觸・名色)を以て起を見る | 苦諦の相(刹那得可からざるの覚) |
| 自味(燈焔)を以て起を見る | 苦諦の相(同上) |
| 滅の通達の三行 | 対応する諦の相 |
|---|---|
| 因の滅を以て滅を見る | 滅諦の相(無生の相の覚) |
| 縁の滅を以て滅を見る | 苦諦の相(刹那得可からざるの覚) |
| 自味の滅を以て滅を見る | 苦諦の相(同上) |
因による起の通達は集諦に、因の滅による滅の通達は滅諦に対応する。なぜか。愛・無明・業という煩悩と業が因となる構造は、集諦の本質である。それらの滅は、滅諦の本質である。
縁と自味による通達は、起と滅のいずれにおいても苦諦に対応する。「刹那得可からざるの覚」── 一刹那も得ることができないという覚知。諸行は刹那ごとに新たに起こり、刹那ごとに滅し、捉えることができない。これが苦諦(行苦)の本質である。
第十巻 Batch 06 の「諦の摂による四聖諦への接続」── 無明・愛・取が集諦に、余の九支が苦諦に── が、本バッチでより精密な形で再現される。
6. 「未だ見ざる、苦の成滿」──観滅智への必然
ここで原典は、深い問答を提示する。
問う、若し起滅を以て苦諦を見る。相もて見を得るに、何が故に上の智、當に起こるべきや。
問:起滅で苦諦の相を見たのに、なぜ「上の智」(さらに上位の智)が必要なのか?
答う、何ぞ起の滅を見るを用いんや。苦諦の相を以て見を得るに、未だ見ざる。彼の苦、成滿す。乃ち諸行の過ぎ盡くるに至る。如實に已に見る。行の相より已に心を起こさしむ。非行の心に於いて度を成ず。
答:起滅で苦諦の相を見るとき、まだ見ていない部分がある。「彼の苦、成滿す」── その苦が完全に満ちる(まで行く)。諸行の過ぎ尽きるに至るまで。
「行の相より已に心を起こさしむ。非行の心に於いて度を成ず」── 行の相から心を起き上がらせ、非行(行ではないもの、すなわち涅槃)に於いて渡る。
猶お飛鳥の火に圍まるるが爲に、未だ怖畏を免れざるが如し。若し未だ虚空に至らざれば、火の圍の過患を見る。飛んで虚空を成ず。是の時、彼れ火の怖の圍を見ること成滿す。是の如し。是に於いて知る可し。
比喩:火に囲まれた鳥。
火の中にいる間は、怖畏を免れない。火が見えても、火の中にいる以上、その全体は把握できない。
虚空(火の外)に至って初めて、「ああ、自分はこんな火に囲まれていたのか」という全体が見える。火の囲みの過患の全体が、初めて完全に見える。
坐禅人もまた、起滅智の中で諸行の過患を観じる。しかし諸行の中にいる限り、その過患の全体は見えない。
観滅智(Batch 06-07 で展開)で、坐禅人は諸行から離れる地点を観察する。生を見ず、滅のみを観る。そこから初めて、諸行の過患の全体が完全に見える。「苦の成滿」が、初めて完成する。
これが、観滅智への必然的な移行の理由である。起滅智は、それ自体で完結しない。観滅智への扉を、自身の中に持つ。
7. 一相・種種・無事・正法──四法による諸見の解体
是に於いて、因を以て、縁を以て、起を見るは、因縁の起の相を通達するを成ず。此れ有れば此れ起こる。此れ起こるが故に此れ起を成ず。因滅するが故に及び縁滅するが故に、滅を見るに因縁の生相を通達するを成ず。此れ無ければ此れ成ぜず。此れ滅するが故に此れ滅す。
ここで原典は、縁起の標準的な定式を示す:
「此れ有れば此れ起こる。此れ起こるが故に此れ起を成ず」(idappaccayatā、此縁性) 「此れ無ければ此れ成ぜず。此れ滅するが故に此れ滅す」(その滅の定式)
これは Saṃyutta Nikāya 等で繰り返し示される、縁起の最も簡潔な定式である。
そして、起滅の通達の中で、四法が知られる。
自味を以て起滅を以て見、已に起を成ずるを通達す。因縁の法・有爲の法の起を知る。彼の起、知るを得。彼の滅も亦た知る。彼の住も亦た知る。是の如く起滅を以て見、四法、知る所を成ず。是の如く一相の法・種種の法・無事の法・正法なり。
四種の法:一相の法・種種の法・無事の法・正法。
これらが、四つの邪見を解体する装置として機能する。
是に於いて、一相續の所に著する諸行、起を以て、彼れ見れば執を成ぜず。種種なり。初後に轉ずる諸行、彼の滅を以て見れば一執を成ぜず。自性離れ、無動の諸行、初後を以て見れば我執を成ぜず。因縁の所に轉ずる初後の諸行、是の如く法を以て見れば無事の執を成ぜず。
| 観 | 解体される執 |
|---|---|
| 起を以て一相続の所を見る | 「執」(諸行の連続的同一性への執着) |
| 滅を以て種種の転を見る | 「一執」(諸行を一つに統合する執着) |
| 初後を以て自性離れの諸行を見る | 「我執」(自我への執着) |
| 法を以て因縁の転を見る | 「無事の執」(無事と決めつける執着) |
そして対応する邪見:
無聞の凡夫、一を以て覺せず、常斷を説く。種種を以て覺せず、常を説くを成ず。無事を以て覺せず、我を説くを成ず。是の如く法を以て覺せず、無事を説くを成ず。
| 凡夫が覚せざる法 | 凡夫の説く邪見 |
|---|---|
| 一を覚せず | 常見・断見 |
| 種種を覚せず | 常見 |
| 無事を覚せず | 我見 |
| 法(縁起)を覚せず | 無事(虚無)説 |
四つの法を覚知することが、四つの邪見の解体である。
特に最後の「法を覚せず、無事を説くを成ず」が決定的である。
すべてを「無事」(空無)とすることも、邪見である。「すべては空である」「すべては無である」「何も実在しない」── これらは、縁起の正法を覚知しないところから起こる、虚無の邪見である。
縁起の正法を覚知すれば、空無に陥らない。法は、因縁によって起こる。因縁が滅すれば、法も滅する。これは「ある」でも「ない」でもない、第三の道である。中観の核心と一貫する。
8. 一性と種種性
是に於いて、平等の語言を以て、一相を以て勝の語言とす。種種の相もて攝して一相を成ず。分別の義を以て種種を成ず。煩惱の義を以て一性を成ず。方便の義を以て種種の性を成ず。愛の果を以て一性を成ず。業の果を以て種種の性を成ず。
「一性」と「種種性」── これは、原典の最も精密な対比の一つである。諸法を観じる二つの異なる角度。
| 一性として現れる | 種種性として現れる |
|---|---|
| 平等の語言・一相の勝の語言 | 種種の相 |
| 種種を摂して一相に | 分別の義 |
| 煩惱(の義) | 方便(の義) |
| 愛の果 | 業の果 |
愛の果が一性、業の果が種種性、という対比が興味深い。
愛の果は、輪廻の継続という一性の結果である。あらゆる愛が、結局は同じ「有」を生じさせる。
業の果は、各々の業に応じた種種の結果である。ある業はある結果を生み、別の業は別の結果を生む。第十巻の有節の動態で示された業・業相・趣・趣相の構造と接続する。
8.1 一性と種種性の現見
彼の坐禪人、是の如く一性を見れば、此に於いて種種を執せず。種種の性を見れば、若し常見の一性を見れば、若し一性を現見すれば、餘を作し餘を覺す、此の見を除く。若し種種の性を現見すれば、彼れを作し彼れを覺す、此の見を除く。若し一性を現見すれば、此の斷見を除く。若し種種の性を現見すれば、此の常見を除く。
| 現見 | 除かれる見 |
|---|---|
| 一性を現見 | 「餘を作し餘を覚す」(行為と認識の主体が異なるという見) |
| 種種性を現見 | 「彼れを作し彼れを覚す」(行為と認識の主体が同一という見) |
| 一性を現見 | 断見 |
| 種種性を現見 | 常見 |
ここに、両極端の自我観の解体がある。
「餘を作し餘を覚す」── 別のものが作り、別のものが覚知する。これは行為主体と認識主体が分離しているという見。「私が今食べているのを、別の私が見ている」というような見。
「彼れを作し彼れを覚す」── 同じものが作り、同じものが覚知する。これは行為主体と認識主体が同一であるという見。「食べる私と見る私は、一つの私である」という見。
両者は両極端である。一性の現見はそのうちの「同一」を疑い、種種性の現見はそのうちの「異」を疑う。両極端を超えた中道に、坐禅人は至る。
そして直感に反する対応:一性の現見は断見を除き、種種性の現見は常見を除く。
直感的には、「一」が常見、「種種」が断見と結びつきそうだが、原典は逆を示す。なぜか。
一性が現見されれば、諸行が一つの相続として続く構造が見える。「すべてが断たれて新たに始まる」という断見は立たない。
種種性が現見されれば、諸行が刹那ごとに違う様相として現れる構造が見える。「すべてが永遠に同じ自我として続く」という常見は立たない。
両者の現見が、両極端を解体する。中道が、ここに開かれる。
9. 法明と止の法
彼の坐禪人、是の如く起滅を以て一性・種種の性を見る。法明、何を以て起こるや。起を現じ、諸行を見、彼の無事なり。
「法明」(dhamma-āloka、法の光)が起こる。
何によって起こるか。諸行の起を現じ、諸行を見、それらが「無事」(無実体的)であることを見ることによって。
法明とは、慧の働きによる、対象への明るい照らし出しである。坐禅人の中で、この法明が起こる。今まで見えなかった構造が、明らかに見えるようになる。
何が故に一切の諸行、無事にして不動なる。餘の所に起こりて住する無し。自性の因縁の和合集に住す。因縁と爲す。是の如く止の法、生ぜしめ生ぜしむるを以てす。
なぜ一切の諸行が「無事」(無実体的)であり「不動」であるか。
「餘の所に起こりて住する無し」── 諸行は他の所(自己以外の場所)で起こって住まることがない。 「自性の因縁の和合集に住す」── 自性の因縁の和合の集まりに住する。
諸行は、独立した実体としてどこかに「住まる」のではない。因縁の和合の中に、その都度立ち上がる。和合が解ければ、住まる場所がない。これが「無事にして不動」の意味である。
「是の如く止の法、生ぜしめ生ぜしむるを以てす」── 止の法(住する法)が、生ぜしめ生ぜしむことで成立する。
9.1 三法相と三相観の対応
ここで原典は、本バッチの最も重要な構造的対応の一つを示す。
是に於いて、無命の義及び不動の義を以て、無事の法知る可し。自性の義及び縁の義を以て、是の如く止の法知る可し。空・無事を現ぜしむ。業の所作を現ぜしむ。是の如く止の法、無事の名の法を現ぜしむ。是の如く止の法を現ぜしむるを行と名づく。 是に於いて、一性の法を以て苦の相を覺す、通達を成ず。種種の性を以て無常の相を覺す、通達を成ず。無事の法を覺す。是の如く止の法を以て覺す、無我の相の通達を成ず。
| 三法相 | 三相観 |
|---|---|
| 一性の法 | 苦の相 |
| 種種の性 | 無常の相 |
| 無事の法・止の法 | 無我の相 |
これは深い対応関係である。
一性の法を覚知 → 苦の相が通達される:諸行が一性として「苦の集まり」であることを覚知すれば、苦の相が通達される。Batch 02 の集諦と接続する。すべての苦が、最終的には「苦」の一性として収束する。
種種の性を覚知 → 無常の相が通達される:諸行が刹那ごとに違う種種性であることを覚知すれば、無常の相が通達される。第十巻 Batch 01 の灯焔の比喩と接続する。
無事の法・止の法を覚知 → 無我の相が通達される:諸行が無事(無実体)であり、自性なく止する法であることを覚知すれば、無我の相が通達される。第八巻の「唯だ界のみ有りて、衆生無く、命無し」と接続する。
Batch 04 の三相と三解脱門の対応(無常→無相、苦→無作願、無我→空)に、本バッチで三法相との対応が加わる。三相が、複数の角度から重層的に開かれる。
| 三相 | 解脱門(Batch 04) | 法相(Batch 05) |
|---|---|---|
| 無常 | 無相界 | 種種の性 |
| 苦 | 無作願界 | 一性の法 |
| 無我 | 空界 | 無事の法・止の法 |
三相が、三つの解脱門を開き、また三つの法相と対応する。同じ三相が、複数の体系で機能する。これは Batch 03 第八行「四諦は四行を以て一を成ず」の構造と一貫する原典の認識論。
10. 一処での観察──大海の水を舐める
ここで原典は、本バッチの最も実践的な指示を示す。
問う、彼の坐禪人、一切の諸行、餘處無きを以て起滅を觀ずるや、一處當に觀ずべきや。 答う、初めの諸行の處、其の相を取りて、起滅を通達す。餘處無し。一切の諸行をして滿たしむ。
問:坐禅人は、一切の諸行を余すところなく観じるべきか、それとも一処で観じるべきか?
答:初めの諸行の処で相を取り、起滅を通達すれば、余処を必要としない。一処で観じれば、一切の諸行を満たすことになる。
人の大海に於いて一處、舌を以て水を舐むるが如し。即ち一切の水の醎きを知る。是の如く此に於いて知る可し。
比喩:大海の水を、一処で舌を出して舐めれば、一切の海水の塩辛さを知る。
これは、座る人間の修行の経済性を示す、極めて実践的な指示である。
座る人間は、一切の諸行を観じる必要はない。今、坐の中で起こっている、目の前の一つの行を観じる。
今、足が痛む。この痛み(一つの受)を、毒蛇を捉る人として取る。その自相を分別する(身入の触の事による苦受)。事と作意の二行で観じる(身入の触が事、痛みへの作意が作意)。起滅を三行で通達する(因:愛・無明・業による起と滅、縁:身入・触・受・名色による起と滅、自味:刹那の起と滅)。
これだけで、一切の諸行への通達が成立する。なぜなら、この一つの痛みの自性(無常・苦・無我)が、一切の諸行の自性と同じだからである。一処の塩辛さは、大海の塩辛さである。
10.1 二行で諸行を満たす
二行を以て諸行をして滿たしむ。事を以て、愚癡ならざるを以てす。是に於いて、諸行、其の相を取りて、生滅を通達す。彼の諸行、其の事を以て成滿す。是に於いて、無智を斷ずるが故に、餘の諸行、愚癡ならざるを以て成滿す。
「諸行を満たす」二行:事を以て、愚癡ならざるを以て。
| 二行 | 内容 |
|---|---|
| 事を以て | 諸行の事(対象)で生滅を通達 → その事の諸行が成満 |
| 愚癡ならざるを以て | 無智を断つこと → 余の諸行が成満 |
二行の組み合わせで、観じた一処の諸行と、観じていない余の諸行の、両方が成満する。
事を以て:目の前の一つの法を、その事として観じる。それが成満する。 愚癡ならざるを以て:この一処の観察によって、無智(諸行の自性を知らないこと)が断たれる。すると、観じていない余の諸行も、その同じ自性を持つことが、自ずと成満する。
座る人間は、目の前の一つに集中する。その集中の中で、一切が満たされる。
11. 起滅智の閉じ──諸行の分別智
是に於いて、起滅の智、是れ諸行の分別智なり。
起滅智は、最終的に「諸行の分別智」(諸行の弁別の智)として位置付けられる。これは Batch 04 の分別智と、本バッチの起滅智との関係を示す。分別智が静的な分別なら、起滅智は動的な分別である。
一切の諸行、起を以て初邊を成して分別す。滅を以て後邊を成して分別す。起を以て初邊を成して寂寂とす。滅を以て有邊を成して寂寂とす。起を以て起より初め無し。滅を以て滅より後無し。是の故に起滅の智、諸行の分別智を成ず。
最後の構造:
各刹那の起と滅が、それ自体で「初邊」(始まり)「後邊」(終わり)となる。
「起を以て初邊を成して分別す」── 起が、諸行の初めの邊として分別される。 「滅を以て後邊を成して分別す」── 滅が、諸行の後の邊として分別される。
しかし同時に、
「起を以て起より初め無し」── 起そのものに、それより前の初めはない。 「滅を以て滅より後無し」── 滅そのものに、それより後はない。
各刹那の起と滅は、それ自体で完結する。起の前に何かがあって起が起こるのではない。滅の後に何かがあって滅が起こるのではない。
これは深い構造である。各刹那の現象は、それ自体で完結している。「過去から続いてきて今がある」「今から未来へ続いていく」── これらは、刹那の現象から見れば、観念に過ぎない。
起滅智已に竟る
起滅智の閉じ。第十一巻 Batch 05 の閉じ。
12. 座る人間にとっての起滅智
修行者が坐る。
本バッチの内容を、坐の中で実装する道筋を、簡潔に追ってみる。
第一に、相を取る。今、坐の中で起こっている法に、心を向ける。その向け方が、煩悩の取(蛾)か、定の取(象)か、毘婆奢那の取(毒蛇)かを、自覚する。本バッチで主題となるのは、毒蛇の取である。
第二に、五陰の自相を分別する。今、起こっているこの色は、地・水・火・風の何か。今、起こっているこの受は、楽・苦・不苦不楽の何か。今、起こっているこの想は、色の想か法の想か。今、起こっているこの行は、觸・思・覺・觀・作意のいずれか。今、起こっているこの識は、眼識か意識か。
第三に、事と作意の二行で心の相を取る。今、この心は、何の事(対象)によって起こったか。何の作意によって起こったか。両者を観じる。
第四に、起滅を二句で通達する。今、この法には、生相としての起と、変相としての滅が、同時に含まれている。両者を慧眼で見る。
第五に、三行で起滅を通達する。
- 因(愛・無明・業)による起と滅
- 縁(食・觸・名色)による起と滅
- 自味(燈焔)による起と滅
第六に、一処で観じる。一切の諸行を網羅する必要はない。目の前の一つの法を、上記の精度で観じる。それが、一切の諸行への通達となる。大海の水を一処で舐める。
第七に、四法と諸見の解体。一相・種種・無事・正法の四法が、常断見・常見・我見・無事説の四つの邪見を解体する。
第八に、三法相と三相観の対応。一性の法は苦の相、種種の性は無常の相、無事の法は無我の相を通達させる。
これが、起滅智の坐の中での実装である。
13. 第二章の道筋──観滅智への必然
「起滅智已に竟る」── 本バッチの閉じ。
しかし、本バッチの中で示された通り、起滅智にはまだ見られない部分がある。「彼の苦、成滿す」── 苦の成満が、諸行の過ぎ尽きるに至るまで完成しない。
火に囲まれた鳥が、虚空に至って初めて、火の囲みの過患の全体を見る。坐禅人は、起滅智の中で諸行を観じても、諸行の中にいる限り、過患の全体は見えない。
次のバッチ(Batch 06)で、観滅智の前半が展開される。
彼の坐禪人、是の如く正しく生滅の相を見、善く諸行を分別す。滅を得んことを樂しみ、定を樂しむ。爾の時、生を觀ずることを作意せず。唯だ心の滅を見る。
坐禅人が、起の観察を捨て、滅のみを観る段階に進む。「唯だ心の滅を見る」── 心の滅のみを観察する。これは観滅智の入口である。
そして三行による滅の観察(聚・雙・分別)が展開される。本バッチの一処での観察が、観滅智の中で精密化される。
「説く所は唯だ面形のみ」(第八巻の偈)。原典の沈黙が、最も深まる領域に近づく。観滅智は、第十一巻の最も詩的で、最も静かな記述を含む段階である。観滅智の偈── 諸法の臝劣性、無自性性、刹那性── が、Batch 07 で展開される。
14. 結語──「起滅智已に竟る」
第十一巻 Batch 05 が閉じる。
「彼の坐禪人、五受陰に於いて、已に三相に於いて分別し、諸行を斷ぜんことを樂しみ入らんと欲す」── 開口。 「起滅智已に竟る」── 閉じ。
坐禅人は、本バッチで動的な慧の段階を歩んだ。三種の相の取の弁別(蛾・象・毒蛇)、五陰の自相の分別、事と作意の二行による心の相の取、起滅の通達(因・縁・自味の三行)、四法による諸見の解体、一性・種種性の現見、法明の起こり、三法相と三相観の対応、一処での観察(大海の水を舐める)。
これらすべてが、諸行の動的な相を、慧眼で精密に通達する作業である。
特に決定的だったのは、三種の相の取の弁別と、三行による起滅の通達と、一処での観察の比喩であった。前者は、坐の中の心の働きの自覚的弁別を可能にする。中者は、起滅の動態を多角的に通達する装置である。後者は、修行の経済性を示す実践的な指示である。
「説く所は唯だ面形のみ」(第八巻の偈)。本バッチでも、原典は外形を語った。坐禅人の慧の精密な作業の輪郭。これらすべてが、坐の中で起こる慧の作動に対する、案内図である。
「人の善く示導して 波利弗多国へ行くが如し」(第八巻の偈)。原典は道を示す。修行者は、自ら歩む。
そして、本バッチの中で、観滅智への必然的な移行が示された。火に囲まれた鳥が虚空に至るように、坐禅人は諸行から離れた地点を観察する段階に進む。これが観滅智である。
第十一巻の最も詩的な記述──観滅智の偈──が、近づいている。
「起滅智已に竟る」── 第十一巻 Batch 05 の閉じ。
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