解脱道論プロジェクト・第十二巻 Batch 06(物語版)
第十二巻「分別諦品第十二の二」── 全行程を別の角度から振り返る段階
序──主旋律が終わった後で
Batch 05 で、本書の道筋の主旋律が終結した。預流から阿羅漢までの道智・果智の連鎖が示され、阿羅漢の諸称号が展開され、鉄槌の偈で般涅槃が表現を超えるものとして描かれ、次第説への論理的批判が完成した。
主旋律としての記述は、ここで終わっている。
しかし、原典は、すぐには本書を閉じない。続いて、これまでの全行程を別の角度から見直す作業に入る。「散法」(scattered teachings、補足項目)と呼ばれる七つの観察、そして134煩悩の体系的整理である。
これは、教義的な暗記対象ではない。坐禅人の修行の進展を、別の地図で確認する作業である。同じ山を、違う方角から見ると、見えなかった稜線が見える。本バッチで、本書全体の道が、別の角度から照らし直される。
1. 観の二種──禅観と燥観
是に於いて、観とは二観なり。禅観・燥観なり。
第一の観察は、観(vipassanā、毘婆舎那)に二種があることを示す。
已に定を得て、定力を以て蓋を伏す。名を以て色を分別し、観じて禅分を見る。奢摩他を初めと為す。毘婆舎那を修す。
これが禅観(samatha-vipassanā)。先に定を得て、その定力で蓋(五蓋)を伏せる。それから名色を分別し、観を起こす。奢摩他(止)を初めとし、毘婆舎那(観)を後に修する道筋。
燥観とは、分別の力を以て蓋を伏す。色を以て名を分別し、諸行を観見す。毘婆舎那を初めと為す。奢摩他を修行す。
これが燥観(sukkha-vipassanā、純粋観)。先に定を得ない。慧の力(分別の力)で蓋を伏せ、観で諸行を見る。毘婆舎那を初めとし、奢摩他を後に修行する道筋。
「燥」(乾燥した)とは、定の潤いがないという意味。慧の力だけで進む乾いた道。
ここで重要な観察がある。両者は等価である。
禅観も燥観も、最終的に同じ預流果以後の道智に至れる。本書の前半で展開された業処38(第四〜八巻)の中には、定を深めるもの(禅観への道筋)も、観に直結するもの(燥観への道筋)もある。坐禅人の根機・状況に応じて、どちらかを選ぶ。
これは、Batch 05 で示された阿羅漢の自由自在の前段階としての、修行の道筋自体の柔軟性である。固定された「これでなければならない」道はない。何が一番、苦しみを取り除くか── この基準だけが作動する。読者の状況に応じて、禅観の道を取ってよい、燥観の道を取ってよい。あるいは、両者を組み合わせてよい。
第十二巻 Batch 05 で阿羅漢が「壁を取ったり、付けたり、移動したり、比率を変えたり」できるように、本書全体の方便も、坐禅人が自由に組み合わせて使える。
2. 覚・喜・受──地によって変わる構成
続いて、原典は覚(尋、vitakka)、喜(pīti)、受(vedanā)の三つを、坐禅人がどの禅定地にいるかに応じて、丁寧に分類する。
覚の構造
覚は、心が対象に向かって動く働き。初禅にはあるが、二禅以上にはない。
覚地(初禅・燥観の地)で道智が起こるとき、その道は八分道(八正道全部)を含む。 無覚地(二禅以上)で道智が起こるとき、その道は七分となり、思惟(正思惟)が除かれる。代わりに、より精緻な働きが作動する。
なぜか。覚(対象に向かう動き)が止んだ地では、思惟の働きが微細に変質するから。同じ道智が、地に応じて、構成を変える。
喜の構造
喜は、修行の進展に伴う喜び。初禅・二禅にはあるが、三禅・四禅にはない(三禅以上では、より静かな捨へと変質する)。
喜地で道智が起こるとき、七覚分(念・擇法・精進・喜・猗・定・捨)全分が作動する。 無喜地(三禅・四禅)で道智が起こるとき、六菩提覚となり、喜覚分が除かれる。
受の構造
| 道智の起こる地 | 受の質 |
|---|---|
| 燥観・初禅・二禅・性除以下 | 喜と共に起こる |
| 第三禅 | 喜と共に起こる |
| 第四禅 | 捨と共に起こる |
第四禅を基盤として起こる道智は、捨と共に起こる。これは美しい構造である。最も深い禅定地で、坐禅人が捨に至った地点で、最も静かな道智が成立する。
第十二巻 Batch 02 の「無怨、利を見る相似の忍」、Batch 05 の阿羅漢の「擔を置く」と一貫する。捨の中で起こる慧は、動揺せず、誤解せず、最も精密に作動する。
3. 二地と二地──見と修、学と無学
見地と思惟地
地とは二地なり。見地・思惟地なり。是に於いて、須陀洹の道、見地なり。余の三道・四沙門果、思惟地なり。
道智の構造が、二地に分けられる:
| 地 | 内容 |
|---|---|
| 見地(dassana-bhūmi) | 須陀洹の道智(初めて泥洹を見る地) |
| 思惟地(bhāvanā-bhūmi) | 残る三道・四沙門果(見たものを修する地) |
未だ嘗て見ず、今見る、見地と名づく。是の如く見、是の如く修す、是れ思惟地なり。
「未だ嘗て見ず、今見る」── 須陀洹道智で、初めて泥洹を直接対象とする。これが見地。
「是の如く見、是の如く修す」── 一度見たものを、繰り返し修する。これが思惟地。斯陀含・阿那含・阿羅漢の進展は、すべて思惟地での精密化である。
これは決定的に重要な構造である。預流果以後の進展は、新しいものを見ることではない。見たものを、より深く修することである。修行の道は、預流で「全体像を初めて見る」、それ以後は「見たものを、より精密に実装する」という二段階構造を持つ。
学地と無学地
復た次に二地あり。学地・不学地なり。是に於いて、四道・三沙門果、学地なり。阿羅漢果、無学地なり。
| 地 | 内容 |
|---|---|
| 学地(sekha-bhūmi) | 四道+三沙門果(預流・斯陀含・阿那含) |
| 無学地(asekha-bhūmi) | 阿羅漢果のみ |
阿羅漢果のみが「もはや学ぶことのない」地である。それ以前の段階は、阿羅漢を含む沙門果すらも、すべて学地に属する。
これは Batch 05 で見た阿羅漢の称号「所作已立」(なすべきことが、すでに成就している)の精密な意味である。なすべきことが、ない。学ぶべきことが、ない。それまでの全段階で、修行者は学び続けてきた。阿羅漢で初めて、その学びが終わる。
4. 三の出世間根
根とは三の出世間根なり。未知の我れ当に知るべき根、已知根、知已根なり。
修行の道筋を、知の角度から再記述する三段階:
| 根 | パーリ語 | 該当段階 |
|---|---|---|
| 未知の我れ当に知るべき根 | anaññāta-ñassāmi-indriya | 須陀洹道智 |
| 已知根 | aññindriya | 三道智+三果智 |
| 知已根 | aññātāvi-indriya | 阿羅漢果智 |
「未だ知らないが、私は当に知るべき」── 須陀洹道智で初めて作動する根。「初めて泥洹を直接知ろうとする」根。
「已に知っている」── 三道智+三果智で作動する。すでに見たものを、より深く知る根。
「知り終わった」── 阿羅漢果智で作動。学ぶべきものは、もうない。
これは、見地・思惟地と並行する構造を、根の角度から示している。本書の道筋が、複数の体系の中で、同じ構造を持っていることが、ここで再確認される。
5. 三解脱の精密構造
続いて、三解脱の精密な分析が展開される。
解脱とは三解脱なり。無相解脱・無作解脱・空解脱なり。是に於いて、道の相似の智、相を作さざる、是れ無相解脱なり。願を作さざる、是れ無作解脱なり。執を作さざる、是れ空解脱なり。
| 解脱 | 構造 |
|---|---|
| 無相解脱(animitta) | 相を作さず |
| 無作解脱(appaṇihita) | 願を作さず |
| 空解脱(suññatā) | 執を作さず |
これは、第十一巻 Batch 04・第十二巻 Batch 02 で展開された三解脱門の継承。
「観見」と「得」の精密な弁別
復た次に、此の三解脱、観見するを以て、種種の道に於いて成す。得を以て、一道に於いて成す。
ここに精密な弁別がある:
観見(プロセス)を以てするときは、種種の道で別々に成立する。坐禅人が無常を観じれば、無相解脱が成立する。苦を観じれば、無作解脱が成立する。無我を観じれば、空解脱が成立する。三相に応じて、三解脱が、別々に作動する。
得(結果)を以てするときは、一道で三解脱がすべて得られる。一つの解脱を得れば、三解脱がすべて得られる。
已に無相解脱を得れば、三解脱を得るを成す。何が故に、是の人、無相を以て、其の心、脱を得。脱すと雖も、彼已に作す。執を以て、其れ已に無作解脱を得れば、三解脱、所得を成す。
なぜ一つを得れば三つが得られるか。部分を見ることが、全体を見ることだから(Batch 05 の認識論)。一処の塩辛さが大海全体に通じるように。一刹那の四諦分別が日の出の四面であるように。
これは、坐禅人にとっての修行の経済性の最終的な確認である。三相のうち一つを精密に観じれば、三相全体が見える。三解脱のうち一つを得れば、三解脱が得られる。何かを十分にすれば、それを通じて他のすべてに通じる。
6. 解脱と解脱門の弁別
ここで、原典は、本書全体で繰り返し用いられてきた二つの用語の精密な区別を行う。
解脱と解脱門と何の差別ぞ。 答う、唯だ彼の道智、煩悩より脱するを解脱と名づく。醍醐の門に入る義を以て、解脱門と名づく。 復た次に、解脱とは唯だ道智なり。彼の事、泥洹を為す。此れを解脱門と謂う。
| 用語 | 意味 |
|---|---|
| 解脱(vimokkha) | 道智そのもの(煩悩から脱する作用) |
| 解脱門(vimokkha-mukha) | 道智の対象(泥洹そのもの、入る門) |
解脱は働き(プロセス)。解脱門は対象(目的地)。
この弁別は、坐禅人にとって決定的に重要である。「私は解脱を得た」と「私は解脱門に入った」は、構造的に違う。前者は道智の作用が起こったということ、後者は泥洹そのものに到達したということ。混同してはならない。
7. 134煩悩の体系──修行の進展の地図
ここから、原典は134の煩悩を、二十のカテゴリに分けて列挙する。各々が、どの道(預流・斯陀含・阿那含・阿羅漢)で滅されるかが、精密に対応付けられる。
これは、本書全体で展開された道筋を、煩悩の側から再記述する作業である。「何が、いつ、どう、手放されるか」を、極めて精密に展開する。
132ページの教義カタログとして暗記する必要はない。重要なのは、全体のパターンを見ること、そしていくつかの決定的な目印を、自分の修行の現在地として使えることである。
パターン全体の把握
各道で滅される煩悩のパターンを、要約する:
須陀洹道で滅される煩悩:
- 三結(身見・疑・戒取)
- 四悪趣行(欲・瞋・怖畏・癡の悪趣行)
- 邪見・見漏・見使
- 戒盗・梵行覓
- 五不善業道(殺生・盗・邪行・妄語・邪見)
- 一処住(悪趣行を引く粗い貪瞋癡)
- 邪解脱(偽の解脱への執着)
核心:**「私という見解」「邪見」「悪趣に堕ちる粗い行為」**が、預流で根こそぎ抜ける。
阿那含道で滅される煩悩:
- 細の欲欲・瞋恚
- 五蓋の主要部分(欲欲・瞋恚)
- 五慳(住処・家・利養・色・法への慳貪)
- 十悩処(瞋恚系の状況)
- 不浄の浄想・心顛倒
- 三結に対応する身結(瞋恚身結)
核心:欲界に関する全ての引き、瞋恚の全ての形態が、阿那含で根こそぎ抜ける。
阿羅漢道で滅される煩悩:
- 慢(九慢)・調・無明
- 色欲・無色欲
- 有漏・無明漏
- 四の愛の処の使(利・誉・称・楽への愛着)
- 苦の楽の想・心顛倒
- 慢使・有欲使・無明使
核心:比較の構造、微細な存在への愛着、最も奥にある「楽」の握りが、阿羅漢で最後に抜ける。
8. 世間八法の分析──最も実用的な修行の目印
134煩悩の体系の中で、座る人間にとって最も実用的な目印が、世間八法の分析である。
世間の八世法とは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。此に於いて、四の不愛の処の瞋恚は、阿那含の道を以て滅す。四の愛の処の使は、阿羅漢の道を以て滅す。
世間八法とは、世間で人が出会う八つの状況:
愛される処(快いもの):
- 利(利益・得)
- 誉(名誉)
- 称(称賛)
- 楽(快楽)
愛されない処(不快なもの):
- 衰(損失・失)
- 毀(不名誉)
- 譏(批判)
- 苦(苦痛)
そして、滅断の対応:
| 八法 | 該当処 | 滅断 |
|---|---|---|
| 衰・毀・譏・苦 | 不愛の処(嫌悪の対象) | 阿那含道で滅(瞋恚として) |
| 利・誉・称・楽 | 愛の処(愛着の対象) | 阿羅漢道で滅(微細な使として) |
ここに、座る人間にとって極めて実用的な観察がある。
衰・毀・譏・苦への瞋恚反応は、阿那含の道で消える。 利・誉・称・楽への愛着は、阿羅漢の道でやっと消える。
つまり、「批判されて怒る心」より、「称賛されて喜ぶ心」の方が、根が深い。
これは現代の修行者にとって、決定的に重要な目印である。多くの人は、「怒らないようにしよう」と修行する。しかし本書の体系から見れば、それは早期に対応されるべき煩悩である(阿那含で消える)。それより根が深いのは、正の感情への反応である。「褒められて嬉しい」「成功して満たされる」── これらの方が、最後の最後まで残る。
ご指摘の「ダーナと捨の弁別」が、ここで体系内での裏付けを得る。
「嫌なものを手放す」のはダーナにならない(ただ捨てているだけ)。「好きなものを手放す」ことが、本来のダーナ。── そして、阿羅漢で最後に手放されるのは、まさに「好きなもの」(利・誉・称・楽)への微細な愛着である。
座る人間は、自分の修行の進展度を、この目印で測れる:
- 批判への反応がどれだけ薄まっているか(阿那含的指標)
- 称賛への反応がどれだけ薄まっているか(阿羅漢的指標)
後者の方が、より深い修行の指標である。「悪口を言われても動じない」を達成しても、まだ半分である。「褒められても動じない」が、最後の課題である。
これは、現代の修行者にしばしば見落とされる構造である。「修行ができている自分」「悟りに近い自分」── これらへの微妙な誇りが、最も最後まで残る。修行が進むほど、この最後の誇りに、注意を向ける必要がある。
9. 九慢の精密構造
彼の勝より我勝、生慢なり。勝と我等、生慢なり。勝より我下、生慢なり。等より我等、生慢なり。等より我下、生慢なり。下より我勝、生慢なり。下より我等、生慢なり。下より我下、生慢なり。九慢は阿羅漢の道を以て滅す。
九慢とは、比較対象(勝・等・下)と自己評価(我勝・我等・我下)の組み合わせの全パターン:
| 比較対象 | 我勝 | 我等 | 我下 |
|---|---|---|---|
| 勝(優れた者) | ○ | ○ | ○ |
| 等(等しい者) | ○ | ○ | ○ |
| 下(劣った者) | ○ | ○ | ○ |
(原典は九種類を列挙、本来は3×3=9のすべての組み合わせを示す)
すべて阿羅漢道で滅 ── Batch 05 の「慢=比較の構造そのもの」の論点の、体系内での精密化。
特に注目すべきは、「下より我下」── 「最も劣った者より、私は劣っている」も慢である構造。「私は最も劣っている」「私は救いがたい」「私は底辺だ」── これらの究極の自己卑下も、慢の作動である。
これは、現代の修行者にとって深い洞察である。仏教の修行は、しばしば「謙虚さ」を重視する。しかし、過度の自己卑下は、謙虚さではない。「私は劣っている」と思うことそのものが、依然として「私と他」の比較の構造を保持している。慢の最も巧妙な現れの一つである。
阿羅漢で慢が消えるとき、優越感も消えるが、劣等感も消える。比較の構造そのものが解体される。すべての人と等しくなるのではない。比較の枠組みが、強制から方便に変わる(Batch 05 の自由自在の構造)。
10. 十二顛倒の段階的解体
十二顛倒とは、無常に於いて常想顛倒・心顛倒・見顛倒なり。是の如く苦に於いて楽、不浄に於いて浄、無我に於いて我なり。
十二顛倒は、四つの誤った見解(無常を常と・苦を楽と・不浄を浄と・無我を我と)が、それぞれ三つの形(想・心・見)で現れる構造:
| 誤り | 想顛倒(知覚) | 心顛倒(感じ方) | 見顛倒(見解) |
|---|---|---|---|
| 無常を常と | ○ | ○ | ○ |
| 苦を楽と | ○ | ○ | ○ |
| 不浄を浄と | ○ | ○ | ○ |
| 無我を我と | ○ | ○ | ○ |
そして、滅断の精密な対応:
| 顛倒 | 滅断 |
|---|---|
| 無常の常の三顛倒(想・心・見) | 須陀洹道で滅 |
| 無我の我の三顛倒(想・心・見) | 須陀洹道で滅 |
| 不浄の浄の見顛倒 | 須陀洹道で滅 |
| 苦の楽の見顛倒 | 須陀洹道で滅 |
| 不浄の浄の想・心顛倒 | 阿那含道で滅 |
| 苦の楽の想・心顛倒 | 阿羅漢道で滅 |
この体系には、極めて美しい構造がある。
見顛倒(誤った見解)は、すべて須陀洹道で滅。「無常を常と見る」「無我を我と見る」「不浄を浄と見る」「苦を楽と見る」── 知的な誤解は、預流果ですべて解体される。
想・心の顛倒(知覚と感じ方の誤り)は、より深い:
- 不浄の浄想・浄心 ── 阿那含で滅。身体への微細な愛着。
- 苦の楽想・楽心 ── 阿羅漢で最後に滅。
最後に残るのは、「苦を楽と感じる」想・心の顛倒。これは世間八法の「楽の処の愛着が最後に消える」と完全に一致する。
知的に「諸行は苦である」と知っていても、感じ方として「これは楽である」と知覚する癖が、最後の最後まで残る。修行者が「私は四聖諦を理解している」と思っていても、その奥で、なお「楽を楽として感じる」働きが、阿羅漢直前まで作動している。
これが、修行の最も深い構造である。
11. 動機の自然な転換と本バッチの位置
ご指摘の構造── 動機が、各段階を一歩ずつ登らせる力となる── が、本バッチの体系全体でどう作動するか。
134煩悩の段階的滅断の全体パターンを見ると、修行の進展は、以下の方向に進むことがわかる:
預流:私という見解の解体、邪見の解体、悪趣行の解体。 ↓ 斯陀含:粗い反応性の薄まり。 ↓ 阿那含:欲界の引きの完全な消滅、瞋恚の全形態の消滅。 ↓ 阿羅漢:比較の構造の解体、楽への微細な愛着の消滅。
この進展を貫いている方向性は、「私と他」を区切る構造の段階的な変質である。
預流で身見が解体されると、「私が」「私の」と握る癖が、二十項目で根本的に緩む。 阿那含で欲界の引きが消えると、「これが好き/嫌い」の二項対立の固定が、根こそぎ抜ける。 阿羅漢で慢が消えると、比較の構造の固定が、最後に解ける。
これは、外から「衆生のためになりなさい」と命じられて起こる変化ではない。煩悩の段階的解体そのものが、必然的に、自他の枠組みを変質させる。
そして、ご指摘の「精密化が事実を見せる」── 各段階で手放されるものの粒度が細かくなる。粒度が細かくなれば、混同が減る。混同が減れば、応答が事実に応じたものになる。134煩悩の体系は、この精密化の地図である。
本書の読者は、この体系を、自分の修行の現在地として使う。すべてを暗記する必要はない。要点は:修行は段階的に精密化される、そして自分が今、どの段階にいるかを、いくつかの目印で確認できるということである。
最も実用的な目印は、世間八法の分析である:
- 自分は今、批判への反応に対処しているか(預流〜阿那含的段階)
- 自分は今、称賛への反応に対処しているか(阿那含〜阿羅漢的段階)
そして、九慢の構造:
- 自分は今、自分を「優れている」と思いがちか
- 自分は今、自分を「劣っている」と思いがちか
- どちらも、慢の作動である
12. 座る人間にとっての本バッチ
第十二巻 Batch 06 で示された体系を、坐の中でどう受け止めるか。
第一に、134煩悩を全部暗記しようとしない。これは、現代の坐禅人が試験勉強のように覚えるべきものではない。全体のパターン(預流・阿那含・阿羅漢で何が手放されるか)を把握できれば、十分である。
第二に、自分の修行の現在地を、いくつかの実用的な目印で確認する:
世間八法の目印:
- 衰・毀・譏・苦への反応(怒り・落胆・防衛)はどう変化しているか
- 利・誉・称・楽への反応(喜び・満足・誇り)はどう変化しているか
- 後者の方が、より深い目印
九慢の目印:
- 「自分は他人より優れている」と思う瞬間に気づけるか
- 「自分は他人より劣っている」と思う瞬間に気づけるか
- 後者を見過ごしていないか(自己卑下=謙虚さの誤解)
十二顛倒の目印:
- 知的に「諸行は苦である」と理解しているか(預流的)
- 感じ方として、それでもなお「これは楽である」と知覚しているか(阿羅漢直前まで残る)
- この乖離に気づけるか
第三に、ご指摘の「好きなものを手放すこと=ダーナ」を、坐の中で実装する。本書の体系が示す通り、嫌なもの(衰・毀・譏・苦)への対処は、相対的に早期に進む。最後の最後まで残るのは、好きなもの(利・誉・称・楽)への執着である。だから、修行の進展度を測るには、「自分は嫌なものをどう手放しているか」より、「自分は好きなものをどう手放しているか」の方が、より精確な目印になる。
第四に、三解脱の「観見と得」の弁別を、坐の中で確認する。三相を別々に観じる段階(プロセス)と、一つを得れば三つを得る段階(結果)── 自分の修行が、どの段階にあるかを、把握する。
第五に、「学地と無学地」の弁別を、修行への姿勢として受け取る。預流から阿那含までの全段階(さらに阿羅漢に至るまでの道智を含めて)、坐禅人は依然として学地にいる。「私はもう学ぶことが少ない」と思うこと自体が、戒取の現代的な現れである。学ぶべきことは、阿羅漢果まで、ある。
13. 結語──主旋律の後の倍音
第十二巻 Batch 06 が閉じる。
主旋律としての記述は、Batch 05 で終わっていた。本バッチは、その主旋律の後の倍音である。
観の二種(禅観・燥観)、覚・喜・受の地に応じた構成、見地と思惟地、学地と無学地、三の出世間根、三解脱の観見と得の弁別、解脱と解脱門の弁別── 七つの散法が、本書全体の道を、別の角度から照らし直した。
そして、134煩悩の体系── 三不善根から十二不善心起まで── が、修行の段階的進展を、煩悩の側から再記述した。世間八法の「楽の処の愛着が最後に残る」、九慢の「下より我下も慢」、十二顛倒の「苦の楽想・楽心が最後に残る」── これらが、現代の坐禅人にとって、自分の修行の現在地を測る実用的な目印を提供した。
ご指摘の「ダーナと捨の弁別」が、本書の体系の中で、論理的・体系的な裏付けを得た。好きなものを手放すことが、本来のダーナ。それは阿羅漢直前まで残る。修行の最も深い段階で、最後に手放されるのは、最も好きなもの── 称賛・楽・「修行ができている自分」への微細な愛着である。
そして、ご指摘の「比較の枠組みが、強制から方便に変わる」── 九慢の構造の精密性(下より我下も慢である)が、この論点の体系内での裏付けとして作動した。慢の解体は、比較の消滅ではない。比較を方便として、自由自在に使える地点である。
主旋律と倍音、両方が、ここで揃った。残るは、最終バッチ── 二正受(果正受・滅尽定)と、本書全体の閉じである。
三層クロスリファレンス
| 本バッチ | 大安般守意経 | Kernel 4.x |
|---|---|---|
| 散法(七項目) | MODULE 20:全機能の精密化 | Vol.10.5:特性の精密化 |
| 三解脱の構造 | MODULE 20:三系統の出口の精密分析 | Vol.10.6:三系統の出口関数 |
| 134煩悩の体系 | MODULE 20:全変数のリストとその滅断対応 | Vol.10.7:変数完全消去マップ |
| 世間八法の分析 | MODULE 20:正負感情の対称性分析 | Vol.10.8:正負反応の対称性 |
次バッチ予告:Batch 07(最終バッチ)──二正受と全体の閉じ
- 果正受(phala-samāpatti)── 阿羅漢・阿那含のみが入る、泥洹を対象とする定
- 想受滅正受(nirodha-samāpatti)── 心・心数法を生じない最深の定
- 死人と滅尽定の人の差別(寿命・煖・諸根の有無)
- 「解脱分別諦十二品已に竟る」── 解脱道論全12巻の閉じ
- 結偈 ── 「無辺にして称すべからず思うべからず…微妙の勝道もて善行を為す、教に於いて惑わず無明を離る」
本プロジェクトの最終地点。波利弗多国の門まで、案内人の役割を全うする最後の旅。
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