第四巻 行門品第八の一 Batch 05
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目次
- 三行の成果──想が成立する
- 相の二種──取相と彼分相
- 取相の変動性──遠・近・左右・大小
- 彼分相の自在性──作意すれば即ち現ず
- 相とは何の義か──因・智・像の三義
- 相を得た者の課題──守護
- 不善を離る──十項の禁忌
- 常に作す──珍宝想による相の守り
- 相取のサイクル──取・起・随観・修・再観察
- 物理から心への質的転換
- 座ることとの接続
- 原文書き下し
1. 三行の成果──想が成立する
Batch 04 で三行(等観・方便・離乱)が展開された。目の開閉の中道、四作意、四種の乱れとその対治。この三行を経て、清浄心と専一心が成立した。
本バッチはその続きである。
此に三行に因り定心随意に曼陀羅の形を見ることを成ずるを明かす。若し専ら一心ならば想成ず。
三行の成果として、定心が随意に曼陀羅の形を見る状態が成立する。そして、専ら一心であれば、想が成ずる。
ここで「想が成ずる」とは何か。想とは心に浮かぶ像である。目の前の物理的曼陀羅ではない。心のなかに立ち上がる曼陀羅の像。これが「想」である。
専一心があれば、想が立ち上がる。専一心がなければ立ち上がらない。Batch 04 の清浄心と専一心への到達が、本バッチの想の生起の条件である。
2. 相の二種──取相と彼分相
想が成立したところから、さらに進む。
名相を起すに二種あり。謂く取相、彼分相なり。
名相(名づけられた相)には二種ある。取相と彼分相。
この区別は解脱道論の禅定論の核心である。パーリ語で取相は uggaha-nimitta、彼分相は paṭibhāga-nimitta と呼ばれる。音訳を保つことが重要である。翻訳しきってしまうと、原典の術語的精密さが失われる。
取相と彼分相の違いは、単なる程度の違いではない。質的な違いである。
3. 取相の変動性──遠・近・左右・大小
まず取相。
云何なるか取相と名づく。若し坐禅人、散ぜざる心を以て現に曼陀羅を観じ、曼陀羅従り想を起す。
取相とは、散じない心で現に曼陀羅を観じ、曼陀羅から想を起こすこと。
注意深く読んでほしい。「眼を以て曼陀羅を観ぜず」と後で明言される。つまり、取相は肉眼で曼陀羅を見ることではない。散じない心で曼陀羅を観じ、そこから心のなかに想を起こすことである。
虚空において見る所の如し。或る時は遠く、或る時は近く、或る時は左、或る時は右、或る時は大、或る時は小、或る時は醜、或る時は好、或る時は多、或る時は少なし。
取相の特徴がここに示される。虚空に何かを見るように、像が現れる。しかし安定しない。遠くに見えたり近くに見えたり、左に見えたり右に見えたり、大きく見えたり小さく見えたり、醜かったり美しかったり、多かったり少なかったりする。
五つの軸で変動する──距離・方向・大きさ・質・数。この五軸の変動が、取相の本性である。
眼を以て曼陀羅を観ぜず、作意方便を以て相を取り起す。是を取相と名づく。
取相は、目ではなく、作意と方便によって取り起こされる。物理的な見ることから離れているが、まだ完全に心のなかに移行していない。物理的曼陀羅から発生する心的像の、不安定な段階。これが取相である。
4. 彼分相の自在性──作意すれば即ち現ず
次に彼分相。
彼従り多く作す故に、彼分相起る。
取相を多く作することで、彼分相が起こる。彼分相は取相の発展形である。
彼分相と名づくは、若し作意の時、心に随いて即ち現ず。曼陀羅を見て後に心念を生ずるに非ず。
彼分相とは、作意の時に心に随って即座に現れる相である。曼陀羅を見た後に心念が生じるのではない。
ここに決定的な違いがある。取相は曼陀羅を前にして立ち上がる。曼陀羅があって、それから想が起こる。時間差がある。
彼分相はそうではない。作意すれば、即座に現れる。曼陀羅を前にする必要がない。心のなかで作意するだけで、相が立ち上がる。
但だ心を閉眼に作すも先に観ずる所の如し。
目を閉じて作しても、先に観じた通りに現れる。完全に視覚的対象への依存を卒業している。
若し遠しと作意すれば亦た即ち遠くに見え、若し近・左右・前後・内外・上下も亦た復たかくの如し。心に随いて即ち現ず。
遠いと作意すれば遠くに見える。近いと作意すれば近くに見える。左右・前後・内外・上下、どの配置でも、心に随って即座に現れる。完全に自在である。
取相では変動は受動的だった。相が勝手に遠くなったり近くなったりした。彼分相では変動は能動的である。心が作意する通りに、相が配置される。受動から能動への転換。
これが取相から彼分相への決定的な発展である。相が心の支配下に入る。
5. 相とは何の義か──因・智・像の三義
ここでウパティッサは立ち止まる。「相」という語そのものを問う。
相とは何の義ぞ。謂く因義・相義なり。
相には三つの義がある。因義・智義・像義。
第一、因義。
仏の比丘に教えたもうが如く、彼諸の悪不善法、相有りて起るは是れ因縁の義なり。
仏が比丘に教えたように、諸々の悪不善法が「相有りて起る」というのは、因縁の義である。ここでの相は、法が起こる因としての相。
第二、智義。
復た智義・相義を説く。仏の想を作して当に捨つべしと説くが如し。是れ智義と謂う。
仏が「想を作して当に捨つべし」と説くように、想としての相。これは智の対象としての相。
第三、像義。
復た像義・相義を説く。自ら面像の想像を見るが如し。
自分の顔の像を想像で見るように、像としての相。
彼分、異義無し。
そして、彼分相においては、これら三義は別物ではない。
この最後の一句は非常に重要である。彼分相は、因でもあり、智の対象でもあり、像でもある、全てを兼ねる相。だから坐禅の対象として完結している。
ウパティッサはここで、禅定の対象の認識論的深さを示す。彼分相は単なる心的イメージではない。それは因果の相であり、智の相であり、像の相である。三者が融合した、特殊な認識対象。
6. 相を得た者の課題──守護
彼分相が成立したら、修行は終わるのか。終わらない。新しい課題が始まる。
爾の時、相を得れば、坐禅人その師の所において恭敬心を起し、勝相を取らば応当に守護すべし。若し守護せずんば是れ則ち当に失すべし。
相を得たとき、坐禅人は師の所において恭敬心を起こす。そして勝れた相を守護する。守護しなければ、失う。
ここで師が再び登場する。第三巻で師は弟子に業処を授ける役割を持った。本バッチでは、弟子が相を得た瞬間に、師への恭敬心を起こすことが指示される。達成の瞬間こそ、師への感謝が生じるべき瞬間。
そして守護の必要性が強調される。相は得ただけでは終わらない。守らなければ消える。
問う、云何にしてか応に守護すべき。 答う、三種の行を以て応に相を守護すべし。かくの如く悪を離るるを以ての故に、善を修行するを以ての故に、常に作すを以ての故に。
守護には三行がある。不善を離る、善を修行する、常に作す。
この構造は印象的である。第一巻から繰り返される「悪を離る/善を修する」の構造が、相の守護においても現れる。そして第三の「常に作す」が、修行の持続性を強調する。
7. 不善を離る──十項の禁忌
云何なるか不善を離る。作務を楽しみ、種々の語戯を楽しみ、睡眠を楽しみ、聚会を楽しみ、俗に狎るるを楽しむ。諸根を守護せず、食を節せず、初夜・後夜に禅習を起さず、所学を敬わず、悪親友多く不行処を修す。
十項の不善が列挙される。
- 作務を楽しむ
- 種々の語戯を楽しむ
- 睡眠を楽しむ
- 聚会を楽しむ
- 俗に狎るるを楽しむ
- 諸根を守護せず
- 食を節せず
- 初夜・後夜に禅習を起さず
- 所学を敬わず
- 悪親友多く不行処を修す
この十項を見ると、第一巻から第三巻までに確立された全ての実践規範が、ここで再登場していることに気づく。
諸根を守護せず──第一巻 Batch 15 の根威儀戒の違反。
食を節せず──第二巻の節量食(Batch 05)の違反。
初夜・後夜に禅習を起さず──第二巻の常坐不臥の違反。夜間の修習の欠如。
悪親友多く──第二巻の覓善知識品(Batch 21〜25)で確立された善友の逆。悪友との交際。
不行処を修す──第一巻の命清浄戒との接続。行ずべきでない処での修行。
出発篇で長大な紙幅を費やして確立された規範が、本バッチの十項に凝縮される。相の守護とは、出発篇の全規範の継続実行である。
応に不好の時節・食・臥・坐を離るべし。彼に対治するは是れ善なり、応に常に作すべし。
好ましくない時節・食事・臥具・坐具を離れよ。そしてその対治(反対の善)を常に作せ。
8. 常に作す──珍宝想による相の守り
第三の行、「常に作す」が最も重要である。
問う、云何にしてか常に作すを以てす。 答う、彼の坐禅人、善く此の相を取り、常にその功徳を観ずること珍宝想の如くす。
坐禅人はよくこの相を取って、常にその功徳を観じる──「珍宝想の如く」。
珍宝想。宝石のように相を思う。
この比喩は非常に示唆的である。宝石は、得た後に扱いが変わる。無造作に投げ出しておくものではない。包み、守り、時々取り出して眺め、また仕舞う。扱う者の心性が宝石の価値に応じて変わる。
相もまた、得た後は珍宝のように扱う。無造作にしない。心のなかの特別な場所に置いて、折々に観じる。
第一巻 Batch 19 の戒の守護の七比喩を思い出してほしい。蟻の卵、犛牛の尾、一子、一眼、巫師の身、貧人の宝、海師の舶。それぞれの比喩が、戒の守護の心性を示した。本バッチの「珍宝想」は、相の守護の心性として同じ系譜にある。守護の対象が戒から相へと移っただけで、心性の質は連続している。
常に歓喜して行じ、常に修し多く修す。或いは昼夜多く修行し、或いは倚坐臥して心攀縁を楽しみ、処々に心を放ち、相を取り已に取り、取り已に起さしめ、起し已に随を観じ、観じ已に修す。修するに時時ありて曼陀羅を観ず。かくの如く常に作して相を見る。彼かくの如く現に相を守護す。
常に歓喜して行じ、常に修し、多く修す。昼夜に修行し、倚(依りかかる)・坐・臥の全ての姿勢で心の攀縁(対象への依りどころ)を楽しみ、処々に心を放つ。
9. 相取のサイクル──取・起・随観・修・再観察
ここで五段階のサイクルが示される。
相を取り已に取り、取り已に起さしめ、起し已に随を観じ、観じ已に修す。修するに時時ありて曼陀羅を観ず。
第一、相を取る。相を取得する。
第二、取り已に起さしむ。取った相を(心のなかで)立ち上がらせる。
第三、起し已に随を観ず。立ち上がった相に随って観ずる。
第四、観じ已に修す。観じた後に修する。
第五、時時ありて曼陀羅を観ず。時々に曼陀羅を観察する。
このサイクルが常に回り続ける。取相が彼分相になってからも、時々物理的曼陀羅に戻って相を確認する。完全に心的世界に移行しきらない。物理と心の両方を往復する。
相の守護とは、このサイクルを絶えず回すことである。一度得た相を放置するのではない。取・起・随観・修・再観察を繰り返すことで、相は生きたまま保たれる。
10. 物理から心への質的転換
本バッチの全体を振り返ると、一つの大きな構造が見えてくる。
それは「物理から心への質的転換」である。
最初、曼陀羅は土と水で作られた物理的対象だった(Batch 02)。それを目で見る必要があった(Batch 04 の等観)。
取相の段階で、物理的曼陀羅から心的像が生じ始める。しかし不安定で変動する。物理と心の中間段階。
彼分相の段階で、物理的依存が卒業される。作意だけで相が生起する。心の自在性が成立する。
この転換は、業処修行全体の構造を示している。最初は物理的対象(曼陀羅・身体・呼吸)から始める。修行が進むと、物理的対象への依存が減っていく。最終的には、心のなかで自在に対象を扱えるようになる。
そして物理的対象に戻ってきても、同じ対象を別の質で扱える。以前は目で見ていたものを、今は心で観じる。対象そのものは変わらないが、対象との関わり方が変わる。
これは他の業処にも当てはまる雛形である。地一切入だけの話ではない。水一切入でも、火一切入でも、色一切入でも、不浄想でも、慈観でも、数息念でも、同じ構造が現れる。物理から心への質的転換。
11. 座ることとの接続
本バッチの内容は、座る人間にとって何を意味するか。
第一に、取相と彼分相を混同しない。自分の座りで何か像が立ち上がったとき、それが取相なのか彼分相なのかを識別する。変動するなら取相、作意で即座に現れるなら彼分相。
第二に、取相の変動に焦らない。変動は取相の本性である。遠近・左右・大小が揺れ動くのは失敗ではない。取相の通常状態である。
第三に、彼分相は達成であり終点ではない。彼分相が立ち上がったら、守護のフェーズに入る。守護しなければ失う。
第四に、相の三義を実践的に理解する。座っているとき、自分のなかで立ち上がる相は、単なるイメージではない。それは因縁であり、智の対象であり、像である。三者が同時に働いている。どれか一つだけを取ろうとしない。
第五に、相の守護の十項を自分の日常に照らす。作務に忙殺されていないか。戯談に時間を使いすぎていないか。睡眠が過剰でないか。集会が多すぎないか。世俗に親しみすぎていないか。六根を暴走させていないか。食が乱れていないか。夜の修習を欠かしていないか。学びを軽んじていないか。友の質を見ているか。
第六に、珍宝想を持つ。自分が得た集中の状態を、宝石のように扱う。雑に扱わない。守る。
第七に、相取のサイクルを回し続ける。一度得て終わりではない。取→起→随観→修→再観察。このサイクルが相を生きたまま保つ。
大安般守意経との接続
大安般守意経の MODULE 6(観・還・浄)は、観・還・浄の三段階を扱う。本バッチの取相→彼分相→守護と構造的に対応する。「観」が取相、「還」が彼分相への移行、「浄」が守護に相当する。
Kernel 4.x との接続
Kernel 4.x の Vol.3(信号サンプリングとプロセス因果トレース)は、信号の取得と追跡を扱う。本バッチの取相(信号取得)から彼分相(信号の心的再現)への移行は、これと対応する。
Vol.2(18のノイズ除去)は、ノイズの除去を扱う。本バッチの十項の禁忌は、相の守護におけるノイズ除去の具体的実装である。
詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-05.md を参照
12. 原文書き下し
此に三行に因り定心随意に曼陀羅の形を見ることを成ずるを明かす。若し専ら一心ならば想成ず。名相を起すに二種あり。謂く取相、彼分相なり。 云何なるか取相と名づく。若し坐禅人、散ぜざる心を以て現に曼陀羅を観じ、曼陀羅従り想を起す。虚空において見る所の如し。或る時は遠く、或る時は近く、或る時は左、或る時は右、或る時は大、或る時は小、或る時は醜、或る時は好、或る時は多、或る時は少なし。眼を以て曼陀羅を観ぜず、作意方便を以て相を取り起す。是を取相と名づく。 彼従り多く作す故に、彼分相起る。彼分相と名づくは、若し作意の時、心に随いて即ち現ず。曼陀羅を見て後に心念を生ずるに非ず。但だ心を閉眼に作すも先に観ずる所の如し。若し遠しと作意すれば亦た即ち遠くに見え、若し近・左右・前後・内外・上下も亦た復たかくの如し。心に随いて即ち現ず。此を彼分相と謂う。
相とは何の義ぞ。謂く因義・相義なり。仏の比丘に教えたもうが如く、彼諸の悪不善法、相有りて起るは是れ因縁の義なり。復た智義・相義を説く。仏の想を作して当に捨つべしと説くが如し。是れ智義と謂う。復た像義・相義を説く。自ら面像の想像を見るが如し。彼分、異義無し。
爾の時、相を得れば、坐禅人その師の所において恭敬心を起し、勝相を取らば応当に守護すべし。若し守護せずんば是れ則ち当に失すべし。 問う、云何にしてか応に守護すべき。 答う、三種の行を以て応に相を守護すべし。かくの如く悪を離るるを以ての故に、善を修行するを以ての故に、常に作すを以ての故に。 云何なるか不善を離る。作務を楽しみ、種々の語戯を楽しみ、睡眠を楽しみ、聚会を楽しみ、俗に狎るるを楽しむ。諸根を守護せず、食を節せず、初夜・後夜に禅習を起さず、所学を敬わず、悪親友多く不行処を修す。応に不好の時節・食・臥・坐を離るべし。彼に対治するは是れ善なり、応に常に作すべし。 問う、云何にしてか常に作すを以てす。 答う、彼の坐禅人、善く此の相を取り、常にその功徳を観ずること珍宝想の如くす。常に歓喜して行じ、常に修し多く修す。或いは昼夜多く修行し、或いは倚坐臥して心攀縁を楽しみ、処々に心を放ち、相を取り已に取り、取り已に起さしめ、起し已に随を観じ、観じ已に修す。修するに時時ありて曼陀羅を観ず。かくの如く常に作して相を見る。彼かくの如く現に相を守護す。
リンク
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