Batch-V4-06:禅外行と安、一切入の増長──近づく定と届いた定

第四巻 行門品第八の一 Batch 06

前の物語 → Batch-V4-05「取相・彼分相・相の守護」 次の物語 → Batch-V4-07「安定の因縁十行・受持」


目次

目次

  1. 彼分相から先に進む
  2. 自在・外行・安の三段階
  3. 禅外行とは何か
  4. 安とは何か
  5. 外行と安の差──四つの比喩
  6. 性除の境界線
  7. 外行と安の語義
  8. 一切入の増長──手の四指節から大海へ
  9. 増長の原則──不平正を作意しない
  10. 最勝の定への到達
  11. 座ることとの接続
  12. 原文書き下し

1. 彼分相から先に進む

Batch 05 で彼分相が立ち上がった。物理的曼陀羅への依存が卒業され、心のなかで自在に地想を扱える段階。そして相を珍宝として守護する生活が始まった。

ここで修行は終わるのか。終わらない。彼分相はあくまで出発点であり、ここから定が深化していく。

或いは自在を得。若し相心に随いて禅の外行を得。若し外行心従りせば、是に由りて安きを得。

三段階の進展が示される。自在を得る。相心に随って禅の外行を得る。外行心によって安を得る。

この三段階は、Batch 05 の彼分相の自在性を起点として、より深い定へと進む過程である。


2. 自在・外行・安の三段階

三段階を整理しよう。

自在──彼分相を得た者の状態。心のなかで相を遠近・左右・上下・大小に自在に操作できる。Batch 05 で確立された段階。

禅外行(upacāra-samādhi)──禅に近づく定。五蓋は伏せられたが、五禅支(覚・観・喜・楽・一心)はまだ成立していない。定はあるが念がまだ時々起こる。

安(appanā-samādhi)──本格的な禅定。五禅支が成立し、心が事において動じない。和合の義。

自在から外行へ、外行から安へ。この二つの移行が、本バッチの中心テーマである。

そして第二巻の分別定品で提示された定の全体設計図(初禅〜五禅、四無色定)は、この「安」の段階から数えられる。安に入って初めて「初禅」と呼ばれる。外行はまだ初禅ではない。初禅の手前にある。


3. 禅外行とは何か

まず外行。

問う、云何なるか禅の外行。 答う、此の事心従り、作意して乱れず、以て諸蓋を伏す。但だ未だ覚観・喜楽・一心及び信等の五根を修行せず。定力を得ると雖も念々猶お起る。是れ禅の外行なり。

禅外行の定義が精密である。

第一、事(対象)について心が乱れない。作意しても乱れない。

第二、五蓋を伏している。五蓋は貪欲・瞋恚・懈怠睡眠・調悔・疑。これらの蓋(障害)が伏せられている。消えてはいないが、押さえ込まれている。

第三、五禅支は未修行。覚・観・喜・楽・一心は、安で成立するものであり、外行ではまだ立ち上がらない。信等の五根(信・精進・念・定・慧)も同じく。

第四、定力はある。

第五、しかし念々がなお起こる。小さな念が時々湧き上がる。

この定義から、外行の性格が見えてくる。定はある。しかし不完全。蓋は伏せているが消していない。念が時々湧く。この「時々湧く念」が、外行と安を分ける境界である。


4. 安とは何か

次に安。

安とは、此の外行従り是の法、心に由りて修行力を得。是れ覚・信等の法、事において動ぜず。是を名づけて安と為す。

安は、外行から修行力を得る。覚や信等の法(諸禅支・五根)が、事において動じなくなる。これが安である。

外行と安の決定的違いは、「動ぜず」である。

外行では諸禅支はまだ成立せず、念が時々起こる。動揺がある。

安では諸禅支が立ち上がり、それらが事において動じない。動揺が消える。

動揺の有無が、外行と安を分ける。


5. 外行と安の差──四つの比喩

問う、外行及び安、何の差別あるや。

ウパティッサはこの問いに、四つの比喩で答える。

第一の比喩、船

若し身心において未だ寂寂を得ざれば、外定において心動ずること船の浪に在るが如し。若し身心において已に寂寂を得れば、処安くして動ぜざること船の風無く水に在るが如し。

外行は、浪の上の船のよう。定はあるが、絶えず揺れる。

安は、風のない水の上の船のよう。揺れない。

この比喩は動揺の質を対比する。外行では揺れが「絶え間ない」。小さくても常に起こる。安では揺れが「ない」。完全な静止ではないかもしれないが、揺れを感じない。

第二の比喩、小童子と力有る人

諸根力無きが故に、為す所の事において外禅行は久しく住せず、小童子の如し。諸根力有るが故に、事において安静にして久しく住す、力有る人の如し。

外行は、小童子のよう。何かをしようとしても、力が足りず、久しく続かない。

安は、力有る人のよう。やり遂げる力があり、久しく安静に住する。

この比喩は持続力を対比する。外行は一時的。安は持続的。五根の力の有無が、持続力の差を生む。

第三の比喩、経誦の廃と習

修して自在ならざる故に、禅の外行は不和合を成ず。人の経を誦して久しく廃すれば則ち忘るるが如し。修して自在なるを以ての故に、安和合を成ず。人の経を誦して恒に習えば忘れざるが如し。

外行は、経を誦して長く廃していた人のよう。久しくやっていないので、忘れている。不和合。

安は、経を誦して恒に習っている人のよう。習慣化しているので、忘れない。和合。

この比喩は習熟の質を対比する。外行では習熟が不十分で、忘れやすい。安では習熟が完成しており、忘れない。修の自在性が、習熟の質を決める。

第四の比喩、盲と非盲

若し善く蓋を伏せざれば、猶お盲人の如し。禅の外行において盲を成ず。かくの如き等不清浄の教えなり。若し善く蓋を伏せば盲ならざるを成ず。安定を成ずるにおいてかくの如き等清浄の教えなり。

蓋を善く伏せなければ、盲のよう。外行において盲を成ず。不清浄の教え。

蓋を善く伏せれば、盲でない。安定を成ず。清浄の教え。

この比喩は蓋の伏の徹底度を対比する。外行では蓋の伏が不徹底で、盲のような状態。安では蓋の伏が徹底し、見える状態。

四つの比喩が、外行と安の差を多面的に示す。動揺・持続力・習熟・蓋の伏。どれも重要な軸である。ウパティッサはどれか一つに還元せず、四つ全てを示す。これは「比喩群による多面的把握」の記述手法である。第一巻 Batch 19 の戒守護の七比喩、Batch 03 の欲の過患の20比喩と同じ系譜。


6. 性除の境界線

続いてウパティッサは、外行と安の境界を術語的に確定する。

相自在の所初従り、乃至性除までを名づけて外行と為す。性除無間、是を名づけて安と為す。

相自在の初めから、性除まで──これが外行の範囲である。

性除の直後から──これが安である。

ここで「性除(gotra-bhū)」という重要な術語が登場する。種姓(gotra)を超える(bhū)位。凡夫の種姓を超えて聖者の種姓に入る瞬間。

この術語は、通常は慧の展開──見道への入口──で用いられる。悟りの一瞬前を指す。しかし本バッチでは、定の深化における境界線として用いられる。

なぜか。定の深化にも、性除に類する境界があるからである。外行から安への移行は、凡夫的な定から聖者的な定への転換に類比できる。完全な悟りではないが、それに類する質的転換が、定のなかで起こる。

本バッチではこれ以上詳述されない。性除の具体的内容は、後の巻(慧の展開)で扱われる。ここでは境界線としてのみ機能する。


7. 外行と安の語義

問う、外行とは何の義ぞ。 答う、禅に近き故に是を名づけて外行とす。路の村に近きを是れ村路と謂うが如し。義は一にして名は異なり。

外行とは「禅に近き」の意味。村に近い路を「村路」と呼ぶのと同じ。村そのものではないが、村に至る路。外行は禅そのものではないが、禅に至る段階。

安とは何の義ぞ。安は和合の義と為す。曼陀羅に到り、禅を出離するに安は異義無し。

安とは「和合」の意味。曼陀羅に到り、禅を出離するにあたって、安に異なる義はない。

和合とは、諸々が一つになること。覚・観・喜・楽・一心の五禅支が一つに和合し、五根が一つに和合する。和合しているのが安。和合していないのが外行。


8. 一切入の増長──手の四指節から大海へ

外行に住した坐禅人は、次に何をするか。一切入を増長させる。

是において坐禅人、外行に住し、応に一切入を増長せしむべし。或いは安定において、或いは初禅において、当に増長せしむべし。

外行で増長を始め、安定(安)でも、初禅でも、増長を続ける。増長は単一段階の技法ではない。定の深化と並行して続く。

問う、云何にしてか応に増長せしむべき。 答う、謂く初相より手の四指節の如し。当に漸く増長せしむべし。

増長の出発点は「手の四指節」。手のひらの四本の指の節に相当する小さな大きさから始める。

そして漸進的に広げていく。

かくの如く作意し、かくの如く自在を得、かくの如く次第すること、輪の如く、蓋の如く、樹影の如く、福田の如く、隣の如く、村の如く、郭の如く、城の如し。

八段階が列挙される。

  • 輪(車輪大)
  • 蓋(傘大)
  • 樹影(樹の影大)
  • 福田(田一枚大)
  • 隣(隣家大)
  • 村(村大)
  • 郭(城郭大)
  • 城(城大)

最初は手のひら大。そこから車輪大、傘大、樹影大と広がる。生活空間の中で段階的に拡大する。田、隣家、村、城郭、城──次第に大きな社会的単位に相当する。

これは当時の生活環境に基づく段階である。現代実践者なら、例えば「机大、部屋大、建物大、街区大、都市大、国土大」のような相当する段階を用いることができる。重要なのは具体的大きさの列挙ではなく、「手のひらから段階的に拡張する」という方法論である。

かくの如く次第し、漸く漸く長ぜしめて此の大地に遍くせしむ。

そして大地全体に遍満させる。これが極限である。

乃至大海まで地想を作意し

さらに大海まで。大海を地想で覆う。

閻浮提(大地)を超えて、大海までも地想で覆う。ここに至って、「一切入」の名に完全に値する状態になる。文字通り、地想が「一切に入る」。


9. 増長の原則──不平正を作意しない

増長には一つの重要な原則がある。

若し江山・高下・樹木・棘刺、諸の不平正あらば、かくの如き一切を作意せず。

江・山・高低・樹木・棘のような、不平正なものは作意しない。

なぜか。一切入の目的は、単に視野を広げることではない。地想を一面に展開することである。視野のなかに江・山・樹木・棘があると、地想は途切れる。途切れた地想は一切入にならない。

だからこれらを作意しない。視野の広がりのなかで、これらを捨象する。地想のみを取る。不平正を平正に変換するのではない。不平正を視野から外し、地想のみの遍満を作る。

乃至大海まで地想を作意し

大海まで地想を作意する。大海は海水ではない。大海までの範囲を、地として観ずる。水も地とする。山も地とする。全てを地の一面として観ずる。

これは物理的な拡張ではなく、心的な作意である。目で見る世界を変えるのではなく、心の作意で世界を地に変える。

ここに彼分相の自在性が活きる。彼分相は心のなかで自在に相を配置できる。だから物理的に大地を見る必要がない。心の作意で、大海までを地想で覆うことができる。


10. 最勝の定への到達

乃至増長する時、心の行く所、最勝の定を成ず。

増長が完成したとき、心の行く所、最勝の定が成立する。

「心の行く所」──心が向かうあらゆる方向。その全てが地想で満たされている。心がどこに向かっても、そこは地である。このとき、最勝の定が成立する。

これは Batch 01 で予告された「周普して一切に入る」の実現である。地一切入の名は、ここで完全に実現される。

Batch 01 の仏の偈を思い出してほしい。「地一切入を観じ、閻浮提に周満す」。本バッチはこの偈の実装である。閻浮提への周満、そして大海までの拡張。これが地一切入の完全な姿である。


11. 座ることとの接続

本バッチの内容は、座る人間にとって何を意味するか。

第一に、彼分相を得てもまだ道は長い。彼分相は出発点。自在から外行へ、外行から安へ、さらに増長へと進む。

第二に、外行と安を混同しない。自分の座りで得た定が、どの段階にあるかを識別する。念が時々起こるなら外行。念が消えて動じないなら安。四つの比喩(船・童子・経誦・盲)で自己診断する。

第三に、外行で満足しない。外行は禅に近い段階だが、禅そのものではない。村路を歩いている状態で「村に着いた」とは言えない。村に入るまで進む。

第四に、一切入の増長を実践する。これは彼分相の自在性の応用である。手のひら大から始めて、徐々に拡張する。現代的な段階で代替してよい。机大、部屋大、建物大、街大、都市大、国土大、世界大、宇宙大。段階的に拡張することが重要。

第五に、不平正を作意しない。拡張する過程で、視野のなかの江・山・樹木・棘を視野から外す。地想のみを取る。これは「都合の悪いものを無視する」のではなく、「一つの相を一面に展開する」という心の技法である。

第六に、最終的に「大海まで地想」を目指す。物理的世界ではなく、心の作意の範囲が、地想で覆い尽くされる。ここに至って、地一切入が完成する。

大安般守意経との接続

大安般守意経の MODULE 5(止の4フェーズ)は、止の四段階を扱う。本バッチの自在→外行→安の流れは、この止の四フェーズの具体的内容として読める。

MODULE 9(四定仕様)は、四つの定の仕様を扱う。本バッチの安(appanā)は、この四定の起点である。安から初禅が始まり、初禅から二禅・三禅・四禅へと進む。

Kernel 4.x との接続

Kernel 4.x の Vol.2(18のノイズ除去)は、ノイズ除去プロトコルを扱う。本バッチの五蓋の伏は、これと対応する。外行では伏のみ、安では伏が徹底し覚等の法が動じない。

Vol.4(全リソースマウントと信号精細化)は、全リソースのマウントと信号精細化を扱う。本バッチの一切入の増長は、まさにこれである。信号(地想)を全空間にマウントする。

Vol.5(喜楽管理と心行の沈静化)は、安の段階で成立する喜楽の管理を扱う。安で五禅支が立ち上がるが、喜楽はその一部である。


詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-06.md を参照


12. 原文書き下し

或いは自在を得。若し相心に随いて禅の外行を得。若し外行心従りせば、是に由りて安きを得。

問う、云何なるか禅の外行。 答う、此の事心従り、作意して乱れず、以て諸蓋を伏す。但だ未だ覚観・喜楽・一心及び信等の五根を修行せず。定力を得ると雖も念々猶お起る。是れ禅の外行なり。 安とは、此の外行従り是の法、心に由りて修行力を得。是れ覚・信等の法、事において動ぜず。是を名づけて安と為す。

問う、外行及び安、何の差別あるや。 答う、若し五蓋を伏するは是れ其の外行なり。此の五を伏するを以ての故に安を成ず。禅の外行を以て勝定を得。若し勝定を得る、是を名づけて安と為す。若し身心において未だ寂寂を得ざれば、外定において心動ずること船の浪に在るが如し。若し身心において已に寂寂を得れば、処安くして動ぜざること船の風無く水に在るが如し。諸根力無きが故に、為す所の事において外禅行は久しく住せず、小童子の如し。諸根力有るが故に、事において安静にして久しく住す、力有る人の如し。修して自在ならざる故に、禅の外行は不和合を成ず。人の経を誦して久しく廃すれば則ち忘るるが如し。修して自在なるを以ての故に、安和合を成ず。人の経を誦して恒に習えば忘れざるが如し。若し善く蓋を伏せざれば、猶お盲人の如し。禅の外行において盲を成ず。かくの如き等不清浄の教えなり。若し善く蓋を伏せば盲ならざるを成ず。安定を成ずるにおいてかくの如き等清浄の教えなり。相自在の所初従り、乃至性除までを名づけて外行と為す。性除無間、是を名づけて安と為す。

問う、外行とは何の義ぞ。 答う、禅に近き故に是を名づけて外行とす。路の村に近きを是れ村路と謂うが如し。義は一にして名は異なり。 安とは何の義ぞ。安は和合の義と為す。曼陀羅に到り、禅を出離するに安は異義無し。

是において坐禅人、外行に住し、応に一切入を増長せしむべし。或いは安定において、或いは初禅において、当に増長せしむべし。 問う、云何にしてか応に増長せしむべき。 答う、謂く初相より手の四指節の如し。当に漸く増長せしむべし。かくの如く作意し、かくの如く自在を得、かくの如く次第すること、輪の如く、蓋の如く、樹影の如く、福田の如く、隣の如く、村の如く、郭の如く、城の如し。かくの如く次第し、漸く漸く長ぜしめて此の大地に遍くせしむ。若し江山・高下・樹木・棘刺、諸の不平正あらば、かくの如き一切を作意せず。乃至大海まで地想を作意し、乃至増長する時、心の行く所、最勝の定を成ず。


リンク

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次