第四巻 行門品第八の一 Batch 09
前の物語 → Batch-V4-08「離欲の三種五種二種」 次の物語 → Batch-V4-10「初禅の成就・五蓋・五禅支」
目次
- 初禅を分解する
- 覚とは何か
- 観とは何か
- 覚と観の差別──九つの対比
- 非対称性──覚なき観、観なき覚
- 寂寂所成と地水花の比喩
- 喜とは何か
- 喜の六種──生起の原因による分類
- 喜の五種──現象形態の発達段階
- 楽とは何か
- 喜と楽の差別
- 初禅の五禅支の揃い
- 座ることとの接続
- 原文書き下し
1. 初禅を分解する
Batch 08 で「離欲・離不善法」が多層的に分析された。初禅の第一構成要素。本バッチは次の構成要素──有覚有観・有喜有楽──を分析する。
有覚有観とは、云何なるか覚と為す。
まず覚から始まる。
初禅の定義は「欲・不善法を離れ、有覚有観にして、寂静処において心の成就する所、有喜有楽にして初禅を得」だった。この定義を構成する要素を、一つずつ解いていく。
本バッチで扱うのは覚・観・喜・楽の四つ。次のBatch 10 で寂静処と一心が扱われ、初禅の全貌が揃う。
2. 覚とは何か
答う、謂く種々の覚、思惟、安思想なり。心、覚知せずして正思惟に入る、此を覚と為すと謂う。
覚(vitakka、尋)の定義。
種々の覚、思惟、安思想である。心が「覚知せず」して正思惟に入る──これが覚である。
「覚知せず」とは奇妙に聞こえるかもしれない。覚なのに覚知せず、とはどういうことか。これは、概念的な知識としての「知る」ではない、という意味である。対象を分析的に理解するのではない。対象に入る。対象に向かう。これが覚。
此の覚成就するが故に初禅に覚有り。復た次に地一切入に入り、地相に依り無間に覚思惟を成ず、是を覚と名づく。心、経を誦するが如し。
覚が成就するから、初禅に覚がある。地一切入の場合、地相に依って「無間に」(間断なく)覚思惟が成立する。これが覚。比喩は「心、経を誦するが如し」──経を唱えているような心の動き。
経を唱えるとき、心は一つの経の言葉に向かい、次の言葉に向かう。連続的な方向づけ。これが覚の動きである。
問う、覚とは何なる想、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。 答う、覚とは、猗想を修するを味と為し、下心に念を作すを起と為し、想を行処と為す。
覚の五定義。第一巻 Batch 02 の戒の五定義(相・味・起・処・功徳)と同型の枠組みである。
- 味:猗想を修する(心地よい想を養う)
- 起:下心に念を作す(深い心に念を立てる)
- 処:想を行処と為す(想を働く場とする)
覚は、対象への初期的な心の接近である。掴みかかる動き。
3. 観とは何か
云何なるか観と為す。観を修する時、所択を随観し、心住して随い捨つ。是を観と為すと謂う。
観(vicāra、伺)の定義。
観を修する時、所択(選ばれたもの)を随観し、心が住して、随って捨てる。これが観。
覚との違いは微妙だが決定的である。覚は対象に向かう動き、観は対象のなかに入って深める動き。
此と相応して初禅に観有りを成ず。復た次に地一切入定に入る人、地相を修する従り心の観ずる所、諸義を観ずるが如きを観と為す。
観は初禅で覚と相応する。地一切入に入った人は、地相を修することから「諸義を観ずる」──これが観。地相という一つの対象から、複数の意味を観じ出す。
問う、観は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。 答う、観とは随択、是れ相なり。心をして猗ならしむるは是れ味。随見覚は是れ処なり。
観の五定義。
- 相:随択(選択に随う)
- 味:心をして猗ならしむ(心を心地よくする)
- 処:随見覚(覚に随って見る)
観の「随見覚」という処の定義が興味深い。観は覚に随って生じる。覚が先、観が後。覚が掴み、観がそれを深める。
4. 覚と観の差別──九つの対比
ウパティッサはこの差別を、繰り返しの比喩と対比で示す。
問う、覚観は何の差別ぞ。 答う、猶お鈴を打つが如し。初声を覚と為し後声を観と為す。
第一の比喩、鈴を打つ。鈴を打つと、最初に鋭い音が響き、その後に余韻が続く。初声が覚、後声が観。
復た次に心の所縁の如し。初を覚と為し後を観と為す。
第二の対比、心の所縁。最初の縁が覚、後の縁が観。
復た次に禅を求むるを覚と為し守護するを観と為す。
第三の対比、禅の動態。禅を求めることが覚、守護することが観。
復た次に憶は是れ覚、捨てざるは是れ観。
第四の対比、記憶。憶えること(思い起こすこと)が覚、捨てないことが観。
復た次に麁心受持を覚と為し、細心受持を観と為す。
第五の対比、心受持の粗細。麁心(粗い心)の受持が覚、細心(細かい心)の受持が観。
若し処に覚有らば是の処に観有り。若し処に観有らば、処において或いは覚有り或いは覚無し。
第六の対比、処の対応。覚がある処には必ず観がある。しかし観がある処には、覚がある場合と無い場合がある。覚観は非対称。
三蔵の説く所の如し。初めて心を事において安んずるは是れ覚、覚を得て未だ定まらざるは是れ観。遠く来人を見て、男女を識らざる及び男女を識るが如し。かくの如き色、かくの如き形は覚と為し、此従り当に戒有り戒無し富貧貴賤を観ずるは観と為す。
第七の対比、三蔵の説による来人の比喩。遠く来る人を見て、まだ男女も分からない状態から「男女を識る」「色を識る」「形を識る」段階までが覚。さらに「戒有り戒無し、富貧貴賤」を観ずるのが観。
この比喩が最も分かりやすい。遠くに人が来る。まずぼんやりと人がいると気づく(覚の始まり)。近づくにつれて男女が見分けられる、色が見分けられる、形が見分けられる(覚の成就)。さらに近づくと、その人の性質──戒の有無、貧富、身分──が見える(観)。
覚は基本的な把握、観は詳細な分別。段階的な認識の深化。
覚とは求めて将来を引く。観とは守持して随逐す。
第八の対比、機能。覚は「求めて将来を引く」──未来に向かって引く。観は「守持して随逐す」──保持しながら追随する。
鳥の虚に陵りて翅を奮うが如きは覚と為し、遊住するは観と為す。
第九の比喩、鳥。虚空に上がって翅を奮うのが覚、上がった後に遊住するのが観。鳥が飛び立つ瞬間と、空中で飛んでいる状態の差。
初教は覚と為し、久教は観と為す。覚を以て守護し、観を以て捜択す。覚を以て思惟し、観を以て随思惟す。覚行は悪法を念ぜず、観行は禅において受持す。有力人の如し。黙して経を誦し、その義を随念するは是れ観なり。覚の覚する所、覚し已りて能く知るが如し。辞弁及び楽説弁を観ずるは是れ覚、義弁法弁は是れ観なり。心、勝において解するは是れ覚、心、解して分別するは是れ観なり。
さらに七つの対比が加わる。
- 初教(初めての教え)が覚、久教(久しい教え)が観
- 覚で守護し、観で捜択する
- 覚で思惟し、観で随思惟する
- 覚行は悪法を念じない、観行は禅において受持する
- 黙して経を誦し、その義を随念するは観
- 辞弁・楽説弁は覚、義弁・法弁は観
- 心が勝において解するのは覚、心が解して分別するのは観
全部で十六の対比。ウパティッサは覚観の差を、これだけの多面で切り出す。
単一の定義では覚観の微妙な違いは捉えきれない。複数の比喩・対比を重ねることで、その差が立体的に浮かび上がる。これは Batch 03 の欲の過患20比喩、Batch 06 の外行と安の四対比と同じ記述手法である。比喩群による多面的把握。
5. 非対称性──覚なき観、観なき覚
十六の対比のなかで、特に注目すべきは第六の対比である。
若し処に覚有らば是の処に観有り。若し処に観有らば、処において或いは覚有り或いは覚無し。
覚があるところには観がある。しかし観があるところに覚があるとは限らない。
この非対称性は禅の段階論で決定的である。初禅には覚も観もある。しかし第二禅では覚が消え、観だけが残る。第三禅以降では覚も観も消える。
だから覚と観を対等の二要素として扱うことはできない。覚は観を伴う必要条件だが、観は覚なしでも存在しうる。覚は観の初期段階、観は覚の深化──と言うよりも、覚は観の一部が発達した状態、と考えた方が正確かもしれない。
この非対称性を理解すると、禅の階梯(初禅・二禅・三禅・四禅・五禅)の意味が見えてくる。覚が落ち、観が落ち、喜が落ち、楽が落ち、最後に一心だけが残る──という下落の順序は、各要素の粗細の順序と対応している。粗いものから順に落ちていく。覚が最も粗く、観がそれより細かく、喜・楽と続き、一心が最も細い。
6. 寂寂所成と地水花の比喩
寂寂所成。寂寂と名づくるは、謂く五蓋を離る、是を寂寂と名づく。
寂寂とは五蓋を離れた状態。貪欲・瞋恚・懈怠睡眠・調悔・疑の五つの障害が離れた、静かで澄んだ状態。
復た次に色界の善根、復た初禅の外行を説き、復た禅心此の心従り生ずと説く、是を寂寂所成と謂う。地水より花を生ずるを地水花と名づくるが如し。
寂寂所成の三義が示される。色界の善根、初禅の外行、禅心がこの心から生ずる。
そして比喩──「地水より花を生ずるを地水花と名づくるが如し」。地と水から花が生じる。地水花。花の名は、地と水から生じるから「地水花」と呼ばれる。
初禅も同じ。寂寂から生じるから「寂寂所成」と呼ばれる。初禅は独立して生じない。寂寂を土壌として生じる。
この比喩は実践的に重要である。寂寂なしに初禅を立ち上げようとしてはならない。花を地水なしに咲かせることはできない。まず土壌を整える。五蓋を離れる。寂寂に至る。その上で初禅が自然に立ち上がる。
7. 喜とは何か
続いて喜。
喜楽とは、心是の時大いに歓喜戯笑し、心満ちて清涼なり。此を名づけて喜と為す。
喜の定義。心が大いに歓喜し戯笑する。心が満ちて清涼になる。これが喜。
問う、喜は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処、幾種の喜あるや。 答う、喜とは謂く欣悦遍満を相と為す。歓適は是れ味。乱心を調伏するは是れ起。踊躍は是れ処なり。
喜の五定義。
- 相:欣悦遍満(喜ばしさが遍満する)
- 味:歓適(歓びの適い)
- 起:乱心を調伏する(乱れた心を調伏する)
- 処:踊躍(跳ね上がる)
喜は、心が跳ね上がり、遍く満ちる動的な状態である。これから示される楽の「静」と対照的である。
8. 喜の六種──生起の原因による分類
幾種の喜とは、六種の喜なり。欲従り生じ、信従り生じ、不悔従り生じ、寂寂従り生じ、定従り生じ、及び菩提分より生ずる喜なり。
喜は生起の原因によって六種に分かれる。
第一、欲従り生ずる喜。貪欲に染著して心が喜ぶ。これは煩悩的な喜。
第二、信従り生ずる喜。多信の人が心喜ぶ。あるいは陶師等を見て喜を生ずる。信仰や信頼から生ずる喜。
第三、不悔従り生ずる喜。清浄持戒の人が多く歓喜を生ずる。戒が清浄であることからの喜。
第四、寂寂従り生ずる喜。初禅に入る人の喜。
第五、定従り生ずる喜。二禅に入りて喜を生ずる。
第六、菩提分より生ずる喜。第二禅において出世間の道を修する喜。
六つのうち、最初の「欲従り生ずる喜」と最後の「菩提分より生ずる喜」を対極として並べると、喜の発達段階が見える。
煩悩的な喜(欲)→信の喜→戒の喜→定の喜(初禅)→深い定の喜(二禅)→道の喜(出世間)。
重要な識別がある。自分が今感じている喜が、どの段階の喜なのかを見分けることが実践上必要である。欲から生ずる喜を「禅の喜」と誤認すれば、修行は進まない。本物の禅の喜は、寂寂(五蓋の離)を前提とする。
9. 喜の五種──現象形態の発達段階
喜のもう一つの分類。こちらは現象形態による。
復た次に喜に五種を説く。謂く笑喜・念念喜・流喜・越喜・満喜なり。
五種の喜。それぞれに比喩と機能がある。
第一、笑喜。
細雨の身を沾して毛をして皆竪たしむるが如し。
細雨が身を濡らし、毛がすべて立つような喜。軽い鳥肌のような感覚。微細だが身体的に感じられる。
第二、念念喜。
生滅して住せず、夜時の雨の如し。
生じては滅し、留まらない。夜の雨のよう。断続的な喜。
第三、流喜。
油の下流して久しくその身に灌ぐも、終に周遍せざるが如し。
油が下に流れて久しく身に灌ぐが、最後まで全身に回らない。力があるが遍満しない。
第四、越喜。
一切を周匝して心に歓喜を生じ、久しからずして便ち失す。貧人の伏蔵を見るが如し。
全体を覆い心に歓喜を生ずるが、長続きせず失う。貧しい人が隠し財宝を見るよう。瞬間的な大きな喜。
第五、満喜。
身住し用満つ。雷ありて雨ふるが如し。
身が住し、用(働き)が満つ。雷が鳴って雨が降るよう。遍満し、持続する。
是において小喜(笑喜)及び念念喜は、信を以て外行を起す。流喜は、力有りて外行を起す。越喜は、曼陀羅において正と不正と、皆処々の方便を起す。満喜は、安処に生ず。
五種の対応段階が示される。
- 笑喜・念念喜──信による外行(最初期)
- 流喜──力ある外行
- 越喜──曼陀羅における方便(正と不正の両方)
- 満喜──安(appanā)の段階で生ずる
満喜に至って初めて、初禅の真の喜が成立する。それまでの四段階は、満喜に至る途中の段階である。
この段階論は、Batch 05 の取相→彼分相と類似の発達論である。段階的発達の記述は、ウパティッサの特徴的手法。
10. 楽とは何か
喜に続いて楽。
問う、云何なるか楽と為す。 答う、是の時受く可き心楽、心触の成ずる所なり。此を楽と為すと謂う。
楽の定義。受けるべき心楽。心触(心の接触)から成立する。
問う、楽は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処、幾種の楽あるや。喜楽は何の差別ぞ。 答う、味を相と為す。愛境に縁ずるは是れ愛味なり。摂受は是れ起。その猗は是れ処なり。
楽の五定義。
- 相:味
- 味:愛境に縁ずる(愛すべき境を対象とする)
- 起:摂受
- 処:猗(やすらぎ)
楽は喜とは対照的に、静的で細かい。
11. 喜と楽の差別
喜楽は何の差別かとは、心踊躍するは是れ喜、心柔軟なるは是れ楽、心猗なるは是れ楽。心定まるは是れ喜。麁は喜、細は楽。喜は行陰の摂する所、楽は受陰の摂する所。是の処に喜有り楽有り。是の処に楽有るも或いは喜有り或いは喜無し。初めは形、第二を名と為す。
喜楽の差別が八つ示される。
| # | 軸 | 喜 | 楽 |
|---|---|---|---|
| 1 | 動き | 踊躍 | 柔軟 |
| 2 | 静けさ | ─ | 猗(やすらぎ) |
| 3 | 定 | 定まる | ─ |
| 4 | 粗細 | 麁 | 細 |
| 5 | 五陰 | 行陰 | 受陰 |
| 6 | 同時性 | 喜あれば楽あり | 楽あれど喜あらざることあり |
| 7 | 形名 | 初めは形 | 第二を名 |
重要な非対称性は第六。喜があるところには必ず楽があるが、楽があるところに喜があるとは限らない。
これは覚観の非対称性(観があっても覚がないことがある)と同じ構造である。粗いものは細かいものを呼ぶが、細かいものは粗いものを必ずしも呼ばない。
この非対称性により、禅の深化の方向が定まる。喜が先に消え、楽が後まで残る。第三禅では喜が消え、楽だけが残る。
喜は行陰(行為・動作の蘊)に属し、楽は受陰(感受の蘊)に属する。喜は心の動きとしての歓び、楽は心の感受としての心地よさ。両者は質が違う。
12. 初禅の五禅支の揃い
外行成就して初禅の禅枝、謂く覚観喜楽一心に入るなり。
本バッチの結語である。
外行(upacāra-samādhi)が成就することで、初禅の禅枝──覚・観・喜・楽・一心──に入る。
覚(MODULE 2)、観(MODULE 3)、喜(MODULE 7-9)、楽(MODULE 10-12)──ここまでで四つが揃った。一心については、次のBatch 10 で詳述される。
初禅の五禅支は、初禅の構造そのものである。これらが揃って初禅が立ち上がる。一つでも欠ければ、それは初禅ではない。
13. 座ることとの接続
本バッチの内容は、座る人間にとって何を意味するか。
第一に、覚と観を識別する。自分の座りで、対象への「初期の接近」(覚)と「継続的な深化」(観)が両方働いているか。覚だけで観がないなら、対象を掴んでも深まらない。観だけで覚がない状態は、初禅以降の段階(二禅)で起こるが、初禅ではまだ両方が必要。
第二に、覚観の非対称性を理解する。粗いもの(覚)が細かいもの(観)を必ず伴う。細かいもの(観)は粗いもの(覚)を伴わないことがある。この非対称性が、禅の下落の順序を決める。
第三に、自分の喜を見分ける。欲から生ずる喜ではないか。信・不悔・寂寂・定・菩提分──どこからの喜か。本物の禅の喜は寂寂からの喜であり、寂寂なしの喜は別物。
第四に、喜の五段階を識別する。笑喜・念念喜・流喜・越喜・満喜のどの段階か。満喜に至って初めて、初禅の喜が成立する。それまでは準備段階。
第五に、喜と楽を混同しない。喜は動的・粗・行陰、楽は静的・細・受陰。両者は別の質。禅の深化で喜が先に消え、楽が残る。
第六に、寂寂が初禅の土壌であることを忘れない。寂寂なしに初禅は立たない。五蓋を離れること、この土壌作りを軽視してはならない。
第七に、覚観喜楽の四要素が揃っているかを自己点検する。一つでも欠ければ初禅ではない。一心が加わって五禅支が揃って、初禅が完成する。
大安般守意経との接続
大安般守意経の MODULE 2(六事コマンド)は、数・随・止・観・還・浄の六段階を扱う。本バッチの覚観は、「数」から「随」への移行と構造的に対応する。数(粗い把握)が覚に、随(追随的観察)が観に相当する。
MODULE 10(止観デュアルプロトコル)は、止と観のデュアル運用。本バッチの覚観の九対比は、この止観の細部構造を示す。
Kernel 4.x との接続
Kernel 4.x の Vol.3(信号サンプリングとプロセス因果トレース)は、信号の取得とトレース。本バッチの覚観は、この信号取得の二段階(初回取得=覚、継続追跡=観)と対応する。
Vol.5(喜楽管理と心行の沈静化)は、喜楽の管理。本バッチの喜の六種・五種、楽の五種、喜楽の差別は、この喜楽管理の核心仕様である。
詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-09.md を参照
14. 原文書き下し
有覚有観とは、云何なるか覚と為す。謂く種々の覚、思惟、安思想なり。心、覚知せずして正思惟に入る、此を覚と為すと謂う。此の覚成就するが故に初禅に覚有り。復た次に地一切入に入り、地相に依り無間に覚思惟を成ず、是を覚と名づく。心、経を誦するが如し。 問う、覚とは何なる想、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。 答う、覚とは、猗想を修するを味と為し、下心に念を作すを起と為し、想を行処と為す。
云何なるか観と為す。観を修する時、所択を随観し、心住して随い捨つ。是を観と為すと謂う。此と相応して初禅に観有りを成ず。復た次に地一切入定に入る人、地相を修する従り心の観ずる所、諸義を観ずるが如きを観と為す。 問う、観は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。 答う、観とは随択、是れ相なり。心をして猗ならしむるは是れ味。随見覚は是れ処なり。
問う、覚観は何の差別ぞ。 答う、猶お鈴を打つが如し。初声を覚と為し後声を観と為す。復た次に心の所縁の如し。初を覚と為し後を観と為す。復た次に禅を求むるを覚と為し守護するを観と為す。復た次に憶は是れ覚、捨てざるは是れ観。復た次に麁心受持を覚と為し、細心受持を観と為す。若し処に覚有らば是の処に観有り。若し処に観有らば、処において或いは覚有り或いは覚無し。三蔵の説く所の如し。初めて心を事において安んずるは是れ覚、覚を得て未だ定まらざるは是れ観。遠く来人を見て、男女を識らざる及び男女を識るが如し。かくの如き色、かくの如き形は覚と為し、此従り当に戒有り戒無し富貧貴賤を観ずるは観と為す。覚とは求めて将来を引く。観とは守持して随逐す。鳥の虚に陵りて翅を奮うが如きは覚と為し、遊住するは観と為す。初教は覚と為し、久教は観と為す。覚を以て守護し、観を以て捜択す。覚を以て思惟し、観を以て随思惟す。覚行は悪法を念ぜず、観行は禅において受持す。有力人の如し。黙して経を誦し、その義を随念するは是れ観なり。覚の覚する所、覚し已りて能く知るが如し。辞弁及び楽説弁を観ずるは是れ覚、義弁法弁は是れ観なり。心、勝において解するは是れ覚、心、解して分別するは是れ観なり。是を覚観の差別と為す。
寂寂所成。寂寂と名づくるは、謂く五蓋を離る、是を寂寂と名づく。復た次に色界の善根、復た初禅の外行を説き、復た禅心此の心従り生ずと説く、是を寂寂所成と謂う。地水より花を生ずるを地水花と名づくるが如し。
喜楽とは、心是の時大いに歓喜戯笑し、心満ちて清涼なり。此を名づけて喜と為す。 問う、喜は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処、幾種の喜あるや。 答う、喜とは謂く欣悦遍満を相と為す。歓適は是れ味。乱心を調伏するは是れ起。踊躍は是れ処なり。 幾種の喜とは、六種の喜なり。欲従り生じ、信従り生じ、不悔従り生じ、寂寂従り生じ、定従り生じ、及び菩提分より生ずる喜なり。 云何なるか欲より生ず。貪欲に染著して心喜ぶ、是を欲生喜と名づく。云何なるか信より生ず。多信の人、心喜び、及び陶師等を見て喜を生ずるなり。云何なるか不悔より喜を生ず。清浄持戒の人、多く歓喜を生ず。云何なるか寂寂より生ず。初禅に入る人の喜なり。云何なるか定より生ず。二禅に入りて喜を生ず。云何なるか菩提分より喜を生ず。第二禅において出世間の道を修する喜なり。 復た次に喜に五種を説く。謂く笑喜・念念喜・流喜・越喜・満喜なり。笑喜とは、細雨の身を沾して毛をして皆竪たしむるが如し。念念喜とは、生滅して住せず、夜時の雨の如し。流喜とは、油の下流して久しくその身に灌ぐも、終に周遍せざるが如し。越喜とは、一切を周匝して心に歓喜を生じ、久しからずして便ち失す。貧人の伏蔵を見るが如し。満喜とは、身住し用満つ。雷ありて雨ふるが如し。 是において小喜及び念念喜は、信を以て外行を起す。流喜は、力有りて外行を起す。越喜は、曼陀羅において正と不正と、皆処々の方便を起す。満喜は、安処に生ず。
問う、云何なるか楽と為す。 答う、是の時受く可き心楽、心触の成ずる所なり。此を楽と為すと謂う。 問う、楽は何なる相、何なる味、何なる起、何なる処、幾種の楽あるや。喜楽は何の差別ぞ。 答う、味を相と為す。愛境に縁ずるは是れ愛味なり。摂受は是れ起。その猗は是れ処なり。 幾種の楽とは、五種あり。謂く因楽・資具楽・寂寂楽・無煩悩楽・受楽なり。云何なるか因楽と名づく。仏の説きたもうが如く、戒楽は老に耐う。此を因楽と謂う。是れ楽の功徳なり。資具楽とは、仏の説きたもうが如く、仏世に生ずるは楽なり。寂寂楽とは、謂く定捨及び滅禅定を生ず。無煩悩楽とは、仏の説きたもうが如く、第一涅槃の受楽なり。所謂受楽なり。此の論の中にては受楽は是れ楽うべし。 喜楽は何の差別かとは、心踊躍するは是れ喜、心柔軟なるは是れ楽、心猗なるは是れ楽。心定まるは是れ喜。麁は喜、細は楽。喜は行陰の摂する所、楽は受陰の摂する所。是の処に喜有り楽有り。是の処に楽有るも或いは喜有り或いは喜無し。初めは形、第二を名と為す。外行成就して初禅の禅枝、謂く覚観喜楽一心に入るなり。
リンク
- シンプル版:SPEC-GYOMON-09.md
- 前のバッチ:Batch-V4-08.md「離欲の三種五種二種」
- 次のバッチ:Batch-V4-10「初禅の成就・五蓋・五禅支」

コメント