Batch-V4-10:初禅の成就・五蓋・五禅支──障害と対治の対称構造

第四巻 行門品第八の一 Batch 10

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目次

目次

  1. 禅とは何の義か
  2. 初禅の三種の勝相
  3. 入住の四要件
  4. 五分離──五蓋という障害
  5. 睡眠の三種と阿那律の証言
  6. 懈怠と睡眠が一蓋である理由
  7. 疑の四種
  8. 蓋の五義
  9. なぜ五蓋なのか
  10. 五禅支の成立論理
  11. 禅と禅枝の関係──車と車分の比喩
  12. 五蓋と五禅支の対治関係
  13. 各禅での勝枝の移動
  14. 地一切入で喜楽が起こる理由
  15. 第四禅で喜楽が消える理由
  16. 座ることとの接続
  17. 原文書き下し

1. 禅とは何の義か

Batch 09 で覚・観・喜・楽が揃った。Batch 10 の冒頭は、より根源的な問いから始まる。

禅とは何の義ぞ。

そもそも禅(jhāna)とは何の意味か。

ウパティッサは三つの定義を示す。

謂く事において平等に思惟するなり。五蓋を奮迅するなり。対治を思惟するなり。

第一の義──事(対象)において平等に思惟する。対象への平等な関わり。偏らず、揺れず、対象に対する思惟が平等に維持される。

第二の義──五蓋を奮迅する。奮迅は「払い落とす」「払い除ける」の意。五蓋を勢いよく払う。

第三の義──対治を思惟する。何を対治すべきかを考え、対治そのものを心に置く。

禅は単一の状態ではない。対象への関わり(①)、障害への関わり(②)、そして対治の思惟(③)の三側面を持つ営みである。


2. 初禅の三種の勝相

続いて初禅の定義が、三つの角度から語られる。

初禅に入りて正受を得るとは、已に得、已に触れ、已に作証して住す。

まず、初禅に入って正受(samāpatti、三昧の境地)を得るとは、既に得て、既に触れて、既に作証(実際に証する)して住する状態。

得る・触れる・作証する・住する──四段階の連続。これが「入住」である。

復た次に欲・不善法を離るとは、欲界の地従り初禅を説いて勝相と為す。

第一の勝相。欲・不善法を離れるとは、欲界の地から初禅を説いて勝相とする。初禅は欲界を離れた段階である、という意味で勝れる。

有覚有観従り第二禅を説いて勝相と為す。

第二の勝相。有覚有観から第二禅を説いて勝相とする。「有覚有観」という規定は、第二禅との差異を示す。第二禅は覚が消えるが、初禅は覚観を伴う。

寂寂所成、有喜有楽を以て、寂寂所成の喜楽従り説いて勝相と為す。

第三の勝相。寂寂所成の有喜有楽、寂寂所成の喜楽から説いて勝相とする。喜楽が寂寂から生じている──ここに初禅の本質的な質がある。

三つの勝相は、初禅を三方向から位置づける。欲界との差(下限の規定)、第二禅との差(上限の規定)、そして内的質(本質の規定)。

復た次に欲・不善法を離るとは、謂く能く対治を断ず。有覚有観とは、謂く禅相の寂寂所成を説く。喜楽とは、謂く相似の禅正受を説く。

別の軸で整理される。

  • 欲・不善法を離る──対治の断
  • 有覚有観──禅相の寂寂所成
  • 喜楽──相似の禅正受

三つの構成要素が、初禅の異なる側面を捉える。


3. 入住の四要件

入住とは、謂く初禅を得て五分を離れ、五分を成就し、三善・十想・具足し、二十五功徳相応す。此の福善を以て梵天の勝妙居処に上生す。

初禅の入住には四要件がある。

第一、五分を離る。五蓋(貪欲・瞋恚・懈怠睡眠・調悔・疑)を離れる。

第二、五分を成就す。五禅支(覚・観・喜・楽・一心)を成立させる。

第三、三善・十想具足。三善(初・中・後善)と十相。これは Batch 11 で詳述される。

第四、二十五功徳相応。25の功徳が揃う。これも Batch 11 で詳述。

この四要件を満たすことで、修行者は「梵天の勝妙居処」に上生する能力を得る。

本バッチ(Batch 10)では、第一と第二──五分離と五分成就──が詳述される。


4. 五分離──五蓋という障害

五分を離るとは、謂く五蓋を離る。云何なるか五と為す。謂く貪欲・瞋恚・懈怠睡眠・調悔・疑なり。

五蓋が列挙される。

貪欲とは、謂く五塵において心に愛染を生ず。

貪欲。五塵(色・声・香・味・触)において心に愛染を生ずる。感覚対象への執着。

瞋恚とは、謂く十悩処を行ず。

瞋恚。十悩処を行ずる。十悩処の具体的内容は本バッチで示されないが、怒りの10の発動場所と解される。

懈怠とは、謂く心懶堕す。睡眠とは、謂く身悶重して寤寐を得んと欲す。

懈怠──心の怠惰。 睡眠──身体が悶重(重苦しい)で寤寐(覚醒と睡眠の間)を得ようとする状態。

ここで懈怠と睡眠が並記される。懈怠は心側、睡眠は身側の現象。この二つが一つの蓋として扱われる。


5. 睡眠の三種と阿那律の証言

睡眠について、ウパティッサは詳細な分析を加える。

眠に三種あり。一には食従り生ず、二には時節従り生ず、三には心従り生ず。

眠には三種ある。食から生じる眠、時節から生じる眠、心から生じる眠。

若し心従り生ずるは思惟を以て断ず。若し飲食及び時節従り生ずるは、是れ羅漢の眠にして心従り生ぜず、蓋する所無きが故に。若し眠、食及び時節従り生ずる者は、精進を以て能く断ず。

心から生ずる眠は、思惟によって断つ。これが煩悩としての眠。

食と時節から生ずる眠は「羅漢の眠」──阿羅漢にもある眠。これは心から生じない。だから「蓋する所無き」──蓋としての働きがない。ただし精進によって断つこともできる。

この区別は決定的である。眠そのものを全て断とうとしてはならない。断つべきは「心から生ずる眠」であり、これが蓋としての睡眠。食と時節による眠は、自然現象であり、必ずしも修行の障害ではない。

そして阿那律(アヌルッダ)の証言が引かれる。

阿那律の説く所、「我初めて漏を尽くし心に従わざる眠を得たり。今に于て五十五歳、その中間に食時節の臥を断ずること已に二十五年」と。

阿那律は仏の十大弟子の一人、天眼第一として知られる。彼は語る。「私が最初に漏を尽くして、心から生じない眠を得た。今から五十五年前のことである。その間、食と時節による臥を断つこと、既に二十五年」。

つまり、阿那律は漏尽(阿羅漢果)の時点で、心からの眠を断った。しかしその後、食と時節による臥を断つのに、二十五年ほど精進した。これは阿羅漢でも食・時節の眠は残り、それを断つには別の精進が必要であることを示す。

実践者にとってこの証言は重要である。阿羅漢でさえ、食・時節の眠は残る。初禅段階の修行者が、それを完全に消そうとするのは早すぎる。まず心からの眠を対治する。食・時節の眠は段階的に減らす。


6. 懈怠と睡眠が一蓋である理由

ここで興味深い問答がある。

問う、若し眠、色法を成ぜば、何が故に心数煩悩と為すや。 答う、色なる者は一向に心数悩繁を成ず。我が人の飲酒及び食を見るが如し。是れ則ち知るべし。

睡眠は身体的現象(色法)なのに、なぜ心数煩悩と呼ばれるのか。

答えは、色は心を繁悩させるから、ということ。人が酒を飲み食事をすると、心が変わる。身体(色)が心に影響する。だから身体的な眠も、心数煩悩として扱われる。

問う、若し眠は身法、懈怠は心数法ならば、何が故に二法合して一蓋と為すや。 答う、此の二種の法、一事一相なり。所謂疲懈、共にして一と為る。

睡眠は身法、懈怠は心数法という別の種類なのに、なぜ一蓋にまとめるか。

答え。「一事一相」──一つの事態、一つの相。疲懈(疲れと懈怠)という共通の相があるから、一つにまとめる。

調とは心寂寂ならず。悔とは心恨みて定まらず。その相既に等しきが故に一蓋を成ず。

同じことが調悔にも当てはまる。調(心が寂寂ならず)と悔(心が恨みて定まらず)は別の現象。しかし「その相既に等しき」──特徴的あり方が等しいから、一蓋にまとめる。

ここにウパティッサの分類原理が見える。蓋の分類は「現象の種類」ではなく「相の共通性」で行われる。懈怠(心)と睡眠(身)は現象の種類は違うが、相(疲懈の相)が同じだから一蓋。調(振動)と悔(後悔)は別だが、相(心が落ち着かない相)が同じだから一蓋。


7. 疑の四種

疑とは心執して一ならず。四種の疑あり。一には奢摩他難、二には毘婆舍那難、三には二倶難、四には諸非難においてす。

疑には四種。奢摩他難(止の難)、毘婆舍那難(観の難)、二倶難(両方の難)、諸非難(諸々の非の難)。

是において具足して奢摩他を得んと為すに、或いは此において疑い、或いは身において疑う。「我寂寂を得るに堪えたりや、寂寂を得ざるや」。若し彼において疑いを成ず、此を奢摩他難と謂う。

奢摩他難の具体例。「我寂寂を得るに堪えたりや、寂寂を得ざるや」──自分は寂寂を得られるか、得られないか、という自己への疑い。

この疑は非常に実践的である。修行中、誰もが感じる疑いである。自分にこの修行が達成できるのか。時間の無駄ではないか。この疑いが湧き上がったとき、心は散乱し、定は崩れる。

或いは四聖諦において、或いは三世において疑う、此を毘婆舍那難と謂う。

毘婆舍那難──四聖諦や三世(過去・現在・未来)への疑い。観の段階で起こる疑い。

或いは仏法僧において疑う、此を二倶難とす。

二倶難──仏法僧への疑い。止と観の両方に影響する。

或いは国城道路において、或いは男女名姓においてす、是を非法難と謂う。

諸非難(非法難)──国城・道路・男女・名姓への疑い。日常的な疑い。

此の経の中にては疑を寂寂難と為す、是れ取るべし。

本経では、疑を奢摩他難(寂寂難)として取る。初禅の文脈では、寂寂を得られるかという疑いが最も問題になる。


8. 蓋の五義

蓋とは何の義ぞ。謂く障礙・乗義・覆義・煩悩義・縛義なり。此れ異義無し。

蓋の語義は五つ。障礙・乗・覆・煩悩・縛。

障礙──妨げる。 乗──(意味が明確でない、原文のまま保持) 覆──覆う。 煩悩──煩悩そのもの。 縛──縛る。

五義は別の義ではなく、一つの蓋を多面的に記述したもの。

これは Batch 05 の相の三義(因義・智義・像義)と同系譜の記述手法である。一つの語を複数の義で切り分けて、全体像を立体的に示す。


9. なぜ五蓋なのか

問う、諸の細結、謂く覆悩等あり。何が故に但だ五蓋のみを説くや。

細結(細かい煩悩)には覆悩など多数あるのに、なぜ五蓋だけを説くか。

答う、集執取を以て五を成ず。

集執取(集める・執する・取る)によって五に集約される。

復た次に婬欲の執著を以て、能く一切の貪欲を摂す。瞋恚の執著を以て、能く一切の不善法を摂す。懈怠・睡眠・調悔・疑の執著を以て、能く一切の痴不善法を摂す。

具体的には:

  • 婬欲の執著→一切の貪欲を摂す
  • 瞋恚の執著→一切の不善法を摂す
  • 懈怠睡眠・調悔・疑の執著→一切の痴不善法を摂す

この配分は三毒(貪・瞋・痴)への対応である。

  • 貪毒→貪欲(一蓋)
  • 瞋毒→瞋恚(一蓋)
  • 痴毒→懈怠睡眠・調悔・疑(三蓋)

痴は他の二毒より広く、三蓋を使って覆う。

かくの如く五蓋の執著を以て、能く一切の煩悩を摂す。此の相を以ての故に五蓋を成ず。

五蓋は全ての煩悩を摂する。だから五で十分。五は網羅性の数である。


10. 五禅支の成立論理

五分成就とは、謂く覚・観・喜・楽・一心なり。

五禅支。覚・観・喜・楽・一心。

問う、若し初禅は五枝を成就して禅と為すと説かば、応に更に復た別にその枝を説いて禅と為すべからず。若し別に枝を説かば、何が故に初禅は五枝相応と説くや。

面白い問いが立てられる。初禅が五禅支で構成されるなら、なぜ「禅」と「枝」を別に説くのか。五枝そのものが禅であるなら、分ける必要はないのではないか。

答う、禅枝に依りて禅を成ず。禅枝を離れて禅有るに非ず。別に異禅無し。

禅枝に依って禅が成立する。禅枝を離れて禅はない。別の異なる禅があるのではない。

「禅」と「禅枝」は別の実体ではない。禅枝の集合が禅である。しかし禅枝は個別に記述可能であり、禅は全体として記述される。


11. 禅と禅枝の関係──車と車分の比喩

ウパティッサは二つの比喩を示す。

一一の車分に依りて車と説き、分を離れて車無きが如し。

車は多くの部分から成る。車輪、車軸、車体、手すり等。これらの部分によって車が成立する。部分を離れて車はない。

軍分に依りて軍と説き、軍分を離れて軍有るに非ざるが如し。

軍は多くの兵から成る。一人一人の兵、様々な兵種、装備。これらによって軍が成立する。部分を離れて軍はない。

同様に、禅は五禅支から成る。五禅支を離れて禅はない。しかし禅は全体として一つの名を持ち、五禅支は部分として五つの名を持つ。

かくの如く禅枝に依りて禅と名づく。枝を離れて禅有るに非ず。一種を以て禅と名づく。分つべきを以て枝と名づく。事を説いて禅と名づけ、功徳を説いて枝と名づく。依制を説くを以て禅と名づけ、依性制を説くを以て枝と名づく。

禅と枝は、一つの事態の二つの呼び方である。

  • 一種(統一)として見るとき、禅と呼ぶ
  • 分けて見るとき、枝と呼ぶ
  • 事(対象)を説くとき、禅
  • 功徳を説くとき、枝
  • 依制を説くとき、禅
  • 依性制を説くとき、枝

同じものを、視点によって別の名で呼ぶ。


12. 五蓋と五禅支の対治関係

問う、念・精進等の法有るにおいて、何が故に但だ五枝のみを説くや。 答う、執著を以て五を成ず。

念・精進等の法もあるのに、なぜ五禅支だけ説くか。執著によって五に集約される、という答え。

さらに、五蓋との対治関係が示される。

復た次に蓋の対治なるが故に五を成ず。初蓋の対治は初禅、乃至五蓋の対治は五禅なり。

五蓋の対治だから五禅支。

そして三蔵の説による具体的対応。

復た次に五蓋の対治を以て五を成ず。三蔵の説く所の如し。一心は是れ婬欲の対治、歓喜は是れ瞋恚の対治、覚は是れ懈怠眠の対治、楽は是れ調悔の対治、観は是れ疑の対治なり。

対治する禅支
婬欲一心
瞋恚歓喜
懈怠眠
調悔

この対応は興味深い。

  • 婬欲(散らばり)には一心(集中)で対治
  • 瞋恚(怒り)には歓喜(喜び)で対治
  • 懈怠眠(沈下)には覚(対象への向かい)で対治
  • 調悔(落ち着かなさ)には楽(やすらぎ)で対治
  • 疑(不確定)には観(詳細な観察)で対治

対治の論理が明確である。各蓋が引き起こす症状に対して、その症状を打ち消す禅支が割り当てられる。


13. 各禅での勝枝の移動

覚とは初禅を勝枝と為す。覚を以て欲を除く。若し覚正定に入れば余枝も亦た起る。

覚は初禅の勝枝である。覚によって欲を除く。覚が正定に入れば、他の禅支も起こる。

観とは五枝において、第二禅は是れ初めに起る。喜とは第三禅において是れ初めに起る。楽とは第四禅において是れ初めに起る。一心とは第五禅において是れ初めに起る。

各禅での「初めに起こる」禅支(勝枝)が列挙される。

勝枝
初禅
第二禅
第三禅
第四禅
第五禅一心

これは第二巻の分別定品で示された五禅の構造と対応する。各禅で、どの禅支が「勝れて起こる」かが変わる。

重要なのは、下の禅の禅支が上の禅で消えるわけではない、ということ。覚は初禅の勝枝だが、第二禅では消える。観は初禅にもあるが、第二禅で勝枝になる。このように、禅支の構成そのものは各禅で変化する(上昇するほど減る)が、勝枝の位置も移動する。


14. 地一切入で喜楽が起こる理由

問う、此の坐禅人、一切地相を作意するに、何が故に乃ち喜楽を起すや。

この問いは深い。地一切入は地想を対象とする。地は特別に楽しい対象ではない。なぜ地相を作意することで喜楽が起こるのか。

答う、地一切入の相、喜楽を起すに非ず。五蓋の熱を離れ、性に随いて修するに因るが故に。是を以て法子、応に喜楽を起すべし。

地一切入の相そのものが喜楽を起こすのではない。五蓋の熱を離れ、性に随って修するから、喜楽が起こる。

この答えは実践上極めて重要である。

喜楽の源泉は対象ではない。喜楽の源泉は「五蓋の熱からの離脱」である。

五蓋は熱を持つ。貪欲の熱、瞋恚の熱、懈怠睡眠の熱、調悔の熱、疑の熱。この熱が消えると、清涼が生じる。この清涼の感覚が、喜楽として体験される。

だから対象が何であれ、五蓋の熱が離れれば喜楽が起こる。地相でも、水相でも、火相でも、呼吸でも、不浄でも──対象は方便に過ぎず、喜楽の原因ではない。五蓋の離脱こそが原因。

これは禅定論の核心である。座って気持ちよくなることが目的ではない。五蓋を離れることが目的である。結果として喜楽が生じる。


15. 第四禅で喜楽が消える理由

又た問う、若し然らば法子、何が故に第四禅において喜楽を起さざるや。

逆の問い。五蓋の離脱が喜楽を起こすなら、第四禅でも喜楽があるはずではないか。なぜ第四禅では喜楽が起こらないか。

答う、その処に非ざるが故に。又た第四禅を得て已に喜楽を断ずるが故に。

第一の答え。その処(場所)ではないから。第二の答え。第四禅を得ると、既に喜楽を断つから。

そしてより深い理由。

復た次に初めに已に喜楽を起し、方便を以て伏断し、過患有りと見已りて、最も寂寂なる捨楽に貪著す。是の故に喜楽を起さず。

初禅では喜楽が起こる。しかし修行が進むと、方便によって喜楽を伏断する。喜楽に「過患有り」と見る。そして最も寂寂な捨楽(捨における楽)に貪著する。だから喜楽は起こらない。

これは深い洞察である。

喜楽は初禅〜第三禅で機能する。しかし喜楽そのものに「過患」があると見えてくる。喜楽は動的で、揺らぎを含む。どれほど深い喜楽も、完全な静けさではない。

第四禅で到達するのは、喜楽を超えた捨楽。捨における楽。動きのない、最も寂寂な楽。喜楽の動揺さえも消した、深い寂静。

この捨楽を知った者は、喜楽を求めない。喜楽より深い楽を知っているから、喜楽を起こす必要がない。

修行は、楽の質を段階的に深めていく過程でもある。初禅の喜楽→第三禅の楽(喜が消えた楽)→第四禅の捨楽。楽の種類が変わり、より深い楽に移っていく。


16. 座ることとの接続

本バッチの内容は、座る人間にとって何を意味するか。

第一に、初禅の四要件を自己点検する。五蓋は離れたか。五禅支は成立したか。三善十想は具足しているか。二十五功徳は相応しているか。全てが揃って初めて初禅。

第二に、五蓋を識別する。貪欲(感覚対象への執着)、瞋恚(怒り)、懈怠睡眠(怠惰と眠気)、調悔(振動と後悔)、疑(疑い)。自分の座りで、どの蓋が働いているか。

第三に、睡眠を三種で見分ける。心から生ずる眠(煩悩)、食から生ずる眠(自然)、時節から生ずる眠(自然)。心からの眠だけが蓋。食・時節の眠は段階的に精進で減らす。

第四に、疑の四種を見分ける。特に奢摩他難(寂寂を得られるかの自己疑い)は頻繁に起こる。これを疑として識別することで、対治が可能になる。

第五に、五蓋と五禅支の対治関係を知る。婬欲→一心、瞋恚→歓喜、懈怠眠→覚、調悔→楽、疑→観。自分の座りに現れた蓋に対して、対応する禅支を育てる。

第六に、禅と禅枝の関係を理解する。禅は禅枝の集合であり、禅枝を離れて禅はない。全体と部分の関係。

第七に、各禅で勝枝が変わることを知る。初禅は覚、第二禅は観、第三禅は喜、第四禅は楽、第五禅は一心。勝枝が移動するが、下の禅支は上の禅で消える(覚は第二禅で消える)。

第八に、地一切入で喜楽が起こる理由を忘れない。地相のためではない。五蓋の熱を離れたから。だから喜楽を感じたとき、それは対象のためではなく、自分のなかの蓋が離れたための清涼として受け取る。

第九に、喜楽の過患を見る。喜楽は深い。しかしそれを超えた捨楽がある。喜楽で満足せず、さらに深い捨楽を目指す。

大安般守意経との接続

大安般守意経の MODULE 11(止悪一法プロセス)は、悪を止める一法。本バッチの五蓋の対治は、この止悪プロセスの具体的仕様である。

MODULE 9(四定仕様)は、四定の仕様。本バッチは初禅の仕様を完全に示し、第二禅以降への移行の構造(勝枝の移動)も示す。

Kernel 4.x との接続

Kernel 4.x の Vol.1(障害検知と出離プロトコル)は、障害検知と出離。本バッチの五蓋仕様・睡眠の三種・疑の四種は、この障害検知プロトコルの精密版。

Vol.5(喜楽管理と心行の沈静化)は、喜楽管理と沈静化。本バッチの「喜楽の過患を見て捨楽に貪著す」は、この沈静化プロトコルの深化。

Vol.7(滅・捨断・最終シーケンス)は、滅・捨断・最終。第四禅での喜楽の断と捨楽への移行は、このVol.7 への接続点である。


詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-10.md を参照


17. 原文書き下し

禅とは何の義ぞ。謂く事において平等に思惟するなり。五蓋を奮迅するなり。対治を思惟するなり。

初禅に入りて正受を得るとは、已に得、已に触れ、已に作証して住す。復た次に欲・不善法を離るとは、欲界の地従り初禅を説いて勝相と為す。有覚有観従り第二禅を説いて勝相と為す。寂寂所成、有喜有楽を以て、寂寂所成の喜楽従り説いて勝相と為す。復た次に欲・不善法を離るとは、謂く能く対治を断ず。有覚有観とは、謂く禅相の寂寂所成を説く。喜楽とは、謂く相似の禅正受を説く。 入住とは、謂く初禅を得て五分を離れ、五分を成就し、三善・十想・具足し、二十五功徳相応す。此の福善を以て梵天の勝妙居処に上生す。

五分を離るとは、謂く五蓋を離る。云何なるか五と為す。謂く貪欲・瞋恚・懈怠睡眠・調悔・疑なり。 貪欲とは、謂く五塵において心に愛染を生ず。瞋恚とは、謂く十悩処を行ず。懈怠とは、謂く心懶堕す。睡眠とは、謂く身悶重して寤寐を得んと欲す。眠に三種あり。一には食従り生ず、二には時節従り生ず、三には心従り生ず。若し心従り生ずるは思惟を以て断ず。若し飲食及び時節従り生ずるは、是れ羅漢の眠にして心従り生ぜず、蓋する所無きが故に。若し眠、食及び時節従り生ずる者は、精進を以て能く断ず。阿那律の説く所、「我初めて漏を尽くし心に従わざる眠を得たり。今に于て五十五歳、その中間に食時節の臥を断ずること已に二十五年」と。 問う、若し眠、色法を成ぜば、何が故に心数煩悩と為すや。答う、色なる者は一向に心数悩繁を成ず。我が人の飲酒及び食を見るが如し。是れ則ち知るべし。 問う、若し眠は身法、懈怠は心数法ならば、何が故に二法合して一蓋と為すや。答う、此の二種の法、一事一相なり。所謂疲懈、共にして一と為る。 調とは心寂寂ならず。悔とは心恨みて定まらず。その相既に等しきが故に一蓋を成ず。 疑とは心執して一ならず。四種の疑あり。一には奢摩他難、二には毘婆舍那難、三には二倶難、四には諸非難においてす。是において具足して奢摩他を得んと為すに、或いは此において疑い、或いは身において疑う。「我寂寂を得るに堪えたりや、寂寂を得ざるや」。若し彼において疑いを成ず、此を奢摩他難と謂う。或いは四聖諦において、或いは三世において疑う、此を毘婆舍那難と謂う。或いは仏法僧において疑う、此を二倶難とす。或いは国城道路において、或いは男女名姓においてす、是を非法難と謂う。此の経の中にては疑を寂寂難と為す、是れ取るべし。 蓋とは何の義ぞ。謂く障礙・乗義・覆義・煩悩義・縛義なり。此れ異義無し。 問う、諸の細結、謂く覆悩等あり。何が故に但だ五蓋のみを説くや。 答う、集執取を以て五を成ず。復た次に婬欲の執著を以て、能く一切の貪欲を摂す。瞋恚の執著を以て、能く一切の不善法を摂す。懈怠・睡眠・調悔・疑の執著を以て、能く一切の痴不善法を摂す。かくの如く五蓋の執著を以て、能く一切の煩悩を摂す。此の相を以ての故に五蓋を成ず。

五分成就とは、謂く覚・観・喜・楽・一心なり。 問う、若し初禅は五枝を成就して禅と為すと説かば、応に更に復た別にその枝を説いて禅と為すべからず。若し別に枝を説かば、何が故に初禅は五枝相応と説くや。 答う、禅枝に依りて禅を成ず。禅枝を離れて禅有るに非ず。別に異禅無し。一一の車分に依りて車と説き、分を離れて車無きが如し。軍分に依りて軍と説き、軍分を離れて軍有るに非ざるが如し。かくの如く禅枝に依りて禅と名づく。枝を離れて禅有るに非ず。一種を以て禅と名づく。分つべきを以て枝と名づく。事を説いて禅と名づけ、功徳を説いて枝と名づく。依制を説くを以て禅と名づけ、依性制を説くを以て枝と名づく。 問う、念・精進等の法有るにおいて、何が故に但だ五枝のみを説くや。 答う、執著を以て五を成ず。 問う、云何なるか執相と為す。 答う、覚とは事に随いて心して自ら安きを得。観とは持心に随う。覚観雑えずして方便を起す。若し方便具足すれば喜楽生ず。若し方便を起し具足すれば生を得。喜心増長し楽心満を成ず。此の四功徳を以て心乱れざるを成就す。若し心乱れざれば定を得。是を執相と名づく。かくの如く執著して五を成ず。 復た次に蓋の対治なるが故に五を成ず。初蓋の対治は初禅、乃至五蓋の対治は五禅なり。 覚とは初禅を勝枝と為す。覚を以て欲を除く。若し覚正定に入れば余枝も亦た起る。観とは五枝において、第二禅は是れ初めに起る。喜とは第三禅において是れ初めに起る。楽とは第四禅において是れ初めに起る。一心とは第五禅において是れ初めに起る。かくの如く勝枝を以て五を成ず。 復た次に五蓋の対治を以て五を成ず。三蔵の説く所の如し。一心は是れ婬欲の対治、歓喜は是れ瞋恚の対治、覚は是れ懈怠眠の対治、楽は是れ調悔の対治、観は是れ疑の対治なり。蓋の対治に従うを以て是の故に五を成ず。

問う、此の坐禅人、一切地相を作意するに、何が故に乃ち喜楽を起すや。 答う、地一切入の相、喜楽を起すに非ず。五蓋の熱を離れ、性に随いて修するに因るが故に。是を以て法子、応に喜楽を起すべし。 又た問う、若し然らば法子、何が故に第四禅において喜楽を起さざるや。 答う、その処に非ざるが故に。又た第四禅を得て已に喜楽を断ずるが故に。復た次に初めに已に喜楽を起し、方便を以て伏断し、過患有りと見已りて、最も寂寂なる捨楽に貪著す。是の故に喜楽を起さず。


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