解脱道論 第五巻 行門品の二 Batch 03
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喜という、最後のよき妨げ
第二禅で泉が湧いた。定そのものから喜楽が湧き出した。外部の条件によらない清涼な水。人住を越えた天住。
しかし、その喜楽もまた、次の段階から見れば障害となる。
ウパティッサは、三禅の過患を提示する。
覚観に近く是れ定の怨なり。喜満と相応するが故に禅は麁と成る。喜を以て満を成じ心大いに踊躍し、能く余の禅枝を起さず。
覚観に近い。喜満で禅は粗。心が大いに踊躍する。他の禅枝が起きない。
踊躍。喜の特徴である。喜は躍る。沈静を乱すほどに躍る。初禅・二禅では、この踊躍が推進力であった。しかし第三禅から見れば、踊躍こそが障害。踊躍があるうちは、より深い禅支は立ち上がれない。
そして決定的な一句。
もし喜に著すれば是れ則ち失と為す。もし是れ失と知らば則ち失ならずと成す。
喜への著が失である。しかし、失と知れば、もはや失ではない。
ここに、第三禅の門が開いている。喜を捨てるのではない。喜を観察する。観察の機能が失を失でなくする。その観察の機能こそ、これから立ち上がる「念」と「智」である。
作意──喜心を滅せしめる
第三禅への移行の作意は、ほぼ第二禅と同型の構造を持つ。
是れ一切入の相に依り作意して、喜心をして滅せしむ。喜楽に由りて心を受持するを以て、かくの如く作意すれば、久しからずして無喜楽を以て心をして安きを得、三禅の枝を解せしむ。
一切入の相を作意する。喜心を滅せしめる。そして無喜楽で心が安きを得る。
結果は、一文で示される。
彼の坐禅人、喜に染まざるが故に、捨・念・智を得、身を以て楽を受く。
三つの新しい枝が立ち上がる。捨、念、智。そして「身を以て楽を受く」──しかしこの「身」が通常の色身ではないことが、後で明かされる。
念の主役化──この禅の構造的転換点
第二禅まで、念は潜在的であった。第二禅の枝は内信・喜楽・一心の三つ(または覚観滅を含めて四つ)。念は禅支の中に明示的には立っていなかった。
第三禅で、念が前面に立つ。捨・念・智の三組として、しかも中心的な枝として。
これは単なる枝の追加ではない。禅の階梯全体の構造的転換点である。
なぜ第三禅で念が主役化するのか。ウパティッサはその理由を明言する。
此の禅は起り易く彼の楽処に到る。最も気味ある地にして亦た愚心を作す。是れ著処と名づく。
第三禅の楽は「最も気味ある」。最も魅惑的な楽。その魅惑ゆえに「愚心」が起きやすい。著処──執着が生まれやすい場所。
初禅・二禅では、まだ覚観や喜の躍動があり、執着が固定化しにくかった。第三禅では、喜が離れた分、楽が澄み切り、その澄明さに心が沈みやすい。楽そのものが自己を喪失させる危険を帯びる。
そこで念が立つ。念が楽を保持し、楽を行処に繋ぎ止める。楽に沈まずに、楽を観る。その観る機能が念である。
犢子の喩え──念による繋ぎ止め
ウパティッサは、念の機能を仔牛の比喩で示す。
彼の犢子のその母に随逐し、両耳を捉えて触突して母に随うが如し。
犢子。仔牛。母牛に随逐する。両耳を捉えて触れ合いながら、母に随う。仔牛は母牛から離れない。一瞬も離れない。触れ続ける。
この犢子の姿勢が、念の機能を正確に写す。
かくの如く無喜有楽にして、念智を以て分別し、楽は行処に住することを得。
仔牛と母牛のように、念が楽に密着する。念が楽から離れると、楽は行処を失う。行処に住できない楽は、喜に戻る。
そして退分のメカニズムが明示される。
もし緩く分別せざれば、反って喜に入り禅退分を成ず。
念が「緩く」なれば、楽は反って喜に入る。そして禅が退分する。
第四巻 Batch 12 で示された退住勝達の四分──その「退分」の直接的機構が、ここで初めて具体化される。退分とは、念の緩みによって楽が喜に戻ってしまう現象である。
そして発見3.9(不放逸の継続的重要性)が、ここで「念の緊張」という具体的機能として翻訳される。不放逸とは、念が緩まないこと。念の緊張が持続すること。犢子が母の耳を離さないように。
捨の八種──一語の八相
ウパティッサは、第三禅で新たに「捨」という語を正面から展開する。そして、驚くべきことに、この一語が八つの異なる機能を包摂することを示す。
是において捨に八種あり。謂く受捨、精進捨、見捨、菩提覚捨、無量捨、六分捨、禅枝捨、清浄捨なり。
受捨。五根(眼耳鼻舌身)の捨。感覚器官の平衡。
精進捨。時ありて捨相を作意しない精進。
見捨。苦集を断じて捨を得ると見る智見。
菩提覚捨。菩提覚を修する時の捨。
無量捨。四無量心の最後、慈悲喜捨の捨。
六分捨。眼で色を見るに苦でも喜でもない、六処の捨。
禅枝捨。染無きが故に捨住を成じる、禅の枝としての捨。
清浄捨。捨念清浄──第四禅で完成する捨。
八つの捨。これらは別物ではない。同じ「捨」という心の機能が、八つの異なる場面で別の働きをする。
そしてウパティッサは、八つのうち一つを除外する。
此の八捨において受捨を除き、余の七捨の法、是を平等捨と為す。
受捨を除いた七つが「平等捨」である。受捨は感覚レベルの平衡であり、まだ意識的な捨ではない。意識的な捨──平等捨──は七種。
発見4.8(多軸多層分析)の第五巻における再出現である。第四巻 Batch 08 で「離」が六つの軸で切り分けられたように、ここで「捨」が八つの機能で分解される。ウパティッサの多軸分析は、概念を単一の定義に還元せず、複数の層で立体化する。
捨の三種──禅ごとの位置
さらにウパティッサは、捨を三種に分類する。今度は禅への対応による。
復た次に三種の捨あり。一に相応乗、二に少経営、三に無経営なり。
相応乗捨。急疾ならず、遅緩ならず、禅行の平等方便。これは第二禅に近い。能く大踊躍心を断つ。
少経営捨。心に経営がわずか。これは第三禅に近い。能く一切の踊躍心を断つ。
無経営捨。不動身心、事無き心。これは第四禅に近い。
この三種は、禅の深化と捨の深化を並行して示す。禅が深まるほど、捨の「経営」が減少する。経営とは作為。作為が減るほど、捨は深くなる。
第二禅の相応乗捨は、まだ少し調整を要する。第三禅の少経営捨は、調整がほぼ不要になる。第四禅の無経営捨は、全く動かない。捨は禅の階梯の中で、無作為へと向かって深まっていく。
なぜ捨が第三禅でだけ禅支として立つか
しかしここで、一つの問いが立つ。なぜ第三禅になって初めて捨が禅支として立つのか。第二禅でも、初禅でも、捨は存在しなかったのか。
ウパティッサの答えは明快である。
是の処、喜満未だ滅せず心著す。喜楽に縁ずるを以て是の故に未だ滅せず。大踊躍を以て身心に充遍す。是の故に二種の禅において捨を説かず。満たざるを以ての故に。
初禅・二禅では、喜満が残っている。喜満が踊躍を生む。踊躍が身心に充満する。この状態では、捨は禅支として前面に立てない。捨はあるが、喜満に覆われて見えない。
此の第三禅においては喜染無きが故に、滅相を以て著するが故に、禅枝を起すを成ず。
第三禅で、喜が離れる。覆いが取れる。そして捨が禅支として立ち上がる。
これは、発見2.18(念の主役化)の隣接する現象である。念も、第三禅で初めて禅支として立つ。念と捨が、喜の離脱とともに同時に顕現する。
念の四軸
念の構造を、ウパティッサは四軸で示す。
| 軸 | 内容 |
|---|---|
| 相 | 随念 |
| 味 | 忘れざる |
| 起 | 守護 |
| 処 | 四念(四念処) |
「相」は随念。念が所縁に随う。犢子が母牛に随うように。
「味」は忘れざる。念が働いているとき、対象を忘れない。持続する。
「起」は守護。念は守護の機能を持つ。何から何を守るのか。念は、心を、散乱と失念から守る。
そして「処」は四念──四念処である。念の所縁は、四念処(身・受・心・法)。
ここに重要な接続がある。第三禅の念の「処」が四念処であるということは、念の所縁が既に解脱篇の領域に繋がっていることを意味する。念は定の禅支として立ち上がるが、その所縁は定の対象(一切入の相)を超えて、慧の所縁(四念処)へ向かっている。
発見2.17(サマタヴィパッサナーの架橋)が、ここで構造的に確認される。念は、定から観への橋である。定の中に念が立つとき、その念はすでに観の方向を向いている。
智の四種と行処智
念と並んで立つのが智である。ウパティッサは智の四種を示す。
是において正智に四種あり。有義智、自相智、不愚痴智、行処智あり。
有義智は四威儀における智(行住坐臥の智)。
自相智は空処に入る智。
不愚痴智は世間の八法(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)を知る智。
行処智は事処において働く智。
そしてウパティッサは選ぶ。
此の経の中にては、行処智は是れ取るべし。
第三禅で採用されるのは「行処智」。事処、つまり業処(カシーナの対象)において働く智。
発見1.5(別説の併記)の、第五巻における三度目の変奏である。第二禅で「内」の三義から内内を選んだ。第三禅の前半で捨の八種から平等捨を七つ選んだ。そしてここで智の四種から行処智を選ぶ。複数を示し、一つを選ぶ──「選択を伴う並置」という型が、第五巻で定着している。
智の四軸は、不愚痴・縁著・諸法を択取・正作意。択取とは選び取ること。智は、諸法の中から正しいものを選び取る働き。ただ考えるのではなく、選別する。
念と智の協働
念と智は、第三禅で協働する。
念が所縁を保持する。智が所縁を分別する。
一方だけでは機能しない。念だけでは、楽に保持されるが、楽の性質が見えない。智だけでは、楽の性質が分析されるが、保持されない。両者が揃って初めて、「楽を楽として保持しながら、楽に沈まない」という第三禅の逆説的な状態が成立する。
ウパティッサの言葉では「念智を以て分別し、楽は行処に住することを得」である。念と智。両者が揃って、はじめて楽が行処に住する。
楽の再定義──身とは何か
第三禅の「楽」は、それまでの楽と質が違う。ウパティッサはこの違いを、「身」の定義から始める。
問う、云何なるか身。答う、想陰・行陰・識陰、これを身と謂う。
ここでいう「身」は、想陰・行陰・識陰である。
色陰が抜けている。受陰も抜けている。残るのは三つの陰──想(認識)・行(意志)・識(識別)。
つまり、第三禅の身は色身ではない。名身である。色身が受ける楽ではない。名身──心のはたらきが受ける楽。
発見2.14(名色の相互依存)が、ここで新しい展開を得る。第二禅の泉の比喩では「名色身」と言われた。色と名が一体として語られた。第三禅で、その身が「名身」(三陰)として分節される。色を離れた身。
これは、後の慧論(五蘊の分別)への接続である。五蘊の観察は、色・受・想・行・識を分けて見る。第三禅の段階で、既にその分節の萌芽が現れている。ウパティッサは禅定の中に、慧の構造を埋め込んでいる。
聖の説く所
第三禅は、特別な禅として位置づけられる。
是の故に、聖は此の禅の勝れたるを説いて捨を成ず。念楽住ある者は捨念楽なり。
聖者が第三禅を特に評価するのは、捨・念・楽の三つが調和して住するから。捨念楽。三つが一つの名前で呼ばれる。
是れ楽は聖人の説く所なり。聖とは仏及び弟子なり。開合制教し、分別して顕示てり。これを聖の説く所と謂う。
仏と弟子が、この楽を特に「説く」。開合(広く開き、狭く合わせ)、制教(教えを定め)、分別(区別して)、顕示(明らかに示す)。
なぜか。
聖者は楽住に向う。是れ聖人の成就なり。
聖者は楽住に向かう。つまり、楽に住する。執着ではなく、住する。楽に沈まず、楽から離れず、楽の中に住する。この住のあり方が、聖者の成就である。
これは、一般の理解とは逆転した構造を持つ。苦に耐える修行ではなく、楽に住する修行。ただし、その楽は、捨と念と智によって保持される楽。放逸の楽ではない。
第三禅は、この意味で、道論全体の中でも特別な位置を占める。
蓮華の喩え
ウパティッサは、第三禅の状態を、三種の蓮華で示す。
欝波羅池の花、分陀利池の花において、若しは欝波羅花、波頭摩花、分陀利花、水に生じ水に増長し、水より起りて水中に住し、根より首に至るまで以て水をして其の中に満たしむ。
欝波羅(ウツパラ、青蓮華)。波頭摩(パドマ、赤蓮華)。分陀利(プンダリーカ、白蓮華)。三色の蓮華。
蓮華は、水の中で生まれる。水の中で育つ。水の中から姿を現す。そして水の中に住する。根から先端まで、水に浸されている。
かくの如く比丘、此の身、無喜楽を以て満たしめ潤沢し、無喜の楽を以て身心に遍満す。
身心が、無喜の楽で満たされる。蓮華が水に浸されるように。
しかし蓮華には、もう一つの性質がある。水に染まらない。蓮華は水の中にあるが、水に濡れない。葉の上に水滴が転がり落ちる。中にありながら、染まらない。
この非染性こそ、第三禅の構造である。楽の中にあって、楽に染まらない。楽が身心を満たしていても、楽が自己を飲み込むことはない。念と智と捨が、楽と自己を分離し続ける。
発見1.19(比喩群)が、ここで第五巻における水の三相を完成させる。
- 初禅:水面の浪動(風が吹いて像が濁る)──否定相
- 第二禅:泉の湧出(定から水が湧く)──肯定相
- 第三禅:蓮華と水(水の中にあって水に染まらない)──超越相
水という一要素が、三つの禅の段階を同時に照らす。ウパティッサの比喩は偶然ではない。一つの素材を展開的に使い、階梯の全体を浮かび上がらせる。
劫数の倍々──禅階梯全体を貫く指数
第三禅の修には、下・中・上がある。そしてそれぞれの生処と寿命が示される。
| 修 | 天界 | 寿命 |
|---|---|---|
| 下禅 | 少浄天 | 十六劫 |
| 中禅 | 無量浄天 | 三十二劫 |
| 上禅 | 遍浄天 | 六十四劫 |
16、32、64。またしても倍々。
そして、第二禅の数列と接続して並べると、驚くべきことが見える。
| 禅・質 | 劫数 |
|---|---|
| 二禅下 | 2 |
| 二禅中 | 4 |
| 二禅上 | 8 |
| 三禅下 | 16 |
| 三禅中 | 32 |
| 三禅上 | 64 |
2→4→8→16→32→64。連続する倍々。禅ごとに倍々があるだけではない。禅を跨いでも倍々が保たれる。二禅上の8と三禅下の16の間も、倍率2。
これは、劫数の倍々が禅の階梯全体を貫く一つの指数関数であることを示す。禅の質的跳躍が、数の連続倍々として量化されている。
発見1.2(「3」への収束)の新しい発展である。3段階(下・中・上)が各禅で倍々を生み、同時に禅全体の階梯も倍々で繋がる。二重の指数構造。
これは単なる数遊びではない。修の深さと果報の関係が、線形ではなく指数的であることの明示である。一定の努力で一定の進歩が得られるのではない。深まるほどに、得られるものの幅も指数的に広がる。
座ることとの接続
大安般守意経のMODULE 8「五根再配置」は、五根(信・精進・念・定・慧)の構成を扱う。第二禅で信根が立ち上がり、第三禅で念根が主役化する──この順序は、五根の階梯的な発達と対応している。
MODULE 10「止観デュアルプロトコル」は、第三禅の念と智の協働そのものである。念が止を保ち、智が観を行う。両者の協働が、「楽の中にあって楽に染まらない」という逆説的な状態を作り出す。
Kernel 4.xのVol.7「滅・捨断・最終シーケンス」との接続は、第三禅の捨において先取りされる。捨念清浄は第四禅で完成するが、その準備は第三禅で行われる。そして捨断の機能が最終的には煩悩の根本断滅へと向かう──その全道程の基礎が、第三禅の捨念楽住にある。
そしてVol.8「200+の智による完全性証明」は、第三禅の智の四種(特に行処智)から始まる智の系譜を指し示している。智はここから、分別慧品へと展開していく。
発見ログへの追加候補
本バッチで確認・強化された発見:
発見2.18(念の主役化)の実装点:第三禅が念の主役化の構造的転換点。犢子の喩えが念の機能を写し、退分のメカニズムが念の緩みとして特定される。
新発見候補:劫数の倍々が禅階梯全体を貫く連続指数:2→4→8→16→32→64。禅単位の倍々だけでなく、禅を跨ぐ連続性も倍々で保たれる。
発見2.14(名色の相互依存)の分節化:「身」が色身ではなく名身(三陰)として再定義される。後の五蘊論への接続。
これらは、次の第四禅・四無色定の展開の中で、さらに検証・発展されるべき対象である。
詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-V5-03 を参照
原文全文
三禅の過患を念ず。爾の時坐禅人、已に第二禅を修し身に自在を得たり。第二禅は麁、三禅は寂寂なり。二禅の過患を知り、三禅の功徳を見る。第三禅を起す。
云何なるか二禅の過患。謂く覚観に近く是れ定の怨なり。喜満と相応するが故に禅は麁と成る。喜を以て満を成じ心大いに踊躍し、能く余の禅枝を起さず。もし喜に著すれば是れ則ち失と為す。もし是れ失と知らば則ち失ならずと成す。もし神通証を作すに堪えず。もし二禅を楽わば勝分を成ぜず。是れ第二禅の過患と知り、第三禅の功徳を見る。是れその対治なり。
已に二禅の過患を観じ、復た三禅の功徳を見る。是れ一切入の相に依り作意して、喜心をして滅せしむ。喜楽に由りて心を受持するを以て、かくの如く作意すれば、久しからずして無喜楽を以て心をして安きを得、三禅の枝を解せしむ。彼の坐禅人、喜に染まざるが故に、捨・念・智を得、身を以て楽を受く。是れ聖の説く所なり。捨・念・智を得て楽あり、第三禅の正受に住す。是れ地の一切入の功徳にして喜に染まざるが故なり。
喜とは先に已に分別せり。染まざるとは、喜を断じ捨を得て住す。
云何なるか捨と為す。是れ捨、是れ護なり。不退不進、是れ心平等なり。これを捨と謂う。是において捨に八種あり。謂く受捨、精進捨、見捨、菩提覚捨、無量捨、六分捨、禅枝捨、清浄捨なり。五根を受捨と為す。時ありて捨相を作意せざるを精進捨と為す。苦集を我今当に断ずべし、捨を得るを成ずるを見捨と為す。菩提覚を修する、是を菩提捨と為す。慈悲喜捨、是を無量捨と為す。眼を以て色を見るに苦ならず喜ならず捨を成ず、是を六分捨と為す。染無きが故に捨住を成ずる者、是れ禅枝捨なり。捨念清浄、是れ清浄捨なり。此の八捨において受捨を除き、余の七捨の法、是を平等捨と為す。
復た次に三種の捨あり。一に相応乗、二に少経営、三に無経営なり。一切の禅行において是れ禅平等の方便なり。急疾ならず遅緩ならず、是を相応乗捨と名づく。此の下捨は第二禅に近く、能く大踊躍心を断つ。もし心に経営無ければ、是を少経営捨と名づく。此の捨は第三禅に近く、是れ其の能く一切の踊躍心を断つ。不動身心を以て、経営事無き心、是を無事捨と名づく。此の捨は第四禅に近し。
捨とは何なる相、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。平等を相と為し、著する所無きを味と為し、経営無きを起と為し、染無きを処と為す。
問う、何が故に此の捨を此の禅に説き、第二禅及び初禅に非ざるや。答う、是の処、喜満未だ滅せず心著す。喜楽に縁ずるを以て是の故に未だ滅せず。大踊躍を以て身心に充遍す。是の故に二種の禅において捨を説かず。満たざるを以ての故に。此の第三禅においては喜染無きが故に、滅相を以て著するが故に、禅枝を起すを成ず。禅枝の自在に由るを以ての故に、捨・念・正智を説く。
云何なるか念と為す。念・随念・彼念・覚・憶持して忘れず。念とは念根・念力・正念、これを念と謂う。
問う、念とは何なる相、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。答う、随念を相と為し、忘れざるを味と為し、守護を起と為し、四念を処と為す。
云何なるか智と為す。知解を慧と為す、是れ正智、これを智と為すと謂う。是において正智に四種あり。有義智、自相智、不愚痴智、行処智あり。是において有義智とは四威儀あり。自相智とは空処に入る。不愚痴智とは世間の八法を知る。行処智とは謂く事処においてす。此の経の中にては、行処智は是れ取るべし。
問う、智とは何なる相、何なる味、何なる起、何なる処ぞ。答う、不愚痴を相と為し、縁著を味と為し、諸法を択取するを起と為し、正作意を処と為す。
問う、何が故に此の念・正智、一切処において妙ならざるや。答う、もし人、念を失して正智を起さざれば、禅の外行を起すに堪えず。
問う、何が故に第三禅に説き、第二禅及び初禅に説かざるや。答う、此において喜を首と為し、麁の禅枝滅するが故に。正定は細なるが故に。此の定は細処に入る。此の正智を以て堪能して第三禅を起す。是の故に禅枝を以て自在とす。復た次に、此の禅は起り易く彼の楽処に到る。最も気味ある地にして亦た愚心を作す。是れ著処と名づく。是の故に此の禅において、自在を得るを知り、為に喜を断ずるに堪えたり。又た説く、喜楽は共に親友と為す。是の故に此の念智分別し、喜無く楽有りて事において住を成ず。彼の犢子のその母に随逐し、両耳を捉えて触突して母に随うが如し。かくの如く無喜有楽にして、念智を以て分別し、楽は行処に住することを得。もし緩く分別せざれば、反って喜に入り禅退分を成ず。此の禅枝の自在なるを以ての故に念智を説く。此の捨念智を以て成就す。是の故に捨念智有りて身を以て楽を受くと説く。
問う、云何なるか心楽。答う、心摂受、是れ心楽なり。心触より生ずる摂受、是れ心楽受なり。これを楽と為すと謂う。
問う、云何なるか身。答う、想陰・行陰・識陰、これを身と謂う。此の楽、身を以て受く、身受楽と謂う。
問う、何が故に此の楽に喜無く、身を以て受と為すに非ざるや。答う、第三禅において楽根滅す。何が故に世尊、第三禅において楽根滅すと説くや、是れ楽は聖人の説く所なり。聖とは仏及び弟子なり。開合制教し、分別して顕示てり。これを聖の説く所と謂う。
問う、何が故に聖は此の身において説き、余処に非ざるや。答う、此の第三禅は起り易く彼の楽処に到る。彼は受楽無し。聖者は楽住に向う。是れ聖人の成就なり。是の故に聖人、此の禅の勝れたるを説いて捨を成ず。念楽住ある者は捨念楽なり。此れ已に分別し成就し、第三禅に入住す。
第三とは第二に依りて名を第三と為す。第三禅とは是れ捨・念・正智・楽・一心なり。これを禅成就と謂う。入住するとは、彼已に第二禅を得、一分五分を離れ、三種の善を成就し、十相具足し、二十二功徳相応す。天居して遍浄天に生ず。初禅に広く説くが如し。
天居とは無喜楽住なり。人住を越ゆるを天居と名づく。
是の故に世尊、諸の比丘に告げたまわく、「かくの如く比丘、欝波羅池の花、分陀利池の花において、若しは欝波羅花、波頭摩花、分陀利花、水に生じ水に増長し、水より起りて水中に住し、根より首に至るまで以て水をして其の中に満たしむ。かくの如く比丘、此の身、無喜楽を以て満たしめ潤沢し、無喜の楽を以て身心に遍満す。是において欝多羅・波頭摩・分陀利花の水より起るが如し。かくの如く第三禅に入る。その身当に知るべし、藕の水に生じ、根より首に至るまで一切皆満つるが如し。かくの如く第三禅に入る。その身、無喜の楽を以て身心に遍満し、修定の果報とす。」かくの如く天居して遍浄天の功徳を生ず。
此の第三禅も亦た三種を成ず。謂く上・中・下なり。是において坐禅人、下禅を修行せば、命終して少浄天に生ず。彼の寿命十六劫なり。中禅を修行せば、無量浄天に生ず。彼の天の寿命三十二劫なり。上禅を修行せば、遍浄天に生ず。寿命六十四劫なり。
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