悲・喜・捨──四無量心の完備

解脱道論プロジェクト・第八巻 Batch 03(物語版) 原典:解脱道論 巻第八・行門品之五 範囲:四無量心の第二〜第四(悲・喜・捨)の修習


目次

同じ一人子の親が、四つの場面に立つ

原典は、四無量心の定義に同じ像を繰り返し使う。

慈の定義は「父母の唯だ一子有るが如く、情に愛念する所にして、子を見て慈を起こし、饒益の心を起こすが如し」だった。悲の定義は「父母の唯だ一子有るが如く、心に愛念する所にして、子の苦を得るを見て、心に悲悩を起こすが如し。苦しいかな」である。喜の定義は「猶ほ父母の唯だ一子有るが如く、心に愛念する所にして、子の楽を得るを見て、心に歓喜を生ずるが如し。善いかな」である。捨の定義は「猶ほ父母の一子に於けるが如く、念ずべきに非ず、念ずべからざるに非ず、捨て成ず。彼に於いて中心と成るが如し」である。

一人子の親が、四つの異なる場面に立つ。

子をただ見るとき──慈。子が苦しむとき──悲。子が喜ぶとき──喜。子が完全に成長し自立したとき──捨。

同じ親の、同じ子への、四つの心の局面。原典は、四業処を一つの像から展開する。


悲──「苦しいかな」

悲の雛形を確認する。修は「悲にして住し乱れざること」。相は「非饒益を現ぜざること」。味は「楽」。起は「害せざること」。

慈の「起」は嗔恚無きだった。悲の「起」は「害せざること」。所縁の苦に向き合うとき、修行者の心に起きやすい動きがある。苦を見て、傷つけることへの衝動が生じることがある。悲の起として「害せざること」が置かれるのは、この構造への応答である。

悲の修法は、苦の三つの観察角度から展開される。

第一の角度:

彼の病を得、老を得、貧を得たるを見、若しは見、若しは聞き、是の如く作意す。「彼の衆生、苦を得たり。云何なる方便にて苦従り当に解脱を得べき」と。

現に苦の中にある者──病む者、老いる者、貧しい者──を見るか聞く。そしてただ同情するのではない。「云何なる方便にて解脱を得べき」と作意する。苦の事実を前にして、修行者は解脱の可能性を問う。悲は、苦への共感に留まらない。苦からの解脱の方向を向く。

第二の角度:

若し其の顛倒を見、煩悩の纏の為に縛せられ無明に入るを見、或いは功徳の人有りて修学せざるを見ば

顛倒した者、煩悩に縛られた者、無明の中にある者。そして「功徳の人有りて修学せざるを見ば」──この一句が特異である。徳を持ちながら修行しない者への悲。今は苦しんでいないかもしれない。しかし、この道を行けば悪趣に向かう。修行者はその先を見て悲を起こす。

第三の角度:

若し不善法と相応し善法と相応せず

不善法との相応。業道の観点から見た苦の観察。現在の苦ではなく、業の積み重ねとしての未来の苦への悲。

三つの角度は、苦の三つの時制に対応する。現在の苦(病・老・貧)、存在の構造としての苦(顛倒・無明)、未来へ向かう業道の苦(不善法との相応)。悲は一つの時制に留まらない。三つの時制のすべてで、修行者は所縁の苦に向き合う。

展開は「次第に中人に於いて修行し、彼従り怨人に於いて修行す。余は初めの広説の如し。乃至、四方に満つ」。


喜──「善いかな」

猶ほ父母の唯だ一子有るが如く、心に愛念する所にして、子の楽を得るを見て、心に歓喜を生ずるが如し。「善いかな」と。

「善いかな」。慈の「願はくは」でも、悲の「苦しいかな」でもない。喜の定式は、ただ「善いかな」である。

喜の味は「無怖」。慈の味は愛念、悲の味は楽だった。喜だけが怖れの不在を味として持つ。所縁の楽に共に喜ぶとき、修行者の心から怖れが消える。他者の幸福を、競合や嫉妬なく喜ぶことができるとき、その喜びの中に怖れはない。

修法の起点:

其の人の性、敬重する所、安楽を得たるを見て、心に歓喜を生ず。若しは見、若しは聞き、是の如く作意す。「善いかな、善いかな。願はくは彼の衆生、長く歓喜を得んことを」と。

所縁の安楽を見る、または聞く。「善いかな、善いかな。願はくは彼の衆生、長く歓喜を得んことを」──今の楽が続くことを願う。慈が今の苦の不在と安楽の成就を願うのに対し、喜は今の楽の継続を願う。

四無量心は、所縁の現状への応答として構造されている。所縁が苦しんでいれば悲を。所縁が喜んでいれば喜を。特定の状況にない所縁には慈を。すべての所縁に対して捨を。

展開は「余は初めの広説の如し。乃至、喜び四方に満つ」。


捨──愛と恚の両側を超える

捨の定義が置かれる。

猶ほ父母の一子に於けるが如く、念ずべきに非ず、念ずべからざるに非ず、捨て成ず。彼に於いて中心と成るが如し。

「念ずべきに非ず、念ずべからざるに非ず」。これはどういう状態か。

気にかけないのではない。無関心でもない。特別に念じる必要がないが、念じてはいけないのでもない。ただ「中心(ちゅうしん)」──真ん中の心──として護る。

慈悲喜は、所縁の状況(日常・苦・楽)に対して心が動く業処だった。捨は、動かない心として立つ業処である。しかし動かないことは、冷淡であることではない。「中心を護る」──平等心として、常にそこにある。

捨の雛形:「著する所無き」を相、「平等」を味、「恚と愛とを伏する」を起とする。

「恚と愛とを伏する」。慈は嗔恚を対治した。悲は害を対治した。喜は無楽を対治した。捨は、恚と愛の両方を対治する。これが捨の起の独自性である。


捨の前行──慈悲喜を経由する

捨の修法に、他の三業処にない構造が現れる。

坐禅の人、初め従り慈と倶に起こり、悲と倶に起こり、喜と倶に起こり、已に第三禅を起こす。彼の坐禅の人、已に第三禅を得、自在に慈悲喜の過患を見るに、愛と恚とに近きが故に、戯と倶に起こり、踊躍歓喜と共に起こる。過患の対治を以て、捨の功徳を見る。

捨に到達するには、慈悲喜の三業処を修して第三禅に至る必要がある。そして、慈悲喜の「過患」を見る。

慈悲喜の過患とは何か。

愛と恚とに近きが故に、戯と倶に起こり、踊躍歓喜と共に起こる。

慈は愛念から起こる。愛念は執着に近い。悲は悲悩から起こる。悲悩は恚に転じやすい。喜は歓喜から起こる。歓喜は興奮(踊躍)に転じやすい。これが三業処の過患である。

修行者は、慈悲喜を深く修することで、この過患を自分の修行の中で実際に経験する。理論として知るのではなく、「自在に」──自分の中で自在に見る。その上で、捨の功徳を見る。愛にも恚にも引かれない平等心の功徳が、慈悲喜の過患を経由してこそ、真に見えてくる。

捨は、慈悲喜なしには成立しない。逆に言えば、慈悲喜を深く修した者だけが、捨に到達できる。四業処は、並列ではなく、階梯として構造されている。


捨の段階展開の逆順

捨の展開に、他の三業処と逆の構造が現れる。

初め従り非可愛念・非不可愛念の人に於いて、已に捨と倶に念を起こし、心を満足せしむ。捨心増長し、已に修し多く修し、心は和軟に成り、能く受持するに堪ふ。彼、次第に怨人に於いて修行し、彼従り親友人に於いて修行す。

慈悲喜の展開では、所重・愛中の人から始まり、中人を経て、怨家を最後に置いた。怨家への嗔恚・悲悩・喜びの欠如が最大の障礙だったから、怨家が最難の所縁であった。

捨の展開は違う。中人(非可愛念・非不可愛念の人)から始まり、怨人を経て、親友人を最後に置く。

なぜ親友が最後か。

捨の業処としての課題は、愛と恚の両方を伏することである。恚の方向には怨人がある。愛の方向には親友がある。怨人への捨は、嗔恚を伏することを要求する。これは困難だが、慈悲喜の修行を経た修行者には、一定の訓練がある。

しかし親友への捨は、愛着を手放すことを要求する。愛念は自然に起きる。親友の楽に喜び、親友の苦に悲しむことは、修行者の心の中で最も自然な動きの一つである。その動きを対治するのではなく──慈悲喜はそのまま機能する──しかし、その動きに引かれて平等心を失わないようにすることが、捨における親友への展開の課題である。

親友人を最後に置くのは、捨の修行が要求する最難の作業が、愛着の方向にあるからである。

逆順の構造は、捨の業処としての論理の、最も精密な表現である。


四無量心の体系として

四業処を通覧する。

同じ一人子の親が四つの場面に立つ像から出発した。慈・悲・喜・捨は、この親の四つの心の局面である。そして同時に、所縁の状況への四つの応答方式である。所縁が特定の苦も楽も持たないとき──慈。所縁が苦しむとき──悲。所縁が喜ぶとき──喜。そして、いつ、どんな状況でも──捨。

四無量心の「無量(appamaññā)」は、所縁の無限性を指す。四方充満が四業処すべての到達形式として置かれるのは、この無量性の実現としてである。修行者は、一点(所重の人)から出発し、段階を踏んで、全方向・無限の所縁へと、心を広げる。

中心命題の作動を確認する。もし一切衆生が私の意志のもとにあるなら、私は一切衆生の苦を除き、楽を与えることができるはずである。しかしそれはできない。悲の三角度で観察した苦──現世的な苦、迷いの苦、業道の苦──のどれも、私の意志だけでは除けない。

だから慈悲喜捨は、命令ではなく、心の向け方として立てられる。除くことは命令できないが、向けることはできる。願うことはできる。共に悲しみ、共に喜び、平等心として護ることはできる。四無量心は、意志の限界の内側で、修行者が最大限に向けうる心の全体として構造されている。


次へ

四無量心が完備した。業処カタログ38のうち34業処が手元にある。

次 Batch では四大観察(地・水・火・風の四界差別観)を扱う。念身の三種の覚の「空起」が四大観察へと向かう構造、そして「此の身は唯だ界のみ有りて、衆生無く、命無し」という到達点が展開される。


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