二種の天眼
天眼に二種ある。
「業果報所成、修行所成なり。」
業の果報として生まれつき備わる天眼と、修行によって得る天眼。生まれつきの天眼には、宝蔵を見る「典蔵の天眼」も含まれる。
修行所成は「四如意足を修行するなり」。坐禅人にとっての天眼は、四如意足の修習として開かれる。
光想・日想・「此の日、夜の如し」
「初めの坐禅人、是の如く四如意足を修して、心を以て自在を得。清白にして不動に至る。光一切入、第四禅に入る。光想を作意し、及び日想を受持す。此の日、夜の如し。此の夜、日の如し。心を以て障礙無く、著する所無し。心を現に修行して、光明有るを成す。」
第四禅に入る。光想を作意する。日想を受持する。
そして独特の作意が置かれる。
「此の日、夜の如し。此の夜、日の如し。」
昼を夜のように。夜を昼のように。
光と闇の二項対立を、作意で解消する。光が確立されたとき、夜は日のように明らかになる。心に障礙はない。執着もない。光明が修行者の中に成立する。
「彼は天眼に非ず」
修法は続く。
「彼の坐禅人、其の心を修行して、光明有るを成す。闇の障礙無く、日の光明を過ぐ。彼の坐禅人、是の如く心を修行す。光明を以て内に満たしむ。色の形を作意す。智を以て光明を満たしむ。」
光明を内に満たす。色の形を作意する。智を以て光明を満たす。
ここまでは、まだ天眼ではない。
「彼は天眼に非ず。」
原典は明確に区切る。光明を内に満たすこと自体は天眼ではない。智で光明を満たすことも、まだ天眼ではない。
「智を以て内の光明の色を見る。此れを天眼と謂う。」
智を以て、内の光明の色を見る。これが天眼である。
天眼は光明そのものではない。色そのものでもない。智による色の認識──それが天眼である。
「眼」という名を持つが、その実体は智である。
天眼で見るもの
「彼の坐禅人、天眼を以て清浄にして人の眼を過ぎ、衆生の或いは終し或いは生じ、或いは麁、或いは妙、或いは善色、或いは醜色、善趣に生じ、悪趣に生ずるを見る。業の作す所の如し。是の如く一切の衆生なり。」
天眼で見るのは、衆生の死と生。粗大と微細の身。善色と醜色。善趣と悪趣への生まれ変わり。
しかも、ただ見るのではない。「業の作す所の如し」──業の作すところに従って、衆生の趣が定まっている様相を見る。
天眼は色を見る神通であると同時に、業と趣の関係を見る神通である。
十二の煩悩
「是に於いて、若し能く天眼を起こさば、此の煩悩、彼の応に断ずべき所なり。」
天眼を起こすために断つべき煩悩がある。
「謂わく疑・不正憶・懈怠・睡眠・慢・邪喜・悪口・急疾の精進・遅緩の精進・多語・種種の想・最も色を観ずるなり。」
十二ある。
疑。不正憶。 懈怠。睡眠。 慢。邪喜。 悪口。 急疾の精進。遅緩の精進。 多語。 種種の想。 最も色を観ずる。
注目すべき対が並んでいる。
「急疾の精進・遅緩の精進」。精進が速すぎても、遅すぎても、天眼は起こらない。これは身通の四如意足で確認された動態的調整──「方便遅きに速相を作す。心退するに定心を作す。驚怖するに捨相を作す」──と同じ原則の煩悩としての記述。
そして最後の煩悩。「最も色を観ずる」。
天眼は色を見る神通である。しかし色に過度に傾斜すると、天眼が壊れる。所縁との適切な距離が必要である。
「此の煩悩、此れを以て一一に成就すれば、若し天眼を起こさしむれば、其の定、退を成す。若し其の定退すれば、光明も亦た失う。色を見ることも亦た失う。」
煩悩がある。定が退する。光明が失われる。色が見えなくなる。連鎖的な退転。
「是の故に、彼の煩悩、善く応に断ずべし。」
小定・小眼/無量三昧・無量天眼
煩悩を断っても、定の自在がなければ天眼は小さい。
「彼の坐禅人、小なる天眼を以て、少しき光明を知り、色を見ることも亦た小なり。」
原典は仏陀の言葉を引用する。
「是の故に世尊説く、『是の時、我れ小定なり。是の時、我れ小眼なり。我れ小眼を以て、少しき光明を知る。我れ小色を見る。是の時、我れ無量の三昧なり。是の時、我れ無量の天眼なり。我れ此の無量の天眼を以て、我れ無量の光明を知る。我れ無量の色を見る』と。」
小定なれば小眼。小眼なれば、知るのは少しの光明、見るのは小さな色。
無量の三昧なれば無量の天眼。無量の天眼なれば、知るのは無量の光明、見るのは無量の色。
定の量が天眼の量を決める。天眼は独立した能力ではない。定の自在の表現である。
天眼に依る四智
「天眼に依りて四智を生ず。未来分智・自所作業智・如行業智・業果報智なり。」
天眼から四つの智が派生する。
未来分智。「未来の色の当に起こるべきを知る。」未来に起こるべき色を知る。
自所作業智。「他人の所造の業を見る。此の業を以て、此の人、当に彼の趣に往くべしと。」他者が造った業を見て、その業によってこの人がどの趣に往くかを知る。
如行業智。「人の趣に生ずるを見る。此の業を以て、此の人、先に此れに生ずと之を知る。」人がどの趣に生まれているかを見て、その業によってその人が先にここに生まれたことを知る。
業果報智。「此の時に至り、此の趣に至り、此の煩悩に至り、此の方便に至る。此の業、応に熟すべし。此の業、応に熟すべからず。此の業、応に多く受くべし。此の業、応に少しく受くべしと、之を知る。」業の熟す時、熟さない時、多く受くべき業、少なく受くべき業──業と果報の精密な識別。
天眼自体が智であり、その天眼から四智が派生する。智から智への展開。
神通の組合せ論
五通の散句に、興味深い記述が置かれる。
「天眼を以て色を見るを為す。一種の定を修行するに、唯だ色を見て声を聞かず。」
色を見るための定を修すれば、色は見えるが声は聞こえない。
「若し天耳を以て声を聞くを為さば、一種の定を修行するに、唯だ声を聞きて色を見ず。」
声を聞くための定を修すれば、声は聞こえるが色は見えない。
「若し見聞の二を為さば、倶に定を修行すれば、亦た見、亦た聞く。若し見聞、他心を知るを為さば、定に於いて修行すれば、亦た見、亦た聞き、亦た他心を知る。」
見聞の二の定を修せば、見も聞もできる。見聞他心の三の定を修せば、三つともできる。
「若し一方を見るを為さば、定に於いて修行すれば、余の方を見ず。聞かず、他心を知らず。若し少しく定に於いて修行せずんば、一切の方に於いて、亦た見、亦た聞き、亦た他心を知る。」
一方向に固定して修すれば、他の方向は見えない。逆に固定的に修さなければ、一切の方向で見聞知他心ができる。
神通は固定した能力ではない。修行者が定を構成する仕方によって、何が把持されるかが変わる。
五通品の閉じ
そして原典は、五通品の最後に、五神通そのものの性格を明示する。
「五神通は、世間の神通、有漏、色界に繋がる、凡夫と共なり。若し善神通は、学人及び凡夫と共、或いは阿羅漢、無記の神通なり。五神通は、無色界に生ずるに於いてせず。」
五神通は世間の神通である。 有漏である。 色界に繋がる。 凡夫と共である。
これは控えめな自己評価ではない。構造的な事実の表明である。五神通は出世間の能力ではない。漏(煩悩・流出)を伴う。色界の状態に拘束される。凡夫もこれを得ることがある。
「無色界に生ずるに於いてせず」──無色界に生まれた者には五神通は起こらない。色界という具体的な領域に基盤を持つことが、五神通の成立条件である。
そして閉じの宣言。
「解脱道、神通道を説くこと已に竟る。」
「神通道」。五通品全体が一つの「道」として括られる。しかしその「道」は、解脱道の一区画である。神通道で解脱が成就するわけではない。
五通品が示したもの
第九巻の前半・五通品が、ここで完了する。
身通から天眼まで、五つの神通が展開された。各神通の本体は智である。天眼通の修法で「彼は天眼に非ず。智を以て内の光明の色を見る。此れを天眼と謂う」と明示されたとき、五通品全体の構造が確認される。
身通の「智を以て受持す」(壁に「此れ当に虚空と成るべし」と)。 他心智通の「色の変の分別を除き、唯だ心の事を取る」。 宿命通の「識の流転を憶う」。 天眼通の「智を以て内の光明の色を見る」。
いずれも智の働きである。
そしてこの章の閉じが、神通の世間性を明示する。神通は解脱ではない。神通は解脱道の一区画である。
次の章、分別慧品が開かれる。
そこで取り上げられるのは、慧そのものである。
慧こそが、出世間に至る道である。
「解脱道、神通道を説くこと已に竟る」──神通道の閉じは、慧道の開きの予兆として置かれる。
三層クロスリファレンス
| 本バッチ | 大安般守意経 | Kernel 4.x |
|---|---|---|
| 天眼の正確な所在:智による色の認識 | MODULE 12(智と認識) | Vol.7(智の構造) |
| 「此の日、夜の如し」 | MODULE 04(光一切入) | Vol.3(一切入システム) |
| 十二煩悩と業処カタログの接続 | MODULE 07(業処の適用) | Vol.4(業処システム) |
| 四智(業智の体系) | MODULE 11(因縁観) | Vol.6(因縁システム) |
| 神通の組合せ論 | MODULE 09(禅定の深化) | Vol.5(定の自在) |
| 五通品の閉じ:神通の世間性 | MODULE 13 | Vol.8(完全性証明) |
コメント