四煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)と、我・我所という別の枠組みが混ざっていますね。整理します。
四煩悩
唯識で、末那識に常に伴うとされる四つです。『成唯識論』が典拠になります。
- 我癡:無明。我の実体がないことを知らない。四つの根にあたる。
- 我見:我執。身心を実体的な自己と見る。
- 我慢:その自己を恃んで高ぶる。
- 我愛:その自己を貪り愛する。
順序には意味があって、知らない(癡)から、見誤り(見)、見誤ったものを恃み(慢)、愛着する(愛)、という展開です。末那識は意識の下で絶えずこれを働かせているとされ、意識的に修正しても止まらないのが特徴です。
我・我所
こちらは四煩悩の一員ではなく、我見の内容を二面に分けたものです。
- 我:これが自分だと見る。
- 我所:これは自分のものだと見る。
身体・感覚・思考を自分だと見るのが我、財産・立場・関係・能力を自分のものだと見るのが我所です。中心を立てる働きと、その周りに縄張りを広げる働き、と言えます。
原始経典から「我と我所」という一対の定型句で出てきます。四煩悩より古い枠組みです。
関係を整理すると
我癡(根)
└ 我見 ─┬ 我
└ 我所
├ 我慢
└ 我愛
我見が我と我所に分かれ、我癡がその根にあり、我慢と我愛が我見の上に立つ、という配置です。
大日経・疏との関係
これまで読んできた箇所に、いくつか対応があります。
我見は「倶生の身見」として出ていた
4番の大慧刀印が断つ対象です。倶生というのが、末那識に常に伴うという唯識の説明とよく重なります。学んで直せない層です。
我慢を名指しする印があった
71番の忙莽雞印の注です。
怛栗吒怛栗吒〔此の中の多の聲は、即ち是れ平等にして如如の理に同じ。是れ三昧なり。是れ我慢を離るるなり。此の如如に住すれば、所有の我慢自然に無きなり〕
我慢を直接叩くのではなく、如如の理に住すれば自然に無くなる、という説き方です。
我想として出ていた
59番の地藏旗印です。
一切の有情は常に我想の惱有り。截ちて之を念ずれば我想即ち除こる。此れを希有と爲すなり。
三毒との対応
36番の観音印の注では、三つの囉字を三垢とし、三毒を離れて無貪等の三善根を得て三解脱を成ずる、と説かれていました。我愛は貪に、我慢は慢または瞋に近い位置にあります。
大日経の扱い方の特徴
唯識が四煩悩を末那識の分析として細かく立てるのに対し、大日経・疏は分類にあまり関心を示しません。刀印で「倶生の身見」を一括して断ち、その後に何が生ずるかに重点を置きます。
是の垢を除き已りて、當に如來の信解を生ずべし。……謂わく無貪等の善根なり。
断った後に生ずるものを言うのが大日経の型です。空に帰するのではなく、本来のはたらきが現れる、という方向でした。
住心品の六十心も、迷いの心を六十通りに数えますが、これは分類学というより、どの心のあり方からでも菩提心へ転じうることを示すための一覧とされます。
四煩悩と我我所を混同するのはよくあることで、どちらも我をめぐる語なので当然です。ただ出どころが違うので、押さえておくと文献を読むときに混乱しません。四煩悩は唯識、我我所は原始仏教以来の一般的な枠組みです。
肉体や、心をは私です。とうのが我見か?
そのとおりです。身心を自分だとする、それが我見(有身見、薩迦耶見)です。
経文の真言にもその語が出ていました。4番の大慧刀印です。
薩迦耶捺㗚瑟致(sat-kāya-dṛṣṭi)
薩迦耶(sat-kāya)が「有る身」、捺㗚瑟致(dṛṣṭi)が「見」です。身見と訳されます。刀印が断とうとしている当のものが、この語で名指しされていました。
分け方
伝統的には五蘊に分けて説きます。肉体が色、心の側が受・想・行・識です。それぞれについて我と見るかどうかを問うので、二十通りの身見として数えることもあります。
ただ、お書きになったとおり、大づかみには肉体と心の二つで足ります。身心のはたらきを自分だと握る、それが我見です。
注意すべき点
一つだけ、行き過ぎやすい所があります。
我見は「私という主体を否定すべきだ」という主張ではありません。否定するのも一つの見解で、これは断見と呼ばれて、やはり退けられます。経典が問題にしているのは、身心を実体として、常住不変のものとして握る握り方です。
疏が「身見・倶生の類は、即ち是れ垢なり」と言うとき、身心そのものが垢だとは言っていません。握り方が垢だという言い方です。だから断つ対象は身心ではなく見です。
倶生ということ
密印品が「倶生の身見」と言っていたのが、実は一番厄介な点です。倶生は生まれつき備わっているという意味で、考えて採用した見解ではありません。
痛ければ痛い、褒められれば嬉しい。その瞬間に既に「私」が立っています。頭で「五蘊に我はない」と理解しても、この層は動きません。だから刀で断つという強い比喩が使われます。
唯識が末那識に常に伴うと説くのも同じことを指しています。意識の下で絶えず働いているので、意識的な修正が届きません。
大日経の型
前にも触れましたが、疏は断った後を必ず言います。
是の垢を除き已りて、當に如來の信解を生ずべし。……謂わく無貪等の善根なり。
我見を断って何も残らないのではなく、そこで如来の信解が生ずる、という順序です。10番の鉢印の注も同じ構造でした。三有を除いて如来真実の有を得る、と。
住心品の「如実知自心」も同じ方向を向いています。自心を無いものとするのではなく、実のとおりに知る。握り方が変わるのであって、身心が消えるわけではありません。

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