解脱道論 分別戒品第二 ── 物語版 Batch 16
前の物語 → 【Batch 15】六つの門を守る 次の物語 → 【Batch 17】衣・住・薬の四事 本体の仕様 → SPEC-SILA-09(シンプル版)
1. 縁修戒──四種戒の第四
四種戒の最後が始まる。波羅提木叉威儀戒(社会的行為)、命清浄戒(生計)、根威儀戒(感覚器官)と進み、縁修戒に至る。
問う、云何が四事戒を修行するや。
四事とは、衣・食・住・薬。生活必需品。生きていくために必ず要るもの。
縁修戒は奇妙な戒である。他の三つは「何をしないか」の戒だった。殺さない、盗まない、邪命を犯さない、根を暴走させない。しかし縁修戒は、必要なものを「使う」戒である。食べる。着る。住む。薬を飲む。これは行為の禁止ではない。行為の質の規定である。
答う、此の八行を以て已に乞食を觀じ修行す。
八行をもって乞食を観ずる。観ずる──これが縁修戒の核心。食そのものが戒なのではない。食を観ずることが戒。
2. 八行が始まる
否定的排除──#1 兇険でなく、自高でない
一には兇險の行を爲さず、自高の行を爲さず。
最初の行は否定形。兇険の行をしない。自高の行をしない。
我、食を貪るを以て勇健にして、兇險戲暴し、爭競馳走す。是れ兇險の行、高慢自擧して厭足を知らず。嗔者の打撲するが如し。
食を貪ることで勇ましくなり、戯れて暴れ、競って走り回る。食のために強くなり、食のために争う。それが兇険の行。高慢で自分を持ち上げ、満足を知らない。嗔る者が殴りつけるような激しさ。
否定的排除──#2 装束せず、荘厳せず
二には裝束を爲さず、莊嚴を爲さず。
身分充滿し、面貌肥悦して、人をして愛樂せしめ、情に厭足無からしむ。是れ欲有る人なり。
身体を太らせる。顔を肥えて見せる。人に愛される姿を作る。その欲に終わりはない。これは欲ある人の姿である。
最初の二行は「食を使って何かを得ようとする態度」の排除である。食で強くなろうとする。食で美しくなろうとする。食を手段にすること自体を、ウパティッサは否定する。
3. 身体の条件──#3 轂の膏
三には此の身の住の爲、自ら調護せんが爲なり。
身体が持続するため、自ら調護するため。食は身体の持続のためにある。
身の安住を貪ること、轂の膏を須いるが如し。
車輪の軸(轂)に油(膏)をさす。車を走らせるためではない。車軸が動くようにするため。油は車を美しくするものでも、車を強くするものでもない。軸の摩擦を減らし、機能を維持するためだけのもの。
身体への食は、この油と同じである。食で何かになるのではない。ただ身体が機能するように油をさす。
4. #4 瘡の薬
四には飢渇を除かんが爲なり。
常に少食に資す。是の如く修行すること、猶お瘡に藥を塗るが如し。
常に少食で済ませる。瘡(傷)に薬を塗るように。
傷に塗る薬の量は決まっている。傷を治すのに必要な量。それ以上塗れば薬の浪費。それ以下では治らない。飢渇を除くための食もそれと同じ。飢渇が除ければそれで足りる。除かれた後も食べるのは、傷が治った後に薬を塗り続けるようなもの。
5. #5 子を食うの想
五には梵行を攝受せんが爲なり。
少食の力に依りて聖道を得んことを樂しむ。是の如く修行すること、猶お子を食うの想の如し。
少食の力で聖道を得ることを楽しむ。そして比喩は一気に重くなる。「子を食うの想」。
この比喩は、経典に記される子肉経の想起である。荒野で食料が尽きた夫婦が、我が子を食べて生き延びる。一口食べるたびに悲痛である。楽しみのためでも味わうためでもない。ただ生き延びるため。
食をそのように取る。楽しみのためでも、味わうためでもなく、聖道を得るために身体を持続させる手段として。食は悲痛である──この認識が八行の中核にある。
これはBatch 11の癡戒(牛戒・狗戒)とは逆の極限である。癡戒は食を歪んだ修行の対象にする。子を食うの想は食を「悲痛な生存手段」として観ずる。歪ませず、しかし楽しまない。
6. #6 湯薬──少なからず多からず
六には常に自ら思惟す。飮食は先の病を除き新しき疾を起こさざらんが爲なり。
少からず多からず。是の如く修習すること、湯藥を服するが如し。
食は先の病(飢え)を除き、新しい病(過食)を起こさないためのもの。少なからず多からず。薬を服するように。
薬は量が決まっている。少なすぎれば効かない。多すぎれば毒になる。食の量もそれと同じ。飢えという病と過食という病の間の、正確な用量が存在する。
Batch 14で見た邪命(命清浄戒)では「何を避けるか」が記述された。本バッチでは「どう使うか」が記述される。使う戒は、避ける戒より精密な量の感覚を要求する。
7. #7 病人を看る、#8 過貪の住なし
七には當に少を以て自ら安んずべし。八には過貪の住無し。
少の功徳を以て自ら己が身を安んず。常に應に習行すべきこと、病人を看るが如し。
少量の功徳で自分の身を安んずる。常に病人を看るように修習する。
病人を看る者は、病人の必要に応じて食事を整える。欲に応じてではない。病人に食を提供することは、病人の欲望を満たすことではなく、病人の生存を維持すること。自分の身体を、他人の病人を看るように扱う。
少を以て自ら安んず。是の如く修行して身をして無からしめず。是れ智慧の歎ずる所なり。是の故に過無く安住す。
少で自分を安んずる。しかし身を失わせない。少なすぎてもいけない。智慧が讃嘆するのはこの中道。そして「過なく安住す」──過失なく住する。
8. 食と眠りと座り
八行の最後に、ウパティッサは重要な一文を置く。
若し食調適すれば、未だ甞て懈怠せず。初中後夜も亦た眠睡せず。安隱を成就す。
食が調適すれば、懈怠しない。初夜・中夜・後夜に眠らない。安穏を成就する。
これは第二巻 頭陀品の二つの項目の生理学的根拠である。第二巻 Batch 05(節量食=量を節する食)と Batch 07(常坐不臥=常に座って横にならない)。
食を節すれば眠くならない。眠くならなければ座り続けられる。座り続ければ安穏が成就する。食→眠→座は一つの連鎖である。食の戒が崩れれば眠りの戒が崩れる。眠りの戒が崩れれば座りの戒が崩れる。
ウパティッサは生理学を仏教の戒に組み込んだ。食べ過ぎれば眠くなる。これは身体の事実である。しかし、この事実を戒の中に置いたとき、食の節制は座ることの前提になる。
座ることとの接続
本バッチは、座る人間の物質的基盤を規定する。
戒は抽象的な規則ではない。食べる、着る、住む、薬を飲む──この具体的な日常の中に戒がある。座る時間はその日常の一部にすぎない。しかし座る時間の質は、日常の質に全面的に依存する。
食を観ずる八行を日常的に実践する人と、日常で食を貪る人が同じ時間座っても、結果は同じではない。食で身体を重くした人は、座ったときに眠くなる。食で身体を興奮させた人は、座ったときに落ち着かない。食で飢えた人は、座ったときに空腹が気になる。
大安般守意経 MODULE 2(六事コマンド:数→随→止→観→還→浄)は、座っているときの操作を記述する。本バッチは、その六事の前提条件としての食を記述する。食が整わなければ、数も随も成立しない。
Kernel 4.x Vol.3(信号サンプリングとプロセス因果トレース)で述べられる身体信号の管理は、食の観と同型の構造を持つ。信号を取りすぎれば処理できず、取らなすぎれば把握できない。食も量が決まっている。戒と工学が同じ原理で動く箇所。
詳細な仕様は → SPEC-SILA-09(シンプル版)を参照
原文(書き下し)
問う、云何が四事戒を修行するや。答う、此の八行を以て已に乞食を觀じ修行す。一には兇險の行を爲さず、自高の行を爲さず。二には裝束を爲さず、莊嚴を爲さず。三には此の身の住の爲、自ら調護せんが爲なり。四には飢渇を除かんが爲なり。五には梵行を攝受せんが爲なり。六には常に自ら思惟す。飮食は先の病を除き新しき疾を起こさざらんが爲なり。七には當に少を以て自ら安んずべし。八には過貪の住無し。
問う、云何が兇險の行を爲さず、自高の行を爲さざるや。答う、我、食を貪るを以て勇健にして、兇險戲暴し、爭競馳走す。是れ兇險の行、高慢自擧して厭足を知らず。嗔者の打撲するが如し。裝束莊嚴せざるとは、身分充滿し、面貌肥悦して、人をして愛樂せしめ、情に厭足無からしむ。是れ欲有る人なり。此の身の住の爲、自ら調護せんが爲とは、身の安住を貪ること、轂の膏を須いるが如し。飢渇を除くとは、常に少食に資す。是の如く修行すること、猶お瘡に藥を塗るが如し。梵行を攝受するとは、少食の力に依りて聖道を得んことを樂しむ。是の如く修行すること、猶お子を食うの想の如し。先の病を除き新しき疾を起こさざるとは、少からず多からず。是の如く修習すること、湯藥を服するが如し。少を以て自ら安んずとは、少の功徳を以て自ら己が身を安んず。常に應に習行すべきこと、病人を看るが如し。過無しとは、少を以て自ら安んず。是の如く修行して身をして無からしめず。是れ智慧の歎ずる所なり。是の故に過無く安住す。若し食調適すれば、未だ甞て懈怠せず。初中後夜も亦た眠睡せず。安隱を成就す。是の如く此の八行を以て、已に乞食を觀じ修行す。當に是の如く修すべし。
前の物語 → 【Batch 15】六つの門を守る 次の物語 → 【Batch 17】衣・住・薬の四事 本体の仕様 → SPEC-SILA-09(シンプル版)

コメント