現代語訳:第3回(第一・第二階層の最適化プロセス)
【五、除諸身行(初禅・覚観支の対破)】 第五に「諸々の身行(しんぎょう:身体的な造作)を除く」とは、初禅における「覚観支(かくかんし:言語的思考や粗い観察機能)」に対するデバッグである。これには二つの側面がある。第一に「身行とは何か」を明らかにすること、第二に「身を除く」ことの意味である。
「身行」とは何か。欲界という物理階層の身体の中で初禅(第一段階の定)を発現させると、色界(より高次元なエネルギー)の構成要素である「四大(大造色)」が欲界の身体にコンタクトしてくる。欲界の身体感覚(身根)は、この色界の触感を認識(身識)として覚知する。この「欲界と色界、二つの階層の物理的性質(色)」が同期して共存している状態を、ここでは「身」と呼んでいる。 そして「身行」とは、初禅を構成する「観支(観察機能)」を指す。この観察機能は「身体(身分)」というプラットフォームから生じるものであり、身体の中で法(データ)が造作されていることを検知する役割を持つがゆえに、「身行(身体の造作)」と名付けられる。
次に「身行を除く」ことについて。 「息が身体の隅々にまで行き渡っている(覚息遍身)」という検知を通じて初禅にアクセスすると、心のモニタリング機能(心眼)が活性化し、この身体が三十六の不浄な構成要素(不純物)から成る、忌むべきものであることを直視する。その時、これら三十六の要素はあくまで四大(物理元素)から成り、頭などの六つのパーツに分けられるが、そのどこにも「固定的な身体(自己)」など存在せず、四大の各要素自体もまた「自分」ではないことを知る。これこそが「欲界の身体」という概念を除去することである。
では「初禅の身」を除くとはどういうことか。欲界の身体の中に「色界の四大(高次元エネルギー)」という実体を求めても、それは見出すことができない。これを「初禅の身を除く」と呼ぶ。なぜなら、もしそのエネルギーが実在すると言うならば、それは「外部から来たのか」「内部から出たのか」「その中間にあるのか」を検証しなければならない。このように観察(デバッグ)していく時、最終的にそのような実体はどこにも見当たらない。ただ、誤った認識(顛倒憶想)によって「色界の触感を受け取っている」と思い込んでいるだけに過ぎない。徹底的な観察(諦観)によってその実体が得られないことを知ること、それが「初禅の身を除く」ことである。身体という執着(身)が除かれるため、それに付随する「身行(覚観)」もまた滅するのである。
補足すれば、まだ初禅を得る前の欲界レベルにいる時、人は欲界の身体において様々な善悪の行いを引き起こす。しかし今、身体が不浄で実体がないことを見抜けば、善悪諸々の煩悩の業(結業)を形成することもなくなる。ゆえにこれを「身行を除く」と呼ぶのである。
この段階の定(禅定)には二種類ある。 第一は、以前に述べた「根本五支(標準的な初禅)」である。 第二は、このメソッドによる「浄禅五支(最適化された初禅)」である。身体の構成要素が虚仮不実(データ的な空虚さ)であると覚知することを「覚」と呼び、この禅の状態が欲界や標準的な初禅(根本)の功徳といかに大きな優劣の差があるかを分別することを「観」と呼ぶ。すでに法の喜び(法喜)を得て心が大きく歓喜することを「喜」と呼び、不純物のない受容感(無垢受)における安らかな楽しみを「楽」と呼ぶ。そして正しき定によって心を安定させ、揺るがない状態を「一心」と呼ぶ。 このプロセスによって、初禅における不純な要素(支)を除去し、優れた喜楽を成就しながらも、心に執着(染著)が生じない状態。これを「浄禅(クリアな禅)」と呼ぶのである。これは阿毘曇(アビダルマ教学)で説かれる「有垢(不純)」と「無垢(純粋)」の概念に対応するものであり、この二種類の禅については、この文脈において広く理解されなければならない。
【六・七・八、受喜・受楽・受諸心行(初禅・喜、楽、一心支の対破)】 第六に「喜を受く」とは、初禅における「喜支(歓喜のパラメーター)」に対するデバッグである。標準的な禅(根本禅)における喜支は、深い観察力のない「隠没有垢(どんよりとした不純な状態)」の思考(覚観)から生じる。観察の智慧(観慧)による裏付けがないため、多くの煩悩を生む原因となる。ゆえに、そのような「喜」は受容すべきではない。 今、ここで言う「受喜」とは、最適化された(浄禅の)覚観の中から生じるものである。観察による解体(破析)が行われ、覚観自体の本質が「空」であると見抜いているため、その覚観から生じる「喜」もまた「空」であると理解している。したがって、喜びの中にありながら執着せず、過ちや罪も生じない。ゆえに「受喜(執着なき受容)」と説くのである。これは、阿羅漢(聖者)が一切の供養を受けながらも、そこに執着がないがゆえに「応供(供養を受けるに値する者)」と呼ばれるのと同じ理屈である。真実の知見によって得られる「真の法の喜び(法喜)」、それがここでの「受喜」である。
第七に「楽を受く」とは、標準的な禅の「楽支(安楽のパラメーター)」に対処するものである。標準的な禅では観察の智慧がないため、楽の中に多くの「染(執着による汚れ)」が生じる。ゆえに、それをそのまま受容してはならない。 ここでの「受楽」とは、「実体としての楽」を享受せず、楽の性質が「空」であると知り、楽の中にありながら執着しないことを指す。楽に伴う過ち(バグ)がなく、かといってその上の階層である「無為(涅槃)」に未だ到達していない中間状態における安らぎであるから、「受楽(仮の受容)」と説くのである。
第八に「諸々の心行を受く」とは、初禅の「一心支(集中のパラメーター)」に対するデバッグである。あらゆる法(現象)にアクセス可能であるため、これを「諸々の心行」と呼んでいる。 心行(心の働き)には二種類ある。第一は「動行(動的な働き)」、第二は「不動行(静的な働き)」である。ある説では、初禅から三禅までは依然として「動行」であり、四禅から上が「不動行」であるとされる。 今、簡潔に「不動行」について説くならば、覚・観・喜・楽という前四つの構成要素は「動的な働き(動行)」であり、最後の一心支が「静的な働き(不動行)」である。これを「諸々の心行」と呼ぶのは、一心支における不動の働きを指している。 もし標準的な禅の一心(集中)に入る時、そこに心的な執着(染著)が生じるならば、その一心は受容すべきではない。しかし、今ここで「諸々の心行を受く」と説くのは、この一心という集中状態が虚像(虚誑不実)であり、実体的な心などではないと見抜いているからである。執着せず、過ちも生じないこの状態こそが「三昧正受(正しい集中の受容)」であり、ゆえに「諸々の心行を受く」と説くのである。
【九・十、心作喜・心作摂(二禅の喜、一心支の対破)】 第九に「心に喜を作(な)す(心作喜)」とは、二禅(第二段階の定)における「内浄喜(ないじょうき:内なる静寂から生じる喜び)」に対するデバッグである。なぜこれが必要かと言えば、二禅の喜びは「内なる静寂」から生じるが、そこに智慧による照合(照了)がなければ、その喜びを過剰に受け取ってしまう(執着する)からである。 今、この喜びを観察し、それが実体のない虚像であることを知って、執着が生じないようにする。真実の知見から生じるこの喜びは、悟りへの構成要素である「喜覚分(きかくぶん)」とも呼ばれる。正しい観察(正観)から真の法喜が生じるがゆえに、これを「心作喜(意識的な喜びの生成)」と呼ぶのである。
第十に「心に摂(しょう:安定)を作す(心作摂)」とは、二禅の「一心支」に対処するものである。なぜかと言えば、二禅の喜びは意識を揺り動かすため、それを安定させる制御(摂)が必要だからである。ゆえに「心作摂」と説く。 ここで言う「摂」とは、正に、前段階の「偽りの喜び(偽喜)」を打ち破り、智慧に基づく「喜覚の喜び」を生じさせることである。この喜びは正しいものではあるが、依然として「湧動(心が湧き立つ)」という過ちがないわけではない。したがって、即座にその「喜びの性質(喜性)」を返観(デバッグ)しなければならない。その喜び自体も空寂(空で静か)であると知れば、最終的に(畢竟)定まった心は乱れず、喜びの揺れに流されることもない。これを「摂を作す」と言う。経典(大集経)に「心に至るまで動く(深層意識まで微細に動いている)」とあるのは、この微細な揺らぎを指しているのである。

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