現代語訳:第1回(導入 + 物理センサのサンプリング)
第三に「修証(実践と証明)」について明らかにする。 ここで「修証」と名付ける理由は以下の通りである。まず、意識的に作動させて修習しているが、まだ心が対象と完全に一致していない状態を「修」と呼ぶ。一方、「証」とは、自然な働き(任運)によって機能が開発され、心が対象と完全に一致(相応)した状態を得ることを指す。
すでに三人の論師が定めた観法(観察システム)の違いについては述べた。ここからは「修」と「証」の違いについて述べる。前の論師は「欲界の未到地および初禅において、四念処に該当するものとして十六特勝を明らかにする」と述べた。この観法の全体的な意味は(私が説くものと)異ならない。以前に六妙門の中で説いた観法と同じように、細かな違いがないわけではない。名称の違いはあるが、よく検討して当てはめればその意味は理解できるはずだ。したがって、ここでは煩わしく個別の修証については説かない。
ここでは、後の論師の説を正しく明らかにする。三界(欲界・色界・無色界)の垂直的な階層構造に対応させて、真の「特勝(特別な優れた方法)」を明らかにする。これまではこの観慧(観察と智慧)の具体的なメソッドを説いてこなかったため、ここでその「修証」の具体的なプロセスを提示する。
【一・二、知息入出(数息の代替と物理的検証)】 垂直方向に十六特勝の実践(修)を明らかにする。第一は「息が入るのを検知する(知息入)」。第二は「息が出るのを検知する(知息出)」。これは従来の「数息(息を数える方法)」を代替するものである。呼吸を調整する具体的な手法は、以前「数息」の項目で説いた通りである。 実践者はすでに呼吸を調整し、途切れることなく一心に息の動きに意識を同期(依随)させる。息が入る時は、主要な物理センサである「鼻の端(鼻端)」から入って臍(へそ)に至ることを確認し、息が出る時は、臍から出て鼻に至ることを明確に検知する。このように一心に息をモニターし、同期させて意識を乱さない。
その時、息の「麁細(そさい:荒さと細やかさ)」の相を知る。麁(荒さ)とは、風のように喘ぐ気を知って荒いと判断し、細とは、静かな息の相を知って細やかだと判断することである。もし入る息が荒い時は、即座にこれを調整して細やかにする。これを「麁細の相を知る」と呼ぶ。例えるなら、門番が、出入りする人間を確認し、善人か悪人かを見極めるようなものである。善人(良い息)と知れば通し、悪人と知れば遮断する。
さらに「麁細を知る」ことについて述べる。基本的に入る息は荒く、出る息は細やかである。なぜそうなるのか。入る気は鋭く急激であるために荒く、出る息は滞り遅いために細やかになるからである。 次に「軽重」を知る。入る息の時は軽く、出る息の時は重いことを知る。なぜなら、入る息が体内にある時は身体を軽くさせるが、出る息の時に体内に風気がなくなれば、身体の重さを自覚するからである。 次に「渋滑(滑らかさと滞り)」を知る。入る息の時は滑らかで、出る息の時は渋滞する。なぜなら、息は外から入ってくる時は風気が鋭いため滑らかだが、内から出る時は体内の不純物(滓穢)を吹き飛ばして毛穴を塞ぐため滞るからである。 次に「冷暖」を知る。入る息の時は冷たく、出る息の時は温かいことを知る。息は外から冷たい気として入ってくるため冷たく、内から出る時は体内の熱気を伴って出るため温かいのである。 次に「久近(長さと短さ)」を知る。入る息の時は短く(近)、出る息の時は長い(久)。入る息は鋭いため尽きやすく、出る息は滞るため尽きにくいからである。
さらに、この出入りの息があるがゆえに、一切の苦しみや煩悩が生じ、生死を絶え間なくループ(輪転)し続けるのだという事実を覚知しなければならない。ここで心に驚きと畏れを知る。実践者が息に同期する時、息にはこのような単一ではない複数の物理的・現象的な相があることを知る。ゆえに「息の入出を知る」と言うのである。
問う。なぜこの方法で「数息」を代替するのか。 答える。もし「数息」を行えば、ただ心を暗くして数を数えるだけで、そこに観察(観行)が存在しない。実践の際に、愛(執着)・見(誤った見解)・慢(驕り)などのシステムのバグ(煩悩の病)を多く生じさせてしまう。「愛」とは数息自体に執着すること。「見」とは「自分がうまく数えられている」と錯覚すること。「慢」とは「自分は他者よりうまくできている」と思い上がり、他者を見下すことである。 今、「随(同期)」をもって「数」の代替とするのは、息に同期した時、即座に「この息は無常であり、生命は息に依存している」と覚知できるからである。息を命の基準とし、一息が戻らなければ即ち命は終わる。すでに息が無常であると悟れば、身体と命がいかに脆弱であるかを知る。息の無常を知れば「愛(執着)」は生じない。息が自分自身ではないと知れば「見」は生じない。無常を悟れば「慢」は生じない。これは初期のメソッドの段階から、すでに諸々の煩悩(結使)を論理的に破壊しており、数息とは決定的に異なるのである。
さらに、実践者が一心に息に同期し、心を散らさずに禅定にアクセスできるため、これを「亦愛(やくあい:定の安定)」と名付ける。無常を覚悟するため、これを「亦策(やくさく:慧の観察)」と名付ける。定と一致している状態を「亦有漏(やくうろ)」と呼び、観察を行って執着しない状態を「亦無漏(やくむろ)」と呼ぶ。 また、数息の時は心を暗くして数えるため、対象への明確な認識(照了)がない。そのため、後に定を証明する段階になっても、心には何も見えない。しかし、今の「息に随う者」は、すでに心をクリアにして息をモニタリングしている。後に定を証明する時には、心の眼が開かれ、身体の三十六の構成要素(不浄)を明確に認識し、愛・見・慢を破壊する。これこそが「特勝」であり、数息よりも優れている点である。

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