現代語訳:第2回(欲界・未到地における状態モニタリング)
【三、知息長短(欲界定の対破)】 第三に「息の長短を知る」とは。これは「欲界定(よくかいじょう:欲界レベルの禅定)」に対するデバッグ(対破)である。 通常、欲界定を証明(体験)する時、その状態(定)は明るく清浄であるため、息の相貌(状態や動き)をまったく覚知できなくなってしまうのが一般的である。しかし今、このメソッドの中で初めて定を得た時は、直ちに息の中の長短の相(パラメーター)を明確に覚知する。
では、何をもって「覚知」とするのか。もし心が定まった時、入る息は長く、出る息は短いことを覚知する。なぜなら、心がすでに内側に静かに留まっていれば、息は心に従って深く入っていくため「入る息は長い」と知る。すでに心が外側の対象に縁(リンク)していないため「出る息は短い」と知るのである。
さらに、息が長いと覚知すれば、それは「心が微細(細)である」ということだ。息が短いと覚知すれば、それは「心が荒い(麁)」ということだ。 なぜなら、心が微細であれば息も微細になるからだ。息が微細であれば、入る息は鼻から臍(へそ)に至るまで微かに緩やかで長く、出る息も臍から鼻に至るまで同様に緩やかで長い。逆に心が荒ければ息も荒くなる。息が荒ければ、入る息は鼻から臍に至るまで急激で短く、出る息も臍から鼻に至るまで同様である。
さらに(別の視点から見ると)、息が短いからこそ心が微細であると覚知し、息が長いからこそ心が荒いと覚知することもある。 なぜなら、心がすっかり静かになった状態では、出る息は臍から胸に至ったところですぐに尽き、入る息は鼻から喉の間に至ったところですぐに尽きるのを検知するからだ。これは、心が極めて静かであるからこそ「息の動き(ストローク)が短い」と覚知するのである。 逆に、息が長いと覚知するから心が荒いというのは、実践者の心が荒いために、出る息は臍から鼻に至り、入る息は鼻から臍に至るまでの距離(道程)が長く遠く感じられるようなものである。これは、心が荒いために「息が長い」と覚知するのである。
さらに、短い距離(短)の中に「長さ」を覚知すれば、それは定(集中状態)が微細であることを意味する。長い距離(長)の中に「短さ」を知るのは、状態が荒いことを意味する。 なぜそうなるのか。例えば、息が鼻から胸に至って尽きる場合、その物理的な移動距離(行処)は短い。しかし、もしそこにかかる「時間」が非常に長く、長い時間をかけてようやく臍に至るのであれば、これは「距離は短いが時間(時節)は長い」状態である。この論理に従えば、「距離の短さの中に時間の長さを覚知する」状態は、定が微細である証拠である。 逆に、「距離の長さの中に時間の短さを覚知する」状態が荒いというのは、心が荒いために息が鼻から臍に至るまでの距離は極めて長いにもかかわらず、かかる時間は短く、一瞬(欻然)のうちに鼻から出てしまうような状態である。なぜなら、心が荒いために気息の移動スピードが速いからだ。これは距離が長いにもかかわらず時間は短く、結果としてこの「息の時間が短い」状態は、心が荒いことを示している。 ゆえに「短中に長くして細、長中に短くして麁」と言うのである。
このように息の長短と時間(時節)の感覚を覚知し、無常とは「心の生滅が一定ではないこと」に由来するのだと知るがゆえに、今の息の長短のパラメーター(相貌)は決して単一ではないと理解する。この定を得た時、無常を覚悟する(システムが常に変動していることに気づく)ことが、ますます明確になる。 欲界定を証明(アクセス)しているがゆえにこれを「亦愛(やくあい:定の安定)」と名付け、観行(モニタリング)して無常を覚知しているがゆえにこれを「亦策(やくさく:慧の働き)」と名付ける。以上が、第三の「息の長短を知る」ことによって欲界定のバグを打ち破る(対破する)プロセスの略説である。
【四、知息遍身(未到地定の対破)】 第四に「息が身体に遍満している(行き渡っている)ことを知る」とは。これは「未到地定(みとうちじょう:初禅の手前の深い定)」に対するデバッグである。 通常の根本的な未到地定に入ると、ただちに身体の感覚(身相)が消え去り(泯然)、まるで虚空のようになったと覚知する。その時、実際には身体も息も存在しているのだが、ただ心の眼(モニタリング機能)が開いていないために、それに気づかず、見えていないだけなのである。
しかし今、この十六特勝のメソッドの中で未到地定を発生させた時は、同様に身体感覚が消えて入定するものの、そこから徐々に身体が「雲の影」のように存在していることを覚知する。そして、出入りの息が身体の毛穴(毛孔)の隅々にまで行き渡っていることを覚知する。 その時、同時に息の長短のパラメーター等も覚知し続ける。息が入ってもどこかに蓄積される(積聚)ことはなく、息が出ても霧散する(分散)ことはなく、ただ無常に生じては滅しているという事実を観る。身体というものが実体を持たない仮のデータ(空仮にして不実)であることを覚知し、またそれが生滅を繰り返し、一瞬(刹那)たりとも同じ状態に留まらないことを知るのである。
身体、息、心の三つの要素(三事)がリンク(和合)することによって定が発生する。しかし、この三つの要素がすでに実体のないもの(空)であると分かれば、定が依存する基盤(所依)は存在しない。「空」という概念自体もまた「空」であることを知り、定の状態(安定したシステム状態)に執着しなくなる。これによって根本的な未到地定のバグを破壊し、「愛(定)」と「策(慧)」の機能がすでにその中に備わっていることになる。
問う。大乗(摩訶衍)の教えや各種の経典では、多くの場合「息の入出を観る(観ず)」と説かれている。なぜここでは「息の入出を知る(知る)」と言うのか。 答える。これは「知る」と表現して「観る」こととしているのである。ただし、この段階ではまだ観法(観察システム)が完全に具足(完成)しているわけではないため、あえて「知る」と表現している。『大品般若経』広乗品の中で十六特勝の相を明らかにする際にも、すべて「息の入出や長短を知る」と記述されている。この経文を証明とし、「知る」と説いても文献の意味に背くことはない。本格的な「観慧(観察と智慧)」については、この後のプロセスで説くことになる。

コメント