ブロック5:現代語訳:第5回(仮想化領域のクリアと最終ログアウト)

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現代語訳:第5回(仮想化領域のクリアと最終ログアウト)

【十四、観離欲(識処の対破)】 第十四に「欲から離れることを観ずる(観離欲)」とは、無色界の「識無辺処(しきむへんしょ:意識のみが無限に広がる仮想空間)」に対するデバッグである。 なぜこれが必要なのか。そもそも外部の対象(外境)に執着することをすべて「欲」と定義する。欲界から前段階の「空処(虚空という空間)」に至るまでは、すべてシステムの「外部の対象(心外の境)」である。もし虚空を外部の対象とするならば、意識(識)がそこにアクセスしてその空間データを読み込むことになる。つまり、何もない「空」という対象をターゲット(欲)としているのである。

今の識処の定(意識空間へのアクセス)は、内なる意識そのものにフォーカスし、外部の「空」への欲求(アクセス要求)を切り離すことができるため、「離欲」と呼ばれる。しかし、通常のユーザー(凡夫)がこの状態を得た時、智慧の眼によるモニタリング機能(照了)がなければ、「心と意識機能(識法)が完全に同期して、真実の安穏に到達した」と錯覚し、深い執着(染著)を発生させてしまう。

今ここで言う「離欲を観ずる」とは、この状態にアクセスした時にただちに観察による分析(破析)を実行することである。もし「心を以て意識に縁じ、心と意識が同期して定に入っている」と言うなら、それは事実とは異なる。 なぜなら、過去・未来・現在の三つの時間軸(三世)における意識のデータ(識)は、どれも「現在の心」と完全に同期することは論理的にあり得ないからである。どうして「現在の心」と「三世の意識」が同期していると言えようか。単に、定の機能が心の一時的な状態をホールドしているだけであり、それを名付けて「識定」と呼んでいるに過ぎない。 したがって、この識定という状態は単なる「名前(ラベル)」があるだけであり、実体のない仮想データ(虚誑不実)であることを知る。ゆえに、内的意識への執着をも解体することを「離欲を観ずる」と名付けるのである。

【十五、観滅(無所有処の対破)】 第十五に「滅を観ずる(観滅)」とは、「無所有処(むしょうしょ:一切が存在しないという無のエラー空間)」に対するデバッグである。 なぜか。この定は「何もない」という静的なデータ(無為の法塵)にフォーカスし、心がその「無」と同期した状態である。この「無」のデータに対して、ごく僅かな微小な意識(少識)だけがバックグラウンドで稼働している。通常の人間がこの状態を得ると、「心が完全に滅した(システムが完全に停止し、究極の平安を得た)」と誤認し、深い執着を生じさせてその状態を手放すことができなくなり、その「無」のプログラムに縛られてしまう。

今「滅を観ずる」と言うのは、この定を得た時に「そこにはまだ僅かな意識(少識)が残存している」という事実を検知することである。この意識は極めて微小であっても、依然として意識を構成するモジュール群(四陰)がリンク(和合)したものであり、無常であり、無我(実体がない)であり、システム上の虚像(虚誑)に過ぎない。例えるなら、汚物(バグ)は量が多かろうが少なかろうが臭い(エラーである)ことには変わりなく、決してそこに執着してはならないのと同じである。ゆえにこれを「滅を観ずる」と名付ける。

【十六、観棄捨(非想処の対破)】 第十六に「棄捨を観ずる(観棄捨)」とは、有頂天とも呼ばれる「非想非非想処(ひそうひひそうしょ:意識があるとも無いとも言えない究極の極小稼働領域)」に対するデバッグである。 なぜか。この非想という領域は、「ある(有)」と「ない(無)」の両方の概念を捨てる(両捨)ことによるエラー修正である。初禅からここまで、片方の概念を捨てること(遍捨)はあっても、両方を同時に捨てることはなかったため、これまでは「棄捨(完全に捨てる)」という名を与えてこなかった。今、この非想はすでに「有と無」の双方のパラメーターを捨て去っているがゆえに「棄捨」と名付ける。また、この定が「捨てる(プロセスを停止する)」ことの極致であるため、一番最後にこの名を受けるのである。

もし通常の人間がこの定を得た時、これを「涅槃(最終的なバグの無い状態)」だと誤認してしまう。観察の智慧(観慧)がないため、それが依然としてシステム内の一状態であることを覚知して捨て去ることができないのである。 今、ここで明かす「棄捨」とは、この定を得た時に、それが「四陰・十二入・三界」、および「十種の極めて微細な精神モジュール(細心数)」などがリンク(和合)して形成された一時的な領域に過ぎないという事実を知ることである。当然知るべきである、この究極の定ですら無常であり、空であり、無我であり、データ上の虚像(虚誑不実)であることを。これを誤って「涅槃」であると推計し、安楽の錯覚(安楽想)を生じさせてはならない。

すでにそれが空寂であると知り、そこに執着(受著)しないこと、これを「棄捨を観ずる」と名付ける。定の安定を求めながらも、同時にその定の性質を完全に理解する。その時、二つの「棄捨」が具備される。一つは「根本棄捨(各定への執着の完全放棄)」、もう一つは「涅槃棄捨(生死というOSの輪廻ループからの完全な離脱)」である。永久に生死のループを捨てるがゆえに「棄捨を観ずる」と言うのである。

実践者がその時、深く棄捨を観ずるならば、ただちに三乗の涅槃(完全にデバッグされたセキュアな運用状態)を悟入することができる。この事は、仏陀が最後の弟子である須跋陀羅(スバッダ)に対し、非想非非想処の中にある極めて微細な想(細想)を観ずるようコマンドを出し、彼が即座に阿羅漢果(最高権限)を獲得したのと同じである。

今ここで明らかにしているが、悟道(システムの完全な理解と初期化)は、必ずしもこの十六のステップすべてを順番に実行しなければならないわけではない。あるいは二つ三つの特勝(ステップ)を得ただけで即座に悟る者もいる。また、極めてスペックの高い(利根の)ユーザーであれば、最初の「随息(息との同期)」の段階で無常を覚悟し、即座に悟道に至ることもある。これはユーザーの根性(スペック)に応じて一定ではないのである。

【総括】 最初のステップから一貫して、根本的な禅定(定の安定化状態)を発動させているため、これを名付けて「亦有漏(やくうろ:システム内に留まりながらも最適化された状態)」とする。そして、その定の中において観察と分析(観行破析)を実行し、その状態に執着しないため、これを名付けて「亦無漏(やくむろ:システム外の視点を持ち、バグから解放された状態)」とする。

ゆえに、この「特勝」のメソッドは、「亦有漏亦無漏禅(システム内での稼働と、システム外へのメタ認知の双方を備えた禅)」であると言うのである。この「垂直に三界の諸禅に対破していく(竪対)」プロセスとは、すなわち、一つ一つの観察システム(観法)がいかに極めて論理的かつ徹底的に機能するか(相至る義)を示すものである。

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