色を離れて虚空に入る──虚空無辺処への移行

解脱道論 第五巻 行門品の二 Batch 05

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目次

色界の極点から、色そのものへの問い

前のバッチで、第四禅の到達が示された。色界の極点。捨念清浄。不苦不楽。白畳のように身心を覆う捨楽。出入息の断ず。下・中・上の区分がない、妙枝の彼岸。

ここから先、色界の内部で進む道はない。第四禅が色界の最深点であり、色界の極点である。

より深い到達を求める者は、どこへ向かうのか。

原典は、ためらわずに答える。色そのものを越える

これは、色界の内部での深化とは質的に違う動きである。初禅から第四禅までは、色界の中で粗から細へと進んできた。同じ色界の中で、禅支を変えながら、深度を変えながら、進んできた。しかし虚空無辺処への移行は、色界そのものを出る動き。舞台そのものを替える。


色の過患──身体の全重荷

この移行の動機として、原典はまず色の過患を示す。ここで示される色は、欲界の色である。色界の禅定者は、既にこの粗大な色からは離れている。しかし、改めてその過患を思い起こすことで、色そのものを越える動機が強化される。

器仗を取り相打ち闘諍し、両舌・妄語・手足を截る等の如し。種々の諸事、眼痛・疾患・寒熱・飢渇の諸苦あり。是を色欲の過患と謂う。

七つの過患が並ぶ。

武器を取って互いに打ち合い、闘諍する。これは人と人が身体を持つことから生じる暴力。

両舌と妄語。これは身体の行為ではなく口の行為だが、身体を持つがゆえの争いの延長として、ここに列挙される。

手足を截る──身体を切断される。戦争と刑罰の両方を含意する、身体を持つことの最大の危険。

眼痛。感覚器官の苦。目が痛む、見えなくなる。身体の一部が機能しなくなる苦。

疾患。病。身体を持つことが、そのまま病の可能性を持つこと。

寒熱。気候の変化による苦。外気に晒される身体の苦。

飢渇。食欲と渇きの苦。身体が持続するために必要な食と水が、得られないときの苦。

これらは、身体を持つことの全重荷である。身体があるかぎり、これらの可能性から逃れられない。戦争があれば武器にさらされる。他者との関係の中で嘘が飛び交う。気候は変わり、時に極端に振れる。病は予告なしに襲う。飢えと渇きは常に背後にある。

色界の禅定者は、定の中ではこれらを感じない。しかし定を出れば、身体は依然として存在する。身体がある限り、これらの潜在的な苦からは逃れられていない。


色界の禅定そのものの過患

色の過患は、欲界の粗大な苦だけではない。色界の禅定そのものにも過患がある。

云何なるか第四禅の過患。此れ喜に近くして怨を成じ、色事に依る。是を名づけて麁と為す。是において楽に著すれば勝分を成ぜず。虚空寂寂解脱に依るに、此の定においては麁を成ず。

第四禅は、喜に近い。これは前のバッチで繰り返された論理──第二禅は覚観に近く、第三禅は喜に近く、第四禅は楽に近い。上から見れば、下は必ず「近い」。隣接性が過患として立ち現れる。

そして決定的な表現──色事に依る。第四禅は色事に依存している。色の事柄に依拠している。色という前提の上に立っている。

虚空寂寂解脱に依るに、此の定においては麁を成ず。虚空の寂寂たる解脱から見れば、色定は粗。虚空を知らない者にとって、色定は深い到達である。しかし虚空を知る者にとって、色定は色への依存ゆえに粗い。

ここに、相対性の二重性が現れる。欲界から見れば、色界の禅定は深い解放。しかし無色界から見れば、色界の禅定は色への依存。同じ第四禅が、視点によって異なる相を帯びる。


地一切入の相を除く──第四巻からの大きな転換

虚空無辺処への作意は、極めて具体的な動作から始まる。

第四禅に入り無辺虚空定を念じ、此の定より起ちて地一切入の相を除く。

第四禅に入る。そこで無辺虚空定を念じる。そしてその定から起って、地一切入の相を除く

この「除く」の一語が、重大である。

第四巻以来、地一切入の相は、修行の中心的な所縁だった。曼陀羅の作法から始まり、取相、彼分相、禅外行、安。そして初禅・第二禅・第三禅・第四禅。すべてが地一切入の相を縁として展開してきた。相の守護、相の増長、相の深化。この相を失うことは、退分であり、失敗だった。

その地一切入の相が、ここで除かれる

失うのではない。退くのではない。除くのである。積極的に手放す。虚空定の成立のために、相を場所から撤去する。

発見1.17(排除による純化)の、最も劇的な実装である。曼陀羅の作法で「除く」が曼陀羅の周囲の異物の除去だったとすれば、ここでは「除く」が修行の中心的な所縁そのものを除去する動作になっている。排除の対象が、完全に逆転する。

そして、先の対話で確認された発見2.17(対象は物自然、定の状態が主役)が、ここで実装的に証明される。地相を除いても、定は崩れない。念は続く。所縁は替えられるが、定と念そのものは持続する。対象は方便であり、定の状態が本体である──この命題が、虚空無辺処の移行の中で証明される。

地相が除かれた場所に、新しい所縁が立つ。虚空である。

虚空において作す所の事、無辺を作意す。

虚空を作意する。そして無辺を作意する。


三つの越えと一つの作意

原典は、虚空無辺処の成立を四つの動作で記述する。

彼の坐禅人、已に起りて、一切の色相・有対想滅し、種々の想において作意せざるが故に、無辺空処に正受し入住す。

一切の色相を越える。有対想を滅する。種々の想において作意しない。そして無辺を作意する。

これらは並列の動作ではない。連動する。一つが他を含意し、一つが他を条件とする。


一切の色相とは何か

色相とは何か。視覚的な形のことだけではない。

色相とは、云何なるか色相。色界の定・想・智・正智に入る。これを色相と謂う。

色界の定・想・智・正智に入るもの。つまり色界の認識機能の全体。色界で働く定、色界で立ち上がる想、色界の智、色界の正智。これらすべてが色相である。

越えるとは、これらを起こさないこと。色界の認識機能を、もはや発動させない。

これは劇的な転換である。色界で長らく育ててきた認識機能──初禅の覚観、第二禅の内信、第三禅の捨念智、第四禅の捨念清浄──これらすべてを越える。色界における認識の達成を、所縁の変更と共に、起こさない側に置く。


有対想の滅

有対想とは、五官の対象への想である。

色想・声想・香想・味想・触想、これを有対想と謂う。

視覚への想、聴覚への想、嗅覚への想、味覚への想、触覚への想。

色を見て「これは何色である」と立ち上がる想。音を聞いて「これは何の音である」と立ち上がる想。これらが有対想。対(対象)に向かう想。

滅するとは、これらの想が尽きて、作意しないこと。色を見ても「何色である」という想が立ち上がらない。音を聞いても「何の音である」という想が立ち上がらない。


五百の車の故事

原典は、この状態の実例として、一つの故事を引く。

迦蘭欝頭藍弗の無想定に入りて、五百の車、前より去来するを見ず聞かざるが如し。

迦蘭欝頭藍弗──この名は、仏陀の出家後の師の一人として仏典に登場する。仏陀自身がこの師のもとで修行し、無所有処あるいは非想非非想処の定を得たとされる。その師が、無想定に入っているとき、五百の車が前を往来した。しかし彼は見ることも聞くこともなかった。

五百という数は、具体的な数というより、圧倒的な刺激の象徴。それほどの刺激があっても、届かない。目の前で車が動いているのに、見えない。音が響いているのに、聞こえない。

目や耳が機能を停止したのではない。身体の感覚器官は働いている。五百の車が通れば、通常なら視覚刺激も聴覚刺激も身体に到達する。しかし、想が立ち上がらない。刺激が認識として結実しない。

これが有対想の滅の実例である。五官は働くが、五官の対象への想が働かない。刺激と認識の間に、通常は自動的に成立する橋が、そこでは架からない。


種々の想を作意しない

種々の想は、有対想とは別の種類の想である。

不入定の人、或いは意界和合し、或いは意識界和合する想・智・正智、これを種々の想と謂う。

不入定の人──定に入っていない人の通常の意識。そこでは意界や意識界が様々な対象と和合する。和合して、想・智・正智が生じる。

通常の思考、連想、判断、記憶の想起、計画、想像。これらすべてが「種々の想」である。日常の意識の中で絶えず生じる、多様で変動する想の流れ。

これを作意しない。起こさない方向に心を向ける。


想が鍵である理由

ここで原典は、一つの問いを自ら立てる。

問う、何が故に止想を越ゆるを説き、受行識を説かざるや。

なぜ想の越えだけを説き、受行識の越えを説かないのか。五蘊のうちの一つだけを言及して、他の三つ(受・行・識)を言わないのはなぜか。

答えは簡潔である。

答う、若し想を越ゆれば、彼の一切も皆亦た越ゆるを成ず。何を以ての故に。若し想を離れざれば心越ゆるを得ず。

想を越えれば、他の一切も越えられる。想を離れなければ、心は越えられない。想が鍵である。

これは、先の対話で深められた論点と結びつく。想は、心が対象を把握する根本機能。想があるかぎり、心は対象に向かう。対象に向かう心は、その対象の位相に留まる。位相を転換するには、想の向かう先を変える必要がある。想が現在の対象を離れなければ、位相は変わらない。

色から虚空への位相転換のためには、色への想を離れ、虚空への想を立てる必要がある。受・行・識は、想の転換に自然に随う。しかし想が転換しなければ、受も行も識も、前の位相に留まる。

想は、位相を決定する機能。ゆえに、位相転換の中心は想にある。


色と欲の二重の断

原典は、虚空無辺処の成立を、さらに精密に分析する。

是において一切の色想を起すとは、色界の法を断ずるを説く。有対想滅し種々の想を作意せざるとは、欲界の法を断ずるを説く。

動作断じる領域
一切の色想を越える色界の法を断ずる
有対想を滅する欲界の法を断ずる
種々の想を作意しない欲界の法を断ずる

色想の越えは、色界の断。有対想と種々の想の停止は、欲界の断。

欲界は、既に初禅で離れたはずである。では、なぜここで改めて欲界の断が説かれるのか。

答えは、欲界の痕跡が色界にも残っていたから。色界の禅定者は、定の中では欲界の粗大な苦から離れている。しかし、潜在的には、五官の対応可能性、種々の想を生じる可能性を持ち続けていた。定から出れば、これらは再び働く。色界の断は、この潜在的な残留を完全に除去する地点。

欲界は、初禅で超えられ、色界でさらに距離を取られ、そして虚空無辺処で残留が完全に断じられる。長い分離のプロセスが、ここで完結する。


もう一つの読み

原典は、この三つの動作について、もう一つの解釈を並記する。

復た次に一切の色想を越ゆとは、無色界を得るを説く。有対想滅するとは、彼の定の外乱を断ずるを説く。現に無動を顕わさんが為なり。種々の想を作意せざるとは、定の内乱を断ずるを説く。現に寂寂解脱の相を顕わすと説く。

動作二つ目の解釈
一切の色想を越える無色界を得る
有対想を滅する定の外乱を断ずる(無動)
種々の想を作意しない定の内乱を断ずる(寂寂解脱)

一つ目の解釈では「界の断」として説明された三動作が、二つ目の解釈では「乱の断」として説明される。

外乱──外側からの乱。五官を通じて入ってくる刺激。これが有対想を生む。有対想の滅は、この外乱を断ずる。結果として無動となる。

内乱──内側からの乱。意界や意識界が様々な対象と和合して生じる想。これが種々の想を生む。種々の想を作意しないことは、この内乱を断ずる。結果として寂寂解脱が現れる。

発見1.5(別説の併記)の、無色定における再出現。ウパティッサは二つの解釈のどちらが正しいとは言わない。両方が有効。一方は界の観点から、もう一方は乱の観点から、同じ事態を描く。


虚空──四大の触れない空間

では、この定の所縁である「虚空」とは何か。

問う、無辺虚空とは云何なるか空と為す。答う、是れ空入・空界・空穴にして、四大の触れる所と為らず。これを空と為すと謂う。

虚空(ākāśa)は、空入・空界・空穴。そして四大の触れる所と為らず。四大──地・水・火・風、物質の四要素──が触れない場所。

これは重要である。虚空は、「何もない」ではない。物質の否定ではない。物質に触れられていない空間。物質の間にある開き。物質と物質の間の、触れられない領域。

物質があり、その間に虚空がある。物質があることと虚空があることは、両立する。虚空は物質の不在ではなく、物質の間の開き。

しかしこの「触れられない」という性質が、虚空を独特の所縁にする。物質は触れられる。地は触れられる、水は触れられる、火は触れられる、風は触れられる。色(rūpa)は、基本的に触れられるものとして定義される。その触れられるものの間に、触れられない何かがある。それが虚空。

そしてこの「触れられない」が、無辺と結びつく。触れられないものには、境界がない。境界は触れることから成立する。触れられないものには、内と外の区別がない。


無辺──境界のなさ

無辺(ananta)は、単に「広い」という意味ではない。辺がない、境界がない。内外の区別が成立しない。

空において正しく安んずる心をして無辺に満たしむ。これを無辺と謂う。

心を虚空の中で正しく安んじ、その心を無辺に満たす。

この作業は、地一切入の相の「増長」(第四巻 Batch 06)と、方法論的に連続している。地一切入の相を、心的作意によって世界大まで拡張する──それが増長だった。ここでは、虚空を無辺として作意する。境界を取り払い、拡張の限界を設けない。

しかし虚空の場合、増長の性格が違う。地相は有限から無限へと拡張された。虚空は最初から無辺として作意される。境界を持つものを拡張するのではなく、境界のないものを、そのまま境界のないものとして把握する。


虚空処という名の二重性

「虚空処」という語は、二つのものを指す。

虚空入とは、虚空処に入る心・心数法、これを虚空入と謂う。虚空入とは何の義ぞ。是れ虚空の無辺性なり。

第一に、虚空そのもの。虚空の無辺性そのもの。

第二に、その虚空に入る心と心数法。つまり、虚空を所縁とする定の状態。

両者が「虚空処」と呼ばれる。対象(虚空)と主体(その対象に入る心)の両方を含意する名。

原典は、比喩として「天処」を引く。

天処に住するを天処と名づくるが如し。

天の場所に住することを「天処」と呼ぶ。場所としての天と、そこに住する者としての天、両方を同じ語で呼ぶ。虚空処も同じ構造。


劫数の跳躍

虚空無辺処を修して命終する者は、虚空天に生まれる。

此の功徳、虚空に生ず。寿命二千劫なり。

寿命二千劫。

色界で積み上がった劫数と比較する。第二禅上の光耀天が8劫、第三禅上の遍浄天が64劫、第四禅の無想天が50劫、五浄居処も色究竟天で16000劫ほど。そして虚空天は2000劫。

64劫から2000劫への跳躍。約30倍。色界の下・中・上の倍々構造(2→4→8→16→32→64)は、無色定に入ると破れる。連続倍々が途切れる。しかし代わりに、劇的な長大化が起こる。

この長大な寿命は、何を意味するのか。

解脱への道としては、これは迂回路である。長い色界のさらに先の、さらに長い虚空天。いずれ命終する。命終すれば、輪廻の中でまた流転する。無色定の生処は、深い定の結果であるが、解脱ではない。

むしろ、無色定の長大な寿命は、解脱への道としては危険でさえある。なぜなら、長い時間そこに留まる間、修行が進まないから。想の働きが微細化することで、見道への動機が薄れる可能性がある。定の深さが、解脱への道を妨げることがある。

発見2.23(想の根深さ──識を越えても残るもの)の準備が、ここで始まっている。虚空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処──これらが連続して並ぶが、その末に何があるかは、まだ見えていない。しかし、すでにここで、深くなるほど解脱から遠ざかる可能性という論点が、劫数の跳躍として暗示されている。


座ることとの接続

大安般守意経のMODULE 9「四定仕様」は、四禅に続いて無色定への移行を扱う可能性を持つ構造である。虚空無辺処への移行は、呼吸念で修行する者にとっても、呼吸という所縁を越える地点として機能する。第四禅で出入息が断じたことを前提として、虚空無辺処では所縁そのものが色から虚空へと転換する。

Kernel 4.xのVol.6「カーネル直接操作と無常・離欲」は、この色界からの離脱の動きに対応する。離欲は、もはや欲界の粗大な欲を離れるだけでなく、色界の微細な色事への依存をも離れる。より根源的な離欲。

そしてVol.2「18のノイズ除去」が、有対想の滅の記述と響く。外側からの刺激が認識として結実しなくなる状態。ノイズの除去の最も深いレベル。五官が働いても、ノイズとして処理されず、認識として立ち上がらない。


発見ログへの接続

本バッチで確認・強化された発見:

発見1.17(排除による純化)の劇的実装:地一切入の相そのものを除く。修行の中心的所縁を積極的に除去することで、新しい定が成立する。

発見2.17(対象は物自然、定の状態が主役)の実装的証明:地相を除いても定は崩れない。所縁は入れ替えられる。定の状態が本体であり、所縁は方便であることが、実装として示される。

発見1.5(別説の併記)の継続:越えの二つの解釈(界の断/乱の断)を並記。統合しない。

発見2.23(想の根深さ)の準備:劫数の跳躍が、深さと解脱の距離の逆説的関係を暗示する。

これらは、以降のバッチ(識無辺処、無所有処、非想非非想処)で、さらに発展する。


詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-V5-05 を参照


原文全文

四禅の過を念ず。爾の時、坐禅人、第四禅において已に自在の楽を得、虚空定に遊びて色界を越ゆ。復た更に思惟す、色定は麁、虚空定は細なりと。彼の坐禅人、色の過患を見、復た虚空定の功徳を見る。

云何なるか色の過患。器仗を取り相打ち闘諍し、両舌・妄語・手足を截る等の如し。種々の諸事、眼痛・疾患・寒熱・飢渇の諸苦あり。是を色欲の過患と謂う。

云何なるか第四禅の過患。此れ喜に近くして怨を成じ、色事に依る。是を名づけて麁と為す。是において楽に著すれば勝分を成ぜず。虚空寂寂解脱に依るに、此の定においては麁を成ず。色において第四禅の過患を見、虚空定の功徳を見る。是れ其の対治なり。

彼の坐禅人、かくの如く已に色を見、及び第四禅の過患を見、已に虚空定の功徳を見る。第四禅に入り無辺虚空定を念じ、此の定より起ちて地一切入の相を除く。虚空定地の相を修せば失を成ず。虚空において作す所の事、無辺を作意す。若しかくの如く現に作意すれば、久しからずして地相は失を成ず。地相より心起りて虚空を越ゆるを成じ、虚空入の相を以て自在にして心安きを得。

彼の坐禅人、已に起りて、一切の色相・有対想滅し、種々の想において作意せざるが故に、無辺空処に正受し入住す。

一切とは、無余に起るにおいて説く。色相とは、云何なるか色相。色界の定・想・智・正智に入る。これを色相と謂う。越ゆとは、此より起るなり。

有対想滅するとは、云何なるか是れ有対想。色想・声想・香想・味想・触想、これを有対想と謂う。滅するとは、彼種々の想尽きて作意せざるなり。

種々の想とは、不入定の人、或いは意界和合し、或いは意識界和合する想・智・正智、これを種々の想と謂う。此の種々の想を作意せず、これを種々の想を作意せずと謂う。

問う、何が故に止想を越ゆるを説き、受行識を説かざるや。答う、若し想を越ゆれば、彼の一切も皆亦た越ゆるを成ず。何を以ての故に。若し想を離れざれば心越ゆるを得ず。復た次に世尊、色事を越ゆるを説かんと欲して、色想を越ゆると説く。一切の定事は皆想に由るが故なり。

問う、若し爾らば、色定に入れば有対想・種々の想、無為に非ざるなり。答う、人ありて色界定に入るに、有対想・種々の想あり。断ずるを以ての故に。

問う、何が故に彼において道を修せざるや。答う、色を厭わんが為なり。是の故に彼において滅せず彼において尽きざるが故に。初禅に入るに声は是れ其の刺なるが如し。仏の説く所、此において色を厭わんが為に以て道を修行す。是の故に此において断を成ず。此において断ずるが故に、無色定は不動行の想、寂寂解脱の想なり。迦蘭欝頭藍弗の無想定に入りて、五百の車、前より去来するを見ず聞かざるが如し。是の故に処において滅すと説く。

是において一切の色想を起すとは、色界の法を断ずるを説く。有対想滅し種々の想を作意せざるとは、欲界の法を断ずるを説く。復た次に一切の色想を越ゆとは、無色界を得るを説く。有対想滅するとは、彼の定の外乱を断ずるを説く。現に無動を顕わさんが為なり。種々の想を作意せざるとは、定の内乱を断ずるを説く。現に寂寂解脱の相を顕わすと説く。

問う、無辺虚空とは云何なるか空と為す。答う、是れ空入・空界・空穴にして、四大の触れる所と為らず。これを空と為すと謂う。空において正しく安んずる心をして無辺に満たしむ。これを無辺と謂う。無辺空とは、是れ無辺空入なり。虚空処に入る心・心数法、これを虚空入と謂う。虚空入とは何の義ぞ。是れ虚空の無辺性なり。是れ無辺性の空処なり。此れ虚空の義を説く。天処に住するを天処と名づくるが如し。彼の虚空処定、これを虚空処入と謂う。正住とは虚空処定を得、色事三分を越え、三種の善を成就し、十相具足し、二十二功徳相応し、寂寂に居住して定の果報を修す。此の功徳、虚空処に生ず。初めに広く説くが如し。功徳、虚空に生ずとは、已に虚空処を修し、命終して虚空天に生ず。寿命二千劫なり。


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