虚空を越えて識に住す──識が所縁として立ち上がる

解脱道論 第五巻 行門品の二 Batch 06

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目次

虚空もまた、色のすぐ隣

前のバッチで、虚空無辺処への移行が示された。地一切入の相を除き、無辺の虚空を作意する。色を越え、有対想を滅し、種々の想を作意しない。虚空天の寿命は二千劫。

しかし、この虚空定もまた、次の段階から見れば粗である。

云何なるか虚空の過患。此の定は色に近くして怨と為る。虚空定においては是の事麁と成る。有対想・種々の想と相遠離せず。彼の念著を成じて勝分を得ず。

虚空定は、色に近い。色を越えたはずなのに、色に近い。

なぜか。虚空は、色を前提としてしか把握されないからである。虚空は「四大の触れない空間」と定義された。四大(地・水・火・風)が触れる、つまり色があることを前提に、その色が触れていない場所として、虚空が定義される。

色がなければ、虚空もない。虚空は、色と対比されてはじめて、虚空として立ち上がる。この構造的な依存が、虚空を色の「すぐ隣」に置く。

そして、有対想と種々の想から、虚空定は完全には離れていない。虚空無辺処の中で、有対想は「滅し」、種々の想は「作意せず」とされた。断じられている。しかし、遠くに離れているわけではない。距離の不完全さ。

この近さ、この不完全な距離が、過患である。


色と層を全く異にするもの──識

虚空の過患の対治として、識一切入が立つ。

是れ識一切入の功徳は是れ其の対治なり。無辺識定を明らかにし彼を治す。

識は、色とは全く異なる層にある。

色は認識されるものである。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の対象。物質的な何か。境界を持ち、形を持ち、性質を持つ。

識は認識するものである。色を認識する側。見る者、聞く者、嗅ぐ者、味わう者、触れる者。あるいはそれらの識別の機能そのもの。

色と識は、同じ層にない。色のすぐ隣に虚空があったのとは違う。識は、色の隣ではない。色の向こう側でもない。色とは別の次元にある。

だから、識を所縁とする定は、色への近さを持たない。色が触れない空間(虚空)ではなく、色と全く異なる層にある識。この層の違いが、識を虚空より深い所縁とする。


作意の転換──見ていた識を見る

識無辺処への作意は、構造的に劇的である。

識処定より安詳として起る。彼の識を復た修行せず、復た分別せず、彼の識を失するを成ず。

いや、これは次のバッチ(無所有処)の記述である。順序を戻す。

識無辺処への作意は、こうである。

虚空識を修して作意を満たしめ、識をして無辺ならしむ。識処の想に由りて心受持す。

虚空識──虚空処定が持っていた識。虚空を所縁としていたときの、修行者自身の識。その識そのものを、今度は対象化する。

これは、転換の中でも最も深い転換である。

虚空処定では、修行者は虚空を見ていた。見ている主体は識であり、見られる対象は虚空だった。主客の分節が、そこにあった。

識無辺処では、その見ていた識そのものが、今度は見られる側に移る。見ていたものが、見られるものになる。主客の構造が、自己言及的に反転する。

先のバッチまで、所縁は外部にあった。色、地相、水相、呼吸、虚空。修行者の外側に置かれた対象。修行者はその対象に向かって、念を働かせてきた。

しかし識無辺処では、所縁が内部に転換する。もはや外部にない。修行者自身の認識機能そのものが、所縁となる。自分が見ていたものを見る目が、自分の見る目を見る。

発見2.17(対象は物自然、定の状態が主役)が、ここで新たな展開を迎える。これまでは、外部の物自然が所縁だった。しかしここでは、修行者自身の識という、内部の機能が所縁となる。物自然の範囲が、外部から内部へと拡張される。


識を所縁とすることが、なぜ決定的か

ここで、先の対話で深められた論点が、記述の中心に入ってくる。

識を所縁とすることは、単に所縁の一つの変更ではない。識が、検証の対象として浮かび上がることである。

先の対話で確認された検証の定式──

私は非我である。もし私が真我であるならば、苦しみを招かないであろう。また『私はこうなれ、こうなるな』と命ずることができるであろう。しかし私は、真我ではない──

この検証は、対象を必要とする。検証する対象がなければ、検証は始まらない。色について検証し、受について検証し、想について検証し、行について検証する。そして識についても検証する必要がある。

しかし識は、日常の中では検証しにくい。なぜなら、識は検証を行う主体の側にあるからである。検証する機能そのものが識なのだから、識を検証するとは、識が識を検証することになる。困難な作業。

この困難を解決するのが、識無辺処である。識が、所縁として対象化される。無辺として把握される。この対象化によって、識が検証可能な対象として浮かび上がる

識無辺処そのものが、識の検証を成就する段階ではない。ここでは、識が対象化される。検証の準備が整う。検証の成就は、次の段階(無所有処)での「識の無性」の発見において現れる。

識無辺処は、識を検証の射程に引き込む作業。識に対する検証の準備。


三つの越えと一つの作意

識無辺処の成立は、虚空無辺処と同じ形式の動作によって記述される。

彼の坐禅人、一切の虚空を起すが故に、無辺識を思惟し、成就して正受に入り、一切の識処に住す。

一切の虚空処を越える。無辺識を思惟する。識処に正受し、住する。

一切の虚空処を越える、とは、虚空処定をもはや起こさないこと。虚空を所縁として立ち上げないこと。虚空があるはずの場所に、虚空を見ない。

そして無辺識を思惟する。虚空を見ない場所で、識を見る。識が無辺として広がる。


無辺の意味──色と非色の違い

ここで原典は、一つの問いを立てる。

問う、色は非色の法なり、云何にしてか執して無辺と為す。

色は非色の法である。つまり、識は色ではない。非色の対象を、どうして無辺として把握できるのか。

答えは、深い。

答う、唯だ無色の法なるが故に無辺を成ず。何を以ての故に。非色の法は辺際あること無く、得べからざるが故に。

無色の法であるがゆえに、無辺となる。非色の法は、辺際(境界)がない。得ることができない。

色あるものは、物質的に境界を持つ。地一切入の相も、曼陀羅という境界の中にあった。色界の対象は、すべて境界を持つ。無辺として把握するには、作意によって拡張する必要があった。これが地一切入の増長の作業だった。

しかし非色のもの(識)には、物質的な境界がない。境界がないものは、拡張せずとも、はじめから無辺である。境界を作ることも、取り除くこともできない。そもそも境界がないから。

識の無辺性は、識の本性に近い。作意によって無辺にするのではない。本来的に無辺であるものを、無辺として把握する。

しかし原典は、続けてこう言う。

復た次に虚空は無辺なるが故に無辺と説く。無辺とは、無辺の意を作すが故に無辺を成ず。是の故に識を妨げず。

無辺は、無辺の意を作すがゆえに、無辺となる。作意がなければ、無辺としての把握は成立しない。識は本来的に無辺性を持つが、その無辺性が意識されるためには、作意が必要。

ここに微妙な二重構造がある。識の無辺性は、識の本性による。しかし、その本性としての無辺性が把握されるためには、作意が必要。本性と作意。実在と把握。両者が合わさって、識無辺処が成立する。


識の無辺性と、識の無性

識無辺処の中で、識が無辺として把握される。

このとき、識は「ある」ものとして、広がって現れる。境界なく、全てを包むもののように。すべてが識であるかのように見える地点。

しかしここで、先の対話で深められた検証の定式が、静かに働き始める。

もしこの無辺の識が真我であるなら、それは苦しみを招かないはず。命令通りに静まるはず。

しかし、識は、諸々の対象に随って生滅する。自分で生まれたり消えたりする。命令しても、完全には従わない。ある対象が現れれば、識はそれに向かう。ある対象が消えれば、識もそれを手放す。

この依存性を見るとき、識の「無辺」の輝きは、少しずつ変質する。識は無辺として広がっているが、その無辺は、作意によって成立している。作意が変われば、無辺も変わる。

これは、次の段階(無所有処)で明確に現れる「識の無性」という命題の、静かな前兆である。

識無辺処では、まだ識が肯定的に把握されている。識が所縁として輝いている。しかし、この輝きの中に、次の段階での検証の種が既に蒔かれている。「識は無辺として現れるが、この無辺は作意に依存する。作意に依存するものは、自性を持たない」──この論理が、識無辺処と無所有処の間で展開する。


識処の二重の指示

「識処」という語も、虚空処と同じく二重の指示を持つ。

入処とは是れ識処に入る心・心数法なり。これを識処と謂う。識処とは何の義ぞ。是れ識の無辺なり。

識処は、識処に入る心・心数法であり、同時に識の無辺である。主観と対象の両方を含む。

ここに、自己言及的な構造がある。識処に入る心(主観)が、識の無辺(対象)を把握する。しかしその把握する心も、識である。識が識を把握する。主観と対象が、同じ識という層の中にある。

色を把握する心と、把握される色は、異なる層にあった。心は非色、色は色。しかし識が識を把握するとき、主観も対象も、同じ識という層にある。

この自己言及性が、識無辺処を特別な段階にする。識が識を対象化するとき、何が起きているのか。この問いは、識無辺処の中では完全には答えられない。次の段階(無所有処)で、この問いへの答えが現れる──識は自性を持たない。識を識で把握する構造は、識の無性を示す構造そのものであった、と。


劫数の観察

識無辺処を修して命終する者は、識処天に生まれる。

識処入を修行し、命終して識処天に生ず。寿命四千劫なり。

四千劫。虚空天の二千劫の二倍。

色界の倍々構造(2→4→8→16→32→64)は、無色定に入ると一度破れた。虚空天は二千劫で、遥かに長大。しかし無色定の内部では、新たな倍々が始まる。

段階寿命
虚空天2000劫
識処天4000劫

次の段階(無所有天)が六千劫であること、そして非想非非想天が八万四千劫であることも、原典は明示する。倍々ではないが、指数的な増大が続く。

しかし先のバッチで触れた通り、この長大な寿命は、解脱への道としては迂回路である。深くなるほど、長くなる。長くなるほど、その中に留まる時間が長い。修行の観点からは、これは進展ではなく、停滞の可能性さえ含む。

長大な寿命を得た識処天の修行者は、気が遠くなるほどの時間を、この識の無辺の中で過ごす。しかしその時間の末に、命終する。命終すれば、輪廻の中でまた流転する。

この非対称──長大な寿命と、究極的な解脱の距離──が、識無辺処の深い皮肉である。ここで停止することは、解脱への道としては、最も長い足止め。


見る者と見られる者の構造

識無辺処は、禅定篇の中で、ある意味で最も哲学的に密度の高い段階である。ここで、見る者と見られる者の構造が、剥き出しになる。

修行者は、これまで、外部の対象を見てきた。色を見、虚空を見てきた。見る側と見られる側が、はっきり分かれていた。

識無辺処で、見る者が見られる側に回る。見ていた目が、見られる目になる。

このとき、何が起きるか。

一つの答えは、「見る者が見られる側に回ると、新しい見る者が現れる」というものである。識を見るとき、その識を見る別の識があるのか。しかし、その別の識もまた、次の段階で見られる側に回るかもしれない。

このプロセスの末に何が残るか。先の対話で確認された「識別する主体は、識別の対象になりにくい」という構造が、ここで露出する。目が目を見ることができないように、識は識を完全には把握できない。常に、把握されない部分が残る。

識無辺処では、この残余はまだ明示化されていない。しかし、既に芽生えている。そして次の段階(無所有処)で、この残余が「識の無性」として主題化される。


検証の定式の静かな働き

先の対話で示された検証の定式が、識無辺処の中で、静かに働いている。

修行者は、識を無辺として把握している。広がる識。境界のない識。この広がりの中に、自分が溶け込んでいるような感覚があるかもしれない。識が全てであり、全てが識であるような感覚。

しかし、そこで問いが立つ。

「もし識が私の真我であるならば、識は苦しみを招かないであろう」

広がる識の中に、苦しみの痕跡があるか。深く見れば、ある。識が諸々の対象に向かうとき、その向かい方に、微細な不自在がある。命令通りに静まらない微妙な揺らぎ。これは苦しみの兆し。

「『識はこうあれ、こうあるな』と命ずることができるであろう」

識に命令できるか。識を完全に自分の命令通りにできるか。できない。識は、作意に依存して現れる。作意が完全に自分の支配下にあれば、識も支配下にある。しかし作意そのものも、完全には支配下にない。何かに向かわない作意はない。作意は常に何かに向かう。この向かう性質が、識を命令から逃れさせる。

「しかし識は真我ではない」

この結論は、識無辺処の中では、まだ明示的には現れない。識を所縁として、肯定的に把握している段階。しかしこの把握の中に、既に検証の萌芽がある。

検証の明示的な成就は、次の段階(無所有処)で現れる。「識の無性、是れ無所有なり」──識は自性を持たない、これが無所有である、と原典は言う。この「識の無性」の発見こそが、識への検証の成就である。

識無辺処は、この発見のための対象化の段階。識を識別可能な対象として浮かび上がらせる段階。対象化されたものだけが、検証されうる。


座ることとの接続

大安般守意経のMODULE 6「観・還・浄」は、第四禅を越えた段階の展開を扱う。観のフェーズは、検証の対象を明らかにする。還は、その対象を主体の側に戻す。浄は、両者の清浄を達成する。識無辺処の構造は、この「観」のフェーズの展開の中に位置づけられる。識が観の対象として立ち上がる。

Kernel 4.xのVol.6「カーネル直接操作と無常・離欲」は、識無辺処の状態と直接に対応する。カーネル──通常は見えない認識の基盤──が、ここで直接操作の対象となる。見えなかったものが見える場所に引き出される。そしてVol.8「200+の智による完全性証明」の先取りが、ここから始まる。識を対象化する智が、後の慧論の最初の一歩。


詳細な仕様は → SPEC-GYOMON-V5-06 を参照


原文全文

虚空定の過を念ず。爾の時、彼の坐禅人、虚空処において已に自在の楽を得、識一切入定を起し、虚空一切入を越ゆ。虚空定は麁、識処は細なりと思惟す。復た虚空の過患を見、復た識処の功徳を見る。

云何なるか虚空の過患。此の定は色に近くして怨と為る。虚空定においては是の事麁と成る。有対想・種々の想と相遠離せず。彼の念著を成じて勝分を得ず。かくの如く虚空の過患を見る。

是れ識一切入の功徳は是れ其の対治なり。無辺識定を明らかにし彼を治す。坐禅人、已に如く虚空の過患を見、已に識処の功徳を見る。安詳として念じ入り、安祥として念じ起る。虚空識を修して作意を満たしめ、識をして無辺ならしむ。識処の想に由りて心受持す。かくの如く現に作意すれば、久しからずして虚空処想より心起りて識処を越ゆ。識処の想に由りて心安きを得。

彼の坐禅人、一切の虚空を起すが故に、無辺識を思惟し、成就して正受に入り、一切の識処に住す。一切とは無余において説く。

虚空処を越ゆとは、虚空処を越ゆ。越ゆとは謂く正度なり。是を一切の虚空処を越ゆと謂う。

無辺識とは、唯だ彼の虚空を以て識を作意し、無辺に満たしむ。是を無辺識処と謂う。

問う、色は非色の法なり、云何にしてか執して無辺と為す。答う、唯だ無色の法なるが故に無辺を成ず。何を以ての故に。非色の法は辺際あること無く、得べからざるが故に。復た次に虚空は無辺なるが故に無辺と説く。無辺とは、無辺の意を作すが故に無辺を成ず。是の故に識を妨げず。入処とは是れ識処に入る心・心数法なり。これを識処と謂う。識処とは何の義ぞ。是れ識の無辺なり。これを識無辺と謂う。識処とは、天住処を天処と名づくるが如し。此の識、已に定を受持す。これを識処定と謂う。入正受処とは、彼の識処定を得たる者、虚空事を越え、三分成就し、三種の善を以てし、十相具足し、二十二功徳相応し、寂寂に住して定の果報を修す。是れ功徳識処に生ず。初めに広く説くが如し。識入の功徳に生ずとは、識処入を修行し、命終して識処天に生ず。寿命四千劫なり。識入、已に竟りぬ。


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