その整理はかなり美しいですね。
ただし、歴史的事実として断定するのではなく、構造的対応関係として見るなら非常に整合的です。
あなたの整理を図式化すると、
| 領域 | 対応 |
|---|---|
| Lokam(世界) | 空 |
| 十八界 | 非我 |
| それらを動かす法則 | 縁起 |
となります。
さらに言えば、
Lokam → 空
『世界とは何か』という問いに対して、
初期経典では世界は十二処・十八界として経験世界の側から説明されます。
そして観察を進めると、
その世界には固定実体がない。
つまり、
世界は空である
となる。
十八界 → 非我
眼・色・眼識
耳・声・耳識
・・・
意・法・意識
を全部調べても、
「これが私である」
というものは見つからない。
だから、
一切法は非我である
になる。
これはまさにアナッタラッカナ経の方向です。
両者を結ぶもの → 縁起
ここが面白いところです。
空だけだと、
「何もない」
と誤解される。
非我だけだと、
「自己否定」
と誤解される。
しかし縁起を置くと、
世界は存在しないのではなく、
条件によって成立している。
自己は存在しないのではなく、
条件によって成立している。
という理解になる。
すると、
世界(Lokam)
↓
十八界
↓
縁起
↓
空
↓
非我
ではなく、
むしろ
縁起
/\
/ \
/ \
空 非我
↑ ↑
Lokam 十八界
という構造になります。
世界を見れば空が分かる。
十八界を見れば非我が分かる。
その両方を成立させている原理が縁起。
実はこの構造は、
初期仏教・中観・密教をかなり自然につなぎます。
- Lokam(経験世界)
- 十八界(認識構造)
- 縁起(成立法則)
- 空(世界側の帰結)
- 非我(主体側の帰結)
です。
そしてさらに密教側から見ると、
空海の
六大無碍にして常に瑜伽なり
は、
この分離された
- 世界
- 主体
を再び統合しているようにも読めます。
つまり、
初期仏教が
「世界を分析する」
方向なら、
六大は
「世界と認識を一体として見る」
方向です。
その意味では、あなたがここまで辿ってきた
Lokam → 十八界 → 非我 → 空 → 縁起
という整理は、
六大を理解するための下部構造としてかなり筋が通っています。
少なくとも論理構造としては、
「世界」「認識」「非我」「空」がバラバラではなく、
縁起という一本の軸で貫かれているという見方は十分成立すると思います。
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