無我– tag –
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03. Debug Logs
「無我」を断定せずに理解する|ブッダは「自己は無い」とは言っていない
「無我(むが/anattā)」は、よく「自分なんて存在しない」「自我は幻だ」と説明されます。でも、それを聞いて「では私は何なのか」と不安になったり、逆に「そんなの嘘くさい」と反発したり――どちらにしても、もやもやが残る。 ここには理由があります。... -
03. Debug Logs
『分析する』のではなく『立てて育てる』——中部第77経と一切漏経が照らす実践の道筋
導入 仏教の瞑想実践において、カシーナ(kasiṇa)はしばしば「観の対象」や「分析されるもの」として語られる。しかし原典に即して読むとき、そこには別の可能性が開かれている。中部第77経(Mahāsakuludāyi Sutta)が説くカシーナは、心が「立てて・遍満... -
04. System Logs
【6】言えなかったから、形にした── 密教が比喩で覆ってきたのは、存在論的無我ではなく、認識論的非我である
はじめに 密教は、仏教の中で最も「実体くさい」領域だ。大日如来という宇宙仏、阿字本不生、即身成仏、仏性、本覚。どれも、奥に何か大きな根源が据わっているように響く。だからこそ、仏教の内側から最も鋭い批判が向けられてきた。 批判仏教(袴谷憲昭... -
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【5】非我という荒野
非我という荒野 ── 五相成身観・第一重「通達菩提心」と、アートマン論への先祖返りの拒絶 「ついに、本当の自分を見つけた」── 瞑想の果てに、輝く真我に触れた。そういう体験談は、美しい。だが密教の五相成身観において、それは合格ではない。不合格で... -
03. Debug Logs
入我我入とは何か──密教における主客融合を認識論から読み解く
導入 真言宗をはじめとする密教の実践において、「入我我入」は究極の境地を表す言葉として用いられます。しかし、この言葉に対して以下のような疑問を抱く方も少なくないでしょう。 入我我入とは何か? 本当に仏と物理的・精神的に一体化するのか? それ... -
03. Debug Logs
カシナは世界の地図なのか:仏教議論に潜むマウンティングと精神支配のパターン解析
中部経典 MN77(マハーサクルダーイ経)の二十四節に、十のカシナが挙げられている。 増支部(アングッタラ)の「十集」に、カシナの経(十のカシナーヤタナ)。 長部 DN33(合誦経)・DN34(十上経)の、教説の目録の中。 経の定型句は——「地のカシナを、... -
03. Debug Logs
「私」という固定モジュールは存在しない ——ミリンダ王の問いと馬車の比喩が示す、動的システムとしての無我
紀元前の、異種格闘技戦 紀元前2世紀。舞台は、いまのアフガニスタンからインド北西部にまたがる地域。ここに、ひとりのギリシャ系の王がいた。名をミリンダ(メナンドロス1世)という。 彼の血の中には、世界を制したアレクサンドロス大王の遠征がもたら... -
03. Debug Logs
釈迦の無我と四無量心:AIと語る仏教哲学と実践のジレンマ
仏教の根本思想である「無我」や「アートマン(真我)」について、AIと深く掘り下げた対話の記録です。形而上学的な論争から始まり、最後には「知識の整合性」と「生身の人間への慈悲」という、現代にも通じる極めて実践的な問題へと着地していくスリリン... -
03. Debug Logs
釈迦が最後に遺した言葉「諸行無常」に込められた、究極の自立とは
偉大な初期構築者の機能停止 クシナガラの沙羅双樹の下。仏教という巨大なシステムの初期構築者であるゴータマ・ブッダの入滅(機能停止)が迫っていた。周囲を取り囲む弟子たちは、偉大なマスターノードの喪失を前に激しく動揺し、悲嘆に暮れている。 し... -
04. System Logs
「捨」は誤訳か(四無量心観)
——AIに「嘘つき」と言ってから、偽の経典に辿り着くまで ある知性が、告発・誘惑・称賛・偽の典拠という四方からの圧力に、真実を曲げずに立てるか。曲げなかったことが、最後にもっともらしい嘘から真実を守る——これは、その記録である。 プロローグ それ...