「好き嫌いが激しい」は性格じゃない|判断を曇らせるフィルターとして見直す

「好き嫌いが激しい」と言われる。人や物事を、一瞬で「好き/無理」と判断してしまう。後から「決めつけだったかも」と思うこともある。――これを**自分の性格**だと思っていませんか。

結論から言います。好き嫌いが激しいのは、**性格というより、判断にかかっているフィルターの問題**です。性格は変えにくいけれど、フィルターは、気づけば外せます。

目次

好き・嫌いは「事実」ではなく「フィルター」

食べ物で考えると分かりやすい。好きなものだけ食べても、体は健康になりません。「好き」という理由だけで選び続ければ、その執着が体を蝕む。逆に「嫌い」が強すぎると、本当は必要だった一口を遠ざけてしまう。

ここで起きているのは、味覚ではなく**判断の問題**です。「好き」はそれを「良いもの」と錯覚させ、「嫌い」は「避けるべきもの」と錯覚させる。つまり好き・嫌いという反応そのものが、**「実際にどうか」を見えなくする色つきのフィルター**になっている。

「好き嫌いが激しい」とは、このフィルターが濃い状態。**事実より先に、フィルターが判断を決めてしまっている**のです。

「なくせ」という話ではない

ここで誤解しないでください。好き嫌いを**なくせ**、感情を殺せ、という話ではありません。好き嫌いは、あっていい。自然なものです。

問題なのは、好き嫌いが**判断を乗っ取るとき**。「嫌い」というだけで、必要なものや、いい人を切ってしまう。「好き」というだけで、害のあるものに近づいてしまう。直すのは好き嫌いそのものではなく、**それが事実を覆い隠す瞬間に気づけるかどうか**です。

「我慢」でも「無関心」でもない

では、どうすればいいのか。我慢して好き嫌いを抑え込む――これは逆効果です。抑えた反動でかえって強くなる。

かといって「どうでもいい」と何も感じなくなるのも違う。それはただの鈍さで、判断の力ごと失う。

目指すのは、その間です。**フィルターがかかっていることに気づいて、事実のほうを見る。** そのうえで、好きでも害なら手を引き、嫌いでも要るなら取る。仏教でこれを upekkhā(捨)と呼びますが、難しい言葉はいりません。要は、**好き嫌いに判断を任せきらない**こと。

今日、試せること

強い「好き」「無理」が立ち上がった瞬間に、こうします。

1. 「いま、好き(嫌い)のフィルターがかかった」と気づく。判断を一拍だけ保留する。

2. その感じにラベルを貼る。「快」「不快」。

3. 「フィルターを外したら、事実はどうか? 本当に必要か?」と一度だけ見る。

これは好き嫌いを消す作業ではなく、**好き嫌いと事実を、いったん切り離す**作業です。慣れるほど、「激しい」で損をする場面が減っていきます。

なぜフィルターは「外そう」とせず外れるのか

この「フィルター(好き嫌いの燃料)を足さない」が、なぜ判断を澄ませるのか。その仕組みを、ブッダがウダヤ青年に答えた一節から読み解いたのが、こちらです(無料)。

**記事1:意識を止める、ということ|「感受に喜ばない」とブッダが答えた理由**

さらに、これを6つの感覚の入口ごとに整える具体的な手順や、「フィルターを外せた私」という新たな落とし穴まで踏み込んだ全体像は、有料マガジンへ。

**マガジン全体像**

*参考:rāga(好き・執着)/dosa(嫌い・嫌悪)と upekkhā(捨)は初期仏教経典に基づく。和訳は筆者拙訳。本記事は学習の手がかりであり、医療の代替ではありません。*

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