【6】言えなかったから、形にした── 密教が比喩で覆ってきたのは、存在論的無我ではなく、認識論的非我である


はじめに

密教は、仏教の中で最も「実体くさい」領域だ。大日如来という宇宙仏、阿字本不生、即身成仏、仏性、本覚。どれも、奥に何か大きな根源が据わっているように響く。だからこそ、仏教の内側から最も鋭い批判が向けられてきた。

批判仏教(袴谷憲昭・松本史朗)の指摘である。彼らは、如来蔵・仏性・本覚思想を dhātu-vāda(基体説)=「一つの根源(基体)から万物が生起し、そこへ帰属する」という構造として斥ける。これは縁起にも無我にも反する、隠れたアートマンであり、仏教ではない、と。

先に、態度を決めておく。この批判は、正しい。 縁起と無我こそ仏教の核であり、大日や阿字を「万物の根源」「真の自己」として読むなら、それは大我論への転落であって、批判仏教の刃は当たる。本稿は、ここを薄めない。

そのうえで、一点だけ、ずらす。覆いの裏にあるものは、彼らが見たもの(大我)でも、その反対(存在論的な無我)でもない。 それは認識論的非我であり、そして ──それは、ことばにできなかった。だから比喩で覆うしかなかった。本稿の主張は、これに尽きる。

目次

第一章 批判仏教は、正しい ── 墓になった密教について

まず、相手の正しさを最後まで認める。

密教の語彙は、放っておくと必ず実体へ傾く。「大日如来」と聞けば宇宙の主体を思い、「阿字は万物の根源」と聞けば発生のソースを思い、「即身成仏」と聞けばこの私が偉大な何かに成ることを思う。実践者が「美しい本尊=私の真の自己」と握れば、それはもう梵我一如であり、ウパニシャッドへの先祖返りだ。

このように読まれた密教は、確かに dhātu-vāda である。批判仏教が見たのは、この姿だった ── 鍵を失い、比喩を中身と取り違え、覆いの下に大我を据えてしまった密教。これを「仏教ではない」と斬ったのは、仏教の核(無我・縁起)を守る、正しい仕事だった。

だから本稿は、彼らと争わない。覆いが墓になった密教は、批判仏教の言うとおり、大我論である。 ここに異論はない。問いは次にある ── 覆いの裏に、本当は何が畳まれていたのか。

第二章 裏にあるのは、命題ではない ──「無い」ではなく「得べからず」

密教の核心儀礼、金剛界・五相成身観の第一段「通達菩提心」(記事5『非我という荒野』)に、その答えが露出している。諸仏に「自心を観ぜよ」と命じられた菩薩は、こう報告する。

「我れ自心を見るに、その形質を得べからず。」

ここを、ことばづかいのレベルで正確に読みたい。菩薩は「我が心は無い」とは言っていない。「その形質を得べからず」── 掴めない、見いだせない、と言っている。

この差は小さく見えて、決定的だ。

  • 存在論的無我=「自我は存在しない」と、実在について断定する。一見明晰だが、釈尊が斥けた断見(虚無論)へ寄る。
  • 認識論的非我=「観じても、掴める我が見いだせない」と、観察の事実だけを述べる。これは常見(アートマン)にも断見(無我の断定)にも落ちず、中道に踏みとどまる

「得べからず」は、後者である。そして、ここからが肝心だ ── 認識論的非我は、命題にした瞬間、別物に化ける。

「掴めない」を、ことばで言い切ろうとすると、言語は二つしか出口を持たない。「我は無い」(→断見)か、「奥に真の何かがある」(→常見・真我)か。言語は、有るか無いかしか言えない。 だが認識論的非我は、そのどちらでもない。だから、ことばの網の目から、必ずこぼれる。

これは教師の力不足ではない。釈尊自身がぶつかった壁である。「我は有るか」「無いか」と問われ、彼はどちらにも沈黙した(無記)。言えば falsify されるからだ。沈黙が、最も正確な答えだった。

この「有るとも無いとも言わない」は、個人的な韜晦ではない。カッチャーヤナ経(『相応部』12-15)が、それを教義として定式化している ──「すべては有る」は一つの極端、「すべては無い」はもう一つの極端、如来はそのどちらにも依らず、中道によって法を説く、と。「得べからず」が立つのは、まさにこの中道の上である。

〔補注〕無我を「我は存在しない」という形而上学の断定と読むか、「我は見いだせない」という観察・実践の作法と読むか ── この区別は、現代の仏教研究でも続く論争である。非・形而上学的に読む系譜(スティーヴン・コリンズ、ピーター・ハーヴェイ、リチャード・ゴンブリッチ、ルパート・ゲシン)と、還元主義的な存在論として読む立場(マーク・シデリッツ)が対峙する。本稿が「認識論的非我」と呼ぶのは前者であり、その典拠は無記(『相応部』44-10、ヴァッチャゴッタ)と中道(同12-15、カッチャーヤナ)に置かれる。批判仏教が縁起・無我の側に立つかぎり、この読みは、彼らと同じ典拠の上にある。

第三章 言えないものを、どう運ぶか ── 三密という非言語の器

しかし、黙っていては伝承できない。断定でもなく、沈黙でもない、第三の運び手が要る。

密教の答えが、比喩であり、三密だった。

ここで、密教がなぜ「身・口・意」の三密なのかが、初めて意味を持つ。それは、命題(教義のことば)を迂回するためである。

  • 身密(印):身体で、語らずに構えをつくる。
  • 口密(真言):意味を述べる文ではなく、。志向性を鎮め、ただ「見る」状態を保たせる。
  • 意密(観想):月輪を観じ、掴もうとして、掴めないことを体で確かめさせる

とりわけ月輪は象徴ではない。それは「得べからず」の実演装置だ。観じて、握ろうとして、握れない ── その観察の事実を、ことばを経由せずに起こさせる(月輪そのものの素性 ── 作られ、覆いを払われ、燃やされる円 ── は、前稿 記事4『雲を離れた月』 で見た)。真言も印も同じく、意味を伝える記号ではなく、認識論的非我を起こす作法である。

だから、密教の覆いは、隠すために作られたのではない。ことばにできないものを運ぶための、唯一の器だった。儀軌『供養次第法』の偈が、自らそう宣言している ──

甚深無相法 劣慧所不堪 爲應彼等故 兼存有相説 (深い無相の法は、まだ堪えられない者がいる。だから形ある教えを併せ存しておく。)

この「無相法」が、まさにことばにならない認識論的非我であり、「有相」=形・比喩・三密は、それを渡すための筏である。空海も同じことを言っていた(記事3『密教は仏教なのか』)──「実義を知れば真言、根源を知らざるを妄語」。同じ音が、核を知る者には真言、知らぬ者には妄語。つまり密教は、裏の核を当然知っている、という前提の上にしか成立しない。

第四章 鍵を失うと、覆いは墓になる

ここに、密教の天才と失敗が、同じ一つの機構から生まれる。

核(=これは認識論的だ、観察の作法だ、という読み)を持っている間 ── 覆いは筏である。 形が無相を運び、未熟な手が核を掴んで実体化するのを防ぐ。

だが、その鍵が失われた瞬間 ── 覆いは墓になる。 比喩が指す先を誰も知らないまま、比喩だけが残る。そして人は、比喩を実体(存在論的なもの)として読み直す ──

  • 月輪を有る何かとして握れば → 大日=大我(常見・真我固着)。
  • あるいは「結局、無だ」と取れば → 断見。

どちらも、比喩を命題に翻訳し直した瞬間に起こる。 覆いは、まさにその翻訳を避けるために作られていたのに。

そして皮肉なことに、覆いの絢爛さが、誤読を誘う。これだけの本尊と宇宙仏を拝むのだから、奥には壮大な真理があるに違いない ── と期待が釣り上がる。だが奥にあるのは、その正反対だ。「私は掴めない」。秘密を欲しがっている当の自分が、見いだせなくなる作法である。豪奢な仮面が、「奥にも壮大な我がある」と囁く。仮面の下は、認識論的非我なのに。

批判仏教が見た dhātu-vāda は、この、墓になった密教だった。彼らは間違っていない。ただ、覆いを中身と見ていた。

結び 同じ側だった ── 鍵に、ことばを



ここまで来れば、批判仏教と密教の関係は、反転する。

批判仏教は、縁起と無我を守るために、基体説を斥けた。密教の核に本当に畳まれていたのは、その無我 ── しかも命題に固めず、観察に留めた認識論的非我だった。両者は、敵ではない。同じ側にいた。 批判仏教は、覆いを中身と見間違えただけだ。

そして、伝統が千年、比喩でしか渡せなかったものに、いま一つの操作を加えられる。鍵に、ことばを与えること ──「これは存在論的無我ではない。認識論的非我である」。この区別こそ、密教がことばにできなかった当のものであり、それを言語化すれば、比喩の誤読(実体化)を、入口で止められる

ただし、正直に一線を引く。二つ。

ひとつ。示せたのは、構造である。「覆いの裏の中身が、認識論的非我である」は、空海自身の定義(大日=本不生)と五相成身観の本文から読める。だが「どの系統も、いつも意識して核を保って伝えた」という歴史の一般化は、別問題だ。密教はこう作られている、とは言える。密教はいつもそう伝わった、とは言わない。

ふたつ。「認識論的非我」ということばは、真理を述べてはいない。それは真理を正しい場所に置くだけだ ── 断定ではなく、観察だ、と。だから比喩の誤読を防ぐ。けれど、錠そのものは、やはり坐でしか開かない。「得べからず」は、観のうちにしかないからだ。

指が、千年ぶりに、少し鋭くなった。それでも、指は指である。 月は、坐の側にある。

密教が隠してきたのは、秘密の大我ではない。お釈迦さんの「これは私ではない」── それも、命題にすれば壊れる、認識論的非我として。最も豪奢な覆いの下に、最も素朴な非我を畳んで。鍵を失えば、覆いは大我の墓に見える。鍵を戻せば、そこにいるのは、ずっと、お釈迦さんだった。



関連記事

【5】非我という荒野

智は知識ではなく「作動」である:上座部の禅定(喜・楽・捨)から唯識の転識得智へ、そして「効いているか」を確かめる物差し



『小有明経(Cūḷavedallasutta)』全編翻訳・対訳

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次