C2,佛説大安般守意經卷上:詳解

出入息と五陰の相

出息・入息にて五陰の相を受くるとは、意の邪念疾く転じて還りて正しきに以て覚を生じて断ずることを謂う。五陰の相を受くると為す。受くると言うは、受けて受けざる相を謂うなり。

五陰の相を受くるを以て、起こるところ何処、滅するところ何処を知る。滅する者は十二因縁を受くる人と為す。十二因縁より生じ、また十二因縁より死す。念ぜざる者は五陰を念ぜざると為すなり。


起滅の知見

起こるところ何処、滅するところ何処を知るとは、善悪の因縁起これば便ちまた滅することを謂う。また身を謂い、また気の生滅を謂う。念ずれば便ち生じ、念ぜざれば便ち死す。意と身とは同等なり。是れ生死の道を断つと為す。是の生死の間に在りて、一切の悪事は皆意より来たるなり。


今と前との区別

今は前と為さず、前は今と為さずとは、前に念ずるところ已に滅して、今の念は前の念に非ざることを謂う。また前世に作るところ、今世に作るところは各自福を得ることを謂う。また今行ずるところの善は、前に行ぜるところの悪に非ざることを謂う。また今の息は前の息に非ず、前の息は今の息に非ざることを謂うなり。


生死の分別

生死の分別と為すとは、意に念じて生ずれば即ち生じ、念じて滅すれば即ち滅する故に生死と言うと為す。当に万物および身を分別すべし。過去・未来の福は索め尽くすと為す。何を以ての故に。尽くすは生じて便ち滅し、滅して便ち尽くる以てなり。已に尽くることを知りて当に尽力して求むべきなり。


上頭を視て来たるところなし

上頭を視て来たるところなしとは、人は来たるところなくして意起こりて人と為ることを謂う。また人は自ら作らずして来たる者は、来たるところ有りと為す。人が自ら作りて自ら得るは是れ来たるところなしと為すなり。


生死を分別すべし

生死は当に分別すべきとは、五陰を分別することを知ることを謂う。また意の生死を分別することを知り、人の意を常と為すを謂う。常有ることなしを知るもまた分別と為すなり。


後に視て処所なし

後に視て処所なしとは、今現在に於いて、罪人の生死の会に在りて脱を得ることなきを見ず。当に罪より脱を得るところなしを言う故に、後に視て処所なしと言うなり。

未だ道迹を得ざれば、中に命尽くることを得ず。已に十五意を得れば中に死することを得ずと謂う。要に当に十五意を得て便ち道に堕し、また転じて上り阿羅漢に至るなり。

中に道を得てもまた中に命尽くることを得ず。息・意・身の凡そ三事と為す。善悪の意は要に当に道迹を得るべく、またの中に壊れることも有り。息死してまた生じ、善意起こりてまた滅し、身もまた中に死することを得ざるなり。


浄とは何か

何等を浄と為すか。諸の貪欲するところを不浄と謂う。貪欲を除き去るは是れ浄と為す。

何等を五陰の相と為すか。

五陰の相の譬え

譬えば火は陰と為り、薪は相と為るがごとしなり。


息より浄まで皆観なり

息より浄に至るまで、是れ皆観と為す。身・相随・止・観・還・浄を観じて本より無有なることを謂う。内意は息を数え、外意は悪因縁を断ず。是れ二意と為すなり。


先に数息する理由

問う、何を以ての故に、先に内外の身体を観ぜずして、反りて先に数息・相随・止・観・還・浄するか。答う、意の不浄なるを用って故なり。身を見ずして意已に浄まれば、便ちことごとく身の内外の道を見る。行に十九有り。行を用うるに人に十九の病有る故に、また十九の薬有り。身を観じて悪露を念ずるは是れ貪婬を止める薬と為す。四等心を念ずるは是れ瞋恚を止める薬と為す。自ら本より何の因縁有りてかあると計るは是れ愚癡を止める薬と為す。安般守意は是れ多念の薬と為すなり。


身と体の区別

内外に自ら身体を観ず。何等を身と為すか。何等を体と為すか。骨肉は身と為す。六情合わせて体と為すなり。

何等を六情と為すか。眼は色に合し、耳は声を受け、鼻は香に向かい、口は味を欲し、細滑は身の衰えと為し、意は種栽と為して癡と為す。有生の物と為るなり。


内外身体を重ねて出す理由

内外の身体を重ねて出す所以は何ぞや。人の貪り求むるに大小有り前後有ることを謂う。得んと欲するところは当に分別して観ずべし。観ずる者は見るを念と為す。念は見に因りて、観ずる者は知ると為すなり。


身体の止

身体の止とは、坐して念起こり、起こりて念じて意離れず。行ずるところに在りて意の著するところは識と為す。是れ身観の止と為すなり。


出入息・念滅の時

出息・入息の念滅の時とは、何等を念滅の時と為すか。出入の気尽きる時を念ずることを謂う。意息滅して、出息・入息の念滅の時は、譬えば空中に画くがごとく有ることなし。生死の意・道の意、倶に爾りなり。

出息・入息の念滅の時は、また息を説かず、意・息を説く。滅の時とは、出息・入息の念滅の時なり。物は因縁より生ず。本を断ずるを滅の時と為すなり。


内外の痛痒を見て観ず

内外の痛痒を見て観ずとは、痛痒の起こるところを見て、便ち観ずるを是れ見観と為すなり。

内外の痛痒とは、外の好物は外の痒と為し、外の悪物は外の痛と為す。内の可意は内の痒と為し、内の不可意は内の痛と為す。内に在るは内法と為し、外の因縁に在るは外法と為す。また目を内と為し色を外と為し、耳を内と為し声を外と為し、鼻を内と為し香を外と為し、口を内と為し味を外と為し、心を内と為し念を外と為すと謂う。好き細滑を見て意得んと欲する是れ痒と為す。麁悪を見て意用いざるは是れ痛と為す。倶に罪に堕すなり。


痛痒観の止

痛痒観の止とは、若し人の臂痛みて意痛みと作さず、反りて他の一切の身の痛みも是のごとしと念ずれば、意が痛みに在らざるを以て痛みを止むと為す。また念ずべく、また念ずべからず。痛みを念じて著するところなし。自ら身を愛すれば当に他人の身を観ずべし。意に他人の身を愛すれば当に自ら身を観ずべし。またの止と為すなり。

内外の痛痒を重ねて出す理由

内外の痛痒を重ねて出す所以は何ぞや。人の色を見て愛するに薄厚有ることを謂う。其の意は等しく観ぜず。多と少とは異なる故に、重ねて分別して道を観ず。当に内観には癡有りと観じ、当に外観には以て自ら証すべきなり。


身心の痛痒それぞれ異なり

身と心の痛痒は各自異なり。寒熱・刀杖の痛み極まるを得るは是れ身痛と為す。美飯・車に載り・好衣・身の諸の便なるところを得るは是れ身痒と為す。心痛とは、身自ら憂えてまた他人および万事を憂うるは是れ心痛と為す。心に好むところおよび諸の歓喜を得るは是れ心痒と為すなり。


意相観の二因縁

意相観には両因縁有り。内に在りて悪を断じ道を念ず。一には五楽・六衰を当に制断すべきことを謂う。観ずる者は自ら身を観ず。身の麁細を知らず、得るを以て乃ち覚る、是れ意・意相観と為す。意・意相観は、息もまた是れ意なり。数もまた是れ意なり。数うる時に息を観ずるは意・意相観と為すなり。


意観の止

意観の止とは、婬を欲すれば制して為さず、瞋恚を欲すれば制して怒らず、癡を欲すれば制して作らず、貪を欲すれば制して求めず、諸の悪事一切に向かわず。是れ観止と為す。また三十七品経を知ることを以て、常に念じて離れざるを止と為すと謂うなり。


出入息尽きて定まれば便ち観ず

出息・入息尽きて定まれば便ち観ずとは、尽きるとは罪尽きることを謂う。定まるとは息止まりて意定まることを謂う。定観とは止・還・浄を観ずることを謂うなり。

尽止とは、我よく是れを説き、是れを暁り、遍く是れを更うと謂う。是れ尽止と為すなり。


起こる息・善法と習罪

起こる息は、若し布施・作福・一切の善法のごとし。已に起これば便ち滅して、また意に邪を念ず。罪行を習うに向かうことまた数なし。古世・今世、意は是のごとく相随わず。他人もまた爾りなり。已に知り覚りて当に断ずべし、已に断ず。内外の意・意観止と為すなり。


内外の法法

内外の法法とは、内法は身を謂う。外法は他人を謂う。持戒の法有り、持戒せざる法有り。是れ内外の法法なり。

内法とは黠を行じて三十七品経を離れず、一切の余事には意中に堕せず、道を行じて道を得ることを謂う。是れ内法なり。外法とは生死に堕すことを謂い、生死を行ずることを謂う。便ち生死を得て一切脱せず。当に断じて已に断ず。内外法観止と為すなり。


法観の止

法観の止とは、一切の人は皆自身を身と為す。諦かに校計すれば我が身に非ず。何を以ての故に。眼有り色有り。眼もまた身に非ず、色もまた身に非ず。何を以ての故に。人已に死して眼有れども見るところなし。また色有れども応ずるところなし。身は是のごとく、ただ識有るのみにして、またの身に非ず。何を以ての故に。識には形なし。また軽く止まるところなし。是のごとく眼・耳・鼻・舌・身・意を計ずるもまた爾りなり。是の計を得るを法観止と為す。また悪を念ぜざるを止と為し、悪を念ずるを不止と為すと謂う。何を以ての故に。意行ずる故なりっ

佛説大安般守意経 巻上 了

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人間OS仕様書|佛説大安般守意経 巻上 序文(康僧会)
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