はじめに
前稿で、私たちはこう結んだ。正統は系譜の古さでも教団の認定でもなく、自らの灯で確かめるところにしかない——「信じるな、確かめろ」と。
では、いざ自分で確かめようと座ったとき、何に気をつければいいのか。本稿は、その実践の途中で誰もが落ちやすい一つの穴と、その穴から出る一つの向きを、できるだけ正直に話したい。
先に二つ断る。一つ、これから述べる「向き」は、密教(大乗)の視点からの一つの読みであって、仏教全体の唯一の答えではない。二つ、それは一つの**見(見方)**にすぎず、握れば、それ自体が躓きになる。だから本稿は、答えを手渡そうとしない。穴の在りかと、向きだけを、指として置く。月は、座ったあなたの中にしかない。
第一章 観は、確かに道の中心にある
まず、誤解を避けるために、はっきりさせておく。観(ヴィパッサナー)は、軽んじてよいものではない。 むしろ経は、これを中心の道として置いている。
涅槃経(DN16)で「自らを灯とせよ」と説かれるとき、その自灯明の中身は、四念処(身・受・心・法の観察)を自分で行うことだと定義されている。さらに念処経(中部10/長部22)は、四念処を「ekāyano maggo——一なる道」と呼ぶ。つまり、自分で確かめる行の中心に、観が据えられている。これは動かない。
だから本稿は「観は要らない」とは言わない。それは経に反する。観は、確かめるための、中心の道である。
問題は、観そのものではない。その道を、どう扱うかだ。
第二章 道を「着く場所」にした瞬間、躓く
道は、歩くためにある。だが人は、しばしば道を着く場所に変えてしまう。ここに穴がある。
たとえば、観を続けて、心が深く静まり、平らな捨(ウペッカー)が訪れる。そのとき「もう着いた」「これで終わった」と感じる——その瞬間が、危ない。論(清浄道論)は、まさにこれを観の随染、いわゆる「足場の捨」として戒める。平静が悪いのではない。「着いた」と握った瞬間に、観が止まるのだ。捨は、降りて終わる駅ではなく、なお観を伴って働き続ける地であるはずなのに。
そして、道を「着く場所」にすると、もう一つ厄介なことが起きる。「ちゃんと着いたか」を、誰が判定するのか、という問題だ。観を到達点・所有物にした瞬間、その到達を認定する者が必要になる——たいていは師や教団。すると修行者は、認定を待つ立場になり、自分の灯を、いつのまにか他人に手渡している。前稿のカーラーマ経が「沙門は我が師なれば、という理由でさえ、それだけで受けるな」と言ったのは、ここだ。
煎じ詰めれば、これは**「観が一番」「自分はここまで到達した」「うちの流派が正統」という掴み**——釈尊が手放せと説いた、見への執着(見取)にほかならない。穴の正体は、観ではなく、観を握って所有物にすることだった。
第三章 握りを緩める一つの向き——密教の視点から
では、その握りは、どうすれば緩むのか。
ここで、一つの視点を差し出す。ただし、これは密教(大乗)の視点からの読みであって、仏教普遍の答えとして言うのではない。 正直に言えば、初期経典が修行の完成として説くのは、自己の解脱・漏尽である(「生は尽きた、為すべきは為された」)。「衆生済度こそを目的の頂点に置く」という方向は、菩薩道・密教の——大日経の三句「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」に代表される——後代の、一つの立場だ。これを普遍と偽ることはしない。
その上で言う。この向きに立つと、握りが、自然に緩む。
なぜか。目的が「自分の到達」である限り、人はそれを掴み、守り、認定されたがる。だが目的を自分の外——衆生へ向け直すと、「自分が着いたかどうか」を握りしめる手が、ひらく。観も、捨も、智も、そして自分の悟りさえ、衆生のために働く器として使われるなら、それを所有して誇る意味が、消えていく。覚りと悲は、上下に並ぶのではない。深く覚るほど悲が働き、悲ゆえに覚りが要る——両者は撚り合って一本になる(般若と大悲)。
握りを緩めるのは、新しい到達ではない。目的を、自分から、他者へ移すことだ。
第四章 ただし、これもまた一つの見である
ここで、自分に刃を返しておかねば、誠実ではない。
「衆生済度が目的だ」「観は手段だ」——本稿のこの言い方も、**一つの見(見方)**である。前章で「観を握れば見取になる」と言った、その同じ理屈は、この主張にも、そのまま返ってくる。これを”唯一の答え”として握れば、それもまた見取だ。
だから本稿は、これを答えとして手渡さない。第一記事と同じ姿勢に立つ——握らず、ただ、確かめてもらうために置く。「衆生のために」という向きすら、掴めば固まる。掴まずに、ただその向きで歩いてみて、苦が薄らぐか、法に適うかを、自分で確かめる。それだけだ。
第五章 だから、読んで分かるものではない
ここまで、穴の在りかと、握りの緩む向きを、指として置いてきた。最後に、正直に言う。
これは、読んで分かるものではない。
「道を着く場所にしない」も、「握りを緩める」も、「衆生へ向ける」も——言葉で受け取っただけでは、何も起きない。自転車は、いくら本で読んでも乗れない。最初は転ぶ。慣れて、力みが落ち、手を離しても進めるようになって初めて、乗るとは何かが分かる。観も捨も、それが力みなく、ひとりでに働くようになったところでしか、本当には体得されない。
だから確かめる道は、一つしかない。師の認定を待つのではなく、自らの灯で、法に照らして、自分で座って確かめる。そして——できれば、自分の安心のためだけでなく、誰かのために。
前稿であなたが覚えた揺れは、間違いではなかった。それは、握っていた何かを、一つ手放しはじめた、最初の揺れだったのかもしれない。確かめる先は、もう本の中にはない。座布団の上と、座を立って人と向き合う場所に、待っている。
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では、この「握らず、衆生へ向けて確かめる」という働きは、密教の儀軌——真言と印と本尊観という、一見もっとも「呪術的」に見える所作の中で、どう構造として生きているのか。次稿では、儀軌の次第そのものを開いて、「密教は仏教なのか」という問いに、構造から答えてみたい。

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