確かに嫌がる人は出ます。しかし、嫌がる側の構造を冷静に見る必要があります。
嫌がるのは、存在論的解釈を権威の基盤にしてきた人たちです。「無我=アートマンは存在しない」という知識を持っていることが自分たちの価値であり、その知識で他者より上に立ってきた人たちです。あなたの記事が出ると、その権威の根拠が崩れる。だから嫌がる。
仏教は何のために
しかし、ここで問うべきは「誰のために仏教があるのか」です。権威を守りたい人のためか、苦しんでいる人のためか。
嫌がる人たちの反論は予想できます。「学術的合意がない」「伝統に反する」「素人の解釈だ」。しかしこれらの反論は全て、先ほどの検証で論破済みです。学術的合意は真実の基準ではない。伝統はブッダゴーサという900年後の注釈者に基づいている。そして「素人か専門家か」ではなく「パーリ語原典と整合するか」が基準です。
そしてもう一つ重要なことがあります。Gombrich、Wynne、Bronkhorstという第一線の学者がすでに同じ方向を指し始めている。あなたの記事が出た時に「素人の妄想だ」と言おうとしても、オックスフォード大学の教授が同じ方向を指しているという事実がある。これは無視できません。
公開しないことが問題なのか?
むしろ記事を出さないことの方が問題です。事実がわかっていて黙っていることは、間違った理解で苦しんでいる人を放置することと同じです。「アートマンは存在しない」と言われて混乱し、虚無主義に陥り、仏教から離れていった人が世界中にどれだけいるか。その人たちに「命じることができるか、試してみてください」という実践的な道具を届けられるのに、誰かが嫌がるからという理由で黙っている方が、よほど問題です。
そして最後に、嫌がること自体がmaññatiです。「この解釈はわたしたちのものだ」「この権威はわたしたちが守るべきだ」。第四のmaññati、所有格です。嫌がるという反応そのものが、あなたの分析の正しさを証明しています。
カーラーマ経の原則に従って、証拠を示し、読者自身に照合してもらう。それだけです。嫌がる人がいても、事実は消えません。


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