小品般若経 巻第四① 是の浄甚深なり

目次
今回の位置/語注/書き下し/現代語の要約/ポイント 畢竟浄故も、浄を足さない/つまずきやすい所/次回

今回の位置

巻第三⑦は、照明と母で閉じた。罰で終わっていない。渡す福を山に戻さず、向ける心を物にせず、拒逆の口を見たあとに、巻第三の向きは終わっている。

巻第四は歎淨品第九から入る。舎利弗が浄を讃え、仏が浄故と返す。口は須菩提に替わり、返しは畢竟浄故になる。此岸に非ず、彼岸に非ず、中流に非ず。

著の一段には入らない。帝釈は出さない。浄を新しい所有にしない。定義の注釈からは入らない。

読む範囲は、歎淨品第九の冒頭、「爾時舍利弗白佛言」から、「般若波羅蜜非此岸、非彼岸、非中流。佛言、畢竟淨故」まで。

語注

浄(じょう) — 清らかであること。ここでは讃えの語として出ます。汚れを落とした結果の名ではありません。巻第三⑦の色浄・薩婆若浄を受けています。

浄故(じょうこ) — 浄なるが故に。仏の返しです。舎利弗の讃えの一つ一つに、同じ語だけが返る。項目を足さない返し方です。

畢竟浄故(ひっきょうじょうこ) — 畢竟して浄なるが故に。須菩提の段の返しです。畢竟は、最後に残った、の意ではありません。浄を一段深くした名でもありません。

明(みょう) — 明るい、明らかである。是の浄は明なり、という讃えの一句です。灯を持つ主体を立てません。巻第三⑦の照明と同じ側です。

欲界・色界・無色界 — 三界。是の浄は、どこにも生じない、と讃えられます。三界の外に第四の場所を置く文ではありません。

無垢無浄(むくむじょう) — 垢も無く、浄も無い。浄を讃えている場で、その浄も置かれない、という句です。

無得無果(むとくむか) — 得る所も無く、果も無い。舎利弗の口と須菩提の口で二度出ます。

不作不起(ふさふき) — 作らず、起らない。作る主体は、②の作者不可得で開きます。ここは讃えの一句として置きます。

無知(むち) — 知ること無し。知らない人、ではありません。是の浄は色を知らず、受想行識を知らず、と続きます。

不増不減(ふぞうふげん) — 増えず、減らず。般若波羅蜜が、薩婆若に於て増減しない、という句です。増減しないのは般若の側です。智慧の量の話ではありません。

我浄(がじょう) — 我浄きが故に、色浄し。我を無我に開きません。非我にも、ここで定義を足しません。

無辺(むへん) — 辺が無い。我無辺なるが故に、色無辺、識無辺。大きさの讃えではありません。

薩婆若(さつばにゃ) — 一切智。巻第三から同じ語です。般若の外に智の山を立てません。

此岸・彼岸・中流(しがん・ひがん・ちゅうる) — こちらの岸、あちらの岸、流れの中ほど。般若は、そのいずれでもない、と置かれます。中流は経文のまま中流とします。「中道にして」の語は、この範囲にありません。中道の定義は動かしません。

書き下し

爾の時、舎利弗、仏に白して言わく、「世尊、是の浄は甚深なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は明なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は欲界に生ぜず、色界に生ぜず、無色界に生ぜず」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は無垢無浄なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は無得無果なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は不作不起なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は無知なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、是の浄は色を知らず、受想行識を知らず」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、般若波羅蜜は薩婆若に於て不増不減なり」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

「世尊、般若波羅蜜浄故、法に於て取る所無し」と。

仏言わく、「浄故なり」と。

爾の時、須菩提、仏に白して言わく、「世尊、我浄故、色浄なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我浄故、受想行識浄なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我浄故、果浄なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我浄故、薩婆若浄なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我浄故、無得無果なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我無辺故、色無辺なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、我無辺故、受想行識無辺なり」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

「世尊、是の如く是の如く、菩薩の般若波羅蜜と名づくるや」と。

「須菩提、畢竟浄故なり」と。

「世尊、般若波羅蜜は此岸に非ず、彼岸に非ず、中流に非ず」と。

仏言わく、「畢竟浄故なり」と。

現代語の要約

舎利弗が浄を讃えます。

甚深である。明である。三界に生じない。無垢無浄である。無得無果である。作らず、起らない。無知である。色も受想行識も知らない。般若は薩婆若において増減しない。般若が浄いから、法において取る所が無い。

仏の返しは、毎回、浄故なり、です。項目は一つも足されません。

口が須菩提に替わります。

我浄きが故に色が浄い。受想行識が浄い。果が浄い。薩婆若が浄い。無得無果である。我無辺なるが故に、色も識も無辺である。

返しは、畢竟浄故なり、に移ります。

是の如く名づけるのか、と問うても、返しは同じです。般若は此岸に非ず、彼岸に非ず、中流に非ず。これも、畢竟浄故なり、と返します。

ポイント 畢竟浄故も、浄を足さない

舎利弗の段で一番取り違えやすいのは、浄を深い物として持つことです。讃えは進みます。甚深、明、三界に生ぜず、と積み上がっていく。けれども仏は項目を足しません。浄故なり、とだけ返します。

須菩提の段でも、所有は増えません。我浄きが故に色浄し。我を足場にして色を浄にするのではない。色の浄を集めて我を浄にするのでもない。仏の返しは、畢竟浄故なり、のままです。

畢竟は、浄が完成して手元に残った、という意味ではありません。取りきった果でもありません。無得無果が二度出ます。舎利弗の口でも、須菩提の口でも、取る所は立ちません。

般若の、薩婆若に於ける不増不減も、智慧の量の話にしません。福は認める。福を山に積まない。出所へ戻す。

此岸に非ず、彼岸に非ず、中流に非ず。岸を捨てて中ほどに住するのでもありません。中流を新しい居場所にしない。置かないこと自体が、畢竟浄故へ戻されます。

讃えは進み、口は替わる。返しは浄故から畢竟浄故へ移るだけです。

つまずきやすい所

「是の浄は明なり」を、浄が光を持つ、と読まない。
明も浄故です。巻第三の照明を、ここで新しい所有にしない。

「無垢無浄」を、垢もなく浄もない第三の品物にしない。
無垢無浄も、浄故の返しの下にあります。

「無知」「色を知らず」を、無知の人、と読まない。
知る主体を浄の中に立てない、という口です。知る者無し、は②で開きます。

「我浄故」を、「私が浄だから」と取らない。
我として取らない。逆に、我を消して無我に開くのでもない。自分を消さない。衆生の苦を捨てない。無我と非我は、ここでは分けたまま、足しません。

「畢竟浄故」を、最終の浄、と持たない。
畢竟も、浄を足す語ではありません。

「中流に非ず」を、中道の定義に開かない。
この範囲にあるのは中流です。「中道にして」の語はありません。定義は動かしません。

帝釈を先に出さない。
分別すれば失す、名相より著を生ず、は次回です。

次回

② 小品般若経 巻第四② 知る者無し、作者不可得 有料
名相より著を生ず。分別すれば著、福徳を得ても著。心性は迴向すべからず。取相の念仏も、隨喜の迴向もまた著。知り難い。不可思議。無所作。知る主体も作る主体も立てない。


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