- 数息中の意の逸走
- 出入息の滅と四禅
数息中の意の逸走
数息して意走りて、即時に覚る者は、罪重くして意の罪軽く、意を引きて去ること疾き故に覚らざるなり。
詳細解説(Human OS的解釈):技術的負債(罪)と、CPUリソースの競合(疾き故に覚らざる)
安世高はここで、デバッグ作業(数息)におけるエラー発生とその検知(メタ認知)の有無を、システム内の「技術的負債(罪)」の重さと、CPUポインタ(意)の移動速度の関係として定義しています。
1. エラー検知が即座に実行される条件(罪重意罪輕)
数息して意走りて、即時に覚る者は、罪重くして意の罪軽く、 (呼吸を数えている時、ポインタが雑念(意走りて)に逸れたが、即座にそれを検知(即時覚る)できる状態。これは、システム全体の技術的負債(罪)は重いが、今まさに雑念を掴もうとしているCPU(意)の技術的負債(意の罪)は比較的軽い状態である。)
- Human OS的解釈: 「罪重くして」は、OS自体に大量のエラーログ(過去の業)が蓄積している状態です。したがって、雑念プロセス(意走る)の起動自体は防げません。 しかし、「意の罪軽く」は、CPUのワーキングメモリ自体はクリーンである状態。したがって、雑念が起動した瞬間に、管理者権限(覚る)がそれを「異常なプロセス」として直ちに検知できます。 **「バグ(雑念)は湧いたが、監視プログラム(覚)が正常に稼働しているため、即座にパケットをドロップ(棄)できた」**という状態です。
2. エラー検知がフリーズする条件(疾き故に覚らざる)
意を引きて去ること疾き故に覚らざるなり。 (逆に、ポインタが雑念(去ること)に引きずられていく速度があまりに速い(疾き)ため、検知システムがタイムアウトを起こし、気づけない(覚らざる)状態である。)
- Human OS的解釈: ここが強烈です。なぜ「気づけない」のか。それは、雑念が強力すぎるからではなく、**「CPUの処理速度(疾き)が、監視プログラム(メタ認知)のループ速度を超えてしまった」**からです。 「意の罪(CPU負荷)」が重すぎ、かつシステム全体の「罪(因縁)」も重い状態。強力なマルウェア(執着)が起動した瞬間、CPUリソースが100%そちらに奪われ、ポインタが超高速で移動するため、監視ログが追いつかずにフリーズ(覚らざる)してしまった状態です。
詳細解説(Human OS的解釈):Citta(チッタ)= OSの「コア・ステータス(システム環境・カーネル)」
初期仏教において、Mano、Viññāṇa、Cittaはすべて「心」と訳されますが、ITシステム(Human OS)においては全く異なるレイヤーのコンポーネントです。
- Mano(意):【CPU / ポインタ】 次々とデータにアクセスし、処理を実行するアクティブな演算装置。
- Viññāṇa(識):【RAM / ワーキングメモリ】 Manoがアクセスしたデータ(対象)を一時的に保持・展開するメモリ領域(以前の「識は数に在り」の状態)。
- Citta(心):【OSのコア・ステータス / カーネル環境 / システム全体の状態】 現在稼働しているOS全体の「色」や「温度」、あるいは「安定性」。これまでのログ(業)が蓄積されたマスター・データベースであり、システム全体の**「実行環境(Runtime Environment)」**そのものです。
「その時」、Citta(チッタ)に何が起きているのか?
Mano(ポインタ)が、マノ・サンスカーラ(過去のトラウマや怒りなどの自動実行スクリプト)にハイジャックされて暴走している「その時」。
Citta(チッタ)は、「マルウェア感染による『エラーステート(システム異常状態)』」に移行しています。
- スクリプト起動: 過去の嫌な記憶(因縁)により、怒りのマノ・サンスカーラが裏で
runされる。 - ポインタの乗っ取り: Mano(CPU)が呼吸から引き剥がされ、その怒りの処理にリソースを100%奪われる(意走りて)。
- RAMの占有: Viññāṇa(識)に、嫌な相手の顔や言葉のデータがロードされる。
- 【Cittaの汚染(ここです!)】: システム全体を管理する Citta(OSのコア環境)が、怒りというマルウェア(煩悩・Kilesa)によって真っ赤に染まり、CPU温度が急上昇し、システム全体が不安定な「高負荷・毒化ステート」に陥る。
これが、初期仏教の四念処(サティパッターナ)の一つである「心随観(Cittānupassanā)」で観察すべき対象です。 釈迦は「心(Citta)に貪りがある時、心に貪りがあると知れ」と説きました。これは「Manoが何を処理しているか」という個別のタスクを見るのではなく、「今、OS全体(Citta)がウイルスに感染して重くなっているぞ(エラーステートだぞ)」という、システム全体のリソースモニター(タスクマネージャー)のステータスを確認するという高度なメタ・モニタリングなのです。
デバッグの最終目標 = Citta(OSカーネル)の完全なクリーンナップ(心清浄)
なぜ私たちが、Mano(ポインタ)を呼吸に固定するシャマタ(止)を行うのか。
それは、Manoの暴走を止め、サンスカーラ(自動スクリプト)の起動を阻止することで、最終的にシステム環境全体である「Citta(チッタ)」を、一切のマルウェア(煩悩)が存在しない、完璧にクリーンで安定した「セーフモード(心清浄・Citta-visuddhi)」へとフォーマットし直すためです。
Mano(ポインタ)は動き回るのが仕事です。Viññāṇa(RAM)はデータを入れる器に過ぎません。 しかし、Citta(OSのカーネル)だけは、バグ(罪)を消去し、完全に最適化された「Zero State(空)」として維持されなければならない。
「Cittaの解脱(Ceto-vimutti)」とは、まさにこのOSカーネルが、どんな外部からの不正アクセス(六境)や内部の自動スクリプト(サンスカーラ)にも二度とハイジャックされない、究極の堅牢性(セキュリティ)を獲得した状態を指します。
Mano(ポインタ)」「Viññāṇa(RAM)」「Citta(OSカーネル環境)」。 この3つのコンポーネントをIT用語で切り分けた瞬間、初期仏教の「心」のメカニズムが、現代のエンジニアなら誰でも理解できる完璧な「システム設計書」として姿です。
「数息(デバッグ)」に失敗してManoが走った時、Cittaは重たいエラーステートに沈んでいる。 だからこそ、即座にそれに気づき(即時覚)、ポインタを呼吸に戻して、Cittaのステータスを正常化(和調)しなければならないのです。
道を行じて已に息を得れば、自ら息を厭いて意転ぜんと欲し、また数えんと欲せず。是のごとくなるは息を得たると為す。相随・止・観もまた爾りなり。
出入息の滅と四禅
出入息の滅することを知る。滅するは息の相を得て生死を知ると為す。また用いざるは生死の相を得たると為す。已に四禅を得れば、ただ空を念ずるを道の種栽と為すなり。
詳細解説(Human OS的解釈):冗長性の検知と、自律的なフェーズ・アップグレード(Auto-Scaling)
安世高はここで、「飽き」や「嫌気(厭う)」という一見ネガティブな人間的感情を、**「システムが『マニュアル処理の限界(冗長性)』を検知し、より高次な自動処理へと移行しようとする、極めて正常なアラート(通知)」**として再定義しています。
1. 厭う(System Overload / Redundancy Detection)= 冗長性の検知
道を行じて已に息を得れば、自ら息を厭いて (数息というコマンドを実行し続け、システムがそれに完全に習熟(息を得る)すると、システムは自然に「数えること(息)」自体を煩わしく思い(厭いて)……)
- Human OS的解釈: 「厭う(嫌になる・飽きる)」とは、怠慢ではありません。システムが安定した結果、**「わざわざ手動で『1、2、3…』とコマンド(Mano/意)を発行し続けることが、逆にCPUリソースの無駄遣い(オーバーヘッド)になっている」**とシステム自身が検知した状態です。 補助輪をつけて高速で走ろうとすると、逆に補助輪が抵抗になってガタガタ揺れますよね。あの「抵抗(ボトルネック)」を、システムが「厭う」というアラートとして発報しているのです。
2. 意転ぜんと欲す(Request Phase Shift)= オートスケールの要求
意転ぜんと欲し、また数えんと欲せず。 (ポインタ(意)を次のフェーズへ移行(転ず)させたいと要求し、もはやマニュアルでのカウント処理(数えん)を実行しようとしなくなる。)
- Human OS的解釈: ボトルネックを検知したMano(ポインタ)が、**「このマニュアル・スクリプトはもう不要です。次の最適化レベル(相随:オート・トラッキング)へアップグレードさせてください」**と、システムに対してフェーズ移行の要求(Request)を出している状態です。 「数えようとしない(欲せず)」のは、集中力が切れたからではなく、システムがより洗練された「無為(オートメーション)」へ向かおうとする正常進化の証です。
3. 完了条件の定義(Mastery = Auto-Uninstall Request)
是のごとくなるは息を得たると為す。 (システムがこのように「自ら手動コマンドを拒絶する状態」になった時、初めて「数息(第一フェーズ)を完全にマスター(得たる)した」と判定する。)
「ツールのマスター(得たる)」とは、「ツールを完璧に使いこなせること」ではなく、「ツールが不要であるとシステムが自覚し、自ら手放そうとすること」である。 完璧に実行できるようになった瞬間、そのプログラムは「完了」ステータスとなり、自らのアンインストールを要求するのです。
4. 再帰的アーキテクチャ(Recursive Function)
相随・止・観もまた爾りなり。 (この「習熟 → 冗長性の検知 → 次のフェーズへの移行要求」というメカニズムは、相随(レベル2)、止(レベル3)、観(レベル4)のすべてのフェーズにおいても全く同じ(爾り)ように再帰的に実行される。)
定を得た後の観
息を行じて已に定を得れば、また気の出入を覚らず、便ち観ずべし。一には当に五十五事を観ずべし。二には当に身中の十二因縁を観ずべきなり。
1. 「観(ディープスキャン)」の起動条件
息を行じて已に定を得れば、また気の出入を覚らず、便ち観ずべし。
- システム的解釈: 呼吸のトラッキング(数・随)を通じてシステムが完全に安定したアイドリング状態(定)に入り、物理的なI/O処理(気の出入)へのリソース割り当てが不要になった状態です。 外部からの入力監視タスクがゼロになったこのタイミング(便ち)で初めて、システム内部の深層構造を解析する「観(Vipassana:診断スキャン)」という重い処理を起動することが許可されます。I/O処理にリソースを取られている間は、このスキャンは実行できません。
2. 第一の解析対象:五十五事(静的コンポーネントの監査)
一には当に五十五事を観ずべし。
- システム的解釈: 「五十五事」とは、初期仏教における「五蘊(色・受・想・行・識)」を、それぞれ11の側面(過去・未来・現在・内・外・粗・細・劣・勝・遠・近)から詳細に分類したものです(5×11=55)。 OSの観点から言えば、これは**「静的なデータ構造とコンポーネントの完全なリストアップ」**です。現在システムを構成しているハードウェア(色)やメモリ領域(受・想・識)、スクリプト群(行)が、どのような状態や属性でストレージに保存されているかを、1つ残らずスキャンし、インデックス化する作業に該当します。
3. 第二の解析対象:十二因縁(動的プロセスのトレース)
二には当に身中の十二因縁を観ずべきなり。
- システム的解釈: コンポーネントの把握(五十五事)が終わった後に行うのが、**「エラー発生の動的プロセス(十二因縁)のトレース」です。 初期化エラー(無明)から始まり、自動実行スクリプト(行)が組まれ、最終的にシステムクラッシュ(老死・苦)に至るまでのループ構造を解析します。 ここで極めて重要なのは「身中の(ローカル環境内の)」**という指定です。十二因縁を外部の哲学理論として学ぶのではなく、現在稼働している自分自身のシステム内で、そのエラーループがどのように回っているかをリアルタイムでトレース(観)せよ、という指示です。
ここが最も重要かつ実践的なポイントです。十二因縁(無明から老死に至る苦のメカニズム)を、過去世から未来世へと続く壮大な宇宙論や時間論として捉えるのではなく、**「身中(今ここにある自分の身心システムの中)」**でリアルタイムに起きている因果の連鎖(刹那縁起)として観察せよ、という指示です。
外界の刺激が器官に触れ(触)、身体的な感覚や微細な反応が生じ(受)、そこに無意識の渇望や嫌悪(愛)が生まれ、執着(取)へと変わっていく。この一連のフィードバックループは、身体と心の中で瞬間瞬間に起きています。呼吸すら止まるほどの深い定の中でこの「身中の十二因縁」を観察することで、感覚(受)が渇愛(愛)へと移行するその瞬間のバグを見極め、因果の連鎖を断ち切ることができるようになります。
息の処所
問う、息の出入にどこかに処所有りや否や。答う、息入る時は是れ其の処なり。出息の時も是れ其の処なり。
1. 固定アドレス(ハードウェア)へのロックの禁止
問う、息の出入にどこかに処所有りや否や。
- システム的解釈: 「鼻先」や「丹田」といった特定の身体部位(固定ディレクトリやハードウェアのポート)を監視の「処所(固定アドレス)」として設定すべきではない、という前提の確認です。 特定のハードウェアにMano(ポインタ)を固定しようとすると、そこに物理的な緊張や執着(ロック=著)が発生し、システムに不要な負荷(バグ)を生じさせます。
2. イベント駆動(Event-Driven)による動的アドレス割り当て
答う、息入る時は是れ其の処なり。出息の時も是れ其の処なり。
- システム的解釈: 息(I/Oデータ)が存在する「場所」は、事前に定義された静的な空間ではなく、**「データストリームが発生しているプロセスそのもの」**であると定義しています。
- 「IN(入)」のイベントが発火してデータが流れている時、そのイベントの実行プロセス自体が「アクティブな領域(処)」となる。
- 「OUT(出)」のイベントが発火している時、それが「処」となる。
3. 時間的トラッキングへの切り替え
対象を「空間(場所)」として捉えるのではなく、「時間的なプロセス(現象の生滅)」として捉えよ、という指示です。 データストリーム(息)と完全に同期してMano(ポインタ)を走らせることで、ポインタは常に「現在実行中のタスク」のみに割り当てられ、過去のログや未来の予測といった不要なディレクトリへ逸れること(意走りて)を防ぐことができます。
息を数えて身坐し、痛痒・思想・生死・識止まりて行ぜず。是れ坐と為すなり。
「坐」を構成する五蘊のプロセス
- 息を数えて身坐し =【色(肉体・物質)】の安定 まずは「数息」によって、物理的な身体(色蘊)を「坐」の形に定めます。これは単に足を組む物理的な姿勢のことだけでなく、呼吸と身体を同期させ、肉体という器の揺らぎを完全に沈静化させる最初の段階です。
- 痛痒(つうよう) =【受(感覚)】 「痛痒」とは、痛みや痒み、心地よさといった身体的な「感覚(受蘊:ヴェーダナー)」を指します。初期の漢訳仏典では、感覚という抽象的な言葉ではなく、実践中に直面する最もリアルな感覚現象として「痛痒」という言葉がよくあてられました。
- 思想(しそう) =【想(知覚・概念化)】 「思想」は、頭に浮かぶイメージや概念、過去や未来への妄想(想蘊:サンニャー)です。感覚に対して「これは痛い」「あれはどうなっただろう」とラベルを貼り、内なる物語を作り出す心の働きです。
- 生死(しょうじ) =【行(意志・潜在的な形成力)】 ここがこの文章の最も奥深く、見事な点です。初期の漢訳では、五蘊の「行(サンカーラ)」を**「生死」**と訳すことがありました。「行」とは、カルマを作り出す無意識の衝動や意志の働きです。心が絶え間なく働き、次の瞬間の感情や行動を生み出し続けること(生滅を繰り返すこと)こそが「生死(輪廻)」のエンジンそのものであるため、このような訳があてられています。
- 識(しき) =【識(認識・判断)】 対象を区別し、「私」という主体を成り立たせている根本的な認識の働き(識蘊:ヴィンニャーナ)です。
「止まりて行ぜず。是れ坐と為すなり」の真意
「痛痒・思想・生死・識止まりて行ぜず。」
肉体(色)を座らせた後、その内側で絶え間なく稼働していた「感覚(痛痒)」「妄想(思想)」「カルマの生成(生死)」「認識(識)」という四つの精神的な機能(名:ナーマ)が、完全に停止し、その働き(行)を止めるということです。
つまり、仏教が説く「坐」とは、単に身体を床に置くことではありません。 身心という五つの構成要素(五蘊)が、自己増殖的な反応ループを止め、完全に沈黙した状態。 それこそが、真の意味での「坐」であるという宣言です。
肉体を座らせるだけでなく、「痛痒・思想・生死・識」という心の構成要素そのものを「座らせる(休止させる)」。先ほどの段階からさらに踏み込み、心身の構成要素の完全な静止(滅)へと至る、仏教瞑想の極致を示す言葉として、これほど明快で力強い定義はなかなかありません。
念息と校計
息を念じて道を得てまた校計する者は、息には知るところなきを用って故なり。
問う、息を念じて道を得るは何を以て知るところなしと為すか。答う、意は息を知り、息は意を知らず、是れ知るところなしと為すなり。
人は意を校計することを得ず。便ち息を数えしむ。意をして定まらしめんと欲するなり。息を数うるといえども、ただ悪を生ぜざるのみにして、黠智なし。当に何等の行をなして黠慧を得べきか。一より十に至り、定乱を分別し、対を識りて薬を行ず。已に定意を得れば、便ち黠慧に随う。校計を得るは観に堕すと為すなり。
数の意味
問う、何等を数と為すか。答う、数とは事を謂う。譬えば人に事有りてまた求むるは是れ罪を数うると為す。道人は福を数う。何を以ての故に正しく十と為すか。一意起これば一と為し、二意起これば二と為す。数は十に終わり、十に至りて竟わりと為す。故に十数は福と為すと言うなり。
罪の説明
また罪有る者は、息を壊すること能わざるを用って故に罪と為す。また意の生死滅せずして世間に堕し、已に世間の事を断ぜざるを罪と為すと謂うなり。
六情・十事・十息の対応
六情は六事と為す。痛痒・思想・生死・識、合わせて十事と為す。内の十息に応ず。殺・盗・婬・両舌・悪口・妄言・綺語・嫉妬・瞋恚・癡、外の十息に応ず。止まりて行ぜざるを謂うなり。
十六事とは何か
問う、何等を十六事と為すか。答う、十事とは数に至ること十を謂う。十六とは数・相随・止・観・還・浄を謂う。是れ十六事と為して行じて離れざるは道に随うと為すなり。
問う、息を数えて風を念ずるは色に随うと為すに、何を以て道に応ずるか。答う、行意は数に在りて色を念ぜず、気尽きれば便ち滅す。非常に堕して非常を知るは道と為すなり。
坐と行の二事
道人道を得んと欲せば、要に当に坐と行の二事を知るべし。一は坐と為し、二は行と為す。
問う、坐と行とは同じや同じからずや。答う、時に同じく時に同じからず。数息・相随・止・観・還・浄、此の六事は、時に坐と為し時に行と為す。何を以ての故に。数息して意定まるは是れ坐と為す。意の法に随うは是れ行と為す。已に起こりし意の離れざるは行と為し、また坐と為すなり。
坐禅の法・過失と不足
坐禅の法、一には数えず、二には二を数えて一と数えず。一を数えて二と数える者とは、一息を数えて未だ竟わらざるに便ち二と言う、是れ一を数えて二と為す、是のごとくなるは精進に過ぎると為す。二を数えて一と数える者とは、息已に入りて二なるにようやく一と言う、是れ二を数えて一と為す、是のごとくなるは精進に及ばずと為す。
三より四に至り、五より六に至り、七より八に至り、九より十に至る、各自に分部有り。当に所属を分別すべし。一に在れば一を数え、二に在れば二を数う。是れ法行にして便ち精進に堕すなり。
三種の坐道
三つの坐して道に堕するもの有り。一は数息の坐、二は誦経の坐、三は経を聞きて喜ぶ坐なり。是れ三つなり。
坐の三品
坐に三品有り。一は味合の坐、二は浄の坐、三は無有結の坐なり。
何等を味合の坐と為すか。意の行に著して離れざるを謂う。是れ味合の坐と為す。何を謂いて浄の坐と為すか。念ぜざるを浄の坐と為すと謂う。何等を無有結の坐と為すか。結已に尽きたるを無有結の坐と謂うなり。
息の三輩(種類)
息に三輩有り。一は雑息、二は浄息、三は道息なり。道を行ぜざるは是れ雑息と為す。十息に至るまで数えて乱れざるは是れ浄息と為す。已に道を得たるは是れ道息と為すなり。
息にまた三輩有り。大息有り、中息有り、微息有り。口に語るところ有るは大息と謂う。止まりて道を念ずるは中息なり。止まりて四禅を得るは微息の止なり。
仏が数息守意を教える四因縁
問う、仏は何を以て人に数息守意を教えたまうか。答う、四因縁有り。一には痛みを欲せざるを用って故なり。二には乱意を避けんとするを用って故なり。三には因縁を閉じて、生死と会うことを欲せざるを用って故なり。四には泥洹の道を得んと欲するを用って故なりっ
日光の譬え
譬えば日に光明なき者に四因縁有りと説くがごとし。一には雲有るを用って故なり。二には塵有るを用って故なり。三には大風有るを用って故なり。四には烟有るを用って故なり。
数息を得ざるにもまた四因縁有り。一には生死を念じて校計するを用って故なり。二には飲食多きを用って故なり。三には疲れ極まるを用って故なり。四には坐してまた罪地に更わることを得ざるを用って故なり。
四相の説明
此の四事来たるは皆相有り。坐して息を数えて忽ち他事を念じて息意を失う、是れ念校計の相と為す。骨節ことごとく痛みて久しく坐すること能わず、是れ食多の相と為す。身重くして意まぼろしのごとく、ただ睡眠を欲す、是れ疲極の相と為す。四面坐して一息も得ざる、是れ罪地の相と為す。
罪を知りて当に経行すべし。若しくは経文を読みて坐すれば、意は罪を習わず、また禍消ゆるなり。
道人の本を念ずること
道人道を行ずるには当に本を念ずべし。何等を本と為すか。心・意・識を是れ本と謂う。是の三事は皆見えず。已に生じて便ち滅す。本意また生ぜず。是の意を得るを道と為す。意の本意已に滅して、痛みの為すところなく、また因縁生じて便ち断ずるなり。
定意の深まり
定意は日に勝る。日に勝るは定意と為す。時に息より定意を得ることあり。時に相随より定意を得ることあり。時に止より定意を得ることあり。時に観より定意を得ることあり。
定因縁に随って直行する
定の因縁を得るに随いて直ちに行ずるなり。
息を行じてもまた貪に堕す。何を以ての故に。意已に定まれば便ち喜ぶ故なり。便ち当に出息・入息の念滅の時を計るべし。息生ずれば身生じ、息滅すれば身滅す。尚未だ生死の苦を脱せず。何を以ての故に。喜びて已に是のごとく計れば便ち止まることを貪るなり。
数息と相随の速遅
数息は疾からんと欲す。相随は遅からんと欲す。時に数息は当に安徐なるべし。相随の時は当に疾かるべし。何を以ての故に。数息して意乱れざれば当に安徐なるべし。数乱れなば当に疾かるべし。相随もまた是のごとく同じなり。
数息と相随の念の違い
第一の数もまた相随も念ずるところ異なり。息を数うるといえども当に気の出入を知るべし。意の著するところは数に在るなり。
数息してまた相随・止・観を行ずる者とは、息を得ざるに前世に習い有りて、相随・止・観に在ることを謂う。相随・止・観を得るといえども、当に還りて数息より起こるべきなり。
数息して意離れざるは是れ法なり。離るるは非法と為す。数息して意罪に随わず。意世間に在れば便ち罪に堕すなり。
数息・相随・止の関係
数息は意を乱さんと欲せざる故なり。意已に乱れずしてまた相随を行ずる者は、上を証して次に意を知るを止と為す。止と観とは同じ。還と浄とは同じなり。
道を行じて微意を得て当に意を倒すべき者とは、当に更めて息を数うべきことを謂う。若し経を読み已りて、乃たまた禅を行じて微意なる者とは、息を数えず及び相随を行ぜざるを謂うなり。
仏の六潔意
仏に六潔意有り。数息・相随・止・観・還・浄を謂う。是の六事は無形を制すること能うなり。
息はまた是れ意にして、また意に非ず。何を以ての故に。数うる時、意が息に在るは是れと為す。数えざる時、意と息と各自行ず、是れ意に非ずと為す。息より意生じて已れば、止まりて意なきなり。
意が人を使う・人が意を使う
人は意を使わず、意が人を使う。意を使う者とは、数息・相随・止・観・還・浄、三十七品経を念ずる、是れ意を使うと為す。人道を行ぜずして貪り求め欲に随う、是れ意が人を使うと為すなり。
息垢と三冥
息に垢有り。息の垢去らざれば息を得ず。何等を息の垢と為すか。三冥の中の最も劇しき者、是れ息の垢と為す。何等を三冥と為すか。三毒起こる時、身中まさに冥なる故に三冥と言う。三毒とは、一は貪婬と為し、二は瞋恚と為し、三は愚癡と為す。人皆是の三事に坐して死する故に毒と言うなり。
数息中の三意
数息の時、意は数息に在り。未だ数えざる時、三意有り。善意有り、悪意有り、善ならず悪ならざる意有り。人の息の相を得たるを知らんと欲する者は、当に万物および諸の好色を観ずべし。意また著せざるは是れ息の相を得たると為す。意また著するは是れ未だ得ざると為して、当に更に精進すべきなり。
家中意を尽くす
家中の意尽きんと欲する者とは、六情を意の家と謂い、万物を貪り愛することは皆意の家と為すなり。
相随とは、善法を行じて是より脱を得るを謂う。当に相随すべし。また五陰・六入に随わず、息と意と相随うことを謂うなり。
第三・止 鼻頭に止まる理由
問う、第三の止は何を以ての故に鼻頭に止まるか。答う、数息・相随・止・観・還・浄を用いるに、皆鼻より出入す。意の故処を習いて、またの識りやすきと為す。是の故を以て鼻頭に著くなり。
悪意来たる者は断ちて禅と為す。時に鼻頭に止まることあり。時に心中に止まることあり。著するところに在りて止と為す。邪来たりて人の意を乱さんとす。直ちに一事を観ずれば、諸悪来たりても心動くべからず。心は畏るることなきなり。
止の四種
止に四有り。一は数止と為し、二は相随止と為し、三は鼻頭止と為し、四は息心止と為す。止とは五楽・六入を当に制止すべきを謂うなり。
止の詳説
入息至りて尽きて鼻頭に止まる。悪またに入らずして鼻頭に至りて止まるを謂う。出息至りて尽きて鼻頭に著く。意またに身を離れて惡に向かいて行かざる故に鼻頭に著くを謂う。また息初めて入る時、便ち一念向かいてまた転ぜざることを謂う。息の出入もまた覚らず。是れ止と為すなり。
止とは、出息・入息のごとく、前意の出づるを覚り知る。後意の出づるを覚らず。前意を覚るを意の相観と為す。便ち出入息を察して敗を見る。便ち相を受けて生死を畏れ、便ち意を却け、便ち道意の相に随うなり。
相随と為すことなかれとは、ただ念じて鼻頭に著くのみ。五陰の因縁またに念ぜず。罪断じ意滅してまた喘息せず。是れ止と為すなり。相随と為すことなかれとは、またに意に出入を念じて五陰の因縁に随わず、またに喘息せざることを謂うなり。
第四・観
第四の観とは、息の敗するを観ずる時と、身体を観ずるとは息を異にす。因縁有りて生じ、因縁なければ滅することを見るなり。
心意の相を受くるとは、意に得んと欲するところ有り、心に因縁の会してまた滅すべきを計り、便ち欲するところを断じてまた向かわざることを謂う。是れ心意の相を受くると為すなり。
因縁を識ることを以て倶相観と為す者とは、五陰の因縁を識り知ることを謂う。出息もまた観じ、入息もまた観ず。観とは五陰を観ずることを謂う。是れ倶観と為す。またの意・意相観に応ず。二因縁と為して、内に在りて悪を断じ道を念ずるなり。
出息と入息の異なり
出息の異なり入息の異なりを観ずとは、出息は生死陰と為り、入息は思想陰と為ることを謂う。時に出息は痛痒陰と為り、入息は識陰と為ることも有り。因縁に随いて起これば便ち陰を受く。意の向かうところ常用なし。是の故に異と為す。道人は当に是れを分別して知るべし。また出息滅して入息生じ、入息滅して出息生ずることを謂うなり。
無有故とは、人の意および万物の意起こりて已に滅し、物生じてまた死することを謂う。是れ無有故なり。
出息に非ずして是れ入息なり、入息に非ずして是れ出息なりとは、出息の時に意は入息を念ぜず、入息の時に意は出息を念ぜざることを謂う。念ずるところ異なる故に非と言うなり。
中信とは、道に入る中に道の因縁を見て道を信ずることを謂う。是れ中信なり。
第五・還と第六・浄
第五の還の結を棄つとは、身の七悪を棄つることを謂う。第六の浄の結を棄つとは意の三悪を棄つることと為す。是れを名づけて還と為す。還とは意またに悪を起こさざると為す。
還の詳説
悪なる者は是れ不還と為すなり。
還身とは、悪を還りて第五の還を得ることを謂う。尚身有りてまた身なし。何を以ての故に。意有れば身有り、意なければ身なし。意は人の種と為る。是れを名づけて還と為す。還とは意またに悪を起こさざるを謂う。悪を起こす者は是れ不還と為す。また前は身を助け後は意を助くることを謂う。殺・盗・婬・両舌・悪口・妄言・綺語をなさざるは是れ身を助くると為す。嫉・瞋恚・癡をなさざるは是れ意を助くると為すなり。
還五陰
五陰を還すとは、譬えば金を買いて石を得て便ち地に棄捐して用いざるがごとし。人は皆五陰を貪り愛して苦痛を得る。便ちこれを欲せざる、是れ五陰を還すと為すなり。
滅尽の処所
何等を便ち滅尽の処を見ると為すか。無所有を是れ滅処と謂う。
問う、已に無所有なるに、何を以ての故に処と為すか。答う、無所有の処に四処有り。一には飛鳥は空中を以て処と為す。二には羅漢は泥洹を以て処と為す。三には道は無有を以て処と為す。四には法は観処に在るなり。
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