一 何が問題か
仏典に「不可得」という語がよく出てくる。
一切諸法、〜不可得なるが故に
これを「一切のものは存在しない」という意味で読む説明が、あちこちにある。
しかし経文は、そう書いていない。同じ経の中で、「存在しない」と「不可得」を、別の語で書き分けている。
書き分けているということは、別のことを言っているということだ。
二 語の作り
「不可得」の原語はこうなっている。
an-(否定)+ upa-labh(つかむ)+ -tva(〜であること)+ -āt(〜だから)
鍵になるのは upa-labh である。これは「近づいて(upa)つかむ(labh)」が原義で、実際の用法は認識としてつかむ・見出すという意味になる。
だから直訳はこうなる。
見出されないということであるから
「手に入らない」「達成できない」ではない。
三 「獲得」ではないと分かる理由
語義の議論をしなくても、経文の他の箇所を見れば決まる。
不可得の対象として、こういうものが並んでいる。
| 原語 | 意味 |
|---|---|
jarā | 老 |
smaraṇa | 記憶 |
skandha | 蘊(身心の構成要素) |
「老を獲得できない」「記憶を獲得できない」——文にならない。老いることも記憶も、目指して手に入れる対象ではないからだ。
「探したが、見出されなかった」でしか意味が通らない。
四 経文自身が「無い」と書き分けている
ここが決定的である。
『二万五千頌般若』には、「存在しない」を意味する nāsti という語も出てくる。しかも同じ章の中に、両方ある。
nāsti を使う箇所(十八不共法の段)
nāsti tathāgatasya skhalitaṃ, nāsti ravitaṃ, nāsti muṣitasmṛtitā
如来に躓きは無い、失言は無い、念の失落は無い。
anupalabdhi を使う箇所(字門の段)
cyavanopapattyanupalabdhitvāt
死没と生起が見出されない。
同じ経が、言いたいときには nāsti と書く。字門では書いていない。
数字で見るとさらにはっきりする
全巻を通して数えると、こうなる。
| 件数 | |
|---|---|
アートマン(我)に nāsti(無い)を使う箇所 | 1件 |
アートマンに upalabh(見出す)を使う箇所 | 十数件 |
そしてその唯一の nāsti の箇所も、よく見ると「我は無い」と単独で言っているのではない。
yatrāvikalpas tatra viparyāso nāsti, na tatrātmā ...
nāsti が掛かっているのは viparyāsa(顛倒)である。「無分別のあるところに、顛倒は無い」。そして続きは na tatra ātmā——「そこには我は」と、場所を限定した否定になっている。しかもその後に、色・受・想・行・識まで同じ列で並ぶ。
アートマンだけを名指しで「無い」と言った箇所は、実質的に存在しない。
五 主語が消えていく
経文には、同じ内容の三つの形がある。
第一の形——菩薩が主語、能動
bodhisattvas tam api na samanupaśyati yenābhiniviśeta
菩薩は、それによって執着するであろうものを、見ない。
誰が(菩薩)、何をしたか(見なかった)、何のために(執着の足場を持たせないため)が、全部書いてある。
第二の形——受動
na cātmā upalabhyate
我は、見出されない。
主語が「我」に移った。探した者が、文から消えた。
第三の形——名詞化
anupalabdhitvāt
不可得なるが故に
出来事が、性質に変わった。探すという行為そのものが消えた。
菩薩は見ない → 見出されない → 不可得性
(主語あり) (主語が対象へ) (行為が消える)
「我は不可得です」という言い方は、この第三段まで圧縮した後の形である。 誰が、いつ、どこで確かめたのかが、どこにも書かれていない。
だから確かめられない。確かめられないものは、言われた通りに受け取るしかなくなる。
六 「不可得」は手法の名前である
これも経文自身が示している。
『二万五千頌般若』では、実践項目を一つ説明するたびに、必ず同じ一句で締める。
idam api subhūte bodhisattvasya mahāsattvasya mahāyānam anupalambhayogena
これもまた須菩提よ、菩薩摩訶薩の大乗である。不可得というヨーガ(手法)によって。
八正道でも、十智でも、十力でも、四無畏でも、十八不共法でも、全部この一句が付く。
つまり anupalambha(不可得)は、**「これこれの徳目を修める。ただし不可得というやり方で」**という、やり方の指定として使われている。
結論として一度だけ言われる断定ではない。全項目に共通する、作業の様式の名前である。
七 何を探しているのか
不可得の対象(探して見出されなかったもの)を並べると、二種類に分かれる。
担い手を探す型
| 原語 | 意味 |
|---|---|
kāraka | 作用主(やっている本人) |
mamakāra | 我所(「私のもの」とする働き) |
sthāna | 住処(とどまっている場所) |
hetu | 因(原因になっているもの) |
呼び名は違うが、探しているものは同じである。その奥にいる本人。
歩いているなら、歩いている人。見ているなら、見ている人。それを捕まえようとして、捕まらなかった。
これは阿含以来、仏教がずっとやってきた作業である。
netaṃ mama, neso hamasmi, na meso attāこれは私のものではない、これは私ではない、これは私の真我ではない
自性を探す型
| 原語 | 意味 |
|---|---|
dharmadhātu | 法界 |
paramārtha | 第一義 |
tathatā | 如如 |
こちらは担い手ではなく、**「それ自体として成り立つあり方」**を探している。
これは新しい一手である。「私」は仮のものだと認めた上で、「私」を構成する要素(色・受・想・行・識など)には実体がある、と考える立場があった。その実体を探して、やはり見出さなかった。
同じ「不可得」の語が、この二種類の作業の両方に使われている。 だから読むと混ざって見える。
八 「無い」に変わると何が起きるか
ここが一番大きい。
「見出されない」 は、探した結果の報告である。
- 誰が探したか、が残る
- 探すという作業が残る
- 同じことを自分でもやってみられる
「無い」 は、存在についての断定である。
- 探した者が消える
- 探すという作業が消える
- やることが残らない
「無い」と言った瞬間、探す対象そのものが消える。探すべきものが無いのだから、検証は始まらない。
そして、何も無いままでは足場が無くなるので、今度は別のところに「有る」を立て直すことになる。
九 上座部でも同じ移動が起きている
これは大乗だけの話ではない。上座部の内部でも、同じ形の移動が記録に残っている。
正典の段階
パーリの『パティサンビダーマッガ』は、こう書いている。
五蘊は自性を欠く(
sabhāvena suññaṃ)
sabhāva(自性)は、否定される側にある。
そして『アビダンマ・ピタカ』には、sabhāva という語が一度も出てこない。
註釈の段階
ところが後代のスリランカの註釈文献で、初めて sabhāva が dhamma の同義語として使われるようになる。
正典が「欠く」と言っていた語が、註釈では「それである」に変わっている。否定側の語が、肯定側に移った。
註釈者たちもこの含意には気づいていて、後から打ち消すための定義を補足している。手当てが必要になった、ということである。
(Y. カルナダーサ『The Theravāda Abhidhamma』、および同著者による Dhamma Theory の解説による)
十 判定の基準
以上をまとめると、こうなる。
「不可得」とは——
探した。見出されなかった。
これだけである。
- 「無い」ではない
- 「達成できなかった」ではない
- 「〜という性質である」ではない
そして、この報告の形を保っている限り、判定は本人の手を離れない。
探したのは本人である。見出せたかどうかを確認できるのも本人だけである。他人が代わりに探すことも、代わりに報告することもできない。
「無い」に変えた瞬間、それは誰が言っても同じ文になる。 だから譲れる。譲った先で、それは受け取るものに変わる。
補足——確認していないこと
この記事で使った資料は、『二万五千頌般若』(木村高尉校訂、GRETIL 公開)の梵文本体と、上座部については Karunadasa の記述である。
次の点は確認できていない。
- 『大日経』の梵本は現存しないため、その字門の原語は復元にとどまる
- 一行『大日経疏』の具縁品注釈(字門本文への注釈)は未確認
- 反舌音の四字(ṭa・ṭha・ḍa・ḍha)の原語は、般若経の側でも実語が見つかっておらず、二字は音そのものを名詞化して埋めている

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