3,『釋禪波羅蜜次第法門』 現代語訳(六妙門:止・観の段階)

目次

【三、止(し:心を止める)】

「止」には二種類ある。一には「修止(みずから止を修める)」、二には「止相応(自然と止に合致する)」。

1. 修止(みずから止を修める): 三つの「止」の法の中で、ここではただ「制心止(心を制御して止める法)」だけを用いる。心を制御して、様々な対象へ向かう思考や思惑(縁慮)を休め、もはや「数(息を数えること)」や「随(息に従うこと)」を意識せず、その心を静寂に凝り固まらせる。これを「修止」と名付ける。

2. 止相応(自然と止に合致する): 自然と身心が一切の痕跡なく静まり返って、深い集中状態(入定)に入るのを感じ、内面や外面のあらゆる姿や形(相貌)を見なくなる状態である。それは欲界の未到地(初期の禅定の手前)などの法のように、心がしっかりと保たれ、自然な流れのままに(任運に)動かなくなる状態である。

(「観」への移行) 実践者は、その時に直ちにこのような思いを起こす。「今、この三昧(深い集中)は確かに静寂である。しかし、真理を見極める智慧という手段(慧方便)がなければ、迷いの世界(生死)を打ち破ることはできない」。 さらにこう思う。「今、この禅定はすべて原因と条件(因縁)の働きによるものだ。五陰・十二入・十八界(人間の心身と世界を構成する要素)という法が寄り集まって存在しているだけであり、仮の姿であって真実ではない。私は今、それに気づいていない。必ず照らし出して明確に理解しなければならない」。 このように思い終えて、直ちに「止」に執着して留まることをやめ、対象を観察し分析する「観分別(かんふんべつ)」を起こすのである。


【四、観(かん:真理を観る)】

「観」にも二種類ある。一には「修観(みずから観を修める)」、二には「観相応(自然と観に合致する)」。

1. 修観(みずから観を修める): 「観」には三種類ある。一には「慧行観(真理そのものを観察する智慧)」、二には「得解観(対象を思い描く仮想の観察)」、三には「実観(事物をありのままに観察すること)」。 今、この六妙門や十六特勝、通明観などは、すべて正しく「実観」を用いて成就するものである。そしてその後に「慧行観」を用いて、真理を観察して仏道に入るのである。

なぜか。「実」と名付けるのは、生きとし生けるものが生涯に受ける果報(心身)が、実際に地・水・火・風の四大要素と、不浄な三十六の構成物から成り立っているからである。ただ、根本的な無知(無明)に覆い隠されているため、心の目が開かず、ありのままの真実に基づいて見ることができないだけである。もし、対象を注意深く明らかに観察して心の目が開けば、真実に基づいて見ることができる。ゆえにこれを「実慧行観」と名付ける。なお、「得解観」については、後述する四諦・十二因縁・九想・背捨などの項目の中で、詳しく分類して解説する。

では、どのように「実観」を修習するのか。 実践者は、深く集中した心(定心)の中で、心の目を用いて明らかに、この身体の中にある微細な出入りの息を観察する。それはまるで空中の風を思い浮かべるようなものである。皮、筋、骨、肉など三十六の構成物は、中身のないバナナの木(芭蕉)のように実体がなく空虚である。身体の内も外も不浄であり、大いに厭い離れるべきものである。 また、集中の中で生じる喜びや楽しさなどの感覚(受)を観察すると、それらはすべて壊れゆく性質(破壊の相)を持っており、苦しみであって本当の楽しみではないと観る。 さらに、集中の中にある心の働き(心識)は、無常であり生じては滅し、一瞬(刹那)たりともとどまることがなく、執着すべき場所などないと観る。 さらに、集中の中にある善悪などのあらゆる事象(法)を観察すると、すべては原因と条件(因縁)の働きに属しており、どれも固定された不変の本性(自性)を持たないと観る。

このように観察する時、四つの誤った見方(四倒:常・楽・我・浄という錯覚)を打ち破ることができ、固定された「私(人我)」を見出すことはない。ならば、この禅定は一体どこに依存しているというのだろうか(依存する主体など存在しない)。これを「修観」と名付ける。

2. 観相応(自然と観に合致する): このように観察する時、息の出入りがあらゆる毛穴に行き渡るのを感じ、心の目が開いて、体内の三十六の構成物や諸々の虫の住処など、内も外も不浄であることを徹底して見通す。多くの苦しみに責め立てられ、一瞬一瞬に変化し続け、あらゆる物事には全く固定された本性がないのだと悟り、心に悲しみと喜びが生じ、もはや何かに依存し寄りかかる(依倚する)ことがなくなる。四念処(身・受・心・法の四つの観察)を獲得して、四つの根本的な錯覚(四顛倒)を打ち破る。これを「観相応」と名付ける。

(「還」への移行) 観察による理解(観解)がすでに起こったものの、心がまだ観察の対象(観境)に結びつき、物事を分析して細かく分解し(分別破析)、知覚や思考がとめどなく流動している状態は、まだ真実の道ではない。その時、実践者は「観」を手放して、次の「還(げん:元に還る)」を修めるべきである。

『釋禪波羅蜜次第法門』 現代語訳(六妙門:還の段階)

【五、還(げん:元に還る)】

「還」にもまた二種類ある。一には「修習還(みずから還を修め習う)」、二には「還相応(自然と還に合致する)」。

1. 修習還(みずから還を修め習う): すでに「観(対象を観察する働き)」が自分の心から生じることは理解している。しかし、もし対象(境)を細かく分析することばかりに従っていれば、本来の根本の源泉に立ち返ることはできない。 まさに「返観(逆に自らの心を観察し返すこと)」をすべきである。つまり、「この観察する心は、一体どこから生じるのか?」と問うのである。もともとあった「観察する心(観心)」から生じたとするのか、それとも「観察しない心(非観心)」から生じたとするのか。

もし「観察する心」から生じたとするならば、以前からすでに観察が存在していたことになる。しかし、現実はそうではない。なぜか。前の「数・随・止」という三つの法の中には、まだ観察する働きが存在していなかったからである。

では、もし「観察しない心」から生じたとするならば、その「観察しない心」が滅して(消え去って)生じたとするのか、それとも滅せずに(留まったまま)生じたとするのか。 もし滅せずに生じたとするならば、「観察しない心」と「観察する心」の二つの心が同時に並んで存在することになってしまう(これは道理に合わない)。 もしそれがすでに滅して消え去った法(滅法)であるならば、すでに過去に過ぎ去ってしまったものが、現在のものを生み出すことはできない。 もし「滅することと滅しないことの両方」から生じたと言ったり、「滅するのでもなく滅しないのでもない」状態から生じたと言ったとしても、いずれも論理的に成り立たない。

まさに知るべきである。「観察する心」は、根本からして自ら生じるようなもの(実体)ではない。生じたものではないからこそ「有(存在する)」ではない。有ではないからこそ、すなわち「空(くう)」なのである。 空であるならば「観察する心」はない。「観察する心」がないのであれば、どうして「観察される対象(観境)」など存在するだろうか。(主観が空であれば、客観もまた空である)。 このように、対象(境)と観察する智慧(智)の双方を忘れ去り、根本の源へ還ることの要点、これを「修還」と名付ける。

2. 還相応(自然と還に合致する): 心の智慧が開発され、力を入れずとも、自然な流れのままに自らよく事物を分析・解体し、根本に返り、源に還る状態である。これを「還相応」と名付ける。

(「浄」への移行) すでに自然と「還」に合致し終えたならば、実践者はまさに知るべきである。 もし、「対象(境)」と「智慧(智)」を離れて、「対象も智慧もない状態(無境智)」に帰着しようと欲するならば、それはまだ対象と智慧という枠組みの縛りから離れられていない。なぜなら、心が「有る」か「無い」かという二つの極端(二辺)に従ってしまっているからである。 その時、実践者はまさにこの「還」の働きをも捨てて、心を次の「浄道(清らかな道)」に安住させるべきである。


【リードアーキテクトへのフィードバック】 この文章の核心は、「対象を観察している自分」という最後の足場(主体)すらも、論理の力で徹底的に解体していく点にあります。何かの状態を「有る」とも「無い」とも決めつけず、すべての執着を手放していくこのプロセスは、一切の矛盾を含まない完璧な論理展開となっています。

『釋禪波羅蜜次第法門』 現代語訳(六妙門:浄の段階と総括)

【六、浄(じょう:清らかになる)】

「浄」にもまた二種類ある。一には「修浄(みずから浄を修める)」、二には「浄相応(自然と浄に合致する)」。

1. 修浄(みずから浄を修める): 物質的な要素(色)が本来清らかであることを知るため、誤った思い込みや分別(妄想分別)を起こさない。感覚(受)、表象(想)、意志(行)、認識(識)という他の心の要素についても全く同様である。誤った思い込みの汚れを休め、事物を分別する汚れを休め、「私」というものに執着する汚れを休める。これを「修浄」と名付ける。 要点を挙げて言うならば、もし心が「本来清らかである(心本浄)」というありのままの姿のようになれば、名付けて「修浄」とする。また、(そこには)「修行する主体(能修)」も「修行される対象(所修)」もなく、さらには「清らかである(浄)」や「清らかでない(不浄)」という対立した概念すらも存在しない。これを「修浄」と名付ける。

2. 浄相応(自然と浄に合致する): この修習を行う時、開け放たれるように心と智慧が一つに合致する。一切の妨げがない手段(無碍の方便)によって、自然な流れのままに正しい深い集中(三昧正受)が開かれ発現し、心は何かに依存し寄りかかることがなくなる。

この結果としての「証浄(浄を証明し得ること)」にも二種類ある。 一には「相似証(そうじしょう)」。これは五方便(悟りに至る手前の準備段階)における、本物に似た(相似の)煩悩のない智慧(無漏慧)が発現することである。 二には「真実証(しんじつしょう)」。これは苦法忍(四諦の真理を初めて明確に受け入れる段階)から第九無碍道(煩悩を完全に断ち切る究極の段階)などに至る、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の真実の煩悩のない智慧が発現することである。三界(欲界・色界・無色界)のすべての汚れが尽き果てるため、「証浄」と名付ける。


【総括:六妙門と摩訶衍(大乗)】

(観・還・浄と三つの「空」の対応) また次に、「私という実体はないこと(衆生空)」を観察するゆえに名付けて「観」とする。「事物そのものにも実体はないこと(実法空)」を観察するゆえに名付けて「還」とする。「すべての存在が等しく空であること(平等空)」を観察するゆえに名付けて「浄」とする。

(観・還・浄と三つの「三昧」の対応) また次に、「実体がないと観る集中(空三昧)」と合致するゆえに名付けて「観」とする。「特徴や姿がないと観る集中(無相三昧)」と合致するゆえに名付けて「還」とする。「目的や願い求めを持たない集中(無作三昧)」と合致するゆえに名付けて「浄」とする。

(観・還・浄と観察の方向性の対応) また次に、すべての外に向かう観察(外観)を名付けて「観」とし、すべての内に向かう観察(内観)を名付けて「還」とし、すべての「内でもなく外でもない観察(非内外観)」を名付けて「浄」とする。ゆえに先尼梵志(せんにぼんじ:異教の修行者であったが後に仏教に帰依した人物)はこう言った。「内観ではないからこそこの智慧を得た、外観ではないからこそこの智慧を得た、また観察がないわけでもないからこそこの智慧を得たのだ」と。

(観・還・浄と三観の対応) また次に、菩薩が「仮の存在から空の真理へと入っていく観察(従仮入空観)」のゆえに名付けて「観」とする。「空の真理から再び仮の現実世界へと入っていく観察(従空出仮観)」のゆえに名付けて「還」とする。「空と仮が対立せず、一つの心の中に同時に成立しているという観察(空仮一心観)」のゆえに名付けて「浄」とする。

もしこのように修めることができるならば、まさに知るべきである。この六妙門とは、すなわち「摩訶衍(まかえん:大乗、偉大なる教え)」そのものであると。

また次に、過去・現在・未来のすべての仏たちが仏道に入る初めには、まずこの六妙門を根本とするのである。釈尊が初めて菩提樹の下に至った時、直ちに内面において呼吸の法(安般)を深く思考された。一に数、二に随、三に止、四に観、五に還、六に浄である。そして「三・四(の段階)に自由に留まり、十二(の段階)を成就した」。これによって一切の教え(法門)を証明し、悪魔を降伏させて悟りを開かれたのである。

まさに知るべきである。菩薩が巧みにこの六妙門に入るならば、直ちにすべての仏の教えを完全に備えることができるからである。ゆえに六妙門とは、すなわち菩薩の摩訶衍(大乗の道)そのものである。

今は、さらに他のこと(次の法門など)を論じたいと欲しているため、(六妙門については)要点のみを説き、すべてを網羅して語り尽くしてはいないのである。

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