一切諸法(いっさいしょほう)詳解

―― 法の分析 → アートマンの検証 → ニャーナ(智)の生起 → 一切智

繰り返し学習用ノート


目次

序 ―― この学びの構造

伝統的な学道の順序は、次の三段階です(三慧)。

段階名称内容
1聞所成慧(もんしょじょうえ)「一切諸法とは何か」を正確に聞き、概念的に整理する
2思所成慧(ししょじょうえ)自分の経験に照らして検証し、論理的に確かめる
3修所成慧(しゅしょじょうえ)実際の観察(止観)によって直接知る = ニャーナ(ñāṇa / jñāna, 智)

本ノートの第1〜3部が「聞」、第4部が「思」(アートマンの検証)、第5部が「修」(ニャーナの生起過程)、第6部が「一切智」の内実にあたります。

重要な前提 「一切諸法」の分析は、知識の蒐集が目的ではありません。目的は執着の対象を残らず洗い出し、そのどれもが「我」でないと見届けることです。分類表を暗記することが目的化すると、かえって道から外れます。分類は常に「では、この項目は我か?」という問いとセットで扱ってください。


第1部 「法(ダルマ)」とは何か

1-1 語義

サンスクリット dharma(パーリ語 dhamma)は √dhṛ(保つ)に由来し、「保持するもの」が原義です。仏教内部でも多義的に用いられます。

用法意味
① 教法ブッダの教え三宝の「法」、法輪
② 真理・理法縁起の道理そのもの「縁起を見る者は法を見る」
③ 徳・善正しいあり方「如法」「非法」
存在要素・現象それ以上分析できない経験の構成単位一切諸法の「法」
⑤ 意識の対象六境のうち意の対象(法処)十二処の「法」

一切諸法」における「法」は主として ④ です。

1-2 アビダルマにおける定義

説一切有部の伝統的定義は二つ。

  • 任持自性(にんじじしょう) ―― 自らの固有の性質を保持している
  • 軌生物解(きしょうもつげ) ―― 一定の規範として、それに対する認識を生じさせる

つまり「法」とは、それ自身の特徴(自相 svalakṣaṇa)をもち、認識対象となりうる、経験の最小構成要素です。

例:「怒り」は一つの法(瞋)。「机」は法ではない ―― 机は色・形・触などの法の集合に付けられた**仮の名(施設 prajñapti)**にすぎない。

1-3 「自性」をめぐる根本的な対立点(必ず押さえる)

学派諸法の自性について
説一切有部諸法には固有の自性がある(法有我無)。人(プドガラ)は無我だが、法は実有
経量部法の一部のみ実有。心不相応行などは仮設
中観派(龍樹)法にも自性はない(法無我)。諸法は縁起ゆえに空
唯識派遍計所執性は無、依他起性は有(識として)、円成実性は真実

この対立を知らずに一つの分類表だけを覚えると、後で必ず混乱します。分類表は「有部の見取り図」であり、それ自体が最終真理ではない、と押さえてください。


第2部 「一切」の範囲 ―― 何が一切諸法か

2-1 最も原初的な定義:一切とは十二処である

『相応部』35.23「一切経(Sabba Sutta)」でブッダは明言します。

一切とは何か。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。これを一切という。これ以外に一切があると説く者があれば、それは言葉だけのことで、問い詰められれば答えられず、困惑するだろう。

きわめて重要な規定です。「一切」とは形而上学的な宇宙全体ではなく、「認識器官とその対象」という経験の場に限定される。経験に現れないものについて「有る」「無い」と論じることを、ここで切り捨てています。

一切智の探求が思弁に流れそうになったら、必ずこの経に戻ってください。

2-2 三科 ―― 三通りの分析枠

同じ「一切」を、迷いの傾向に応じて三通りに開きます。

① 五蘊(ごうん / pañca-skandha)

原語内容
色蘊rūpa物質的なもの。四大(地水火風)と所造色。身体と外界
受蘊vedanā感受。楽・苦・不苦不楽の三受
想蘊saññā表象・概念化。「青い」「これは何それだ」と像を結ぶはたらき
行蘊saṅkhāra意志的形成力。思(cetanā)を中心とする、受想以外の心のはたらき全般
識蘊viññāṇa識別。眼識〜意識の六識

心を「我」と誤認しやすい者への説き方(心を四つに開く)。

② 十二処(じゅうにしょ / dvādaśa-āyatana)

六根(眼耳鼻舌身意)+ 六境(色声香味触法)。

物質を「我」と誤認しやすい者への説き方(色を十に開く)。

③ 十八界(じゅうはちかい / aṣṭādaśa-dhātu)

六根 + 六境 + 六識(眼識〜意識)。

心・色の両方に迷う者への説き方。

三科は内容が異なるのではなく、同じ一切を粗・中・細に切り分けたものです。五蘊の色蘊 = 十二処の五根+五境+法処所摂色、というように相互に対応します。

2-3 有為と無為

  • 有為法(saṃskṛta) ―― 因縁によって作られたもの。生・住・異・滅する。無常
  • 無為法(asaṃskṛta) ―― 作られないもの。生滅しない

有部の三無為:

  1. 虚空(ākāśa) ―― 障礙なき空間性
  2. 択滅(pratisaṃkhyā-nirodha) ―― 智慧の簡択によって煩悩が滅した状態 = 涅槃
  3. 非択滅(apratisaṃkhyā-nirodha) ―― 縁を欠いたため生じないままの状態

2-4 五位七十五法(説一切有部『倶舎論』)

概要
色法11五根(眼耳鼻舌身)+五境(色声香味触)+無表色
心法1心・意・識(六識を一体として数える)
心所法46下記参照
心不相応行法14得・非得・同分・無想果・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・名身・句身・文身
無為法3虚空・択滅・非択滅

心所法46の内訳

  • 大地法10(常に働く):受・想・思・触・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地
  • 大善地法10:信・不放逸・軽安・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・勤
  • 大煩悩地法6:痴・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙
  • 大不善地法2:無慚・無愧
  • 小煩悩地法10:忿・覆・慳・嫉・悩・害・恨・諂・誑・憍
  • 不定地法8:尋・伺・睡眠・悪作・貪・瞋・慢・疑

2-5 五位百法(唯識『大乗百法明門論』)

特徴
心法8前五識・第六意識・第七末那識第八阿頼耶識
心所法51遍行5・別境5・善11・煩悩6・随煩悩20・不定4
色法11心・心所の変現したもの(識所変)
心不相応行法24仮法
無為法6虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如

有部との決定的な違い:

  • 末那識の発見 ―― 阿頼耶識を対象として、常に「我である」と執着し続ける深層の自我意識。四煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と常に相応する。 → 「アートマンの検証」が単なる論理作業では終わらない理由がここにあります。理屈で無我を納得しても、末那識レベルの我執は残る。修道(繰り返しの修習)が必要とされる根拠です。
  • 色法を識の変現とする(心を離れた物質を立てない)。

第3部 諸法の実相 ―― 何が見届けられるべきか

3-1 三法印(四法印)

法印適用範囲注意点
諸行無常諸行 = 有為法のみ無為法は無常でない
一切行苦諸行 = 有為法のみここも「行」
諸法無我諸法 = 有為+無為のすべて← 涅槃すら「我」ではない
涅槃寂静無為法

ここが一切諸法を学ぶ最大の要点です。 無常が説かれるとき主語は「諸」、無我が説かれるとき主語は「諸」。この使い分けは偶然ではありません。無我の適用範囲だけが例外なく全域なのです。

つまり ―― 無常なものを避けて、常住なものの中に「我」を探す、という逃げ道が最初から塞がれている。涅槃すら我ではない。これを見落とすと、「無常な五蘊の背後に、常住な真我がある」という結論に必ず流れます。

3-2 苦(dukkha)の三相

内容
苦苦苦しい感受そのもの
壊苦楽が変壊することによる苦
行苦形成されたものであること自体の不安定さ。最も深く、観察によってのみ見える

「一切行苦」の苦は主に行苦です。「人生は辛い」という情緒的主張ではなく、「条件依存で刻々と崩れ続けるものに、安定した拠り所はない」という構造的観察です。

3-3 縁起

此有故彼有、此生故彼生 / 此無故彼無、此滅故彼滅

十二縁起:無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死

四種縁起説(理解の深化段階として有用):

  1. 業感縁起(アビダルマ)
  2. 阿頼耶識縁起(唯識)
  3. 如来蔵縁起(『起信論』)
  4. 法界縁起(華厳)

3-4 空 ―― 中観の帰結

『中論』24.18:

縁によって生じたもの、それを我々は空と説く。それは仮に名づけられたものであり、それこそが中道である。

論理:

  1. あらゆる法は縁によって生じる
  2. 縁によって生じるなら、それ自体で成り立つ性質(自性 svabhāva)をもたない
  3. 自性がないこと = 空(śūnyatā)
  4. しかし全く無いのではなく、縁起する仮の存在として機能する(仮名)
  5. 有にも無にも偏らないこの見方が中道

重大な注意(『中論』13.8):

空を見解(見)としてしまう者は、救いがたい。

空を「新たな実体」「究極の何か」として掴んだ瞬間、それは執着の対象に転じます。空とは、掴むべき対象ではなく、掴む手を開かせる作用です。


第4部 アートマンの検証 ―― 実際の手続き

ここが本題です。分類はすべてこの検証のための材料でした。

4-1 まず概念を確定する ―― どのアートマンを検証するのか

「アートマン(ātman)」は文脈で意味が違います。混ぜると検証が成立しません。

文脈意味
日常語単なる再帰代名詞「自分自身」。この用法は仏教も使う(「自灯明 attadīpa」)
ウパニシャッド/ヴェーダーンタ常住・単一・自在・不変の実体としての真我。ブラフマンと同一(梵我一如)
仏教が否定する対象上記の実体的アートマン

仏教の無我説が否定するのは第二の意味です。検証すべき定義は明確に:

アートマン = ①常住(nitya) ②単一(eka) ③自在に支配する主体(īśvara / vaśavartin) ④他に依存しない実体

この四条件を、諸法のどれかが満たすか ―― これが検証の全内容です。

4-2 検証法A ―― 無我相経の三段論法(最も基本)

『無我相経(Anattalakkhaṇa Sutta)』の手続き。五蘊の一つ一つに、以下を順に適用します。

第一段:自在性の検証

色(身体)は無我である。もし色が我であるならば、色は病(苦)にならないはずであり、「私の色はこうあれ、こうあってはならない」と自在にできるはずである。しかし色は我ではないから、色は病になり、自在にはできない。

実修: 自分の身体に「老いるな」「病むな」と命じてみる。従うか? 受(感覚)に「苦であるな」と命じてみる。想に「その像を結ぶな」と命じてみる。行に「その衝動を起こすな」と命じてみる。識に「認識するな」と命じてみる。 → どれも命令に従わない。支配権(③)がない

第二段:無常 → 苦 → 無我(問答形式)

各蘊について、以下を自分に問います。

  1. 「色は常住か、無常か?」 ―― 無常です
  2. 「無常なものは、苦か、楽か?」 ―― 苦です(=安定した拠り所にならない)
  3. 「無常であり、苦であり、変壊する性質のものを、『これは私のものである(etaṃ mama)』『これは私である(eso ham asmi)』『これは私のアートマンである(eso me attā)』と見なすのは適当か?」 ―― 適当ではありません

この三句(我所・我・我体)は、それぞれ渇愛・慢・見に対応します。単に「我はない」と言うのではなく、三つの異なる執着の型を個別に洗う構造になっています。

第三段:結論の適用

それゆえ、いかなる色であれ ―― 過去・未来・現在、内・外、粗・細、劣・勝、遠・近 ―― すべての色について、「これは私のものではない、これは私ではない、これは私のアートマンではない」と、如実に正智をもって見るべきである。

十一の切り口(過去/未来/現在、内/外、粗/細、劣/勝、遠/近)を漏らさないのが要点です。「今の自分」だけを見て済ませない。

4-3 検証法B ―― 二十有身見(sakkāya-diṭṭhi)を潰す

我見は五蘊 × 四通り = 20の型で現れます。すべての型を明示的に検査してください。

各蘊について:

  1. その蘊を我と見る(色 = 我)
  2. 我がその蘊を所有すると見る(我が色を持つ)
  3. その蘊の中に我があると見る(色の中に我)
  4. 我の中にその蘊があると見る(我の中に色)

例(色蘊):

  • ①「この身体が私だ」
  • ②「私が、この身体を持っている」← 身体とは別の所有者を暗に立てている
  • ③「この身体の中に、私が宿っている」← 内在する魂のイメージ
  • ④「私(大きな自己)の中に、身体が含まれている」← 拡大自我のイメージ

②③④は「①ではない」と気づいた後に必ず出てくる逃げ場です。だから20すべてを列挙する必要があります。5蘊 × 4 = 20を、実際に紙に書き出して一つずつ検査するのが伝統的なやり方です。

有身見の断絶が「預流(sotāpanna)」の成立要件であり、ここが道の第一の分岐点です。

4-4 検証法C ―― 中観の七相門(チャンドラキールティ『入中論』)

「我」と「蘊」の関係として、論理的にありうる形はこの七つで尽きます(車と部品の喩え)。

#主張論破
1我 = 蘊(同一)蘊は五つ、我は一つ。数が合わない。蘊は生滅する、我は常住のはず。矛盾
2我 ≠ 蘊(全く別)蘊を離れた我は、何によっても認識されない。認識されないものは立てられない
3我が蘊を所有する「同一の所有」なら1に帰す、「別体の所有」なら2に帰す
4我が蘊に依存する依存するなら独立の実体でない(条件④に反する)
5蘊が我に依存する同上。相互依存なら双方とも自性なし
6我 = 蘊の集合集合は部分の仮の名。部分に自性がなければ集合にもない
7我 = 蘊の形状・配置形状は色法のみの性質。心的な蘊に形状はない

七つすべてが成り立たない → 自性をもつ我は、いかなる仕方でも見出されない。

ただし ―― 見出されないことは「何もない」ことではありません。車は七通りのどれとしても実体的に見出されないが、乗って移動する働きは成立している。同様に、業を積み、果を受け、修行する「仮の我(施設有の我)」の働きは否定されない。この区別(実体的我の否定 ≠ 一切の否定)を落とすと断見に陥ります。

4-5 検証法D ―― 実際の坐上での手順

概念の検証(4-2〜4-4)を済ませたうえで、観察に移ります。

  1. 対象を「今この瞬間に実際に現れているもの」に限定する(一切経の規定を守る)
  2. 生じている現象を、五蘊または名色のどちらかでラベリングする
    • 「これは色(硬さ・熱・動き)」「これは受(快/不快/中性)」「これは識(見る・聞く働き)」
  3. 各現象について、現れ → 消えるを実際に確認する
  4. 「その消えるものの中に、消えない観察者はいるか?」と探す
    • 「観察している者」を探すと、それもまた次の瞬間の識という現象として現れるだけで、掴めない
  5. 「探しても見つからない」という結果を、結論としてではなく、そのつど新しく確認する

やってはいけないこと:

  • 「無我だ」と念じて自己暗示する(これは想 saññā の操作であって、慧ではない)
  • 検証をやめて「見つからないものが真我だ」と結論する(→ 実体視への逆戻り)
  • 体験の異常さ(離人感など)を「悟り」と誤認する

安全上の留意:自己解体的な観察は、心身の状態によっては強い不安・離人感・抑うつを引き起こすことがあります(いわゆる観智の「怖畏智〜厭離智」に相当する段階には、これに似た現象が含まれます)。伝統的に必ず指導者のもとで行うとされるのはこのためです。日常生活に支障が出るような状態が続く場合は、修行を緩め、信頼できる指導者や、必要なら医療者に相談してください。「進んでいる証拠だから続けるべきだ」と自分を追い込まないこと。


第5部 ニャーナ(智)に至る過程

検証が実際の智に転じる道筋です。

5-1 三種の智の区別(混同しないこと)

性質特徴
聞慧借り物の知識「経典にそう書いてある」
思慧論理的納得「論理的に矛盾がないから正しい」
修慧(ニャーナ)直接知「実際に、そう現れているのを見ている」

**この学びの目的は、聞慧・思慧を修慧に転じることです。**知識量が増えても、それが聞慧に留まる限り、末那識の我執には触れません。

5-2 七清浄と十六観智(ヴィパッサナー・ニャーナ)

上座部の伝統(『清浄道論』)における、智の生起する順序です。

清浄観智内容
1 戒清浄戒による行為の整備
2 心清浄定の確立
3 見清浄名色分別智現象が「名(心)」と「色(物)」に分かれて見え、その二つ以外に何もないと分かる。人という実体の解体
4 度疑清浄縁摂受智名色が因縁によって生じるのが見える。「作り主」の不在が分かり、三世に対する疑いが晴れる
5 道非道知見清浄思惟智名色を無常・苦・無我として総括的に観る
生滅智生滅が明瞭に見える。※ここで光明・歓喜・軽安などの「観の随染(十種)」が起こり、これを悟りと誤認する危険がある。これを道でないと見極めるのが「道非道知見」
6 行道知見清浄壊滅智生よりも滅の側面が前面に出る。すべてが崩れ落ちるものとして見える
怖畏智諸行が恐るべきものとして現れる
過患智諸行の危険・過患が見える
厭離智諸行への厭い
脱欲智諸行から脱したいという意欲
審察智再度、三相を精査する
行捨智諸行に対し、恐れも欲もなく、平等な捨(upekkhā)が確立。観の成熟
随順智四諦の理に随順する
⑬ 種姓智凡夫の種姓から聖者の種姓へ転じる転換点(七清浄には数えない)
7 知見清浄道智涅槃を所縁とし、煩悩を実際に断つ。ここで有身見・疑・戒禁取が断たれる(預流)
果智道智の直後の果
省察智道・果・涅槃・断じた煩悩・残る煩悩を省みる

⑥怖畏智〜⑩審察智は苦しい局面です。ここを「失敗」「後退」と誤解して修行を放棄する例が多い。順序を知っておくことが、この段階を通過する助けになります。

5-3 大乗の枠組み ―― 五道と転識得智

内容
資糧道福徳と智慧の資糧を積む
加行道煖・頂・忍・世第一法。空性の理解が深まる
見道無分別智の初めての現前。初地(歓喜地)。遍計所執の我執を断つ
修道二地〜十地。繰り返しの修習により、倶生の我執(末那識レベル)を断つ
究竟道仏果

なぜ「何度も学ぶ」必要があるのかの教理的根拠がここにあります。

  • 分別起の我執 ―― 教義や思弁によって後天的に構成された自我観念。見道で一度に断たれる
  • 倶生起の我執 ―― 生まれつき、無始以来の習気として身についた自我感覚。見道では断てず、修道で長期にわたり繰り返し断つ

理屈で分かっても消えないのは、後者があるからです。反復学習は怠慢の代替ではなく、教理上必然の道程です。

転識得智(唯識):

前五識成所作智
第六意識妙観察智
第七末那識平等性智(自他の差別を立てる我執の転換)
第八阿頼耶識大円鏡智

第6部 一切智とは何か

6-1 三種の智(『大智度論』・天台)

主体対象三諦
一切智(sarvajñatā)声聞・縁覚諸法の総相(空)空諦
道種智(mārgajñatā)菩薩諸法の別相、衆生を導く無量の道仮諦
一切種智(sarvākārajñatā)仏のみ総相と別相を同時に、あらゆる相において中諦

したがって「一切智」は仏の最高智ではありません。仏の智は一切種智です。この区別は基本的な教理です。

6-2 一切智の本義 ―― 何を「一切」知るのか

ここが最も誤解されやすい点です。

仏教における一切智とは、世界中のあらゆる事実を百科事典的に知っていることが本義ではありません。一切法の実相 ―― すなわち一切法が無我・空であること ―― を知る智が本義です。

根拠となる態度が、**十四無記(無記説)**です。ブッダは「世界は常住か」「如来は死後存在するか」等の形而上学的問いに答えませんでした。理由は「役に立たず、法に導かず、離欲・寂滅・智・覚・涅槃に資さないから」。

全知の誇示ではなく、問いの選別が仏の智の特徴です。

学派間の理解:

  • 説一切有部:仏は「知ろうと欲すれば知る」(次第に知る)
  • 大乗の一部:一念に一切を頓に知る
  • 中観:一切智とは、一切法に自性がないと知ること。「全部の事実のリスト」ではない

6-3 一切智と無我の関係(核心)

一見矛盾するようですが、無我だからこそ一切智が可能という理路です。

自性をもつ「知る主体」が実在するなら、その主体は有限な位置・視点をもち、その視点から見えるものしか知りえません。主体の自性が空であるからこそ、限定なき知が成り立つ

『般若心経』が観自在菩薩について「五蘊皆空と照見して一切苦厄を度す」と述べ、また「無智亦無得」と続けるのは、智すらも実体視しないという徹底です。

つまり ―― 一切智とは、獲得される所有物ではありません。「私は一切智を得た」という構造が残っている限り、それは有身見(4-3の型②)の最も洗練された形にすぎない。一切智の成就とは、その所有者が見出されないことと同義です。

6-4 四依(しえ) ―― 学びの拠り所

この学びを、依存や自己欺瞞に転じさせないための、伝統的な四つの基準です。

意味
依法不依人法に依り、人に依らない。誰が説いたかではなく、法として正しいかで判断する
依義不依語語句の表面でなく、意味に依る
依智不依識分別的な識でなく、無分別の智に依る
依了義経不依不了義経究極を説く経に依り、方便として説かれた経を絶対視しない

および『大般涅槃経』の遺誡 ―― 自灯明・法灯明:

自らを灯明とし、自らを依処とせよ。他を依処とするな。法を灯明とし、法を依処とせよ。他を依処とするな。

依法不依人は、この文脈で特に重要です。仏教の伝統において、「一切智者である」と称する個人に自らの検証を委ねることは、明確に道から外れます。検証は各自が行うもので、代行はできない ―― ご質問の「各自にアートマンの検証をし」という表現は、この点で伝統に正確に合致しています。


第7部 反復学習用・要点圧縮

毎回の学習で、以下を確認してください。

7-1 一問一答

  1. 「一切」とは何か → 十二処(相応部35.23)
  2. 三科とは → 五蘊・十二処・十八界
  3. 無常が説かれる主語は → 諸行(有為法のみ)
  4. 無我が説かれる主語は → 諸法(有為+無為すべて)
  5. 検証すべきアートマンの定義は → 常住・単一・自在・独立の実体
  6. 有身見はいくつあるか → 20(5蘊 × 4型)
  7. 中観の七相門で我と蘊の関係は → 七つすべて不成立
  8. 見道で断つのは → 分別起の我執
  9. 修道で断つのは → 倶生起の我執(∴反復が必要)
  10. 仏の最高智は → 一切種智(一切智ではない)
  11. 一切智の本義は → 一切法の実相(空・無我)を知る智
  12. 空を見解として掴んだ者は → 救いがたい(中論13.8)

7-2 毎回の実践フォーマット

【1】対象を今この瞬間に限定する        ← 一切経の規定
【2】現象を名色/五蘊でラベリングする
【3】その現象は自在に支配できるか?     ← 無我相経・第一段
【4】常住か、無常か? 苦か? では我か?  ← 無我相経・第二段
【5】20の有身見のどれが今起きているか?  ← 有身見の点検
【6】「見ている者」を探す → 見つからない
【7】見つからないことを結論にせず、次の瞬間また確認する

7-3 陥りやすい八つの落とし穴

  1. 分類表の暗記が目的化する(聞慧に留まる)
  2. 「無常な五蘊の背後に常住な真我がある」と結論する(無我の適用範囲は諸法全体)
  3. 空を新たな実体として掴む(中論13.8)
  4. 「見つからない」を「何もない」と取る(断見)
  5. 生滅智の随染(光明・歓喜)を悟りと誤認する
  6. 怖畏智〜厭離智の苦しさを失敗と誤解して放棄する
  7. 「私は一切智を得た」という所有構造が残る(最も洗練された有身見)
  8. 検証を他者(自称一切智者)に委ねる(依法不依人に反する)

附録:主要典拠

主題典拠
一切=十二処『相応部』35.23 一切経
アートマンの検証『相応部』22.59 無我相経
有身見20『中部』44 有明小経
無記『中部』63 摩羅迦小経
法の分類世親『阿毘達磨倶舎論』
破我『倶舎論』破我品
空・中道龍樹『中論』特に第18章(観法品)・第24章(観四諦品)
七相門チャンドラキールティ『入中論』第6章
五位百法世親『大乗百法明門論』
末那識『成唯識論』第4巻
十六観智ブッダゴーサ『清浄道論』第18〜22章
三智『大智度論』巻27
四依『大般涅槃経』『維摩経』法供養品
自灯明法灯明『長部』16 大般涅槃経

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次