小品般若経 巻第三④ 随喜の福は最大なり

記事の説明
迴向品第七の入口。話し手は彌勒、聞き手は須菩提。菩薩の隨喜の福徳は、余の衆生の布施・持戒・修禪の福徳より、最大最勝最上最妙である。須菩提は、その隨喜を合集し、無上の菩提へ迴向する心の所縁は得られるか、と問う。彌勒は、諸縁諸事は不可得である、心の取相の如し、と返す。福は認める。迴向する心が尽き滅する段は、まだ次です。

今回の位置

③で佐助品は閉じました。聖弟子は菩薩を佐助す。果は般若から出る。人数の山は折れた。

今回は迴向品の入口だけです。品の名は迴向ですが、最初の一句は隨喜です。彌勒が先に、隨喜の福は最大最勝最上最妙だ、と置く。

須菩提が、その最大をどう合集し、どう迴向するかを問う。過去の滅度の諸仏から、滅後の衆生が種えた福までを数え、最大の心で隨喜し、すでに迴向したうえで、「この心の所縁は得られるか」と聞く。彌勒の答えは、不可得、心の取相の如し、までです。

読む範囲は、「菩薩摩訶薩隨喜福徳」から、「是諸縁諸事不可得、如心取相」まで。想顛倒・新発意の前では説くな・是の心即ち尽き即ち滅す、は⑤です。

語注

彌勒菩薩(みろくぼさつ) — 迴向品の口を開く。須菩提に語る。仏と帝釈の較べは、③で閉じた。口を取り違えない。

須菩提(しゅぼだい) — ③では帝釈を讃えた。ここでは問う側に回る。

菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ) — 摩訶薩は大士。菩薩の中の大なる者を呼ぶ添え名。ここで初めて出るが、位の階段を新しく立てる語ではない。

隨喜(ずいき) — 他の善根福徳を見て喜ぶ。自分の行を積む語ではない。余の衆生の布施・持戒・修禪と較べて、最大と置かれる。

余の衆生(よのしゅじょう) — 菩薩以外の人。布施・持戒・修禪の福は、ここでも捨てていない。較べる側に置く。

最大最勝最上最妙(さいだいさいしょうさいじょうさいみょう) — 四つの讃。最大で止めない。最妙まで重ねる。量の頂上を新しく作る語ではなく、隨喜の福を認める語です。

阿僧祇(あそうぎ) — 数え切れない数。量を積むときの上限です。①の恒河沙と同じ手です。

滅度(めつど) — 仏が度し已わったこと。過去の無量の仏を、いまの所有にしない。

無余涅槃(むよねはん) — 余すところ無い涅槃。数える中間は、初発心から法が滅しようとする時までです。涅槃はその途中に置かれます。

応六波羅蜜善根福徳 — 六波羅蜜に応じた善根と福徳。初発心から菩提、涅槃、法滅までの間にある分です。

学無学無漏福徳 — 学ぶ位と学び終えた位の、漏れ無い福。声聞の弟子の側です。

戒品・定品・慧品・解脱品・解脱知見品 — 仏の五つの徳の分け。大慈大悲もて衆生を利安すること、無量の仏法と其所説までが、続いて並びます。

合集稱量(がっしゅうしょうりょう) — 寄せ集め、量る。会計の語ではありません。隨喜する前に、対象の広さを一度置く手です。

迴向(えこう) — 向け回す。隨喜し已って、無上の菩提へ向ける。この段では、向ける操作の完成を説いていません。心の所縁を問う入口です。

所縁(しょえん) — 心が縁とする先。作是念の「是の心」が見ている対象です。

諸縁諸事(しょえんしょじ) — 縁とするもの、事とするもの。合集した福の数々を、心が対象として置いた形です。

不可得(ふかとく) — 得られない。無い、と消す語ではありません。心が取った相のままでは、得られない、です。

取相(しゅそう) — 相を取ること。心が対象に相を付けて掴む。不可得の答えは、この取相の如し、と付きます。

書き下し

爾の時、彌勒菩薩、須菩提に語げて言わく、「菩薩摩訶薩の隨喜の福徳は、余の衆生の布施・持戒・修禪の福徳に於て、最大最勝最上最妙なり」と。

爾の時、須菩提、彌勒菩薩に問う。

「若し菩薩、十方の無量阿僧祇世界に於て、過去の無量の滅度の諸仏あらん。是の諸仏、初発心従り、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得、無余涅槃に入り、乃至法の滅せんと欲する時に至るまで、是の中間に於て所有る応六波羅蜜の善根福徳。及び諸の声聞弟子の、布施・持戒・修禪の福徳。所有る学・無学の無漏の福徳。及び諸仏の戒品・定品・慧品・解脱品・解脱知見品、大慈大悲もて衆生を利安し、無量の仏法及び其の所説。是の法の中従り衆生受学し、是の諸衆生の所有る福徳、及び諸仏滅後の衆生の種ゆる所の福徳。

是の諸福徳を合集稱量し、最大最勝最上最妙の心を以て隨喜す。隨喜し已って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向し、是の観を作さく、我此の福徳、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし、と。

若し菩薩、是の念を作さく、我是の心を以て阿耨多羅三藐三菩提に迴向す、と。心の所縁の如き、是の諸縁諸事は、為に得可きや不や」と。

彌勒言わく、「是の諸縁諸事は不可得なり。心の取相の如し」と。

現代語の要約

席が変わります。③までは仏と帝釈でした。ここからは彌勒と須菩提です。

彌勒が須菩提に言います。菩薩の隨喜の福徳は、余の衆生の布施・持戒・修禪の福徳より、最大最勝最上最妙である、と。布施も戒も禪も、消えてはいません。

須菩提は、その最大をすぐには受けません。対象を一度、数え上げます。

十方の数え切れない世界の、過去の滅度の諸仏。初発心から菩提を得、無余涅槃に入り、法が滅しようとする時までの六波羅蜜の善根。声聞の弟子の布施・持戒・修禪。学と無学の無漏。仏の戒・定・慧・解脱・解脱知見。大慈大悲をもって衆生を利安すること。無量の仏法と其所説。その法を学んだ衆生の福。仏の滅後に種えた福。

これを合集し、量る。最大最勝最上最妙の心で隨喜する。隨喜し已って、無上の菩提へ迴向する。是の観を作す。「我此の福徳、当に無上の菩提を得べし」。

そのうえで問います。我是の心を以て迴向する、と言う。心の所縁の如き、是の諸縁諸事は、得られるのか、と。

彌勒は、得られない、と返します。心の取相の如し、と。

最大と認めた福が、取った相のままでは得られない、と入口で置かれます。尽き滅する、とは、まだ言っていません。

ポイント 最大を認めて、山にはしない

③の終わりは佐助でした。④の入口は隨喜です。渡した先の福を、さらに合集する。

合集した福を、最大と認める。認めなければ、次の迴向は福を捨てる話に聞こえます。経は先に、最大最勝最上最妙、と置きます。

較べの手は、①から同じです。余の衆生の布施・持戒・修禪は多い。そのうえで隨喜が上に来る。上に来ても、布施を無かったことにはしない。

須菩提の問いは、量の勝ち負けではありません。合集し、隨喜し、迴向した心が、その所縁を得られるか、です。

「我此の福徳、当に菩提を得べし」は、福を菩提の財に変える観です。彌勒は、その諸縁諸事を不可得だ、と言います。取相の如し、です。

得ない。まだ、心そのものが滅する、とは書いていません。入口は、最大を認め、取った相では得られない、と示すところまでです。

つまずきやすい所

隨喜を、福を殖やす技術にしない。
最大最勝最上最妙は、讃です。操作の手順ではありません。合集稱量を会計にして、随喜すれば元本が増える、と読むと、③の「近い完成品を買わない」が、ここで山に戻ります。

布施・持戒・修禪を、劣った行として捨てない。
余の衆生の福も、「於て」較べられているだけです。無い、ではありません。

「我此の福徳、当に菩提を得べし」を、④の結論にしない。
これは須菩提が置く観です。彌勒の答えは、不可得です。観のまま受け取ると、迴向が所有の完成になります。

不可得を、福は無かった、と読まない。
彌勒は隨喜の最大を消していません。取相の如き諸縁諸事は得られない、です。福は認め、出所へ戻す。戻し方の本体は、⑤です。

⑤の尽滅を、ここで先に埋めない。
是の心即ち尽き即ち滅す、新発意の前では説くな、二心は倶ならず、は次の段です。④は入口です。入口で品を閉じない。

次回

須菩提が重ねて問います。諸縁諸事が爾らざれば、想顛倒・見顛倒・心顛倒ではないか、と。無常を常と謂い、苦を楽と謂い、不浄を浄と謂い、無我を我と謂う、とその四つが並びます。

彌勒は、如是の迴向法は新発意の菩薩の前で説くな、と言います。信楽恭敬の浄心が滅失するからである。所用の心の迴向、是の心即ち尽き即ち滅す。何等の心が迴向するか。二心は倶ならず。心性は迴向すべからず。⑤はそこからです。


迴向品/隨喜/彌勒/須菩提/小品般若経/経典解説/巻第三

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