小品般若経 巻第三⑤ 廻向の心は即ち尽滅す

記事の説明
④は隨喜を最大と認め、諸縁諸事は不可得、心の取相の如し、まででした。⑤は、その答えのあとを開きます。須菩提は、爾らざれば顛倒ではないか、と問う。彌勒は、如是の迴向法を新発意の前で説くな、と返す。所用の心の迴向、是の心即ち尽き即ち滅す。二心は倶ならず。心性は迴向すべからず。帝釈が案じ、須菩提が答える。心相を生ぜざれば迴向である。尽滅相の法は迴向すべからず。取相分別の迴向は雑毒。諸仏の知る所の如く隨喜するのを、正迴向と名づける。向ける心を、物にしない。

今回の位置

④の入口は隨喜でした。最大最勝最上最妙を先に置く。須菩提が所縁を問う。彌勒が不可得、取相の如し、と返したところで止まりました。

今回はその続きです。ただし迴向品の全部ではありません。仏が須菩提を讃じ、正迴向の福を有所得の供養と較べる段は、次回です。

須菩提が、諸縁諸事が爾らざれば想顛倒・見顛倒・心顛倒ではないか、と重ねます。爾らば、菩提も心も如是であり、何が隨喜迴向の心か、とも問う。

彌勒は、この迴向法を新発意の前で説くな、と限ります。信楽恭敬の浄心が滅失するからである。阿毘跋致の前で説け。そのうえで、所用の心の迴向は即ち尽き即ち滅す、心を以て心を迴向すれば二心は倶ならず、心性は迴向すべからず、と置きます。

帝釈が案じます。新発意が聞けば驚怖するのではないか。菩薩は今どう如実に迴向するのか。

須菩提が、彌勒に因って答えます。過去の諸仏は道已に断じ行已に滅している。その善根を合集稱量して隨喜し、迴向する。どうすれば顛倒に堕ちないか。是の心の中に心相を生ぜざれば、則ち是れ迴向である。生ずれば顛倒に堕ちる。隨喜の時、是の心は尽滅相であり、尽滅相の法は迴向すべからず。是の如く迴向するのを正迴向と名づける。

そのあと、作起法は離相、取相分別は雑毒、無繋の迴向、と続きます。

読む範囲は、「若是諸縁諸事不爾者」から、無繋の段の結び「是名正迴向」まで。仏の讃と較べは、次回です。

語注

不爾(しからず) — 爾らず。④の諸縁諸事が、取相のままでは得られない、その答えを受けて、須菩提が重ねる語です。

想顛倒・見顛倒・心顛倒(そうてんどう・けんてんどう・しんてんどう) — 想い、見、心の転倒。須菩提が恐れる三つです。字は替えません。

無常謂常・苦謂楽・不浄謂浄・無我謂我 — 転倒の四つの謂い。無常を常と謂う。苦を楽と謂う。不浄を浄と謂う。無我を我と謂う。無我と非我は、ここで混ぜません。経が置くのは無我を我と謂う転倒です。非我の定義を、この四句に入れない。

新発意(しんほつい) — 初めて意を発した菩薩。③の初発意と同じ箇所です。近い完成品ではありません。この迴向法を、その前で説くな、と彌勒は限る。

信楽恭敬浄心(しんぎょうくぎょうじょうしん) — 信じ楽しみ、恭しく敬う浄い心。説くな、の理由は、この心が滅失するからです。相手を愚かにするための隠しではありません。

滅失(めっしつ) — 滅び失せる。④で認めた信の心が、取り方を誤れば失せる。心を殺せ、という行ではありません。

善知識相随(ぜんちしきそうずい) — 善き知識に相随う者。阿毘跋致と並べて、説く相手に挙げられます。位だけで区切っていません。

不驚不怖不沒不退(おどろかず、おそれず、しずまず、しりぞかず) — 説く相手の側に出る四つ。沒は沈むこと。退は退くこと。

所用心(しょようしん) — 迴向に用いる心。諸縁諸事と並べて問われる。向ける道具として残す心ではありません。

即尽即滅(そくじんそくめつ) — 即ち尽き、即ち滅す。所用の心の迴向を指す。自分を消す行の名ではありません。作起した心は、すでに尽き滅する、です。

二心不倶(にしんふぐ) — 心を以て心を迴向すれば、是の二心は倶ならず。向ける心と、向けられる心と、二つを同時に持てない。心を二つにして、片方を向ける元にしない。

心性不可得迴向(しんしょう・ふかとく・えこう) — また心性は不可得であり、迴向すべからず。二心の次に置かれる一句です。心の側にも、向ける元になる性は取れない。

心相(しんそう) — 心の相。是の心の中に心相を生ぜざれば迴向であり、生ずれば顛倒に堕ちる。④の取相と同じ側、心が掴む目印の相です。

尽滅相(じんめつそう) — 尽き滅する相。隨喜の時、是の心は尽滅相である。如実にそれを知る。そして尽滅相の法は迴向すべからず、と続く。滅を新しい相として立てる語ではありません。

作起法(さきほう) — 作され起きた法。所用の心も隨喜の福徳も、この側です。

離相(りそう) — 相を離れる。作起法は皆な離相、隨喜の福徳もまた離相。④の取相の反対側です。相が無い、と先に住しない。知る、です。

正迴向(しょうえこう) — 正しい迴向。取相せず、有所得の心で向けない。新しい福の技術の名ではありません。

無相(むそう) — ④には出ていません。ここで初めて、過去に尽滅した法は無相、相を以て得べからず、と置かれます。④の不可得を、ここで無相に書き換えて遡らない。

分別(ふんべつ) — 分けて取ること。是の如くにも分別すれば取相。是の如くにも分別しなければ正迴向。知らぬ、ではありません。分けて得ない、です。

方便(ほうべん) — 般若波羅蜜の方便。聞かず得ざれば、この事に入れない。正迴向できる者は無い、と経は書く。手練の名ではありません。

有所得(うしょとく) — 得る所が有る。過去の滅度の諸仏の身と福徳を、取相分別して得て迴向する。大貪著と名づけられます。

雑毒衰悩(ぞうどくすいのう) — 毒が雑じり、衰え悩ます。有所得の迴向の名です。美食に毒がある喩えが続きます。地獄の品ではありません。⑥と口を取り違えない。

邪迴向(じゃえこう) — 是の如く迴向せざるを、こう名づける。無繋ならざる迴向です。

何相何性何体何実 — 何の相、何の性、何の体、何の実。諸仏の知る福徳を、この四つで自ら取らない。諸仏の知る所の如く、我も亦た是の如く隨喜する。

不繋(ふけ) — 繋がない。欲界・色界・無色界に繋がない。過去・未来・現在にも非ず。福徳の迴向も、所迴向の法も、迴向の処も、無繋。

書き下し

須菩提言わく、「若し是の諸縁諸事、爾らずんば、是の人、将に想顛倒・見顛倒・心顛倒無からんとするや。無常を常と謂い、苦を楽と謂い、不浄を浄と謂い、無我を我と謂うは、想顛倒・見顛倒・心顛倒を生ずるなり。若し諸縁諸事、如実ならば、菩提もまた是の如く、心もまた是の如し。若し諸縁諸事と菩提及び心と異なること無くんば、何等か是れ隨喜の心もて阿耨多羅三藐三菩提に迴向する」と。

彌勒言わく、「須菩提、是の如き迴向法は、応に新発意の菩薩の前に於て説くべからず。所以は何ん。是の人の所有る信楽恭敬の浄心、皆な当に滅失すべし。須菩提、是の如き迴向法は、応に阿毘跋致の菩薩の前に於て説くべし。若しは善知識に相随う者に説け。是の人、是れを聞いて、驚かず、怖れず、沒せず、退かず。

菩薩の隨喜の福徳は、応に是の如く薩婆若に迴向すべし。用うる所の心の迴向、是の心即ち尽き即ち滅す。何等の心か是れ阿耨多羅三藐三菩提に迴向する。若し心を用いて心を迴向せば、是の二心倶ならず。又た心性は不可得にして迴向すべからず」と。

爾の時、釋提桓因、須菩提に語げて言わく、「新発意の菩薩、是の事を聞かば、将に驚怖無からんとするや。菩薩、今云何が隨喜の福徳を以て如実に迴向する」と。

爾の時、須菩提、彌勒菩薩に因って是の言を作す。

「菩薩、過去の諸仏に於て、道已に断じ、行已に滅し、戲論尽く。蕀刺を滅し、重担を除き、己利を得、有結を尽くす。正智もて解脱し、心自在を得たまえり。無量阿僧祇世界の中の滅度の諸仏の、所有る善根福徳の勢力、及び諸弟子の諸仏の所に於て種えし所の善根、合集稱量す。是の諸福徳を、最大最勝最上最妙の心を以て隨喜す。隨喜し已って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。

是の菩薩、今当に云何が想顛倒・見顛倒・心顛倒に堕せざるべき。

若し是の菩薩、是の心を用いて阿耨多羅三藐三菩提に迴向するに、是の心の中に於て心相を生ぜざれば、則ち是れ阿耨多羅三藐三菩提に迴向するなり。若し是の菩薩、是の心の中に於て而も心相を生ぜば、則ち想顛倒・見顛倒・心顛倒に堕す。

若し菩薩、隨喜する時、是の心は尽滅の相なりと、如実に尽滅の相を知らば。尽滅の相の法は、則ち迴向すべからず。迴向の心もまた是の如き相、迴向せらるる所の法もまた是の如き相なり。若し能く是の如く迴向せば、是れを正迴向と名づく。菩薩摩訶薩は、応に隨喜の福徳を以て是の如く迴向すべし。

若し菩薩、過去の諸仏の所有る福徳、並びに諸弟子及び凡夫人、乃至畜生の、法を聞いて種えし善根。及び諸天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人等の、法を聞いて薩婆若に応ずる心を発せる。是の諸福徳を合集稱量し、最大最勝最上最妙の心を以て隨喜す。隨喜し已って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。

若し菩薩、是の如く念ぜん、是の諸法は皆な尽滅し、迴向する所の処もまた尽滅す、と。是れを隨喜の福徳を正しく阿耨多羅三藐三菩提に迴向すと名づく。又た菩薩、是の如く、法として能く法を迴向する有ること無しと知る。是れを正しく阿耨多羅三藐三菩提に迴向すと名づく。若し菩薩、是の如く迴向せば、則ち想顛倒・見顛倒・心顛倒に堕せず。何を以ての故に。是の菩薩、迴向に貪著せざるが故に。是れを無上の迴向と名づく。

若し菩薩有りて、福徳に於て作起の法を取相分別せば、則ち此の福徳を以て迴向すること能わず。何を以ての故に。是の作起の法は皆な是れ離相、隨喜の福徳もまた是れ離相なり。若し菩薩、念ずる所の作起の法の皆な離相なるを知らば、当に知るべし、是れを般若波羅蜜を行ずと為す。又た諸の過去滅度の仏の善根福徳もまた是の如く、迴向に用うる所の迴向の法の性相もまた是の如し。若し能く是の如く知らば、是れを正しく阿耨多羅三藐三菩提に迴向すと名づく。何を以ての故に。諸仏、取相の迴向を許さざるが故に。

若し法、過去に尽滅せば、是の法は無相なり、相を以て得べからず。若し是の如くにも亦た分別せば、是れを取相と名づく。若し是の如くにも亦た分別せざれば、是れを正迴向と名づく。

云何が相を取り分別せずして、而も能く迴向する。菩薩、是の事を以ての故に、応に般若波羅蜜の方便を学すべし。若し般若波羅蜜の方便を聞かず得ざれば、則ち是の事に入ること能わず。若し般若波羅蜜の方便を聞かず得ずして、能く諸の福徳を以て正迴向せん者は、是の処有ること無し。

何を以ての故に。是の人、過去の諸仏の身及び諸の福徳の皆なすでに滅度せるに於て、而も取相分別して是の福徳を得て、以て迴向せんと欲す。是の如き迴向は、諸仏許さず、また隨喜せず。何を以ての故に。是れ皆な法に於て有所得なるが故に。所謂、過去滅度の諸仏に於て、取相分別し、有所得にして迴向するは、即ち是れ大貪著なり。是の有所得の心を以て迴向する者を、諸仏は大利益有りと説かず。何を以ての故に。是の迴向を名づけて雑毒衰悩と為す。

譬えば美食、其の中に毒有るが如し。好き色香美有りと雖も、毒有るを以ての故に、之を食うべからず。愚癡無智の人、若し此の食を食えば、初めは香美にして意に可なりと雖も、食の消えんと欲する時、大苦の報有り。

是の如く、人有りて、正しく受けて読誦せず、其の義を解せずして、諸の弟子に迴向を教えて語りて言わく、善男子来たれ、過去未来現在の諸仏の戒品・定品・慧品・解脱品・解脱知見品、並びに諸の声聞弟子及び凡夫人の種えし所の善根、及び諸仏の衆生に辟支仏の記を授けたまう、是の辟支仏の種えし所の善根、及び菩薩に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたまう、是の諸菩薩の種えし所の善根、合集稱量して、是の諸福徳を隨喜せよ。隨喜し已って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向せよ、と。

是の人、是の如く迴向す。是の迴向、取相分別なるが故に、名づけて雑毒と為す。雑毒の食の如し。有所得の者には、迴向有ること無し。何を以ての故に。是の有所得は、皆な是れ雑毒なるが故に。

是の故を以て、菩薩応に是の如く思惟すべし。過去未来現在の諸仏の善根福徳、応に云何が迴向せば、正しく迴向して阿耨多羅三藐三菩提に至ると名づくる、と。

若し菩薩、諸仏を謗らざらんと欲せば、応に是の如く迴向すべし。諸仏の知りたまう所の福徳、何なる相、何なる性、何なる体、何なる実なるが如く、我も亦た是の如く隨喜す。我是の隨喜を以て、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す、と。菩薩是の如く迴向すれば、則ち咎有ること無く、諸仏を謗らず。是の如き迴向は、則ち雑毒ならず。また諸仏の教に随うと名づく。

復次に、菩薩応に隨喜の福徳を以て是の如く迴向すべし。戒品・定品・慧品・解脱品・解脱知見品の如く、欲界に繋せず、色界に繋せず、無色界に繋せず、過去に非ず、未来に非ず、現在に非ず。無繋なるを以ての故に、是の福徳の迴向もまた無繋、迴向せらるる所の法もまた無繋、迴向の処もまた無繋なり。若し能く是の如く迴向せば、則ち雑毒ならず。若し是の如く迴向せざれば、名づけて邪迴向と為す。

菩薩の迴向法、三世の諸仏の知りたまう所の迴向の如く、我も亦た是の如く阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。是れを正迴向と名づく。

現代語の要約

須菩提が重ねて問います。諸縁諸事が爾らざれば、想も見も心も顛倒するのではないか。無常を常と謂い、苦を楽と謂い、不浄を浄と謂い、無我を我と謂う。それが転倒である、と。

逆に、諸縁諸事が如実であるなら、菩提も心も如是である。三つが異ならないなら、何が隨喜迴向の心なのか。問いは両側から挟みます。

彌勒は、この迴向法を新発意の前で説くな、と限ります。信楽恭敬の浄心が滅失するからである。阿毘跋致の前で説け。善知識に相随う者に説け。その人は驚かない、恐れない、沒しない、退かない。

そのうえで置きます。用いる所の心の迴向、是の心は即ち尽き即ち滅す。では何の心が迴向するのか。心を以て心を迴向すれば、二つの心は倶ならない。心性もまた不可得で、迴向すべきものではない。

帝釈が案じます。新発意がこれを聞けば驚怖するのではないか。菩薩は今どう如実に迴向するのか。

須菩提が、彌勒に因って答えます。過去の諸仏は道已に断じ、行已に滅し、戲論が尽きている。蕀刺を滅し、重担を除き、己利を得、有結を尽くし、正智で解脱し、心自在を得ている。その善根の勢力と、弟子が種えた善根を合集し、量る。最大最勝最上最妙の心で隨喜し、迴向する。

では、どうすれば顛倒に堕ちないか。

是の心の中に心相を生じなければ、それが迴向である。生ずれば顛倒に堕ちる。隨喜する時、是の心は尽滅の相であり、それを如実に知る。尽滅の相の法は、迴向できない。迴向する心も、迴向される法も、同じ相である。是の如く迴向するのを正迴向と名づける。

対象は、さらに広がります。凡夫も、畜生も、法を聞いて善根を種える。天も龍も夜叉も、法を聞いて薩婆若に応ずる心を発す。それらを合集し、隨喜し、迴向する。

そのとき、諸法は皆な尽滅し、迴向する処もまた尽滅する、と念ずる。法として法を迴向できるものは無い、と知る。是の如く迴向すれば顛倒に堕ちない。迴向に貪著しないからである。これを無上の迴向と名づける。

福徳において作起の法を取相分別すれば、迴向できない。作起の法は皆な離相であり、隨喜の福徳も離相である。それを知るのを、般若を行ずと名づける。

諸仏は取相の迴向を許さない。過去に尽滅した法は無相であり、相を以て得られない。是の如くにも分別すれば取相。是の如くにも分別しなければ正迴向。

では取らず分別せずして、どう迴向するか。般若の方便を学べ。聞かず得ざれば、この事に入れない。方便なくして正迴向できる者は無い。

滅度した仏の身と福を、取相分別して得て迴向しようとする。諸仏は許さない、隨喜しない。法に有所得があるからである。それは大貪著である。有所得の心の迴向を、雑毒衰悩と名づける。

美食に毒がある。色も香も美しくても、食えない。愚かな者が食えば、初めは可意でも、消える時に大苦がある。

正しく受けて読誦せず、義を解さずに、弟子に迴向を教える者がいる。三世の諸仏の五分法身、弟子と凡夫の善根、辟支仏の記を授かった者の善根、菩薩の記を授かった者の善根、それらを合集稱量して隨喜し迴向せよ、と言う。取相分別ゆえに雑毒である。有所得の者に、迴向は無い。

正迴向はこうです。諸仏の知りたまう福徳が、何なる相、何なる性、何なる体、何なる実であるか、その如くに、我も亦た隨喜する。咎無く、諸仏を謗らず、雑毒でない。

戒定慧解脱解脱知見の如く、三界に繋がれず、三世にも非ず。無繋ゆえに、迴向も、迴向される法も、迴向の処も、無繋である。是の如くならざれば邪迴向。三世の諸仏の知りたまう迴向の如く向ける。是れを正迴向と名づける。

ポイント 向ける心を、物にしない

④は最大を認め、取相のままでは得られない、まででした。⑤は、得られないと言われた心を、別の物にして残さない、です。

須菩提の恐れは、爾らざれば顛倒ではないか、です。無い、と消すと、無常を常と謂う四つの転倒の型が、反対側から入ります。無我を我と謂う、もその四つです。非我の行に、ここで書き換えない。

しかも須菩提は、逆側も塞ぎます。如実なら、菩提も心も如是である。異ならないなら、何が迴向の心か。有ると立てても、無いと消しても、迴向の主が残らない。

新発意の前で説くな、は秘めることではありません。信楽恭敬の浄心が滅失する、と理由が付いています。③の初発意を佐助する口と、矛盾させない。発したところを捨てる文ではない。取り方を誤れば、その浄心が失せる、です。

即尽即滅は、心を殺せ、ではありません。用いた心は、用いた時にすでに尽き滅している。だから、その心を元にして向けようとすると、滅した心と今の心と、二つを並べることになる。二心は倶ならない。心性もまた不可得で、向ける元にならない。

では何が迴向か。答えは、心相を生じないこと、です。生じなければ迴向であり、生ずれば顛倒である。心を無くすのではない。心に相を立てない、です。

尽滅も、新しい相にしない。是の心は尽滅の相である、と如実に知る。そして尽滅の相の法は迴向できない、と続く。滅を掴んで、それを向ける台にしない。

正迴向は、福を上手に向ける技術ではありません。諸仏の知る所の如く隨喜する。何相何性何体何実と、自分で取らない。無繋である。有所得で合集して向けると、美食に毒が雑じる。

福は認める。認めた福を、得た物にして向けない。出所へ戻す。

つまずきやすい所

尽滅を、自分を消す行にしない。
消すと、④で認めた隨喜の最大が無かったことになります。経は隨喜を消しません。作起した心が尽き滅する、です。得ない。住しない。離れない。

「無我謂我」を、非我の定義にしない。
無我と非我は分けて使う。ここにあるのは転倒の四句です。無我を我と謂うのが転倒である、と置く。非我の行を、この句から作らない。

新発意に隠す秘教にしない。
説くな、の理由は浄心の滅失です。阿毘跋致だけに売る文ではありません。説く相手には、善知識に相随う者も並びます。位だけの線ではない。③の「発したところから佐助す」を、ここで閉じない。

「心相を生ぜず」を、心を無くせ、と読まない。
経は心を消せとは書きません。是の心の中に心相を生じない、です。④の取相と同じ側の話です。掴む目印を立てない。

「何相何性何体何実」を、自分で埋めない。
諸仏の知りたまう所の如く、とだけ書かれています。相も性も体も実も、中身は開かれません。定義を作って、その定義に随って向けると、そこに取相が戻ります。

雑毒を、⑥の泥犁と繋いで売らない。
ここは有所得の迴向の喩えです。地獄に展転する品ではありません。口を取り違えない。

正迴向を、勝れた福の操作にしない。
「如諸佛所知」は、操作の手順ではありません。取らず、分別せず、無繋である。方便を学ばずして正迴向できる者は無い、と経は書く。方便を新しい所有にしない。

④の不可得を、⑤の無相で遡って埋めない。
無相は、過去に尽滅した法の側で、ここで出ます。④は取相の如くには得られない、までです。棚を替えない。

次回

爾の時、仏が須菩提を讃じます。善哉善哉、汝能く諸菩薩摩訶薩のために仏事を作す、と。

三千大千世界の衆生が慈悲喜捨・四禪・四無色定・五神通を行ずる福より、是の菩薩の迴向の福徳が最大最勝最上最妙である、と較べが戻ります。有所得の心で恒河沙劫に供養しても、般若に護られた迴向には百分の一も及ばない。四天王天から浄居天まで、諸天が是を大迴向と唱えます。理由は一つ、般若波羅蜜に護らるる故に、です。

須菩提が問う。云何が最大最勝最上最妙の隨喜と名づくる。仏は、過去未来現在の諸法に、取らず、捨てず、念ぜず、得ず、と返します。迴向品の残りです。その次が泥犁品、⑥です。


迴向品/正迴向/雑毒/新発意/彌勒/小品般若経/経典解説/巻第三

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