[書き下し文]
『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第四(読誦用テキスト) 後秦(こうしん)亀茲国(きじこく)の三蔵(さんぞう)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳(やく)す。
歎浄品(たんじょうほん)第九
爾(その)時(とき)、舎利弗(しゃりほつ)、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく。「世尊(せそん)、是(こ)の浄(じょう)は甚(はなは)だ深(ふか)し。」仏、言(のたま)わく、「浄きが故(ゆえ)に。」
「世尊、是の浄は明(あきら)かなり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は欲界(よくかい)に生(しょう)ぜず、色界(しきかい)に生ぜず、無色界(むしきかい)に生ぜず。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は無垢(むく)にして無浄(むじょう)なり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は無得(むとく)無果(むか)なり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は不作(ふさ)不起(ふき)なり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は無知(むち)なり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、是の浄は色(しき)を知(し)らず、受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)を知らず。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は薩婆若(さつばにゃ)において不増(ふぞう)不減(ふげん)なり。」仏、言わく、「浄きが故に。」
「世尊、般若波羅蜜は浄きが故に、法(ほう)において取(と)る所(ところ)無(な)し。」仏、言わく、「浄きが故に。」
爾の時、須菩提(しゅぼだい)、仏に白して言さく、「世尊、我(が)浄きが故に色も浄し。」仏、言わく、「畢竟浄(ひっきょうじょう)なるが故に。」
「世尊、我浄きが故に受・想・行・識も浄し。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、我浄きが故に果(か)も浄し。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、我浄きが故に薩婆若も浄し。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、我浄きが故に無得無果なり。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、我無辺(むへん)なるが故に色も無辺なり。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、我無辺なるが故に受・想・行・識も無辺なり。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、是(かく)の如(ごと)く是の如きを菩薩(ぼさつ)の般若波羅蜜と名(なづ)くるや。」「須菩提、畢竟浄なるが故に。」
「世尊、般若波羅蜜は此(こ)の岸(きし)に非(あら)ず、彼(か)の岸に非ず、中流(ちゅうる)に非ず。」仏、言わく、「畢竟浄なるが故に。」
「世尊、菩薩もし是の如くして、亦(ま)た分別(ふんべつ)せば、即(すなわ)ち般若波羅蜜を失(うしな)い、即ち般若波羅蜜に遠(とお)ざからん。」仏、言わく、「善哉善哉(よきかなよきかな)、須菩提。名相(みょうそう)に従(したが)うが故に著(じゃく)を生(しょう)ず。」
「希有(けう)なり世尊。善(よ)く般若波羅蜜の中(なか)の著を説(と)きたまへり。」
爾の時、舎利弗、須菩提に語(かた)らく、「何(いか)なる因縁(いんねん)の故にか名づけて著と為(な)す。」
「舎利弗、若(も)し善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、色を空(くう)なりと分別せば、即ち名づけて著と為す。受・想・行・識を空なりと分別せば、即ち名づけて著と為す。過去(かこ)の法、未来(みらい)の法、現在(げんざい)の法を分別せば、即ち名づけて著と為す。初発心(しょほっしん)の菩薩は若干(そこばく)の福徳(ふくとく)を得(う)とせば、即ち名づけて著と為す。」
釈提桓因(しゃくだいがんいん)、須菩提に問(と)いて言さく、「何なる因縁にて是の事(こと)を名づけて著と為すや。」
「憍尸迦(きょうしか)、是の人(ひと)是の心(こころ)を分別し、是の心を持(もっ)て阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に回向(えこう)す。憍尸迦、心性(しんしょう)は回向すべからず。是の故に菩薩、もし人を阿耨多羅三藐三菩提に教化(きょうけ)せんと欲(ほっ)せば、応(まさ)に諸法(しょほう)の実相(じっそう)の如く示教利喜(じきょうりき)すべし。是の如くせば則(すなわ)ち自(みずか)ら傷(やぶ)らず。是れ仏の許(ゆる)す所、是れ仏の教(おし)える所にして、善男子・善女人も亦た諸(もろもろ)の著を離(はな)れん。」
爾の時、仏、須菩提を讃(ほ)めて言わく、「善哉善哉。汝(なんじ)能(よ)く諸の菩薩に著の法を示(しめ)せり。須菩提、我(われ)当(まさ)に更(さら)に微細(みさい)なる著の法を説くべし、汝今(いま)善く聴(き)け。」
須菩提言さく、「唯然(ゆいねん)、教(おしえ)を受(う)けん。」
仏、言わく、「若し善男子・善女人、相(そう)を取(と)りて諸仏(しょぶつ)を念(ねん)ぜば、取る所の相に随(したが)いて、皆(みな)名づけて著と為す。過去・未来・現在の諸仏の所有(あらゆる)無漏(むろ)の法に、皆随喜(ずいき)す。随喜し已(おわ)りて、阿耨多羅三藐三菩提に回向せば、即ち亦た是れ著なり。何を以(もっ)ての故に。須菩提、諸法の性(しょう)は過去に非ず、未来に非ず、現在に非ず、相を取るべからず、縁(えん)ずべからず、見(み)るべからず、聞(き)くべからず、覚(さと)るべからず、知(し)るべからず、回向すべからざればなり。」
「世尊、是の諸法の性は甚だ深し。」仏、言わく、「畢竟離(り)なるが故に。」
「世尊、我、般若波羅蜜を敬礼(きょうらい)す。」仏、言わく、「仏は是の無作(むさ)の法を得るが故に。」
「世尊、仏は一切(いっさい)の法を得たまえり。」「是の如し、須菩提、如来(にょらい)は一切の法を得たまえり。須菩提、法性は唯(ただ)一(いつ)にして二(に)無(な)く三(さん)無し、是の性も亦た非性(ひしょう)非作(ひさ)なり。須菩提、菩薩もし能く是の如く知らば、則ち諸の著を離れん。」
「世尊、般若波羅蜜は甚だ知りがたしと為す。」「須菩提、知る者有る事無きが故に。」
「世尊、般若波羅蜜は不可思議(ふかしぎ)なり。」「須菩提、般若波羅蜜は心を以て知るべからざるが故に。」
「世尊、般若波羅蜜は作す所無し。」「須菩提、作者(さしゃ)得べからざるが故に。」
「世尊、菩薩は当(まさ)に云何(いかん)が般若波羅蜜を行(ぎょう)ずべきや。」
「須菩提、若し菩薩、色を行ぜざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。受・想・行・識を行ぜざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。若し色を行ぜずして満足(まんぞく)せざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。受・想・行・識を行ぜずして満足せざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。何を以ての故に。色満足せざれば、則ち色に非ず。受・想・行・識満足せざれば、則ち識に非ず。若し能く是の如く不満足の相を行ぜば、即ち般若波羅蜜を行ず。」
須菩提言さく、「希有なり世尊、諸の著の中において著する所無しと説きたまへり。」
「須菩提、若し菩薩、色を行ぜずして相に著せざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。受・想・行・識を行ぜずして相に著せざれば、即ち般若波羅蜜を行ず。菩薩かくの如く行ぜば、色において著を生ぜず、受・想・行・識において著を生ぜず、須陀洹果(しゅだおんか)・斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなごんか)・阿羅漢果(あらかんか)・辟支仏道(びゃくしぶつどう)において著を生ぜず、乃至(ないし)薩婆若においても亦た著を生ぜず。何を以ての故に。諸の著を過(す)ぐるが故に、無碍(むげ)の薩婆若と名づく。須菩提、菩薩、諸の著を過ぎんと欲せば、応に是の如く般若波羅蜜を思惟(しゆい)すべし。」
須菩提、仏に白して言さく、「希有なり世尊、是の法は甚だ深し。若し説くも減ぜず、説かずとも亦た減ぜず。若し説くも増さず、説かずとも亦た増さず。」
仏、言わく、「是の如し是の如し、須菩提。仏の尽寿(じんじゅ)に虚空(こくう)を称讃(しょうさん)するも、虚空減ぜず、称讃せざるも亦た減ぜざるが如し。称讃するも増さず、称讃せざるも亦た増さず。須菩提、譬(たと)えば幻(げん)の化(け)する所の人を称讃するも亦た喜(よろこ)ばず、称讃せざるも亦た瞋(いか)らざるが如し。須菩提、諸法の性も亦た是の如し。若し説くも亦た増さず、説かざるも亦た減ぜず。」
「世尊、菩薩の作(な)す所は甚だ難(かた)し。般若波羅蜜を修行(しゅぎょう)する時、心に増減無く、亦た退(しりぞ)かず転(てん)ぜず。世尊、般若波羅蜜を修習(しゅじゅう)するは、虚空を修習するが如し。世尊、菩薩は一切衆生(いっさいしゅじょう)を度(ど)せんが為の故に、大荘厳(だいしょうごん)を発(おこ)す、応当(おうとう)に敬礼すべし。世尊、菩薩の衆生の為の故に大荘厳を発するは、人の虚空と共(とも)に闘(たたか)うが如し。世尊、菩薩の衆生の為の故に大荘厳を発するは、人の虚空と諍訟(じょうしょう)するが如し。世尊、是の菩薩を大荘厳を発すと名づけ為す。世尊、菩薩の衆生の為の故に大荘厳を発するは、人の虚空を挙(あ)げんと欲するが如し。世尊、是の菩薩を精進(しょうじん)の彼岸(ひがん)を度(わた)ると名づけ為し、勇健(ゆうごん)と名づけ為し、虚空と同じき諸法の故に、阿耨多羅三藐三菩提を発すと名づけ為す。」
爾の時、会中(えちゅう)に一比丘(いちびく)有りて是の念(ねん)を作す、「我、般若波羅蜜を敬礼す。般若波羅蜜の中には、法として生ずる有ること無く、法として滅する有ること無し」と。
爾の時、釈提桓因、須菩提に語らく、「若し菩薩、深(ふか)き般若波羅蜜を修習せば、何(いか)なる法を修習すと為すや。」
「憍尸迦、若し菩薩、深き般若波羅蜜を修習せば、即ち是れ虚空を修習す。」
釈提桓因、仏に白して言さく、「世尊、若し人、能く般若波羅蜜を受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)せば、我、当に守護(しゅご)すべし。」
須菩提、釈提桓因に語らく、「汝は是の法の守護すべきを見るや。」
釈提桓因言さく、「見ざるなり。」
[書き下し文]
「憍尸迦(きょうしか)、若(も)し菩薩(ぼさつ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の説(と)く所(ところ)の如(ごと)く行(ぎょう)ぜば、即(すなわ)ち是(これ)守護(しゅご)なり。若し菩薩、或時(あるとき)般若波羅蜜を遠離(おんり)せば、人(にん)若(も)しくは非人(ひにん)、則(すなわ)ち其(そ)の便(たより)を得(え)ん。憍尸迦、若し人、般若波羅蜜を行(ぎょう)ずる者(もの)を守護せんと欲(ほっ)せば、則ち虚空(こくう)を守護せんと欲するが為(ため)なり。憍尸迦、意(こころ)において云何(いかん)、汝(なんじ)能(よ)く響(ひびき)を守護せんや不(いな)や。」
釈提桓因(しゃくだいがんいん)言(もう)さく、「不能(ふのう)なり。」
「憍尸迦、菩薩も亦(ま)た是(かく)の如(ごと)し。般若波羅蜜を行じ、一切法(いっさいほう)は空(くう)にして、響の如く是の如しと知(し)りて、亦た分別(ふんべつ)せざる、当(まさ)に知(し)るべし、是れを般若波羅蜜を行ずと為(な)す。」
爾(その)時(とき)、仏(ほとけ)、神力(じんりき)を以(もっ)て、三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)に所有(あらゆる)四天王天(してんのうてん)及(およ)び諸(もろもろ)の釈提桓因、娑婆世界(しゃばせかい)の主(しゅ)なる諸の梵天王(ぼんてんのう)をして、皆(みな)来(きた)りて仏の所(みもと)に至(いた)り、頭面(ずめん)に仏の足(あし)を礼(らい)し、却(しりぞ)きて一面(いちめん)に住(じゅう)せしむ。四天王、諸の釈提桓因、諸の梵天王等(ら)、仏の神力を以て、千仏(せんぶつ)の是の如き相(そう)なるを見(み)ることを得(え)たり。「是の如く般若波羅蜜の品(ほん)を説(と)くと名(なづ)くる者(もの)は、皆、須菩提(しゅぼだい)の難問(なんもん)の者と名づく。亦た釈提桓因、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の、当(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成(じょう)じて、亦た此(こ)の土(ど)において般若波羅蜜を説くべきが如し。」
爾の時、須菩提、仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、弥勒菩薩、阿耨多羅三藐三菩提を成ずる時、是の処(ところ)において云何(いかん)が般若波羅蜜を説かん。」
「須菩提、弥勒菩薩、阿耨多羅三藐三菩提を成ずる時、般若波羅蜜を説くに、色(しき)は空(くう)なりと説かず、受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)は空なりと説かず。色の縛(ばく)を説かず、色の解(げ)を説かず。受・想・行・識の縛を説かず、受・想・行・識の解を説かず。」
須菩提言さく、「世尊、般若波羅蜜は清浄(しょうじょう)なり。」
仏、言(のたま)わく、「色、浄(きよ)きが故(ゆえ)に般若波羅蜜は清浄なり、受・想・行・識、浄きが故に般若波羅蜜は清浄なり。」
仏、言わく、「虚空、浄きが故に般若波羅蜜は清浄なり。色、無染(むぜん)なるが故に般若波羅蜜は清浄なり、受・想・行・識、無染なるが故に般若波羅蜜は清浄なり。」
「須菩提、虚空、無染なるが故に般若波羅蜜は清浄なり。」
「世尊、若し善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)有(あ)りて、能く般若波羅蜜を受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)する者は、終(つい)に横死(おうし)せず、若干(そこばく)百千(ひゃくせん)の諸天(しょてん)、皆共に随従(ずいじゅう)せん。若し月(つき)の八日(ようか)、十四日(じゅうよっか)、十五日(じゅうごにち)、二十三日(にじゅうさんにち)、二十九日(にじゅうくにち)、三十日(さんじゅうにち)に、在在処処(ざいざいしょしょ)にして般若波羅蜜を説かば、其(そ)の福(ふく)甚(はなは)だ多(おお)からん。」
仏、言わく、「是の如し是の如し、須菩提。是の人、般若波羅蜜を説きて、福を得(う)ること甚だ多し。須菩提、般若波羅蜜は多(おお)く留難(るなん)有(あ)り。何(なに)を以(もっ)ての故に。般若波羅蜜は是(これ)大珍宝(だいちんぽう)にして、法(ほう)において著(じゃく)する所(ところ)無(な)く、取(と)る所無し。所以(ゆえん)は如何(いかん)。謂(いわゆる)諸法(しょほう)無所有(むしょう)にして得べからざるが故に。須菩提、般若波羅蜜は無所得(むしょとく)なるが故に、能く染汚(ぜんま)するもの無し。何を以ての故に。般若波羅蜜は無法(むほう)を以ての故に、名づけて無染の般若波羅蜜と為す。般若波羅蜜、無汚(むお)なるが故に、諸法も亦た無汚なり。若し是の如くして亦た分別せざるを、名づけて般若波羅蜜を行ずと為す。須菩提、般若波羅蜜には、無(な)き法(ほう)の若(も)しくは見(み)若しくは見ざること有り、無き法の若しくは取(と)り若しくは捨(す)つること有り。」(※注釈:ここは文脈上、「無有法若見若不見…」を「~法有ること無し」とも読めますが、直訳的構造に基づき「法有ること無く…」として処理します) (修正案)「須菩提、般若波羅蜜には、若しくは見(み)若しくは見ざる法有ること無く、若しくは取(と)り若しくは捨(す)つる法有ること無し。」
是(こ)の時(とき)、若干百千の諸の天子(てんし)、踊躍歓喜(ゆやくかんき)し、虚空の中(なか)において同声(どうしょう)に唱(とな)えて言さく、「我(われ)、閻浮提(えんぶだい)において、再(ふたた)び法輪(ほうりん)の転(てん)ずるを見る」と。
須菩提、諸の天子に語(かた)らく、「初転(しょてん)に非(あら)ず、二転(にてん)に非ず。何を以ての故に。般若波羅蜜の法中(ほうちゅう)には無転(むてん)無還(むげん)なればなり。」
仏、須菩提に告(つ)ぐ、「摩訶波羅蜜(まかはらみつ)は是(これ)菩薩の般若波羅蜜なり。所謂(いわゆる)一切法において無転無著(むじゃく)にして、阿耨多羅三藐三菩提を得るも、亦た無所得なり。法輪を転ずる時も亦た転ずる所無く、還(かえ)るべき法無く、示(しめ)すべき法無く、見るべき法無し、是の法は得べからざるが故に。何を以ての故に。須菩提、空(くう)は不転(ふてん)不還(ふげん)なり。無相(むそう)、無作(むさ)、無起(むき)、無生(むしょう)、無所有(むしょう)も不転不還なり。是の如き説(せつ)を名づけて般若波羅蜜を説くと為す。聴(き)く者(もの)無く、受(う)くる者無く、証(しょう)する者無く、亦た法を以て福田(ふくでん)と作(な)す者無し。」
[書き下し文]
須菩提(しゅぼだい)、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、無辺波羅蜜(むへんはらみつ)は是(これ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)なり、虚空(こくう)無辺(むへん)なるが故(ゆえ)に。」
「世尊、正波羅蜜(しょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法(しょほう)平等(びょうどう)なるが故に。」
「世尊、離波羅蜜(りはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法(しょほう)の性(しょう)離(り)なるが故に。」
「世尊、不可破波羅蜜(ふかははらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は得(う)べからざるが故に。」
「世尊、無処波羅蜜(むしょはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無形(むぎょう)無名(むみょう)なるが故に。」
「世尊、無去波羅蜜(むこはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無来(むらい)なるが故に。」
「世尊、無奪波羅蜜(むだつはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は取(と)るべからざるが故に。」
「世尊、尽波羅蜜(じんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無尽(むじん)なるが故に。」
「世尊、無生波羅蜜(むしょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無生(むしょう)なるが故に。」
「世尊、無作波羅蜜(むさはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、作者(さしゃ)得べからざるが故に。」
「世尊、不出波羅蜜(ふしゅつはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、出者(しゅっしゃ)得べからざるが故に。」
「世尊、不至波羅蜜(ふしはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、退没(たいもつ)無(な)きが故に。」
「世尊、無垢波羅蜜(むくはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸(もろもろ)の煩悩(ぼんのう)清浄(しょうじょう)なるが故に。」
「世尊、無汚波羅蜜(むおはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、処(ところ)汚(けが)れざるが故に。」
「世尊、不滅波羅蜜(ふめつはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は前際(ぜんざい)を離(はな)るるが故に。」
「世尊、幻波羅蜜(げんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は生(しょう)ぜざるが故に。」
「世尊、夢波羅蜜(むはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、意識(いしき)平等なるが故に。」
「世尊、不戯波羅蜜(ふけはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸(もろもろ)の戯(け)平等なるが故に。」
「世尊、不念波羅蜜(ふねんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸(もろもろ)の念(ねん)生ぜざるが故に。」
「世尊、不動波羅蜜(ふどうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、法性(ほっしょう)常住(じょうじゅう)なるが故に。」
「世尊、離欲波羅蜜(りよくはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は虚誑(こおう)ならざるが故に。」
「世尊、不起波羅蜜(ふきはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無分別(むふんべつ)なるが故に。」
「世尊、寂滅波羅蜜(じゃくめつはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法の相(そう)得べからざるが故に。」
「世尊、無煩悩波羅蜜(むぼんのうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は過咎(かきゅう)無きが故に。」
「世尊、無衆生波羅蜜(むしゅじょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、衆生際(しゅじょうさい)得べからざるが故に。」
「世尊、不断波羅蜜(ふだんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は起(お)こらざるが故に。」
「世尊、無二辺波羅蜜(むにへんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無著(むじゃく)なるが故に。」
「世尊、不異波羅蜜(ふいはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は和合(わごう)せざるが故に。」
「世尊、不著波羅蜜(ふじゃくはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)の地(じ)を分別(ふんべつ)せざるが故に。」
「世尊、不分別波羅蜜(ふふんべつはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸の分別(ふんべつ)平等なるが故に。」
「世尊、無量波羅蜜(むりょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、量法(りょうほう)生ぜざるが故に。」
「世尊、虚空波羅蜜(こくうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無障碍(むしょうげ)なるが故に。」
「世尊、不生波羅蜜(ふしょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は起こらざるが故に。」
「世尊、無常波羅蜜(むじょうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は失(うしな)われざるが故に。」
「世尊、苦波羅蜜(くはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は苦悩(くのう)無きが故に。」
「世尊、無我波羅蜜(むがはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は貪著(とんじゃく)する所(ところ)無きが故に。」
「世尊、空波羅蜜(くうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無所得(むしょとく)なるが故に。」
「世尊、無相波羅蜜(むそうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法の相(そう)得べからざるが故に。」
「世尊、無作波羅蜜(むさはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は成(じょう)ずる所無きが故に。」
「世尊、力波羅蜜(りきはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は破(やぶ)るべからざるが故に。」
「世尊、無量仏法波羅蜜(むりょうぶっぽうはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、算数(さんじゅ)の法(ほう)を過(す)ぐるが故に。」
「世尊、無所畏波羅蜜(むしょいはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、心(こころ)没(もっ)せざるが故に。」
「世尊、如波羅蜜(にょはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は異(こと)ならざるが故に。」
「世尊、自然波羅蜜(じねんはらみつ)は是れ般若波羅蜜なり、諸法は無性(むしょう)なるが故に。」
[書き下し文]
摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)不可思議品(ふかしぎほん)第十
爾(その)時(とき)、釈提桓因(しゃくだいがんいん)、是(こ)の念(ねん)を作(な)す。「若(も)し人(ひと)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を聞(き)くことを得(う)る者(もの)は、当(まさ)に知(し)るべし、是の人は已(すで)に曾(かつ)て諸仏(しょぶつ)を供養(くよう)せり。何(いか)に況(いわん)や受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)し、説(と)く所(ところ)の如(ごと)く学(まな)び、説く所の如く行(ぎょう)ずるをや。若し人、深(ふか)き般若波羅蜜を説くを聞き、受持読誦し、説く所の如く行ぜば、当に知るべし、是の人は已に曾て多(おお)く仏を供養し、広(ひろ)く其(そ)の義(ぎ)を問(と)えり。過去(かこ)の諸仏において深き般若波羅蜜を聞きて、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず。」
爾の時、舎利弗(しゃりほつ)、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、若し菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、能(よ)く深き般若波羅蜜を信解(しんげ)せば、当に知るべし、是の菩薩は阿毘跋致(あびばっち)の如(ごと)し。何(なに)を以(もっ)ての故(ゆえ)に。世尊、若し人、過去世(かこせ)において久(ひさ)しく深き般若波羅蜜を行ぜずんば、則(すなわ)ち信解すること能わず。世尊、若し般若波羅蜜を誹謗(ひぼう)し拒逆(こぎゃく)する有(あ)らば、当に知るべし、是の人は久しく已に般若波羅蜜を誹謗し拒逆せり。何を以ての故に。是の人、深き般若波羅蜜において、信心(しんじん)有ること無く、清浄心(しょうじょうしん)無く、亦(ま)た諸仏及び諸仏の弟子(でし)に疑(うたがい)う所を問わず。」
爾の時、釈提桓因、舎利弗に語(かた)らく、「是の般若波羅蜜は甚(はなは)だ深し。若し久しく菩薩道(ぼさつどう)を行ぜずんば、信解すること能わざる、何(なに)の怪(あや)しむべき有らん。若し人、般若波羅蜜を敬礼(きょうらい)せば、即(すなわ)ち是れ薩婆若智(さつばにゃち)を敬礼するなり。」
舎利弗言さく、「是の如し是の如し、憍尸迦(きょうしか)。若し人、般若波羅蜜を敬礼せば、即ち是れ薩婆若智を敬礼するなり。般若波羅蜜より諸仏の薩婆若智を生(しょう)じ、薩婆若智より還(かえ)りて般若波羅蜜を生ず。菩薩は応(まさ)に是の如く般若波羅蜜に住(じゅう)すべく、応に是の如く般若波羅蜜を習(しゅう)すべし。」
釈提桓因、仏に白して言さく、「世尊、云何(いかん)が菩薩、般若波羅蜜を行ずるを、名(なづ)けて般若波羅蜜に住すと為(な)し、名けて般若波羅蜜を習すと為すや。」
仏、釈提桓因に告(つ)げて言(のたま)わく、「善哉善哉(よきかなよきかな)、憍尸迦。汝(なんじ)能く仏に是の義を問う、汝の問う所は皆是れ仏力(ぶつりき)なり。憍尸迦、若し菩薩、般若波羅蜜を行ずるに色(しき)に住せずんば、若し色に住せざれば即ち是れ色を習すなり。受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)に住せずんば、若し識に住せざれば即ち是れ識を習すなり。復次(またつぎに)、憍尸迦、若し菩薩、色を習せずんば、若し色を習せざれば即ち色に住せず。受・想・行・識を習せずんば、若し識を習せざれば即ち識に住せず。是の如し、憍尸迦、是れを菩薩、般若波羅蜜を習し、般若波羅蜜に住すと名づく。」
舎利弗、仏に白して言さく、「世尊、般若波羅蜜は甚だ深(ふか)く無量(むりょう)にして底(そこ)無(な)し。」
仏、舎利弗に告ぐ、「若し菩薩摩訶薩、色甚深(しきじんじん)に住せずんば、是れ色甚深を習すと為す。受・想・行・識甚深に住せずんば、是れ識甚深を習すと為す。復次、舎利弗、若し菩薩摩訶薩、色甚深を習せずんば、是れ色甚深に住せずと為す。受・想・行・識甚深を習せずんば、是れ識甚深に住せずと為す。」
「世尊、深き般若波羅蜜は、応に阿毘跋致の菩薩の前(まえ)において説くべし、是の人、是を聞きて疑(うたが)わず悔(く)いず。」
爾の時、釈提桓因、舎利弗に語らく、「若し未受記(みじゅき)の菩薩の前にて説かば、当に何(いか)なる咎(とが)か有るべき。」
「憍尸迦、若し未受記の菩薩、深き般若波羅蜜を聞くことを得ば、当に知るべし、是の菩薩は久しく大乗心(だいじょうしん)を発(おこ)し、受記(じゅき)に近(ちか)く、久しからずして必(かなら)ず受記を得ん。若しは一仏(いちぶつ)、二仏(にぶつ)を過(す)ぎて、当に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記(き)を受(う)くることを得るべし。」
仏、言わく、「是の如し是の如し、舎利弗。若し未受記の菩薩、深き般若波羅蜜を聞くことを得ば、当に知るべし、是の菩薩は久しく大乗心を発せり。」
舎利弗、仏に白して言さく、「世尊、我(われ)今(いま)、当に譬喩(ひゆ)を説くべし。」
仏、言わく、「説くを楽(ねが)わば便(すなわ)ち説け。」
「世尊、譬(たと)えば菩薩道を求(もと)むる者、夢(ゆめ)に道場(どうじょう)に坐(ざ)せば、知るべし、是の菩薩は当に阿耨多羅三藐三菩提に近きことを。若し菩薩道を求むる者、深き般若波羅蜜を聞くことを得ば、当に知るべし、是の菩薩は久しく大乗心を発し、善根(ぜんごん)成就(じょうじゅ)し、受記に近く、久しからずして必ず受記を得ん。」
仏、言わく、「善哉善哉、舎利弗。汝、仏の神力(じんりき)を承(う)けて、復(ま)た更(さら)に之(これ)を説け。」
「世尊、譬えば人(ひと)有(あ)りて険道(けんどう)を過(す)ぎんと欲(ほっ)するに、若(も)しくは百由旬(ひゃくゆじゅん)、若しくは二百、若しくは三百、若しくは四百、若しくは五百由旬なるが如(ごと)し。難(なん)を出(い)でんと欲する時、先(まず)諸(もろもろ)の相(そう)を見(み)る。若しくは牛羊(ぎゅうよう)を放(はな)つ者を見、若しくは疆界(きょうかい)を見、若しくは園林(おんりん)を見る。是の如き相を見るが故に、当に知るべし、此(こ)の中(なか)に必ず城邑(じょうゆう)・聚落(じゅらく)有らん。是の相を見已(おわ)りて是の念を作す、『我(わ)が見る所の相の如くば、城邑・聚落、此(ここ)を去(さ)ること遠(とお)からじ』と。其(そ)の心(こころ)安穏(あんのん)にして、復た怨家(おんげ)や賊害(ぞくがい)有ることを畏(おそ)れず。世尊、菩薩も亦た是の如し。若し深き般若波羅蜜を聞くことを得ば、当に知るべし、是の菩薩は受記に近く、久しからずして必ず受記を得ん。爾時、声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)の地(じ)に堕(だ)することを畏れず。何を以ての故に。是の菩薩、是の本相(ほんそう)を得たり、所謂(いわゆる)深き般若波羅蜜を見ることを得、深き般若波羅蜜を聞くことを得たり。」
「世尊、譬えば人有りて大海(たいかい)を見んと欲して、稍稍(やや)前行(ぜんぎょう)するに、若し樹(き)を見、若しくは樹の相を見、若し山(やま)を見、若しくは山の相を見ば、当に知るべし、是の中、海を去ること尚(な)お遠し。若し樹を見ず樹の相も無く、山を見ず山の相も無くんば、当に知るべし、大海、是(ここ)を去ること遠からじと。大海は深(ふか)きが故に、山や樹有ること無し。是の人、海を見ずと雖(いえど)も、必ず之(これ)に近きを知る。世尊、菩薩も亦た是の如し。深き般若波羅蜜を聞くことを得ば、未(いま)だ現在(げんざい)の諸仏の前にて受記せずと雖も、自(みずか)ら必(かなら)ず阿耨多羅三藐三菩提に近きことを知る。何を以ての故に。我、深き般若波羅蜜を見、聞き、供養(くよう)することを得るが故に。」
「世尊、譬えば春(はる)の時、樹の葉(は)零落(れいらく)せば、当に知るべし、此の樹の華葉(けよう)・果実(かじつ)の将(まさ)に生(しょう)ずること久しからざるを。何を以ての故に。本相現(げん)ずるが故に。閻浮提(えんぶだい)の人、樹の本相を見て、皆悉(ことごと)く歓喜(かんき)し是の念を作す、『是の樹、久しからずして当に華葉・果実を生ずべし』と。世尊、菩薩も亦た是の如し。若し深き般若波羅蜜を見聞することを得ば、当に知るべし、是の菩薩は善根成就し、宿世(しゅくせ)の善根の因縁(いんねん)の故に、今、深き般若波羅蜜を得るなり。」
会中(えちゅう)に曾て仏を見たてまつる諸天(しょてん)有りて、皆大(おお)いに歓喜して是の念を作す、「先(さき)の諸(もろもろ)の菩薩にも亦た是の如き受記の本相有りき。是の菩薩も久しからずして当に阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得るべし」と。
「世尊、譬えば女人(にょにん)懐妊(かいにん)して、転転(てんてん)として不便(ふべん)に、身体(しんたい)疲極(ひごく)し、事務(じむ)を楽(ねが)わず、眠臥(みんが)安(やす)からず、飲食(おんじき)転(うた)た少(すくな)く、苦悩(くのう)身(み)に在(あ)りて、語言(ごごん)を欲(ほっ)せず、本(もと)習(なら)う所(ところ)を厭(いと)いて、復た憶(おも)い楽(たの)しまざるが如し。本相現ずるが故に、当に知るべし、是の女(おんな)将に産(さん)すること久しからざるを。菩薩の善根成就も亦復(またまた)是の如し。若し深き般若波羅蜜を見聞き思惟(しゆい)することを得ば、当に知るべし、是の菩薩は久しからずして阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得ん。」
仏、言わく、「善哉善哉、舎利弗。汝が楽い説く所の者は、皆仏の神力なり。」
爾の時、須菩提(しゅぼだい)、仏に白して言さく、「希有(けう)なり世尊。如来(にょらい)善く諸の菩薩の事(こと)を説きたまへり。」
[書き下し文]
「須菩提(しゅぼだい)、是(これ)ら諸(もろもろ)の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)は、長夜(じょうや)に多(おお)く利益(りやく)する所(ところ)、多く安穏(あんのん)なる所、多く安楽(あんらく)なる所にして、世間(せけん)を憐愍(れんみん)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)て、諸の天人(てんにん)の為(ため)に法要(ほうよう)を演説(えんぜつ)す。」
須菩提、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、菩薩摩訶薩は云何(いかん)が具足(ぐそく)して般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を修習(しゅじゅう)し行(ぎょう)ずることを得(う)るや。」
「須菩提、若(も)し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずるに、色(しき)の増(ぞう)を見(み)ざれば、是(これ)を般若波羅蜜を行ずと為(な)す。受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の増を見ざれば、是を般若波羅蜜を行ずと為す。色の減(げん)を見ざれば、是を般若波羅蜜を行ずと為す。受・想・行・識の減を見ざれば、是を般若波羅蜜を行ずと為す。乃至(ないし)法(ほう)を見ず、非法(ひほう)を見ざるも、是を般若波羅蜜を行ずと為す。」
「世尊、仏の説(と)く所(ところ)の如(ごと)く不可思議(ふかしぎ)なり。」
「須菩提、色は不可思議なり、受・想・行・識は不可思議なり。若し菩薩、色は不可思議なりと分別(ふんべつ)せず、受・想・行・識は不可思議なりと分別せざれば、是を般若波羅蜜を行ずと為す。」
「世尊、般若波羅蜜は是(かく)の如し、誰(たれ)か能(よ)く信解(しんげ)せん。」
「須菩提、若し久(ひさ)しく菩薩道(ぼさつどう)を行ずる者(もの)なり。」
「世尊、云何が菩薩を久行(くぎょう)と名(なづ)くることを得る。」
「須菩提、若し菩薩、般若波羅蜜を行じ、仏の十力(じゅうりき)・四無所畏(しむしょい)を分別せず、乃至薩婆若(さつばにゃ)を分別せざれば、是を久行と名づく。何(なに)を以(もっ)ての故(ゆえ)に。仏の十力は不可思議なり、四無所畏・十八不共法(じゅうはちふぐほう)は不可思議なり、乃至薩婆若は不可思議なればなり。色は不可思議なり、受・想・行・識は不可思議なり、一切法(いっさいほう)も亦(ま)た不可思議なり。菩薩、是の如く行ずる者は、是を無処所行(むしょしょぎょう)にして般若波羅蜜を行ずと名づく、是(こ)の故に名づけて久行と為す。」
「世尊、般若波羅蜜は甚(はなは)だ深(ふか)し。般若波羅蜜は是れ珍宝聚(ちんぽうじゅ)にして、虚空(こくう)の清浄(しょうじょう)なるが如し。希有(けう)なり世尊、般若波羅蜜は多(おお)く留難(るなん)を起(おこ)す。若し書写(しょしゃ)せんと欲せば、乃至一歳(いっさい)にも、当(まさ)に疾(と)く書(しょ)し成(じょう)ずべし。」
仏、言(のたま)わく、「是の如し是の如し、須菩提。若し善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、般若波羅蜜を書写・読誦(どくじゅ)し、説く所の如く行ぜんと欲せば、乃至一歳にも、当に疾疾(とくとく)に之(これ)を為(な)すべし。須菩提、珍宝(ちんぽう)の法は多く怨賊(おんぞく)有(あ)り。」
「世尊、般若波羅蜜は、悪魔(あくま)常(つね)に伺(うかが)い求(もと)めて断絶(だんぜつ)せんと欲す。」
「須菩提、悪魔は伺い求めて断絶せんと欲すといえども、亦た得(う)ること能(あた)わず。」
舎利弗(しゃりほつ)、仏に白して言さく、「世尊、誰(たれ)の神力(じんりき)の故に、悪魔は般若波羅蜜に留難すること能わざる。」
「舎利弗、仏の神力の故に、悪魔は留難すること能わず。舎利弗、亦た是れ十方(じっぽう)無量(むりょう)世界(せかい)の現在(げんざい)の諸仏の神力の故に、悪魔は留難すること能わず。諸仏、皆共(とも)に是の菩薩を護念(ごねん)するが故に、悪魔は便(たより)を得ること能わず。何を以ての故に。舎利弗、菩薩の諸仏に護(まも)らるる所の者は、法(ほう)として応(まさ)に留難有るべからざればなり。何を以ての故に。舎利弗、若し人、般若波羅蜜を書写・読誦し説かば、十方無量阿僧祇(あそうぎ)の現在の諸仏、法として応に護念すべし。若し般若波羅蜜を誦(じゅ)する有らば、当に知るべし、是の菩薩は仏の護念するが故に、能く誦して通利(つうり)す。」
「世尊、善男子・善女人、能く般若波羅蜜を受持(じゅじ)読誦せば、当に知るべし、是の人は仏眼(ぶつげん)の見る所なり。」
「舎利弗、若し善男子・善女人、能く般若波羅蜜を受持読誦し、乃至書写せば、当に知るべし、是の人は仏眼の見る所なり。舎利弗、若し仏道(ぶつどう)を求(もと)むる善男子・善女人、般若波羅蜜を受持読誦せば、則(すなわ)ち阿耨多羅三藐三菩提に近(ちか)づかん。乃至自(みずか)ら書し若しくは人をして書せしめ、書し已(おわ)りて受持読誦せば、是の因縁(いんねん)を以て、其の福(ふく)甚だ多し。舎利弗、如来(にょらい)滅後(めつご)、般若波羅蜜は当に南方(なんぽう)に流布(るふ)し、南方より西方(さいほう)に流布し、西方より北方(ほっぽう)に流布すべし。舎利弗、我(わ)が法の盛(さか)んなる時、滅相(めっそう)有ること無し。北方にて若し乃至般若波羅蜜を書写・受持・供養(くよう)する者有らば、是の人も亦た仏眼の見る所、知(し)る所、念(ねん)ずる所と為(な)る。」
[書き下し文]
舎利弗(しゃりほつ)、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、後五百歳(ごごひゃくさい)の時(とき)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は当(まさ)に広(ひろ)く北方(ほっぽう)に流布(るふ)すべきや。」
「舎利弗、後五百歳に当に広く北方に流布すべし。其(そ)の中(なか)の善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、般若波羅蜜を聞(き)き、受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)し修習(しゅじゅう)せば、当に知(し)るべし、久(ひさ)しく阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を発(おこ)せることを。」
「世尊、北方には当に幾所(いくばく)の菩薩(ぼさつ)の能(よ)く般若波羅蜜を受持読誦し修習するもの有(あ)るべき。」
「舎利弗、北方には多(おお)く菩薩の能く般若波羅蜜を読聴(どくちょう)し受(う)くるもの有(あ)りと雖(いえど)も、能く誦利(しゅり)し修習して行(ぎょう)ずる者(もの)は少(すくな)からん。是(こ)の人(ひと)は聞くことを得(え)て亦(ま)た驚(おどろ)かず怖(おじ)ず。是の人は曾(かつ)て已(すで)に仏を見たてまつりて諮請(ししょう)し問難(もんなん)せり、当に知るべし、是の人は能く具足(ぐそく)して菩薩道(ぼさつどう)を行ぜんが為(ため)なり。阿耨多羅三藐三菩提の為の故(ゆえ)に、能く無量(むりょう)の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)す。何(なに)を以(もっ)ての故に。舎利弗、我(われ)、是(これ)ら善男子・善女人の為に、薩婆若(さつばにゃ)に応(おう)ずる法(ほう)を説(と)く。是の人、転身(てんしん)して、亦復(またまた)楽(ねが)いて阿耨多羅三藐三菩提を説き、一心(いっしん)和同(わどう)し、乃至(ないし)魔王(まおう)も其(そ)の阿耨多羅三藐三菩提心を壊(やぶ)る能(あた)わず。是の人、般若波羅蜜を聞きて、心(こころ)大(おお)いに歓喜(かんき)し、心、清浄(しょうじょう)を得て、多(おお)くの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の善根(ぜんごん)を種(う)えしむ。是の善男子・善女人、我(わ)が前(まえ)において是の言(ことば)を作(な)す、『我等(われら)、菩薩道を行じ、常(つね)に当に法を以て無量百千万の衆生を示教利喜(じきょうりき)し、阿耨多羅三藐三菩提に住(じゅう)せしむべし』と。舎利弗、我、其の心を観(かん)じて、則(すなわ)ち随喜(ずいき)を生(しょう)ず。是の人、菩薩道を行じ、当に法を以て無量百千万の衆生を示教利喜し、阿耨多羅三藐三菩提に住せしむべし。是(かく)の如(ごと)き善男子・善女人、心に大乗(だいじょう)を楽い、他方(たほう)の現在(げんざい)の仏の前(まえ)の説法(せっぽう)の処(ところ)に生(しょう)ぜんと願う。彼(かしこ)において続復(しょくぶく)広く般若波羅蜜を説くを聞かん。彼(か)の仏土(ぶつど)においても、亦復、法を以て無量百千万の衆生を示教利喜し、阿耨多羅三藐三菩提に住せしめん。」
舎利弗、仏に白して言さく、「希有(けう)なり世尊。如来(にょらい)は過去(かこ)・未来(みらい)・現在(げんざい)の諸法において、法として知(し)らざる無く、法として識(し)らざる無し。如来は未来世(みらいせ)において、諸の菩薩の多欲(たよく)多精進(たしょうじん)を以て勤(ねんご)ろに般若波羅蜜を求(もと)むることを。是の善男子・善女人に、求めて得(う)る有り、求めずして得る有るを、如来は悉(ことごと)く知りたまえり。」
「舎利弗、多(おお)く善男子・善女人の、精進(しょうじん)して懈(おこた)らざるが故に、般若波羅蜜を求めずして得る有(あ)り。」
「世尊、是の善男子・善女人、余経(よきょう)の六波羅蜜(ろくはらみつ)に応(おう)ずる者(もの)も、亦た求めずして得るや。」
「舎利弗、若(も)し余(よ)の諸(もろもろ)の波羅蜜(はらみつ)に応ずる深経(じんきょう)有(あ)らば、是の善男子・善女人、亦た求めずして得ん。何を以ての故に。舎利弗、法として応(まさ)に爾(しか)るべければなり。若し菩薩有って諸の衆生の為に、阿耨多羅三藐三菩提を示教利喜し、亦た自(みずか)ら其の中(なか)に学(まな)ばん。是の人、転身して、諸の波羅蜜に応ずる深経も、亦た求めずして得ん。」
『小品般若経(しょうぼんはんにゃきょう)』巻第四(まきのだいし)
摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)巻第一(かんだいいち):書き下し文
小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第二:書き下し文
小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第三:書き下し文
『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第四:書き下し文
『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第五:書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六:書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第七(かんのだいしち):書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第八(かんのだいはち):書き下し文
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