『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六:書き下し文

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『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六(読誦用テキスト)

後秦(こうしん)龜茲國(きじこく)三藏(さんぞう) 鳩摩羅什(くまらじゅう)譯 大如品(だいにょほん) 第十五

爾(そ)の時、須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、 「世尊(せそん)。新發意(しんほつち)の菩薩(ぼさつ)、云何(いかん)が應(まさ)に般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を學(まな)ぶべきや。」と。

佛(ほとけ)、須菩提(しゅぼだい)に告(つ)げたまわく、 「新發意(しんほつち)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を學(まな)ばんと欲(ほっ)せば、先(ま)づ當(まさ)に般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を説(と)くこと能(よ)き善知識(ぜんちしき)に親近(しんごん)すべし。 是(こ)の人は如是(かくのごと)く教(おし)えん、 『善男子(ぜんなんし)來(きた)れ。汝(なんじ)が所有(あらゆる)の布施(ふせ)は、皆(みな)應(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に迴向(えこう)すべし。 汝(なんじ)善男子(ぜんなんし)、亦(また)阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に貪著(とんじゃく)すること莫(なか)れ。若(も)しは色(しき)も是(かく)のごとく、若(も)しは受想行識(じゅそうぎょうしき)も是(かく)のごとし。 何(いかん)が故(ゆえ)に。是(こ)の薩婆若(さつばにゃ)は著(じゃく)すべきものに非(あら)ざればなり。 善男子(ぜんなんし)。汝(なんじ)が所有(あらゆる)の持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禪定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)は、皆(みな)應(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に迴向(えこう)すべし。貪著(とんじゃく)を生(ず)ずる勿(なか)れ。若(も)しは色(しき)も是(かく)のごとく、若(も)しは受想行識(じゅそうぎょうしき)も是(かく)のごとし。 何(いかん)が故(ゆえ)に。善男子(ぜんなんし)。是(こ)の薩婆若(さつばにゃ)は著(じゃく)すべきものに非(あら)ざればなり。 汝(なんじ)善男子(ぜんなんし)、亦(また)聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の道(どう)に貪著(とんじゃく)する勿(なか)れ。』と。 須菩提(しゅぼだい)、如是(かくのごと)き新發意(しんほつち)の菩薩(ぼさつ)には、應(まさ)に漸(ようや)く教(おし)え、深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)に入(い)らしむべし。」と。

「世尊(せそん)、諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心(こころ)を發(おこ)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)んと欲(ほっ)するは、所爲(しょい)甚(はなは)だ難(かた)し。」

「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。須菩提(しゅぼだい)、諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心(こころ)を發(おこ)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)んと欲(ほっ)するが如(ごと)きは、所爲(しょい)甚(はなは)だ難(かた)し。 是(こ)の人は世間(せけん)を安隱(あんのん)ならしめんが爲(ため)の故(ゆえ)に發心(ほっしん)し、世間(せけん)を安樂(あんらく)ならしめんが爲(ため)の故(ゆえ)に發心(ほっしん)す。 『我(われ)當(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)て、世間(せけん)の爲(ため)に救(すくい)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に歸(き)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に舍(しゃ)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に究竟(くきょう)の道(どう)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に洲(しゅう)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に導師(どうし)と作(な)り、世間(せけん)の爲(ため)に趣(しゅ)と作(な)るべし。』と。

須菩提(しゅぼだい)。云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に救(すくい)と作(な)るや。 菩薩(ぼさつ)は生死(しょうじ)の中(なか)の諸(もろもろ)の苦惱(くのう)を斷(た)たんが爲(ため)の故(ゆえ)に、法(ほう)を説(と)いて衆生(しゅじょう)を苦惱(くのう)より救(すく)う。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に救(すくい)と作(な)ると名(なづ)く。

云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に歸(き)と作(な)るや。 衆生(しゅじょう)は生法(しょうほう)・老病死法(ろうびょうしほう)、憂悲苦惱法(うひくのうほう)なり。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)、能(よ)く衆生(しゅじょう)を此(こ)の生法(しょうほう)・老病死法(ろうびょうしほう)・憂悲苦惱法(うひくのうほう)より度(ど)す。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に歸(き)と作(な)ると名(なづ)く。

云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に舍(しゃ)と作(な)るや。 須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、不著(ふじゃく)ならしめんが爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)く。」

「世尊(せそん)。云何(いかん)が不著(ふじゃく)と名(なづ)くるや。」

[書き下し文]

「須菩提(しゅぼだい)。若(も)し色(しき)は縛(ばく)せず解(げ)せず生(しょう)ぜず滅(めつ)せざれば、是(これ)を色不著(しきふじゃく)と名(なづ)く。若(も)し受想行識(じゅそうぎょうしき)は縛(ばく)せず解(げ)せず生(しょう)ぜず滅(めつ)せざれば、是(これ)を識不著(しきふじゃく)と名(なづ)く。 如是(かくのごとし)、須菩提(しゅぼだい)。一切法(いっさいほう)は不縛(ふばく)不解(ふげ)なるが故(ゆえ)に不著(ふじゃく)なり。菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、能(よ)く衆生(しゅじょう)の爲(ため)に如是(かくのごとき)の法(ほう)を説(と)く。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、世間(せけん)の爲(ため)に舍(しゃ)と作(な)ると名(なづ)く。」

「云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に究竟(くきょう)の道(どう)と作(な)るや。 須菩提(しゅぼだい)。色(しき)の究竟(くきょう)は色(しき)と名(なづ)けず。受想行識(じゅそうぎょうしき)の究竟(くきょう)は識(しき)と名(なづ)けず。究竟相(くきょうそう)の如(ごと)く、一切法(いっさいほう)も亦(また)如是(かくのごとし)。」

「世尊(せそん)。若(も)し究竟相(くきょうそう)に一切法(いっさいほう)も亦(また)爾(しか)らば、菩薩(ぼさつ)は皆(みな)應(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)べし。 何(いかん)が故(ゆえ)に。是(この)中(なか)には分別(ふんべつ)有(あ)ること無(な)きが故(ゆえ)なり。」

「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。須菩提(しゅぼだい)。是(この)中(なか)には分別(ふんべつ)有(あ)ること無(な)し。諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)、如是(かくのごと)く觀(かん)じ、如是(かくのごと)く知(し)りて、其(そ)の心(こころ)沒(もっ)せず。 是(こ)の念(ねん)を作(な)す、『我(われ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、應(まさ)に衆生(しゅじょう)の爲(ため)に如是(かくのごとき)の法(ほう)を説(と)くべし』と。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に究竟(くきょう)の道(どう)と作(な)ると名(なづ)く。」

「云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に洲(しゅう)と作(な)るや。 譬(たと)えば水(みず)の中(なか)の陸地(ろくち)の、流(ながれ)を斷(た)つ之(の)處(ところ)、之(これ)を名(なづ)けて洲(しゅう)と爲(な)すが如(ごと)し。 如是(かくのごとし)、須菩提(しゅぼだい)。色(しき)は前際(ぜんざい)後際(ござい)斷(ぜつ)し、受想行識(じゅそうぎょうしき)も前際(ぜんざい)後際(ござい)斷(ぜつ)す。前際(ぜんざい)後際(ござい)斷(ぜつ)するが故(ゆえ)に、一切法(いっさいほう)都(すべ)て斷(ぜつ)す。若(も)し一切法(いっさいほう)都(すべ)て斷(ぜつ)すれば、是(これ)を寂滅(じゃくめつ)微妙(みみょう)如實(にょじつ)不顛倒(ふてんどう)の涅槃(ねはん)と名(なづ)く。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に洲(しゅう)と作(な)ると名(なづ)く。」

「云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に導師(どうし)と作(な)るや。 須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐(あのくたらさんみゃく)菩提(ぼだい)を得(う)る時(とき)、色(しき)の生滅(しょうめつ)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)かず、但(ただ)實相(じっそう)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)く。受想行識(じゅそうぎょうしき)の生滅(しょうめつ)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)かず、但(ただ)實相(じっそう)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)く。須陀洹果(しゅだおんか)・斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなごんか)・阿羅漢果(あらかんか)・辟支佛道(びゃくしぶつどう)・薩婆若(さつばにゃ)の生滅(しょうめつ)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)かず、但(ただ)實相(じっそう)の爲(ため)の故(ゆえ)に法(ほう)を説(と)く。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に導師(どうし)と作(な)ると名(なづ)く。」

「云何(いかん)が菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、世間(せけん)の爲(ため)に趣(しゅ)と作(な)るや。 須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、衆生(しゅじょう)の爲(ため)に色(しき)は空(くう)に趣(おもむ)くと説(と)き、受想行識(じゅそうぎょうしき)は空(くう)に趣(おもむ)くと説(と)く。一切法(いっさいほう)は皆(みな)空(くう)に趣(おもむ)き、不來不去(ふらいふこ)なり。 何(いかん)が故(ゆえ)に。色(しき)の空(くう)なるは不來不去(ふらいふこ)なり。受想行識(じゅそうぎょうしき)の空(くう)なるは不來不去(ふらいふこ)なり。乃至(ないし)一切法(いっさいほう)の空(くう)なるも不來不去(ふらいふこ)なるが故(ゆえ)なり。一切法(いっさいほう)の空(くう)に趣(おもむ)くは是(こ)の趣(しゅ)に過(す)ぎず。 一切法(いっさいほう)の趣(しゅ)は、無相(むそう)の趣(しゅ)、無作(むさ)の趣(しゅ)、無起(むき)の趣(しゅ)、無生(むしょう)の趣(しゅ)、無所有(むしょうう)の趣(しゅ)、夢(ゆめ)の趣(しゅ)、無量(むりょう)の趣(しゅ)、無邊(むへん)の趣(しゅ)、無我(むが)寂滅(じゃくめつ)の趣(しゅ)、涅槃(ねはん)の趣(しゅ)、不還(ふげん)の趣(しゅ)、不趣(ふしゅ)なり。一切法(いっさいほう)は是(こ)の趣(しゅ)に過(す)ぎず。」

[書き下し文]

「世尊(せそん)。如是(かくのごとき)の法(ほう)は、誰(たれ)か能(よ)く信解(しんげ)せん。」

「須菩提(しゅぼだい)。若(も)し菩薩(ぼさつ)、先佛(せんぶつ)の所(みもと)に於(お)いて久(ひさ)しく道行(どうぎょう)を修(しゅ)し、善根(ぜんごん)を成就(じょうじゅ)して乃(すなわ)ち能(よ)く信解(しんげ)せん。」

「世尊(せそん)。能(よ)く信解(しんげ)する者(もの)は何(いかな)る相(そう)なるや。」

「須菩提(しゅぼだい)。欲恚癡(よくい・ち)の性(しょう)を離滅(りめつ)する、是(これ)を信解(しんげ)の相(そう)とす。如是(かくのごとき)の人は能(よ)く深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を知(し)る。」

「世尊(せそん)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は能(よ)く深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を解(げ)す。亦(また)如是(かくのごと)く趣(おもむ)きて是(こ)の趣相(しゅそう)を得(う)。能(よ)く無量(むりょう)の衆生(しゅじょう)の爲(ため)に趣(しゅ)と作(な)る。」

「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は如是(かくのごと)く趣(おもむ)き、能(よ)く無量(むりょう)の衆生(しゅじょう)の爲(ため)に趣(しゅ)と作(な)る。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)、能(よ)く無量(むりょう)の衆生(しゅじょう)の爲(ため)に趣(しゅ)と作(な)ると名(なづ)く。」

「世尊(せそん)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)の所爲(しょい)は甚(はなは)だ難(かた)し。能(よ)く如是(かくのごとき)の大莊嚴(だいしょうごん)を作(な)すは、無量無邊(むりょうむへん)の衆生(しゅじょう)を滅度(めつど)せんが爲(ため)なり。而(しか)るに衆生(しゅじょう)は得(う)可(べ)からず。」

「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)の所爲(しょい)は甚(はなは)だ難(かた)し。無量無邊(むりょうむへん)の衆生(しゅじょう)を滅度(めつど)せんが爲(ため)の故(ゆえ)に大莊嚴(だいしょうごん)を發(おこ)す。而(しか)るに衆生(しゅじょう)は得(う)可(べ)からず。 須菩提(しゅぼだい)。是(これ)を菩薩(ぼさつ)の大莊嚴(だいしょうごん)と爲(な)す。色(しき)の爲(ため)にせず、受想行識(じゅそうぎょうしき)の爲(ため)にせず、聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)の爲(ため)にせず、薩婆若(さつばにゃ)の爲(ため)の故(ゆえ)にせずして大莊嚴(だいしょうごん)を發(おこ)す。一切法(いっさいほう)を莊嚴(しょうごん)せんが爲(ため)の故(ゆえ)にせず。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は大莊嚴(だいしょうごん)を發(おこ)す。」

「世尊(せそん)。菩薩(ぼさつ)能(よ)く如是(かくのごと)く深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を行(ぎょう)ずれば、則(すなわ)ち二地(にじ)、若(も)しは聲聞(しょうもん)の地(じ)、辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)に墮(だ)せず。」

「須菩提(しゅぼだい)。汝(なんじ)何(いかな)る義(ぎ)を見(み)てか如是(かくのごとき)の事(こと)を説(と)く、若(も)し菩薩(ぼさつ)、如是(かくのごと)く深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を行(ぎょう)ずれば、則(すなわ)ち二地(にじ)、若(も)しは聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)に墮(だ)せずと。」

「世尊(せそん)。是(こ)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)なり。此(この)中(なか)に修(しゅ)する法(ほう)無(な)く、所修(しょしゅ)無(な)く、修(しゅ)する者(もの)無(な)し。 何(いかん)が故(ゆえ)に。世尊(せそん)。是(こ)の深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)の中(なか)には決定(けつじょう)の法(ほう)無(な)し。 虚空(こくう)を修(しゅ)するは是(これ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を修(しゅ)するなり。世尊(せそん)。一切法(いっさいほう)を修(しゅ)せざるは是(これ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を修(しゅ)するなり。無邊(むへん)を修(しゅ)するは是(これ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を修(しゅ)するなり。無著(むじゃく)を修(しゅ)するは是(これ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を修(しゅ)するなり。」

「須菩提(しゅぼだい)。應(まさ)に深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を以(もっ)て阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)を試(こころ)むべし。 若(も)し般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)に貪著(とんじゃく)せず、他(た)の言論(ごんろん)に隨(したが)って悕望(けもう)する所(ところ)有(あ)らず、若(も)し深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を説(と)くを聞(き)く時(とき)、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず沒(もっ)せず退(しりぞ)かずして、其(そ)の心(こころ)喜樂(きぎょう)せば、當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、先世(せんせ)に已(すで)に曾(かつ)て深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を聞(き)けりと。 何(いかん)が故(ゆえ)に。深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を説(と)くを聞(き)きて、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず沒(もっ)せず退(しりぞ)かずんば、當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。」

「世尊(せそん)。若(も)し菩薩(ぼさつ)、深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を説(と)くを聞(き)きて、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず沒(もっ)せず退(しりぞ)かずんば、應(まさ)に云何(いかん)が觀(かん)ずるべきや。」

「須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は應(まさ)に薩婆若(さつばにゃ)の心(こころ)に隨(したが)って般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を觀(かん)ずべし。」

「世尊(せそん)。云何(いかん)なるを名(なづ)けて薩婆若(さつばにゃ)の心(こころ)に隨(したが)って觀(かん)ずと爲(な)すや。」

「須菩提(しゅぼだい)。虚空(こくう)に隨(したが)って觀(かん)ずるを、名(なづ)けて薩婆若(さつばにゃ)の心(こころ)に隨(したが)って般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を觀(かん)ずと爲(な)す。 須菩提(しゅぼだい)。薩婆若(さつばにゃ)の心(こころ)に隨(したが)って觀(かん)ずるは、即(すなわ)ち非觀(ひかん)なり。 何(いかん)が故(ゆえ)に。無量(むりょう)は是(これ)薩婆若(さつばにゃ)なり。無量(むりょう)なれば即(すなわ)ち色(しき)無(な)く受想行識(じゅそうぎょうしき)無(な)し。智(ち)無(な)く慧(え)無(な)く道(どう)無(な)し。得(とく)無(な)く果(か)無(な)く生(しょう)無(な)く滅(めつ)無(な)し。作(さ)無(な)く作者(さしゃ)無(な)し。方(ほう)無(な)く趣(しゅ)無(な)く住(じゅう)無(な)く量(りょう)無(な)し。即(すなわ)ち無量數(むりょうすう)に墮(だ)す。 須菩提(しゅぼだい)。虚空(こくう)の無量(むりょう)なるが如(ごと)く、薩婆若(さつばにゃ)も亦(また)無量(むりょう)なり。法(ほう)として得(う)べきもの無(な)く、亦(また)得(う)る者(もの)無(な)し。色(しき)を以(もっ)て得(う)可(べ)からず。受想行識(じゅそうぎょうしき)を以(もっ)て得(う)可(べ)からず。檀波羅蜜(だんはらみつ)を以(もっ)て得(う)可(べ)からず。尸波羅蜜(しはらみつ)を以(もっ)て得(う)可(べ)からず、羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)・毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)・禪那波羅蜜(ぜんなはらみつ)・般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を以(もっ)て得(う)可(べ)からず。 何(いかん)が故(ゆえ)に。色(しき)は即(すなわ)ち是(これ)薩婆若(さつばにゃ)なり。受想行識(じゅそうぎょうしき)は即(すなわ)ち是(これ)薩婆若(さつばにゃ)なり。檀波羅蜜(だんはらみつ)は即(すなわ)ち是(これ)薩婆若(さつばにゃ)なり。尸羅波羅蜜(しらはらみつ)・羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)・毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)・禪波羅蜜(ぜんはらみつ)・般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)、即(すなわ)ち是(これ)薩婆若(さつばにゃ)なればなり。」

「爾(そ)の時、欲色界(よくしきかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、『世尊(せそん)。般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)にして解(げ)し難(がた)く知(し)り難(がた)し。』と。」

「佛(ほとけ)言(のたま)わく、『如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。諸(もろもろ)の天子(てんし)。般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)にして解(げ)し難(がた)く知(し)り難(がた)し。是(こ)の義(ぎ)を以(もっ)ての故(ゆえ)に、我(われ)默然(もくねん)として法(ほう)を説(と)かざらんと欲(ほっ)す。是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、我(われ)が得(え)る所(ところ)の法(ほう)、是(こ)の法(ほう)の中(なか)には得(う)る者(もの)有(あ)ること無(な)し。得(う)べき法(ほう)無(な)し。用(もち)いるべき所(ところ)の法(ほう)として得(う)べきもの無(な)し。諸法(しょほう)の相(そう)の如是(かくのごと)く甚深(じんじん)なるは、虚空(こくう)の甚深(じんじん)なるが如(ごと)きが故(ゆえ)に、是(こ)の法(ほう)甚深(じんじん)なり。我(が)甚深(じんじん)なるが故(ゆえ)に一切法(いっさいほう)甚深(じんじん)なり。不來不去(ふらいふこ)甚深(じんじん)なるが故(ゆえ)に一切法(いっさいほう)甚深(じんじん)なりと。』」

「欲色界(よくしきかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、『希有(けう)なり世尊(せそん)。是(こ)の説(と)く所(ところ)の法(ほう)は、一切世間(いっさいせけん)信(しん)ずることを得(う)べしとすること難(かた)し。世間(せけん)は貪著(とんじゃく)を行(ぎょう)ず。是(こ)の法(ほう)は無貪著(むとんじゃく)の爲(ため)の故(ゆえ)に説(と)きたまう。』と。」

「爾(そ)の時、須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、『世尊(せそん)。是(こ)の法(ほう)は一切法(いっさいほう)に隨順(ずいじゅん)す。 何(いかん)が故(ゆえ)に。世尊(せそん)。是(こ)の法(ほう)には障礙(しょうげ)の處(ところ)無(な)く障礙(しょうげ)の相(そう)無(な)きこと虚空(こくう)の如(ごと)し。 世尊(せそん)。是(こ)の法(ほう)には生(しょう)無(な)し。一切法(いっさいほう)得(う)可(べ)からざるが故(ゆえ)なり。 世尊(せそん)。是(こ)の法(ほう)には處(ところ)無(な)し。一切處(いっさいしょ)得(う)可(べ)からざるが故(ゆえ)なり。』と。」

「爾(そ)の時、欲色界(よくしきかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、『世尊(せそん)。是(こ)の長老(ちょうろう)須菩提(しゅぼだい)は、佛(ほとけ)に隨(したが)って生(しょう)ずと爲(な)す。説(と)く所(ところ)の法(ほう)有(あ)るは皆(みな)空(くう)を爲(な)すが故(ゆえ)なり。』と。」

[書き下し文]

須菩提(しゅぼだい)、欲色界(よくしきかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)に語(かた)って言(いわ)く、 「汝等(なんじら)が説(と)く所(ところ)、長老(ちょうろう)須菩提(しゅぼだい)は佛(ほとけ)に隨(したが)って生(しょう)ずと爲(な)す。何(いかな)る法(ほう)に隨(したが)って生(しょう)ずるが故(ゆえ)に佛(ほとけ)に隨(したが)って生(しょう)ずと名(なづ)くるや。諸(もろもろ)の天子(てんし)。如(にょ)に隨(したが)って行(ぎょう)ずるが故(ゆえ)に、須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 如來(にょらい)の如(にょ)の不來不去(ふらいふこ)なるが如(ごと)く、須菩提(しゅぼだい)も如(にょ)に隨(したが)って本已來(もといらい)より、亦(また)不來不去(ふらいふこ)なり。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 又(また)、如來(にょらい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)一切法(いっさいほう)の如(にょ)なり。一切法(いっさいほう)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)如來(にょらい)の如(にょ)なり。如來(にょらい)の如(にょ)とは即(すなわ)ち如(にょ)に非(あら)ず。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 如來(にょらい)の如(にょ)の、一切處一切處(いっさいしょいっさいしょ)に常(つね)に不壞(ふえ)不分別(ふふんべつ)なるが如(ごと)く、是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。如來(にょらい)の如(にょ)の住(じゅう)にも非(あら)ず不住(ふじゅう)にも非(あら)ざるが如(ごと)く、須菩提(しゅぼだい)の如(にょ)も亦(また)如是(かくのごとし)。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 如來(にょらい)の如(にょ)に障礙(しょうげ)の處(ところ)無(な)きが如(ごと)く、一切法(いっさいほう)の如(にょ)にも亦(また)障礙(しょうげ)の處(ところ)無(な)し。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 又(また)、如來(にょらい)の如(にょ)と一切法(いっさいほう)の如(にょ)とは、皆(みな)是(これ)一如(いちにょ)にして無二無別(むにむべつ)なり。是(こ)の如(にょ)は無作(むさ)にして非如(ひにょ)なる者(もの)無(な)し。若(も)し是(こ)の如(にょ)は非如(ひにょ)なる者(もの)無(な)くんば、是(これ)が故(ゆえ)に是(こ)の如(にょ)は無二無別(むにむべつ)なり。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 又(また)、如來(にょらい)の如(にょ)は一切處(いっさいしょ)に不壞(ふえ)不分別(ふふんべつ)なり。一切法(いっさいほう)の如(にょ)も亦(また)不壞(ふえ)不分別(ふふんべつ)なり。如是(かくのごとき)如來(にょらい)の如(にょ)は分別(ふんべつ)す可(べ)からざるが故(ゆえ)に無壞無別(むえむべつ)なり。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 如來(にょらい)の如(にょ)の諸法(しょほう)を離(はな)れざるが如(ごと)く、如是(かくのごとき)如(にょ)は諸法(しょほう)に異(こと)ならず。是(こ)の如(にょ)は非如(ひにょ)の時(とき)無(な)く常(つね)に是(これ)如(にょ)なり。如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。須菩提(しゅぼだい)の如(にょ)も是(こ)の如(にょ)に異(こと)ならざるが故(ゆえ)に、如實(にょじつ)に如(にょ)に隨(したが)って行(ぎょう)ずれども亦(また)所行(しょぎょう)無(な)し。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 如來(にょらい)の如(にょ)の過去(かこ)に非(あら)ず未來(みらい)に非(あら)ず現在(げんざい)に非(あら)ざるが如(ごと)く、一切法(いっさいほう)の如(にょ)も亦(また)如是(かくのごとし)。過去(かこ)に非(あら)ず未來(みらい)に非(あら)ず現在(げんざい)に非(あら)ず。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如(にょ)に隨(したが)って行(ぎょう)じ生(しょう)ずるが故(ゆえ)に、名(なづ)けて如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ずと爲(な)す。 又(また)、如來(にょらい)は即(すなわ)ち是(これ)如來(にょらい)の如(にょ)なり。如來(にょらい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)過去(かこ)の如(にょ)なり。過去(かこ)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)如來(にょらい)の如(にょ)なり。如來(にょらい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)未來(みらい)の如(にょ)なり。未來(みらい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)如來(にょらい)の如(にょ)なり。如來(にょらい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)現在(げんざい)の如(にょ)なり。現在(げんざい)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)如來(にょらい)の如(にょ)なり。過去未來現在(かこみらいげんざい)の如(にょ)も如來(にょらい)の如(にょ)も無二無別(むにむべつ)なり。一切法(いっさいほう)の如(にょ)も須菩提(しゅぼだい)の如(にょ)も亦(また)無二無別(むにむべつ)なり。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 菩薩(ぼさつ)の如(にょ)は即(すなわ)ち是(これ)阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る時(とき)の如(にょ)なり。菩薩(ぼさつ)は是(こ)の如(にょ)を以(もっ)て阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)るを、名(なづ)けて如來(にょらい)と爲(な)す。」

佛(ほとけ)、是(こ)の如(にょ)を説(と)きたまう時(とき)、地(ち)は六種(ろくしゅ)に震動(しんどう)す。是(こ)の如(にょ)を以(もっ)ての故(ゆえ)に、須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に隨(したが)って生(しょう)ず。 又(また)、須菩提(しゅぼだい)は色(しき)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。受想行識(じゅそうぎょうしき)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。須陀洹果(しゅだおんか)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。斯陀含果(しだごんか)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。阿那含果(あなごんか)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。阿羅漢果(あらかんか)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。辟支佛道(びゃくしぶつどう)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。是(これ)が故(ゆえ)に須菩提(しゅぼだい)は如來(にょらい)に生(しょう)ず。

[書き下し文]

爾(そ)の時、舍利弗(しゃりほつ)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。是(こ)の如(にょ)は甚深(じんじん)なり。」と。

佛(ほとけ)言(のたま)わく、「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。舍利弗(しゃりほつ)。是(こ)の如(にょ)は甚深(じんじん)なり。今(いま)、是(こ)の如(にょ)を説(と)くに、三千(さんぜん)の比丘(びく)、諸法(しょほう)を受(う)けざるが故(ゆえ)に、漏盡(ろじん)して心(こころ)解脱(げだつ)を得(え)たり。 舍利弗(しゃりほつ)。五百(ごひゃく)の比丘尼(びくに)、諸法(しょほう)の中(なか)に於(お)いて、遠塵離垢(おんじんりく)して法眼淨(ほうげんじょう)を得(え)たり。五千(ごせん)の天人(てんにん)、無生法忍(むしょうほうにん)を得(え)たり。六千(ろくせん)の菩薩(ぼさつ)、諸法(しょほう)を受(う)けずして漏盡(ろじん)し心(こころ)解脱(げだつ)を得(え)たり。 舍利弗(しゃりほつ)。是(こ)の六千(ろくせん)の菩薩(ぼさつ)は已(すで)に曾(かつ)て五百(ごひゃく)の諸佛(しょぶつ)に供養(くよう)し親近(しんごん)して、諸佛(しょぶつ)の所(みもと)に於(お)いて、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禪定(ぜんじょう)せしも、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の方便(ほうべん)の護(まも)る所(ところ)と爲(な)らざりしが故(ゆえ)に、今(いま)諸法(しょほう)を受(う)けずして漏盡(ろじん)し心(こころ)解脱(げだつ)を得(え)たるなり。 舍利弗(しゃりほつ)。菩薩(ぼさつ)、空(くう)・無相(むそう)・無作(むさ)の道(どう)を行(ぎょう)ずと雖(いえど)も、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の方便(ほうべん)の護(まも)る所(ところ)と爲(な)らざるが故(ゆえ)に、實際(じっさい)に證(しょう)して聲聞乘(しょうもんじょう)と作(な)る。」

「舍利弗(しゃりほつ)。譬(たと)えば鳥(とり)有(あ)りて、身(み)の長(たけ)は百由旬(ひゃくゆじゅん)、若(も)しくは二三四五百由旬(にさんしごひゃくゆじゅん)なるに、翅(つばさ)未(いま)だ成就(じょうじゅ)せざるに、忉利天上(とうりてんじょう)より閻浮提(えんぶだい)に至(いた)り來(きた)らんと欲(ほっ)して、便(すなわ)ち自(みずか)ら投(とう)じて來下(らいげ)せんが如(ごと)し。舍利弗(しゃりほつ)。意(こころ)に於(お)いて云何(いかん)。是(こ)の鳥(とり)、中道(ちゅうどう)にして是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、『我(われ)、忉利天上(とうりてんじょう)に還(かえ)らんと欲(ほっ)す』と。寧(あに)還(かえ)ることを得(え)んや不(いな)や。」

「不(いな)なり、世尊(せそん)。」

「舍利弗(しゃりほつ)。是(こ)の鳥(とり)、復(また)是(こ)の願(がん)を作(な)さく、『閻浮提(えんぶだい)に至(いた)るまで身(み)傷損(しょうそん)せじ』と。願(がん)の如(ごと)くなるを得(え)んや不(いな)や。」

「不(いな)なり、世尊(せそん)。是(こ)の鳥(とり)、閻浮提(えんぶだい)に至(いた)らば、身(み)必(かなら)ず傷損(しょうそん)せん。若(も)しくは死(し)し、若(も)しくは死(し)に近(ちか)き苦(く)あらん。何(いかん)が故(ゆえ)に。世尊(せそん)。法(ほう)、應(まさ)に爾(しか)るべし。其(そ)の身(み)既(すで)に大(だい)にして、翅(つばさ)未(いま)だ成就(じょうじゅ)せざるが故(ゆえ)なり。」

「舍利弗(しゃりほつ)。菩薩(ぼさつ)も亦(また)如是(かくのごとし)。恒河沙(ごうがしゃ)の劫(こう)に於(お)いて布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禪定(ぜんじょう)し、大心(だいしん)・大願(だいがん)を發(おこ)して無量(むりょう)の事(こと)を受(う)け、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)んと欲(ほっ)すと雖(いえど)も、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の方便(ほうべん)の護(まも)る所(ところ)と爲(な)らざるが故(ゆえ)に、則(すなわ)ち聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)に墮(だ)す。 舍利弗(しゃりほつ)。菩薩(ぼさつ)、過去未來現在(かこみらいげんざい)の諸佛(しょぶつ)の所行(しょぎょう)の戒品(かいほん)・定品(じょうほん)・慧品(えほん)・解脱品(げだつほん)・解脱知見品(げだつちけんほん)を念(ねん)ずと雖(いえど)も、心(こころ)に相(そう)を取(と)る。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は相(そう)を取(と)りて念(ねん)ずるが故(ゆえ)に、諸佛(しょぶつ)の戒品(かいほん)・定品(じょうほん)・慧品(えほん)・解脱品(げだつほん)・解脱知見品(げだつちけんほん)を知(し)らず。知(し)らず見(み)ざるが故(ゆえ)に、諸法(しょほう)空(くう)の名字(みょうじ)を聞(き)きて、是(こ)の音聲(おんじょう)の相(そう)を取(と)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に迴向(えこう)す。當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)は聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)に墮(だ)す。 何(いかん)が故(ゆえ)に。舍利弗(しゃりほつ)。菩薩(ぼさつ)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を離(はな)るるが故(ゆえ)に、法(ほう)、應當(まさ)に爾(しか)るべし。」

「世尊(せそん)。我(われ)が佛(ほとけ)の説(と)きたまう所(ところ)の義(ぎ)を解(げ)するが如(ごと)くんば、若(も)し菩薩(ぼさつ)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を離(はな)れなば、則(すなわ)ち阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて、狐疑(こぎ)して未(いま)だ了(りょう)せず。是(これ)が故(ゆえ)に菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)んと欲(ほっ)せば、當(まさ)に善(よ)く般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の方便(ほうべん)を行(ぎょう)ずべし。」

爾(そ)の時、欲色界(よくしきかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)なり。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は得(がた)難(がた)し。」と。

佛(ほとけ)言(のたま)わく、「如是(かくのごとし)、如是(かくのごとし)。諸(もろもろ)の天子(てんし)。般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)なり。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は得(がた)難(がた)し。」

須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。佛(ほとけ)の説(と)きたまう所(ところ)の如(ごと)く、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は甚深(じんじん)にして、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は得(がた)難(がた)し。我(われ)が佛(ほとけ)の説(と)きたまう所(ところ)の義(ぎ)を解(げ)する如(ごと)くんば、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は得(え)易(やす)し。 何(いかん)が故(ゆえ)に。得(う)べき法(ほう)無(な)ければなり。諸法(しょほう)空(くう)の中(なか)には阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る者(もの)有(あ)ること無(な)し。得(う)べき法(ほう)無(な)く、用(もち)いるべき所(ところ)の得(う)べき法(ほう)無(な)し。一切法(いっさいほう)は皆(みな)空(くう)なるが故(ゆえ)なり。諸(もろもろ)の説(と)く所(ところ)の法(ほう)は斷(だん)ずる所有(ところあ)るを爲(な)すも、是(こ)の法(ほう)も亦(また)空(くう)なり。 世尊(せそん)。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の法(ほう)、得(う)る者(もの)の用(もち)いる所(ところ)の法(ほう)、得(え)て知(し)る者(もの)の用(もち)いる所(ところ)の法(ほう)、如是(かくのごとき)の法(ほう)は皆(みな)空(くう)なり。 世尊(せそん)。是(こ)の因縁(いんねん)を以(もっ)ての故(ゆえ)に、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は則(すなわ)ち得(え)易(やす)しと爲(な)す。諸(もろもろ)の得(う)べき者(もの)は皆(みな)虚空(こくう)に同(おな)じ。」と。

[書き下し文]

舍利弗(しゃりほつ)、須菩提(しゅぼだい)に語(かた)る。 「若(も)し阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)易(やす)しとせば、恒河沙(ごうがしゃ)等(ら)の諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)應(まさ)に退轉(たいてん)せざるべし。是(こ)の因縁(いんねん)を以(もっ)ての故(ゆえ)に、當(まさ)に知(し)るべし、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は得(がた)難(がた)し。」

「舍利弗(しゃりほつ)。意(こころ)に於(お)いて云何(いかん)。色(しき)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。受想行識(じゅそうぎょうしき)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。色(しき)を離(はな)れて得(う)べき法(ほう)有(あ)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。受想行識(じゅそうぎょうしき)を離(はな)れて得(う)べき法(ほう)有(あ)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。色(しき)の如(にょ)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。受想行識(じゅそうぎょうしき)の如(にょ)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。色(しき)の如(にょ)を離(はな)れて得(う)べき法(ほう)有(あ)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。受想行識(じゅそうぎょうしき)の如(にょ)を離(はな)れて得(う)べき法(ほう)有(あ)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。諸法(しょほう)の如(にょ)を離(はな)れて得(う)べき法(ほう)有(あ)りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)するや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。如是(かくのごと)く實(じつ)に求(もと)むるに得(う)可(べ)からず。何等(なんら)の法(ほう)か阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)する者(もの)たらん。舍利弗(しゃりほつ)。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於(お)いて退轉(たいてん)する法(ほう)無(な)し。」

舍利弗(しゃりほつ)言(い)わく、 「須菩提(しゅぼだい)の説(と)く所(ところ)の義(ぎ)の如(ごと)くんば、則(すなわ)ち退轉(たいてん)する菩薩(ぼさつ)有(あ)ること無(な)しと爲(な)す。若(も)し爾(しか)らば、佛(ほとけ)の説(と)きたまう三乘(さんじょう)の人(ひと)も則(すなわ)ち差別(しゃべつ)無(な)からん。」

爾(そ)の時、富樓那彌多羅尼子(ふるなみたらにし)、舍利弗(しゃりほつ)に語(かた)る、 「應(まさ)に須菩提(しゅぼだい)に問(と)うべし。汝(なんじ)は一(いつ)の菩薩乘(ぼさつじょう)のみ有(あ)らしめんと欲(ほっ)するや不(いな)やと。」

舍利弗(しゃりほつ)、即(すなわ)ち須菩提(しゅぼだい)に問(と)う、 「汝(なんじ)は一(いつ)の菩薩乘(ぼさつじょう)のみ有(あ)らしめんと欲(ほっ)するや。」

須菩提(しゅぼだい)言(い)わく、 「如(にょ)の中(なか)に三乘(さんじょう)の人(ひと)有(あ)る可(べ)きや不(いな)や。若(も)しは聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)・佛乘(ぶつじょう)なりと。(舍利弗言わく、)『須菩提(しゅぼだい)。如(にょ)の中(なか)には三相(さんそう)の差別(しゃべつ)有(あ)ること無(な)し。』 舍利弗(しゃりほつ)。如(にょ)に一相(いっそう)有(あ)るや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。如(にょ)の中(なか)に乃至(ないし)一乘(いちじょう)の人(ひと)有(あ)りと見(み)るや不(いな)や。」 「不(いな)なり、須菩提(しゅぼだい)。」 「舍利弗(しゃりほつ)。如是(かくのごと)く實(じつ)に求(もと)むるに是(こ)の法(ほう)得(う)可(べ)からず。汝(なんじ)云何(いかん)が是(こ)の念(ねん)を作(な)す、『是(これ)は聲聞乘(しょうもんじょう)なり、是(これ)は辟支佛乘(びゃくしぶつじょう)なり、是(これ)は佛乘(ぶつじょう)なる者(もの)なり』と。如是(かくのごとき)の三乘(さんじょう)、如(にょ)の中(なか)に差別(しゃべつ)無(な)し。若(も)し菩薩(ぼさつ)、是(こ)の事(こと)を聞(き)きて、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず沒(もっ)せず退(しりぞ)かずんば、當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)は則(すなわ)ち能(よ)く菩提(ぼだい)を成就(じょうじゅ)す。」

爾(そ)の時、佛(ほとけ)、須菩提(しゅぼだい)を讃(ほ)めて言(のたま)わく、 「善(よ)きかな善(よ)きかな。須菩提(しゅぼだい)。汝(なんじ)が樂(ねが)って説(と)く所(ところ)は、皆(みな)是(これ)佛(ほとけ)の力(ちから)なり。所謂(いわゆる)、如(にょ)の中(なか)に三乘(さんじょう)の人(ひと)を求(もと)むるも差別(しゃべつ)有(あ)ること無(な)し。若(も)し菩薩(ぼさつ)、是(こ)の事(こと)を聞(き)きて、驚(おどろ)かず怖(おじ)ず沒(もっ)せず退(しりぞ)かずんば、當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)は能(よ)く菩提(ぼだい)を成就(じょうじゅ)す。」

爾(そ)の時、舍利弗(しゃりほつ)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、 「世尊(せそん)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は何等(なんら)の菩提(ぼだい)をか成就(じょうじゅ)する。」

「舍利弗(しゃりほつ)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は無上菩提(むじょうぼだい)を成就(じょうじゅ)す。」

舍利弗(しゃりほつ)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、 「世尊(せそん)。若(も)し菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就(じょうじゅ)せんと欲(ほっ)せば、應(まさ)に云何(いかん)が行(ぎょう)ずべきや。」

佛(ほとけ)言(のたま)わく、 「一切衆生(いっさいしゅじょう)に於(お)いて、應(まさ)に等心(とうしん)・慈心(じしん)・不異心(ふいしん)・謙下心(けんげしん)・安隱心(あんのんしん)・不瞋心(ふしんしん)・不惱心(ふのうしん)・不戲弄心(ふけろうしん)・父母心(ふぼしん)・兄弟心(きょうだいしん)を行(ぎょう)じて、與(とも)に共(とも)に語言(ごごん)すべし。舍利弗(しゃりほつ)。若(も)し菩薩(ぼさつ)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就(じょうじゅ)せんと欲(ほっ)せば、應(まさ)に如是(かくのごと)く學(まな)ぶべし、應(まさ)に如是(かくのごと)く行(ぎょう)ずべし。」





[書き下し文]

摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)阿惟越致相品(あゆいっちそうほん) 第十六(だいじゅうろく)

爾(そ)の時、須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。何等(なんら)か是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)の相貌(そうみょう)なる。我(われ)當(まさ)に云何(いかん)が是(こ)の阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なるを知(し)るべき。」と。

佛(ほとけ)、須菩提(しゅぼだい)に告(つ)げたまわく、「所有(あらゆる)凡夫(ぼんぶ)の地(じ)、聲聞(しょうもん)の地(じ)、辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)、如來(にょらい)の地(じ)、是(これ)ら諸(もろもろ)の地(じ)は如(にょ)の中(なか)に於(お)いて不壞(ふえ)不二(ふに)不別(ふべつ)なり。 菩薩(ぼさつ)は是(こ)の如(にょ)を以(もっ)て諸法(しょほう)の實相(じっそう)に入(い)り、亦(また)分別(ふんべつ)せず、是(こ)の如(にょ)は此(かく)のごとし、是(これ)如(にょ)の相(そう)なりと。是(こ)の如(にょ)に隨(したが)って諸法(しょほう)の實相(じっそう)に入(い)る。 是(こ)の如(にょ)を出(い)で已(おわ)って更(さら)に餘(よ)の法(ほう)を聞(き)くも、疑(うたが)わず悔(く)いず、是非(ぜひ)を言(い)わず、一切法(いっさいほう)は皆(みな)如(にょ)に入(い)ると見(み)る。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)の凡(およ)そ説(と)く所(ところ)有(あ)るに、終(つい)に無益(むやく)の事(こと)を説(と)かず。言(ことば)必(かなら)ず益(やく)有(あ)り。他人(たにん)の長短(ちょうたん)を觀(み)ず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、外道(げどう)・沙門(しゃもん)・婆羅門(ばらもん)の言説(ごんせつ)を觀(み)ず、實(じつ)に知(し)り實(じつ)に見(み)る。 又(また)、阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は餘(よ)の天(てん)を禮事(らいじ)せず、華香(けこう)を用(もち)いて供養(くよう)せず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は終(つい)に三惡道(さんまくどう)に墮(だ)せず、女人(にょにん)の身(み)を受(う)けず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は自(みずか)ら殺生(せっしょう)せず、亦(また)他(た)に教(おし)えて殺生(せっしょう)せしめず。自(みずか)ら偸劫(ちゅうごう)せず、邪婬(じゃいん)せず、妄語(もうご)せず、兩舌(りょうぜつ)せず、惡口(あっく)せず、無益(むやく)の語(ご)をせず。貪嫉(とんしつ)せず、瞋惱(しんのう)せず、邪見(じゃけん)ならず、亦(また)他(た)に教(おし)えて邪見(じゃけん)を行(ぎょう)ぜしめず。 是(こ)の十善道(じゅうぜんどう)を身(み)に常(つね)に自(みずか)ら行(ぎょう)じ、亦(また)他(た)に教(おし)えて行(ぎょう)ぜしむ。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、乃至(ないし)夢(ゆめ)の中(なか)にも十不善道(じゅうふぜんどう)を行(ぎょう)ぜず。乃至(ないし)夢(ゆめ)の中(なか)にも亦(また)常(つね)に十善道(じゅうぜんどう)を行(ぎょう)ず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。經典(きょうてん)を誦讀(じゅどく)す可(べ)き所(ところ)に、如是(かくのごとき)の念(ねん)を作(な)す、『我(われ)、衆生(しゅじょう)をして安樂(あんらく)を得(え)しめんが欲(ため)の故(ゆえ)に、當(まさ)に爲(ため)に法(ほう)を説(と)くべし。是(こ)の法施(ほっせ)を以(もっ)て法(ほう)の如(ごと)く願(がん)を滿(み)たん。是(こ)の法施(ほっせ)を以(もっ)て一切衆生(いっさいしゅじょう)と與(とも)に之(これ)を共(とも)にせん』と。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、深法(じんぽう)を聞(き)く時(とき)、心(こころ)に疑悔(ぎけ)無(な)く、節言軟語(せつごんなんご)し、眠臥(みんが)少(すくな)し。若(も)しは來(きた)り若(も)しは去(さ)るも、心(こころ)常(つね)に亂(みだ)れず。行(あゆ)みは卒疾(そっしつ)ならず、常(つね)に其(そ)の心(こころ)を一(いつ)にす。安詳徐歩(あんじょうじょほ)して地(ち)を視(み)て行(あゆ)む。 須菩提(しゅぼだい)。如是(かくのごとき)の相貌(そうみょう)、當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は衣服(えぶく)・臥具(がぐ)に垢穢(くえ)有(あ)ること無(な)く、常(つね)に清淨(しょうじょう)を樂(ねが)い威儀(いぎ)具足(ぐそく)す。身(み)は常(つね)に安隱(あんのん)にして疾病(しっぺい)少(すくな)し。 須菩提(しゅぼだい)。凡夫(ぼんぶ)の身中(しんちゅう)には八萬戸(はちまんこ)の虫(むし)あり。是(こ)の阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)の身中(しんちゅう)には如是(かくのごとき)の諸虫(しょちゅう)有(あ)ること無(な)し。何(いかん)が故(ゆえ)に。須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)の善根(ぜんごん)は世間(せけん)を超出(ちょうしゅつ)すればなり。善根(ぜんごん)の増長(ぞうちょう)に隨(したが)うが故(ゆえ)に、心(こころ)清淨(しょうじょう)、身(み)清淨(しょうじょう)なるを得(う)。

須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。何等(なんら)か菩薩(ぼさつ)の心(こころ)清淨(しょうじょう)と爲(な)すや。」

「須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)の善根(ぜんごん)の増長(ぞうちょう)に隨(したが)って、諂曲(てんごく)・欺誑(ぎおう)は漸漸(ぜんぜん)に自滅(じめつ)す。滅(めつ)するが以(ゆえ)に心(こころ)清淨(しょうじょう)なり。心(こころ)清淨(しょうじょう)なるを以(もっ)ての故(ゆえ)に能(よ)く聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の地(じ)を過(す)ぐ。是(これ)を菩薩(ぼさつ)の心清淨(しんしょうじょう)と名(なづ)く。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。」

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は利養(りよう)を貪(むさぼ)らず、慳嫉(けんしつ)少(すくな)し。深法(じんぽう)を聞(き)く時(とき)、其(そ)の心(こころ)沒(もっ)せず。智慧(ちえ)深(ふか)きが故(ゆえ)に一心(いっしん)に法(ほう)を聽(き)く。聞(き)く可(べ)き所(ところ)の法(ほう)は、皆(みな)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)に應(おう)ず。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)に因(よ)りて、世間(せけん)の諸事(しょじ)も皆(みな)實相(じっそう)に同(おな)じ。資生(ししょう)の事(こと)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)に應(おう)ぜざる者(もの)を見(み)ず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。若(も)し惡魔(あくま)、菩薩(ぼさつ)の所(みもと)に至(いた)りて、化(け)して八大地獄(はちだいじごく)を作(な)し、一一(いちいち)の地獄(じごく)に化(け)して若干百千萬(じゃっかんひゃくせんまん)の菩薩(ぼさつ)を作(な)して、是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、『是(これ)ら諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)には、佛(ほとけ)皆(みな)與(とも)に阿惟越致(あゆいっち)の記(き)を授(さず)く。而(しか)るに今(いま)此(この)大地獄(だいじごく)の中(なか)に墮(だ)す。汝(なんじ)若(も)し阿惟越致(あゆいっち)の記(き)を受(う)くれば、即(すなわ)ち地獄(じごく)の記(き)を受(う)く。汝(なんじ)今(いま)若(も)し能(よ)く是(こ)の心(こころ)を悔(く)いなば、地獄(じごく)に墮(だ)せず當(まさ)に天上(てんじょう)に生(しょう)ずべし』と。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し是(こ)の語(ことば)を聞(き)くも心(こころ)動恚(どうい)せずして、是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、『阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し惡道(あくどう)に墮(だ)すとは、是(こ)の處(ことわり)有(あ)ること無(な)し』と。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。若(も)し惡魔(あくま)、化(け)して沙門(しゃもん)と作(な)りて、菩薩(ぼさつ)の所(みもと)に至(いた)りて是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、『汝(なんじ)が先(さき)に聞(き)き讀誦(どくじゅ)する所(ところ)、宜(よろ)しく應(まさ)に悔捨(けしゃ)すべし。汝(なんじ)若(も)し捨離(しゃり)して復(また)聽受(ちょうじゅ)せずんば、我(われ)當(まさ)に常(つね)に汝(なんじ)が所(みもと)に至(いた)るべし。汝(なんじ)が聞(き)く所(ところ)の者(もの)は佛(ほとけ)の説(と)く所(ところ)に非(あら)ず、皆(みな)是(これ)文飾莊校(もんじきしょうきょう)の辭(ことば)なり。我(われ)が説(と)く所(ところ)の經(きょう)は眞(しん)に是(これ)佛語(ぶつご)なり』と。 若(も)し是(こ)の事(こと)を聞(き)きて心(こころ)に動恚(どうい)有(あ)らば、當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)は未(いま)だ諸佛(しょぶつ)より記(き)を受(う)けず、是(これ)必定(ひつじょう)の菩薩(ぼさつ)に非(あら)ず、未(いま)だ阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)の性中(しょうちゅう)に住(じゅう)せずと。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の事(こと)を聞(き)きて心(こころ)動恚(どうい)せず、但(ただ)諸法(しょほう)の相(そう)の無生(むしょう)・無作(むさ)・無起(むき)なるに依(よ)りて、他(た)の語(ことば)に隨(したが)わず。漏盡(ろじん)の阿羅漢(あらかん)の現前(げんぜん)に諸法(しょほう)の相(そう)を證(しょう)して、不生不起(ふしょうふき)の法(ほう)なるが故(ゆえ)に、惡魔(あくま)の制(せい)する所(ところ)と爲(な)らざるが如(ごと)し。 須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)も亦(また)如是(かくのごとし)。聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)を求(もと)むる者(もの)の破(やぶ)る能(あた)わざる所(ところ)となり、復(また)退轉(たいてん)せずして必(かなら)ず薩婆若(さつばにゃ)に至(いた)り、阿惟越致(あゆいっち)の性中(しょうちゅう)に住(じゅう)して他(た)の語(ことば)に隨(したが)わず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

[書き下し文]

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。若(も)し惡魔(あくま)、菩薩(ぼさつ)の所(みもと)に至(いた)りて是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、『汝(なんじ)が行(ぎょう)ずる所(ところ)の者は是(これ)生死(しょうじ)の行(ぎょう)なり、薩婆若(さつばにゃ)の行(ぎょう)に非(あら)ず。汝(なんじ)今(いま)可(か)くし て此(こ)の身(み)に於(お)いて苦(く)を盡(つ)くして涅槃(ねはん)を取(と)るべし。若(も)し能(よ)く如是(かくのごとく)せば則(すなわ)ち復(また)生死(しょうじ)の諸苦(しく)を受(う)けず。是(こ)の身(み)の生(しょう)さへ尚(な)お得(う)可(べ)からず、何況(いわんや)や後身(ごしん)を受(う)けんことを欲(ほっ)せんや』と。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し是(こ)の事(こと)を聞(き)きて心(こころ)動恚(どうい)せず。

惡魔(あくま)、復(また)是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、 『汝(なんじ)今(いま)、諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)の恒河沙(ごうがしゃ)等(ら)の諸佛(しょぶつ)に於(お)いて衣服(えぶく)・飮食(おんじき)・臥具(がぐ)・醫藥(いやく)を供養(くよう)し、皆(みな)恒河沙(ごうがしゃ)等(ら)の諸佛(しょぶつ)の所(みもと)に於(お)いて、梵行(ぼんぎょう)を修行(しゅぎょう)し親近(しんごん)し諮請(しせい)し、菩薩乘(ぼさつじょう)の為(ため)の故(ゆえ)に多(おお)く問難(もんなん)するを見(み)るや。菩薩(ぼさつ)は云何(いかん)が應(まさ)に住(じゅう)すべき、云何(いかん)が應(まさ)に行(ぎょう)ずべき。是(こ)ら諸(もろもろ)の菩薩(ぼさつ)、諸佛(しょぶつ)の所(みもと)に於(お)いて、聞(き)く所(ところ)の事(こと)に隨(したが)って皆(みな)能(よ)く修行(しゅぎょう)し、如是(かくのごとく)教(おし)えられ如是(かくのごとく)學(まな)び如是(かくのごとく)行(ぎょう)ずるも、猶(なお)お未(いま)だ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る能(あた)わず、薩婆若(さつばにゃ)に住(じゅう)せず。何況(いわんや)、汝(なんじ)が當(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)べけんをや』と。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し是(こ)の事(こと)を聞(き)きて心(こころ)動恚(どうい)せず。

惡魔(あくま)、即時(そくじ)に復(また)化(け)して諸(もろもろ)の比丘(びく)と作(な)りて是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、 『是(これ)ら諸(もろもろ)の比丘(びく)は皆(みな)漏盡(ろじん)の阿羅漢(あらかん)なり。先(さき)に皆(みな)心(こころ)を發(おこ)して佛道(ぶつどう)を求(もと)むるも、而(しか)るに今(いま)皆(みな)阿羅漢(あらかん)の地(じ)に住(じゅう)す。何況(いわんや)、汝(なんじ)に於(お)いてか當(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)べけん』と。

菩薩(ぼさつ)、若(も)し是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、『我(われ)他(た)より聞(き)くは爲(ため)に失(うしな)う所(ところ)無し』と。若(も)し心(こころ)轉(うつ)らず異(こと)なる念(ねん)を生(しょう)ぜずんば、如是(かくのごとき)の魔事(まじ)に於(お)いて、若(も)し菩薩(ぼさつ)、如是(かくのごとく)諸(もろもろ)の波羅蜜(はらみつ)を行(ぎょう)じ、如是(かくのごとく)諸(もろもろ)の波羅蜜(はらみつ)を學(まな)びて薩婆若(さつばにゃ)を得(え)ざるは、是(これ)の處(ことわり)有(あ)ること無(な)し。 須菩提(しゅぼだい)。若(も)し菩薩(ぼさつ)、諸佛(しょぶつ)の説(と)きたまうが如(ごとく)聞(き)く所(ところ)に隨(したが)って學(まな)び、聞(き)く所(ところ)に隨(したが)って行(ぎょう)じ、是(こ)の道(どう)を離(はな)れず、薩婆若(さつばにゃ)の念(ねん)を離(はな)れずして、薩婆若(さつばにゃ)を得(え)ざるは、是(これ)の處(ことわり)有(あ)ること無(な)し。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し惡魔(あくま)來(きた)りて是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、 『薩婆若(さつばにゃ)は虚空(こくう)に同(おな)じ。是(こ)の法(ほう)は所有(もの)すること無し。用(もち)いる者(もの)無く、是(こ)の法(ほう)を以(もっ)て道(どう)を得(う)る者(もの)無し。何(いかん)が故(ゆえ)に。若(も)し道(どう)を得(う)る者(もの)有(あ)らば、得(え)る道(どう)の法(ほう)も用(もち)いらるる所の得(う)る法(ほう)も、皆(みな)虚空(こくう)の如(ごと)し。知(し)る者(もの)も知(し)らるる法(ほう)も用(もち)いらるる所(ところ)の法(ほう)も所有(もの)すること無く、皆(みな)虚空(こくう)に同(おな)じ。汝(なんじ)唐(から)に苦惱(くのう)を受(う)く。若(も)し阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)と言(い)わば、即(すなわ)ち是(これ)魔事(まじ)にして佛(ほとけ)の説(と)く所(ところ)に非(あら)ず』と。

菩薩(ぼさつ)、此(これ)に於(お)いて應(まさ)に如是(かくのごとく)念(ねん)ずべし、 『若(も)し我(われ)を訶(か)して薩婆若(さつばにゃ)を離(はな)れしめば、爾(しか)る者は是(これ)魔事(まじ)と爲(な)る』と。是(こ)の事(こと)の中(なか)に於(お)いて、應(まさ)に堅固(けんご)の心(こころ)、動(どう)ぜざるの心(こころ)、轉(うつ)らざるの心(こころ)を生(しょう)ずべし。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し禪(ぜん)・第二禪(だいにぜん)・第三禪(だいさんぜん)・第四禪(だいしぜん)に入(い)らんと欲(ほっ)せば、心(こころ)轉(うつ)りて調習(ちょうしゅう)す。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、諸禪(しょぜん)に入(い)ると雖(いえど)も、還(かえ)って欲界(よくかい)の法(ほう)を取(と)りて禪(ぜん)に隨(したが)って生(しょう)ぜず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、心(こころ)好(よ)き名聞(みょうもん)稱讃(しょうさん)を貪(むさぼ)らず、諸(もろもろ)の衆生(しゅじょう)に於(お)いて心(こころ)に恚礙(えげ)無く、常(つね)に安隱(あんのん)利益(りやく)の心(こころ)を生(しょう)ず。進止(しんし)來去(らいこ)して心(こころ)散亂(さんらん)せず、常(つね)に其(そ)の心(こころ)を一(いつ)にして威儀(いぎ)を失(失)わず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し居家(きか)に在(あ)らば諸欲(しょよく)に染著(ぜんじゃく)せず。受(う)くる所(ところ)の諸欲(しょよく)に心(こころ)に厭離(えんり)を生(しょう)じ常(つね)に怖畏(ふい)を懷(いだ)く。譬(たと)えば險道(けんどう)に多(おお)く諸(もろもろ)の賊難(ぞくなん)有(あ)るがごとし。食(くら)う所(ところ)有(あ)りと雖(いえど)も厭離(えんり)怖畏(ふい)して心(こころ)自(みずか)ら安(やす)んぜず、但(ただ)何時(いつ)か此(こ)の險道(けんどう)を過(すぎ)らんことを念(ねん)ずるのみ。 阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、家(いえ)に在(あ)り居(きょ)して受(う)くる所(ところ)の諸欲(しょよく)をも、皆(みな)過惡(かあく)と見(み)て心(こころ)貪惜(とんじゃく)せず。邪命(じゃみょう)・非法(ひほう)を以(もっ)て自(みずか)ら活(い)けず。寧(むし)ろ身命(しんみょう)を失(う)うとも人(ひと)を侵(おか)さず。 何(いかん)が故(ゆえ)に。菩薩(ぼさつ)は在(ざい)家(け)に在(あ)りて應(まさ)に衆生(しゅじょう)を安樂(あんらく)ならしむべければなり。復(また)在(ざい)家(け)に在(あ)りて而(しか)も能(よ)く如是(かくのごとき)の功徳(くどく)を成就(じょうじゅ)す。何(いかん)が故(ゆえ)に。般若波羅蜜(hanniにはらみつ)の力(ちから)を得(う)るが故(ゆえ)なり。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)には執金剛神(しつこんごうしん)常(つね)に隨(したが)って侍衞(じえ)し、非人(ひにん)をして近(ちか)づかしめず。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は心(こころ)狂亂(きょうらん)せず、諸根(しょこん)具足(ぐそく)して所缺減(しょけつげん)すること無し。賢善行(けんぜんぎょう)を修(しゅ)して不賢善(ふけんぜん)ならず。呪術(じゅじゅつ)・藥草(やくそう)を以(もっ)て女人(にょにん)を引接(いんじょう)せず、身(み)自(みずか)ら爲(な)さず亦(また)他(た)に教(おし)えず。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は常(つね)に淨命(じょうみょう)を修(しゅ)し、吉凶(きっきょう)を占(うらな)わず、亦(また)人(ひと)の生(う)まれて男(おとこ)なるか女(おんな)なるかを相(しょう)せず。如是(かくのごとき)等の事(こと)は皆(みな)之(これ)を爲(な)さず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

[書き下し文]

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)に復(また)相貌(そうみょう)有(あ)り。今(いま)當(まさ)に之(これ)を説(と)くべし。 須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、世間(せけん)の雜事(ぞうじ)・官事(かんじ)・戰鬪(せんとう)の事(こと)・寇賊(こうぞく)の事(こと)・城邑(じょうゆう)聚落(じゅらく)の事(こと)・象馬車乘(ぞうばしゃじょう)・衣服(えぶく)・飮食(おんじき)・臥具(がぐ)の事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。華香(けこう)・女人(にょにん)・婬女(いんじょ)の事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。神龜(じんき)の事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。大海(だいかい)の事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。他(た)を惱(なや)ます事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。種種(しゅじゅ)の事(こと)を説(と)くを樂(この)まず。但(ただ)般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を説(と)くを樂(この)む。常(つね)に薩婆若(さつばにゃ)の心(こころ)に應(おう)ずるを離(はな)れず。鬪訟(とうしょう)を樂(この)まず。心(こころ)常(つね)に法(ほう)を樂(この)んで非法(ひほう)を樂(この)まず。善知識(ぜんちしき)を樂(この)んで冤家(おんけ)を樂(この)まず。諍訟(そうしょう)を和(やわ)らぐるを樂(この)んで讒謗(ざんぼう)を樂(この)まず。佛法(ぶっぽう)の中(なか)に而(しか)も出家(しゅっけ)するを得(う)るを樂(この)む。常(つね)に他方(たほう)の清淨(しょうじょう)の佛國(ぶっこく)に生(しょう)ぜんと欲(ほっ)するを樂(この)む。意(こころ)に隨(したが)って自在(じざい)なり。其(そ)の生(しょう)ずる所(ところ)の處(ところ)に常(つね)に諸佛(しょぶつ)を供養(くよう)するを得(う)。 須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は多(おお)く欲界(よくかい)・色界(しきかい)に於(お)いて命終(みょうじゅう)して、來(きた)りて中國(ちゅうごく)に生(しょう)ず。伎藝(ぎげい)に善(たくみ)にして、經書(きょうしょ)・呪術(じゅじゅつ)・占相(せんそう)を明解(みょうげ)し、悉(ことごと)く能(よ)く了知(りょうち)す。邊地(へんち)に生(しょう)ずること少(すくな)し。若(も)し邊地(へんち)に生(しょう)ずれども必(かなら)ず大國(たいこく)に在(あ)り。如是(かくのごとき)の功徳(くどく)の相貌(そうみょう)有(あ)らば、當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は是(こ)の念(ねん)を作(な)さず、『我(われ)は是(これ)阿惟越致(あゆいっち)なり、非阿惟越致(ひあゆいっち)なり』と。是(こ)の疑(うたが)いを生(しょう)ぜず。 須菩提(しゅぼだい)。自(みずか)ら阿惟越致(あゆいっち)の地(じ)を證(しょう)する者(もの)は終(つい)に復(また)疑(うたが)わず。譬(たと)えば須陀洹(しゅだおん)の證(しょう)する所(ところ)の法(ほう)の中(なか)に於(お)いて心(こころ)に疑(うたが)う所(ところ)無(な)きが如(ごと)し。種種(しゅじゅ)の魔事(まじ)も皆(みな)能(よ)く之(これ)を覺(さと)り、覺(さと)り已(おわ)って隨(したが)わず。菩薩(ぼさつ)も亦(また)如是(かくのごとし)。阿惟越致(あゆいっち)の地(じ)の中(なか)に於(お)いて、心(こころ)に疑(うたが)う所(ところ)無(な)し。種種(しゅじゅ)の魔事(まじ)も皆(みな)能(よ)く之(これ)を覺(さと)り、覺(さと)り已(おわ)って隨(したが)わず。 須菩提(しゅぼだい)。譬(たと)えば人(ひと)に逆罪(ぎゃくざい)有(あ)らば、心(こころ)常(つね)に悔懼(けく)して死(し)に至(いた)るまで捨(す)てず遠離(おんり)する能(あた)わざるが如(ごと)し。如是(かくのごとき)の罪心(ざいしん)、常(つね)に是(こ)の心(こころ)に隨(したが)いて命終(みょうじゅう)するに乃至(ないし)す。 須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)も亦復(またまた)如是(かくのごとし)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)は、心(こころ)常(つね)に阿惟越致(あゆいっち)の地中(じちゅう)に安住(あんじゅう)して動轉(どうてん)す可(べ)からず。一切世間(いっさいせけん)の天(てん)・人(にん)・阿修羅(あしゅら)の壞(やぶ)る所(ところ)の種種(しゅじゅ)の魔事(まじ)も能(よ)く之(これ)を覺(さと)り、覺(さと)り已(おわ)って隨(したが)わず。證(しょう)する所(ところ)の法(ほう)の中(なか)に於(お)いて、其(そ)の心(こころ)決定(けつじょう)して疑惑(ぎわく)する所(ところ)無(な)し。乃至(ないし)轉身(てんしん)するも、聲聞(しょうもん)・辟支佛(びゃくしぶつ)の心(こころ)を生(しょう)ぜず。轉身(てんしん)して亦復(またまた)疑(うたが)わず、『我(われ)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)ず』と。自(みずか)ら證(しょう)する所得(しょとく)の法(ほう)の中(なか)に他(た)の人(ひと)に隨(したが)わず。自(みずか)ら證地(しょうじ)に住(じゅう)して能(よ)く破壞(はえ)する無(な)し。何(いかん)が故(ゆえ)に。不可壞(ふかえ)の智慧(ちえ)を成就(じょうじゅ)せるが故(ゆえ)に、阿惟越致(あゆいっち)の性(しょう)に安住(あんじゅう)す。

須菩提(しゅぼだい)。若(も)し惡魔(あくま)化(け)して佛身(ぶっしん)と作(な)り、阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)の所(みもと)に至(いた)りて是(こ)の言(ことば)を作(な)さく、『善男子(ぜんなんし)。汝(なんじ)此(こ)の身(み)に於(お)いて阿羅漢(あらかん)を證(しょう)す可(べ)し。何(なに)を用(もっ)てか阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と爲(な)さん。何(いかん)が故(ゆえ)に。菩薩(ぼさつ)は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)る相貌(そうみょう)を成就(じょうじゅ)すれども、汝(なんじ)には是(こ)の相(そう)無(な)し』と。

須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)、是(こ)の語(ことば)を聞(き)くも心(こころ)動異(どうい)せず。即(すなわ)ち是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、 『是(これ)若(も)しは惡魔(あくま)、若(も)しは魔(ま)の使(つか)わす所(ところ)なり、佛(ほとけ)の説(と)く所(ところ)に非(あら)ず。若(も)し佛(ほとけ)の説(と)く所(ところ)ならば異(こと)なること有(あ)るべからず』と。若(も)し菩薩(ぼさつ)、能(よ)く如是(かくのごと)く念(ねん)ぜば、『是(こ)の魔(ま)、身(み)を變(へん)じて佛(ほとけ)と作(な)り、我(われ)をして般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を遠離(おんり)せしめんと欲(ほっ)す』と、魔(ま)若(も)し還(かえ)って隱沒(おんもつ)せば、當(まさ)に知(し)るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)は已(すで)に先佛(せんぶつ)に於(お)いて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記(き)を受(う)くるを得(え)、阿惟越致(あゆいっち)の地中(じちゅう)に安住(あんじゅう)す。何(いかん)が故(ゆえ)に。是(こ)の人(ひと)には阿惟越致(あゆいっち)の相貌(そうみょう)有(あ)ればなり。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)、法(ほう)を護(まも)らんが爲(ため)に身命(しんみょう)を惜(お)しまず。正法(しょうぼう)の爲(ため)の故(ゆえ)に精進(しょうじん)を行(ぎょう)ず。 是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、『我(われ)、但(ただ)過去現在(かこげんざい)の諸佛(しょぶつ)の正法(しょうぼう)を護(まも)るのみならず、亦復(またまた)當(まさ)に未來世(みらいせ)の中(なか)の諸佛(しょぶつ)の正法(しょうぼう)をも護(まも)るべし。我(われ)も亦(また)當(まさ)に未來(みらい)の數中(すうちゅう)に在(あ)りて記(き)を受(う)くるを得(う)べし。我(われ)則(すなわ)ち自(みずか)ら法(ほう)を守護(しゅご)す』と。 是(こ)の菩薩(ぼさつ)、是(こ)の利(り)を見(み)るが故(ゆえ)に正法(しょうぼう)を守護(しゅご)し、乃至(ないし)身命(しんみょう)を惜(お)しまず、其(そ)の心(こころ)沒(もっ)せず悔(く)いず。 須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の相貌(そうみょう)を以(もっ)て當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。

復次(またつぎに)須菩提(しゅぼだい)。阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)、若(も)し如來(にょらい)より法(ほう)を説(と)くを聞(き)く時(とき)、心(こころ)に疑(うたが)う所(ところ)無(な)し。

須菩提(しゅぼだい)、佛(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、但(ただ)如來(にょらい)の法(ほう)を説(と)くを聞(き)く時(とき)、心(こころ)に疑(うたが)う所(ところ)無(な)きや、聲聞(しょうもん)の人(ひと)の法(ほう)を説(と)くを聞(き)く時(とき)も、亦(また)疑(うたが)う所(ところ)無(な)きや。」

「須菩提(しゅぼだい)。是(こ)の菩薩(ぼさつ)、聲聞(しょうもん)の人(ひと)より法(ほう)を聞(き)く時(とき)も、亦(また)疑(うたが)う所(ところ)無(な)し。何(いかん)が故(ゆえ)に。是(こ)の菩薩(ぼさつ)は諸法(しょほう)の中(なか)に於(お)いて無生忍(むしょうにん)を得(う)るが故(ゆえ)なり。 須菩提(しゅぼだい)。菩薩(ぼさつ)、如是(かくのごとき)の功徳(くどく)の相貌(そうみょう)を成就(じょうじゅ)せば、當(まさ)に知(し)るべし、是(これ)阿惟越致(あゆいっち)の菩薩(ぼさつ)なりと。」

『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六(かんのだいろく)

摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)巻第一(かんだいいち):書き下し文

小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第二:書き下し文

小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第三:書き下し文

『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第四:書き下し文

『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第五:書き下し文

『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六:書き下し文

『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第七(かんのだいしち):書き下し文

『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第八(かんのだいはち):書き下し文

小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第九:書き下し文

小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第十

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