小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第九
後秦(こうしん)の亀茲国(きじこく)の三蔵(さんぞう)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳
称揚菩薩品(しょうようぼさつほん) 第二十三
爾(その)時、須菩提(しゅぼだい)、仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊、菩薩(ぼさつ)は般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を行(ぎょう)ずるは、即(すなわ)ち是(こ)れ甚深(じんじん)の義を行ずるなり。」
仏、言(のたま)わく、「如是如是(にょぜにょぜ)。須菩提、菩薩は般若波羅蜜を行ずるは、即ち是れ甚深の義を行ずるなり。須菩提、菩薩の所為(しょい)は甚(はなは)だ難(かた)し。甚深の義を行じて、而(しか)も是(こ)の義を証(しょう)せず。所謂(いわゆる)、若(も)しくは声聞地(しょうもんじ)、若しくは辟支仏地(びゃくしぶつじ)なり。」
須菩提言さく、「世尊、我れ仏の所説の義を解(げ)するが如(ごと)きは、菩薩の所行(しょぎょう)は難からず。何を以(もっ)ての故に。証を取る者は不可得(ふかとく)なり。用(もっ)て証を取る所の法も亦(また)た不可得なり。証する所の法も亦た不可得なり。若し菩薩、是(かく)の如き説を聞きて、驚かず、怖(おじ)ず、没(もっ)せず、退(しりぞ)かずんば、当(まさ)に知るべし、是の菩薩は般若波羅蜜を行じ、亦た我れ般若波羅蜜を行ずと見ず。是の如く亦た分別(ふんべつ)せず。当に知るべし、是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に近(ちか)づき、声聞・辟支仏地を遠離(おんり)すと。
世尊、譬(たと)えば虚空(こくう)の如し。是れ遠し是れ近しと、是の念を作(な)さず。何を以ての故に。虚空は無分別(むふんべつ)なるが故に。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如し。声聞・辟支仏地は我れを去ること遠く、阿耨多羅三藐三菩提は我れを去ること近しと、是の念を作さず。何を以ての故に。般若波羅蜜は無分別なるが故に。
世尊、譬えば幻(げん)の化(け)する所の人(にん)の如し。幻師(げんし)は我れを去ること近く、観者(かんじゃ)は我れを去ること遠しと、是の念を作さず。何を以ての故に。世尊、幻の化する所の人は無分別なるが故に。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如くして是の念を作さず。声聞・辟支仏地は我れを去ること遠く、阿耨多羅三藐三菩提は我れを去ること近しと。何を以ての故に。般若波羅蜜は無分別なるが故に。
世尊、譬えば影(かげ)の如し。所因(しょいん)は我れを去ること近く、余事(よじ)は我れを去ること遠しと、是の念を作さず。何を以ての故に。影は無分別なるが故に。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如し。声聞・辟支仏地は我れを去ること遠く、阿耨多羅三藐三菩提は我れを去ること近しと、是の念を作さず。何を以ての故に。般若波羅蜜は無分別なるが故に。
世尊、如来(にょらい)に憎(にく)む無く愛(あい)する無きが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く憎む無く愛する無し。世尊、如来に諸(もろもろ)の分別無きが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く諸の分別無し。
世尊、如来の化する所の人、声聞・辟支仏地は我れを去ること遠く、阿耨多羅三藐三菩提は我れを去ること近しと、是の念を作さざるが如し。何を以ての故に。如来の化する所の人は無分別なるが故に。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如し。声聞・辟支仏地は我れを去ること遠く、阿耨多羅三藐三菩提は我れを去ること近しと、是の念を作さず。何を以ての故に。般若波羅蜜は無分別なるが故に。
世尊、如来の化する所の人、事(こと)に随(したが)いて能(よ)く作(な)して而も分別無きが如し。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如し。修習(しゅじゅう)する所に随いて皆な能く成弁(じょうべん)して而も分別する所無し。
世尊、譬えば工匠(こうしょう)、機関(きかん)の木人(もくじん)の若(も)しくは男(なん)、若しくは女(にょ)に於(お)いて、為(な)す所の事に随いて皆な能く成弁して而も分別無きが如し。世尊、般若波羅蜜も亦た是の如し。修習する所に随いて皆な能く成弁して而も分別無し。」
須菩提、仏に白して言さく、「世尊、菩薩、般若波羅蜜を行ずるは、即ち是れ堅固(けんご)の義を行ずるなり。」
仏、須菩提に告(つ)ぐ、「菩薩、般若波羅蜜を行ずるは、即ち是れ堅固の義を行ずるなり。」
[書き下し文]
爾(その)時(とき)、欲界(よくかい)の諸(もろもろ)の天子(てんし)、是(こ)の念(ねん)を作(な)さく、(「若(も)し人(ひと)、阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を発(おこ)し、能(よ)く是(かく)の如(ごと)き深般若波羅蜜(じんはんにゃはらみつ)を行(ぎょう)じて、而(しか)も実際(じっさい)を証(しょう)して声聞地(しょうもんじ)若(も)しくは辟支仏地(びゃくしぶつじ)に堕(だ)せずんば、当(まさ)に知るべし、是(こ)の菩薩(ぼさつ)の所為(しょい)は甚(はなは)だ難(かた)く、一切世間(いっさいせけん)の敬礼(きょうらい)すべき所(ところ)なり」と。)
須菩提(しゅぼだい)、諸の天子に語(かた)らく、「菩薩、深般若波羅蜜を行じて、而も証(しょう)を取(と)らざるは、以(もっ)て難(かた)しと為(な)すに足(た)らず。若し菩薩、無量無辺(むりょうむへん)の衆生(しゅじょう)の為(ため)の故(ゆえ)に大荘厳(だいしょうごん)を発(おこ)すに、而も衆生は畢竟(ひっきょう)じて不可得(ふかとく)なり。度(ど)すべき所(ところ)の者(もの)も不可得なり。而も能(よ)く、我(われ)当(まさ)に之(これ)を度すべしと発心(ほっしん)せば、爾(すなわ)ち乃(すなわ)ち難しと為す。諸の天子、是(こ)の人、衆生を度せんと欲(ほっ)するは、虚空(こくう)を度せんと欲するが為なり。何を以ての故に。虚空は離(り)なるが故に、衆生も亦(また)た離なり。是(こ)の故に当に知るべし、是の菩薩の所為は甚だ難しと。衆生無くして而も衆生の為に大荘厳を発するは、人(ひと)、虚空と共(とも)に闘(たたか)うが如(ごと)し。
仏(ほとけ)の説(と)く衆生は不可得なり。衆生は離なるが故に、度すべき者も亦た離なり。衆生は離なるが故に、色(しき)も亦た離なり。衆生は離なるが故に、受想行識(じゅ・そう・ぎょう・しき)も亦た離なり。衆生は離なるが故に、一切法(いっさいほう)も亦た離なり。若し菩薩、是(かく)の如きの説を聞(き)きて、驚(おどろ)かず、怖(おじ)ず、没(もっ)せず、退(しりぞ)かずんば、当に知るべし、是(れ)を般若波羅蜜を行ずと為す」と。
仏、須菩提に問(と)う、「菩薩は何の因縁(いんねん)の故に、驚かず怖ず没せず退かざる」と。
須菩提、言(もう)さく、「世尊(せそん)、空(くう)なるが故に没せず。無所有(むしょう)なるが故に没せず。何を以ての故に。没する者は不可得なり。没する法も亦た不可得なり。没する処(ところ)も亦た不可得なり。若し菩薩、是の如きの説を聞きて、驚かず怖ず没せず退かずんば、当に知るべし、是を般若波羅蜜を行ずと為す」と。
仏、言(のたま)わく、「須菩提、菩薩、是の如く般若波羅蜜を行ずれば、釈提桓因(しゃくだいかんいん)と梵天王(ぼんてんのう)、衆生主(しゅじょうしゅ)、自在天王(じざいてんのう)及(およ)び諸の天子は、皆(みな)な共(とも)に敬礼す。
須菩提、但(た)だ釈提桓因、梵天王、衆生主、自在天王及び諸の天子のみ、是の般若波羅蜜を行ずる菩薩を敬礼するのみにあらず。梵世(ぼんせ)の諸天(しょてん)、梵輔天(ぼんほてん)、梵衆天(ぼんしゅてん)、大梵天(だいぼんてん)、光天(こうてん)、少光天(しょうこうてん)、無量光天(むりょうこうてん)、光音天(こうおんてん)、浄天(じょうてん)、少浄天(しょうじょうてん)、無量浄天(むりょうじょうてん)、遍浄天(へんじょうてん)、無陰天(むおんてん)、福生天(ふくしょうてん)、広果天(こうかてん)、無広天(むこうてん)、無熱天(むねつてん)、妙見天(みょうけんてん)、善見天(ぜんけんてん)、無小天(むしょうてん)上(じょう)の諸天も、皆な是の般若波羅蜜を行ずる菩薩を敬礼す。
須菩提、今現在(いまげんざい)の無量阿僧祇(むりょうあそうぎ)世界(せかい)の諸仏(しょぶつ)も、皆な是の般若波羅蜜を行ずる菩薩を念(ねん)ず。須菩提、若し菩薩、般若波羅蜜を行ずる時(とき)、諸仏の念ずる所(ところ)と為(な)らば、当に知るべし、是の菩薩は即(すなわ)ち是れ阿毘跋致(あびばっち)なり。
須菩提、仮令(たとい)恒河沙(ごうがしゃ)等(ら)の世界の衆生、皆な悪魔(あくま)と作(な)り、一一(いちいち)に化(け)して爾所(そこばく)の悪魔と作るも、是の諸の悪魔も皆な是の般若波羅蜜を行ずる菩薩を壊(やぶ)るに能(た)わず。須菩提、菩薩、二法(にほう)を成就(じょうじゅ)せば、悪魔も壊るに能わず。何等(なんら)かを二と為す。一には一切法は空(くう)なりと観(かん)ず。二には一切の衆生を捨(す)てず。菩薩、是の二法を成就せば、悪魔も壊るに能わず」と。
[書き下し文]
須菩提(しゅぼだい)、復(ま)た二法(にほう)有(あ)り、悪魔(あくま)も壊(やぶ)るに能(た)わず。何等(なんら)かを二と為(な)す。一には説(せつ)に随(したが)って能(よ)く行(ぎょう)ず。二には諸仏(しょぶつ)の念(ねん)ずる所(ところ)なり。菩薩(ぼさつ)、是(こ)の二法を成就(じょうじゅ)せば、諸天(しょてん)、皆(みな)な来(きた)りて供養(くよう)し恭敬(くぎょう)し請(しょう)問(もん)し安慰(あんい)す。「善男子(ぜんなんし)、汝(なんじ)、是の行を行(ぎょう)ずれば、当(まさ)に疾(と)く仏道(ぶつどう)を得(う)べし。汝、是の行を行ずれば、救(すくい)無(な)き衆生(しゅじょう)の為(ため)に当(まさ)に救と作(な)るべく、舎(いえ)無き衆生の為に当に舎と作るべく、依(よりどころ)無き衆生の為に当に依と作るべく、洲(しま)無き衆生の為に当に洲と作るべく、究竟(くきょう)の道(どう)無き衆生の為に当に究竟の道と作るべく、帰(き)無き衆生の為に当に帰と作るべく、明(みょう)無き衆生の為に光明(こうみょう)と作るべく、趣(おもむき)無き衆生の為に当に趣と作るべし」と。何を以(もっ)ての故(ゆえ)に。是の菩薩、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の行を行じ、是の四功徳(しくどく)を成就するが故なり。
現在(げんざい)十方(じっぽう)無量無辺(むりょうむへん)阿僧祇(あそうぎ)世界(せかい)の諸仏、比丘僧(びくそう)と囲繞(いにょう)して説法(せっぽう)する時(とき)、悉(ことごと)く皆な称揚(しょうよう)讃嘆(さんだん)して其(そ)の名字(みょうじ)を説(と)く。須菩提、譬(たと)えば我(わ)れ今(いま)、実相菩薩(じっそうぼさつ)を称揚讃嘆して其の名字を説き、及(およ)び余(よ)の菩薩の、阿閦仏(あしゅくぶつ)の所(みもと)に於(お)いて、梵行(ぼんぎょう)を修行(しゅぎょう)して是の般若波羅蜜の行を離(はな)れざる者(もの)を説くが如(ごと)し。是(かく)の如く須菩提、今現在の十方の諸仏も、亦(また)た皆な称揚讃嘆して、我(が)が国中(こくちゅう)の諸の菩薩の梵行を修行して般若波羅蜜の行を離れざる者の名(な)を説く。
須菩提、仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、一切(いっさい)の諸仏、説法の時、普(あまね)く皆な諸の菩薩を称揚讃嘆するや不(いな)や。」
仏、言(のたま)わく、「不なり、須菩提。諸仏、説法の時、称賛(しょうさん)する者も有(あ)り、称賛せざる者も有り。須菩提、諸仏、説法の時、諸の阿毘跋致(あびばっち)菩薩を称揚讃嘆す。」
須菩提、言さく、「世尊、未(いま)だ阿毘跋致を得(え)ざる者も、諸仏、説法の時、亦た皆な称揚讃嘆するや不や。」
仏、言わく、「須菩提、未だ阿毘跋致を得ざる者も、諸仏、亦た称揚讃嘆する者有り。何者(いかん)が是(こ)れなるや。能く阿閦仏の菩薩と為(な)りし時の所行(しょぎょう)の道(どう)に随学(ずいがく)する者なり。是の如きの菩薩は、未だ阿毘跋致を得ずと雖(いえど)も、亦た諸仏の称揚讃嘆する所(ところ)と為(な)る。須菩提、能く実相菩薩の所行の道に随学する者有り。是の如きの菩薩は、未だ阿毘跋致を得ずと雖も、亦た諸仏の称揚讃嘆する所と為る。
復次(またつぎ)に須菩提。菩薩の般若波羅蜜を行ずる有りて、一切法(いっさいほう)の無生(むしょう)なるを信解(しんげ)するも、而(しか)も未だ無生法忍(むしょうほうにん)を得ず。一切法の空(くう)なるを信解するも、而も阿毘跋致地(あびばっちじ)の中(なか)に於いて未だ自在(じざい)を得ず。能く一切法の寂滅相(じゃくめつそう)を行ずるも、而も未だ阿毘跋致地に入(い)らず。須菩提、菩薩、是の如く行ずる者は、諸仏の説法の時、亦た皆な称揚讃嘆す。未だ阿毘跋致を得ずして、而も諸仏の説法の時、称揚讃嘆する所と為る者は、則(すなわ)ち声聞(しょうもん)・辟支仏地(びゃくしぶつじ)を離れ、仏地(ぶつじ)に近(ちか)づき、必(かなら)ず阿耨多羅三藐三菩提記(あのくたらさんみゃくさんぼだいき)を得。
須菩提、若(も)し菩薩、般若波羅蜜を行じて、諸仏、説法の時、称揚讃嘆せば、当に知るべし、是の菩薩は必ず阿毘跋致に至(いた)らん」と。
[書き下し文]
摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ) 嘱累品(ぞくるいほん) 第二十四
仏(ほとけ)、須菩提(しゅぼだい)に告(つ)ぐ、「若(も)し菩薩(ぼさつ)、是(こ)の甚深(じんじん)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を聞(き)きて、信解(しんげ)して疑(うたが)わず悔(く)いず難(かた)しとせずんば、是の菩薩は当(まさ)に阿閦仏(あしゅくぶつ)及(およ)び諸(もろもろ)の菩薩の所(みもと)に於(お)いて、深般若波羅蜜を聞きて亦(また)た復(ま)た信解すべし。須菩提、菩薩、若し能(よ)く仏の説(と)く所の般若波羅蜜の如(ごと)く信解せば、是の人(ひと)は必(かなら)ず阿毘跋致(あびばっち)に至(いた)らん。須菩提、若し人、但(た)だ般若波羅蜜を聞くのみなるも、尚(なお)お饒益(にょうやく)を得(う)。何(いか)に況(いわん)や信解して説く所の如く行(ぎょう)ぜんをや。当に薩婆若(さつばにゃ)に住(じゅう)すべし」と。
須菩提、仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊(せそん)、若し如(にょ)を離(はな)れて更(さら)に得(う)べき法(ほう)無(な)くんば、誰(たれ)か当に薩婆若に住すべき。誰か当に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べき。誰か当に説法(せっぽう)すべき」と。
仏、須菩提に告ぐ、「汝(なんじ)が問(と)う所、如を離れて更に得べき法無くんば、誰か当に薩婆若に住すべき、誰か当に阿耨多羅三藐三菩提を得べき、誰か当に説法すべきとは。如是如是(にょぜにょぜ)。須菩提、如を離れて更に如の中(なか)に住(じゅう)する法無し。如は尚お不可得(ふかとく)なり。何に況や如に住する者(もの)をや。如は阿耨多羅三藐三菩提を得(う)る能(あた)わず。如を離れても亦た阿耨多羅三藐三菩提を得る能わず。如は説法する者無し。如を離れても亦た説法する者無し」と。
爾(その)時(とき)、釈提桓因(しゃくだいかんいん)、仏に白して言さく、「世尊、如に住する者無く、阿耨多羅三藐三菩提を得る者無く、説法する者無くして、而(しか)も菩薩は是の深法(じんぽう)を聞きて、疑わず悔いず難しとせずして、而も阿耨多羅三藐三菩提を得(え)んと欲(ほっ)す。是(れ)を甚(はなは)だ難しと為(な)す」と。
須菩提、釈提桓因に語(かた)らく、「憍尸迦(きょうしか)、所説の如く、菩薩は是の深法を聞きて、疑わず悔いず難しとせずして、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲するを、是を甚だ難しと為すとは。憍尸迦、一切法(いっさいほう)は空(くう)なり。此(こ)の中(なか)に誰か当に疑い悔い難しとする者ならん」と。
釈提桓因、須菩提に語らく、「所説の如きは、皆(みな)な空に因(よ)りて而も礙(さわり)有る所無し。譬(たと)えば虚空(こくう)を仰(あお)ぎ射(い)るに、矢(や)の去(ゆ)くに礙無きが如し。須菩提、所説の無礙(むげ)なるも亦た是の如し」と。
爾時、釈提桓因、仏に白して言さく、「世尊、我(われ)是の如く説き是の如く答(こた)う。為(はた)して如来(にょらい)の説に随(したが)い、法に随いて答うるや不(いな)や」と。
仏、釈提桓因に告ぐ、「憍尸迦、汝、是の如く説き是の如く答うるは、為して如来の説に随い、為して法に随いて答う。皆な正答(しょうとう)と為す。
憍尸迦、須菩提の所説は皆な空に因(よ)る。須菩提は尚お般若波羅蜜を得る能わず。何に況や般若波羅蜜を行ずる者をや。尚お阿耨多羅三藐三菩提を得ず。何に況や阿耨多羅三藐三菩提を得る者をや。尚お薩婆若を得ず。何に況や薩婆若を得る者をや。尚お如を得ず、何に況や如を得る者をや。尚お無生(むしょう)を得ず、何に況や無生を得る者をや。尚お諸力(しょりき)を得ず。何に況や諸力を得る者をや。尚お無所畏(むしょい)を得ず。何に況や無所畏を得る者をや。尚お法を得ず。何に況や説法する者をや。
憍尸迦、須菩提は常(つね)に遠離(おんり)を楽(ねが)い、無所得(むしょとく)の行(ぎょう)を楽う。憍尸迦、是の須菩提の所行(しょぎょう)は、菩薩の所行に於いて、百分(ひゃくぶん)にも一(いち)に及(およ)ばず。百千万億分(ひゃくせんまんおくぶん)にも一に及ばず。乃至(ないし)算数(さんすう)譬喩(ひゆ)も及ぶこと能(あた)わざる所なり。憍尸迦、唯(た)だ如来の所行を除(のぞ)く。菩薩の般若波羅蜜を行ずるは、余(よ)の行中(ぎょうちゅう)に於いて最大(さいだい)最勝(さいしょう)最上(さいじょう)最妙(さいみょう)なり。菩薩の所行は亦た声聞(しょうもん)・辟支仏(びゃくしぶつ)の所行に於いても、最大最勝最上最妙なり。是の故に憍尸迦、若し人、一切の衆生(しゅじょう)の中において最上ならんと欲せば、当に菩薩の所行の般若波羅蜜を行ずべし」と。
爾時、会中(えちゅう)の忉利(とうり)の諸天子(しょてんし)、天(てん)の曼陀羅華(まんだらけ)を以(もっ)て仏の上(うえ)に散(さん)ず。六百の比丘(びく)、座(ざ)よりして起(た)ち、偏(へん)に右の肩(かた)を袒(ぬ)ぎ、右の膝(ひざ)を地(ち)に著(つ)け、合掌(がっしょう)して仏に向(むか)う。仏の神力(じんりき)の故に花(はな)悉(ことごと)く掬(きく)に満(み)つ。即ち此(こ)の華(はな)を以て仏の上に散ず。散じ已(おわ)りて是の言(ことば)を作(な)さく、「世尊、我等(われら)皆な当に是の上行(じょうぎょう)を行ずべし」と。
仏、即ち微笑(みしょう)す。諸仏の常法(じょうほう)、若し微笑する時は、青・黄・赤・白(しょう・おう・しゃく・びゃく)、無量(むりょう)の色光(しきこう)、口(くち)よりして出(い)づ。是の諸(もろもろ)の光明(こうみょう)、無量無辺(むりょうむへん)の世界を遍(あまね)く照(てら)し、上(かみ)は梵天(ぼんてん)に至(いた)り、還(かえ)りて身(み)を繞(めぐ)ること三匝(さんそう)して頂上(ちょうじょう)より入(い)る。
阿難(あなん)、即ち座よりして起ち、偏に右の肩を袒ぎ、右の膝を地に著け、合掌して仏に向い、仏に白して言さく、「世尊、何の因縁(いんねん)の故に微笑する。諸仏は無因縁を以て笑(え)みたまわず」と。
仏、阿難に告ぐ、「是の六百の比丘、当に星宿劫(しょうしゅくこう)に於いて仏と成(な)るを得べし、同(おな)じく散花(さんけ)と号(ごう)せん。阿難、是の諸の如来の比丘僧(びくそう)の数(かず)、悉く皆な同等(どうとう)なり。寿命(じゅみょう)も亦た等(ひと)しく、倶(とも)に二万劫(にまんこう)ならん。彼(か)の諸の比丘、是(これ)より已後(いご)、生(しょう)ずる所の処(ところ)に在(あ)りて、常(つね)に出家(しゅっけ)することを得ん。其(そ)の世界は常に五色(ごしき)の好華(こうけ)を雨(ふ)らさん。是の故に阿難、若し人、上行(じょうぎょう)を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を行ずべし。若し菩薩、如来の行を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を行ずべし」と。
[書き下し文]
阿難(あなん)、若(も)し菩薩(ぼさつ)、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を行(ぎょう)ぜば、当(まさ)に知るべし、是(こ)の人(ひと)は人間(にんげん)より命終(みょうじゅう)して、若しくは兜術天上(とじゅつてんじょう)に於(お)いて命終して人間(にんげん)に来生(らいしょう)す。何を以(もっ)ての故(ゆえ)に。人中(にんちゅう)と兜術天上とは、般若波羅蜜を行ずること易(やす)きが故なり。
阿難、若し菩薩、般若波羅蜜を行じ、信楽(しんぎょう)し受持(じゅじ)し読誦(どくじゅ)し書写(しょしゃ)し、書写し已(おわ)りて般若波羅蜜を以て、諸余(しょよ)の菩薩に示教利喜(じきょうりき)せば、当に知るべし、是の人は如来(にょらい)の見る所(ところ)と為(な)り、当に知るべし、是の人は諸仏(しょぶつ)の所(みもと)に於いて諸(もろもろ)の善根(ぜんこん)を種(う)え、弟子(でし)の所に於いて善根を種えざるなり。
阿難、若し菩薩、般若波羅蜜を学(がく)して、驚(おどろ)かず畏(おそ)れず、信楽受持読誦して所説(しょせつ)の如(ごと)く行(ぎょう)ぜば、当に知るべし、是の人は現在(げんざい)の仏(ほとけ)の所に至(いた)る。若し般若波羅蜜を信(しん)じて、謗(そし)らず逆(さから)わざる有(あ)らば、当に知るべし、是の人は已(すで)に諸仏を供養(くよう)せり。阿難、若し人、仏の所に於いて善根を種え、阿羅漢(あらかん)・辟支仏(びゃくしぶつ)を求(もと)むれば、是の善根は虚(むな)しからず、亦(また)た般若波羅蜜を離(はな)れず。是(こ)の故に阿難、我(われ)今(いま)般若波羅蜜を以て汝(なんじ)に嘱累(ぞくるい)す。
阿難、我(が)が説く所の法(ほう)、唯(た)だ般若波羅蜜を除(のぞ)き、受持する所有りて、若し忘失(もうしつ)するも其(そ)の過(とが)は尚(なお)お少(すくな)し。汝、若し般若波羅蜜を受持して、乃至(ないし)一句(いっく)を忘失せば、其の過は甚(はなは)だ重(おも)し。是の故に阿難、我れ般若波羅蜜を以て汝に嘱累す。汝が聞(き)き受持する所、皆な応(まさ)に読誦し悉(ことごと)く通利(つうり)せしめ、善(よ)く念(ねん)じて心(こころ)に在(お)き、当(まさ)に章句(しょうく)をして分明(ふんみょう)ならしむべし。何を以ての故に。般若波羅蜜は是れ過去(かこ)未来(みらい)現在(げんざい)の諸仏の法蔵(ほうぞう)なるが故なり。
阿難、若し人、今現在に於いて、慈心(じしん)を以て恭敬(くぎょう)して我を供養せんと欲(ほっ)せば、是の人は当に是の心を以て般若波羅蜜を供養し受持読誦して所説の如く行ずべし。即(すなわ)ち是れ我を供養するなり。阿難、是の人は但(た)だ我を供養するのみならず、亦た過去未来現在の諸仏を恭敬供養する所と為る。阿難、汝、若し我を愛重(あいじゅう)して捨(す)てずんば、亦た応に是(かく)の如く般若波羅蜜を愛重して捨てず、乃至一句も慎(つつし)んで忘失すること莫(なか)るべし。
阿難、我れ般若波羅蜜を嘱累する因縁(いんねん)の故の為(ため)に、若し一劫(いっこう)、百劫、千万億那由他劫(せんまんおくなゆたこう)、乃至恒河沙(ごうがしゃ)等(ら)の劫(こう)に於いて説くも尽(つ)くすべからず。阿難、今但だ略説(りゃくせつ)せん。我れ今大師(だいし)と為るが如く、過去現在の十方(じっぽう)の諸仏も、一切世間(いっさいせけん)の天(てん)・人(にん)・阿修羅(あしゅら)の中(なか)に於いて、亦た大師と為る。般若波羅蜜も亦た一切世間の天・人・阿修羅の中に於いて、而も大師と作(な)る。是の如き等の無量(むりょう)の因縁有るが故に、我れ一切世間の天・人・阿修羅の中に於いて、般若波羅蜜を以て汝に嘱累す」と。
仏、阿難に告(つ)ぐ、「若し人、仏を愛重し、法を愛重し、僧(そう)を愛重し、過去未来現在の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を愛重せば、当に是の愛重を以て般若波羅蜜を愛重すべし。此(こ)れ則ち是れ我が教化(きょうけ)を用(もっ)てする所なり。阿難、若し人有りて般若波羅蜜を受持読誦せば、当に知るべし、是の人は則ち過去未来現在の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提を受持する所と為る。
阿難、般若波羅蜜の断絶(だんぜつ)せんと欲する時、若し護助(ごじょ)せんと欲する者は、是の人は則ち是れ過去未来現在の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提を護助するなり。何を以ての故に。阿難、諸仏の阿耨多羅三藐三菩提は、皆(みな)な般若波羅蜜より生(しょう)ず。阿難、若し過去の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提も、皆な般若波羅蜜より生じ、未来の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提も、亦た般若波羅蜜より生じ、現在の無量阿僧祇世界(むりょうあそうぎせかい)の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提も、亦た般若波羅蜜より生ずるが故なり。
是の故に阿難、若し菩薩、阿耨多羅三藐三菩提を得(え)んと欲せば、当に善く六波羅蜜(ろくはらみつ)を学すべし。何を以ての故に。阿難、諸(もろもろ)の波羅蜜は是れ諸の菩薩の母(はは)にして、能(よ)く諸仏を生ず。若し菩薩、是の六波羅蜜を学せば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得(う)べし。是の故に阿難、我れ六波羅蜜を以て重(かさ)ねて汝に嘱累す。何を以ての故に。是の六波羅蜜は是れ諸仏の無尽法蔵(むじんほうぞう)なるが故なり。
阿難、汝、若し小乗法(しょうじょうほう)に因(よ)りて小乗人(しょうじょうにん)の為に説き、三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の衆生(しゅじょう)、皆な是の法を以て阿羅漢を証(しょう)するも、汝、弟子と為りての功徳(くどく)は蓋(けだ)し少(すくな)くして言うに足(た)らず。若し六波羅蜜を以て菩薩の為に説かば、汝、弟子と為りての功徳は具足(ぐそく)して、我は則ち喜悦(きえつ)せん。阿難、若し人、是の小乗法を以て、三千大千世界の衆生に教(おし)え、阿羅漢の証を得せしめば、是の諸の布施持戒修善(ふせじかいしゅぜん)の福徳(ふくとく)、寧(あんぞ)ぞ多(おお)しと為さんや不(いな)や」と。
阿難、言(もう)さく、「甚(はなは)だ多し、世尊(せそん)」と。
仏、阿難に告ぐ、「是の福、多しと雖(いえど)も、声聞人(しょうもんにん)の、菩薩の為に般若波羅蜜を説き、乃至一日(いちにち)なるには如(し)かず。其(そ)の福、甚だ多し。阿難、此の一日を置(お)け、若し旦(あした)より食時(じきじ)に至るなるをも。旦より食時に至るなるを置け、乃至、一漏刻(いちろうこく)の傾(ころ)なるをも。是の一漏刻の傾を置け、乃至、須臾(しゅゆ)の間、菩薩の為に説法(せっぽう)するをも。是の人、一切の声聞・辟支仏の善根福徳に於いて、相い比(くら)ぶべからず。若し菩薩、是(かく)の如く行じ是の如く念ぜば、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、退転(たいてん)すという者は是の処(ことわり)有る無し」と。
摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ) 見阿閦仏品(けんあしゅくぶつほん) 第二十五
仏、般若波羅蜜を説く。是(その)時(とき)、会中(えちゅう)の四衆(ししゅ)、比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)、天・竜(りゅう)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらが)、人・非人(ひにん)等、仏の神力(じんりき)の故に、阿閦仏(あしゅくぶつ)の大会中(だいえちゅう)に在(あ)りて、恭敬囲繞(くぎょういにょう)して為に説法するを見る。大海(だいかい)の水(みず)の移動(いどう)すべからざるが如(ごと)し。時に諸の比丘は皆な阿羅漢なり。諸漏已尽(しょろういじん)し、復(ま)た煩悩(ぼんのう)無く、心(こころ)、自在(じざい)を得たり。及び諸の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、其(そ)の数(かず)無量なり。仏、神力を摂(おさ)めれば、大会の四衆等は、皆な復た阿閦如来(あしゅくにょらい)及び声聞・菩薩、国界(こっかい)の厳飾(ごんじき)を見ず。
仏、阿難に告ぐ、「一切法(いっさいほう)も亦た是の如し。眼(まなこ)と対(たい)と作(な)らず。今、阿閦仏、及び阿羅漢、諸菩薩衆(しょぼさつしゅ)の皆な復た現(げん)ざるが如し。何を以ての故に。法(ほう)は法を見ず、法は法を知らず。阿難、一切法は、知(しる)者(もの)に非(あら)ず、見(みる)者に非ず、作(なす)者無く、貪著(とんじゃく)無く、分別(ふんべつ)せざるが故なり。阿難、一切法は不可思議(ふかしぎ)にして、猶(なお)お幻人(げんにん)の如し。一切法は、受(う)くる者無く、堅牢(けんろう)ならざるが故なり。菩薩、是の如く行ずる者を、名(なづ)けて般若波羅蜜を行ずと為す。法に於いても亦た著(じゃく)する所無し。菩薩、是の如く学(がく)する者を、名けて般若波羅蜜を学すと為す。
阿難、若し菩薩、一切法の彼岸(ひがん)到(いた)らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。何を以ての故に。阿難、般若波羅蜜を学するは、諸の学の中に於いて最も第一と為す。諸の世間を安楽(あんらく)し利益(りやく)するが故なり。阿難、是の如く学する者は、依止(えし)なき者の為に依止と作る。是の如く学する者は、諸仏の許(ゆる)す所、諸仏の讃(ほ)むる所なり。諸仏は是の如く学し已りて、能く足(あし)の指(ゆび)を以て三千大千世界を震動(しんどう)す。阿難、諸仏は是の般若波羅蜜を学して、過去未来現在の一切法の中に於いて、無碍(むげ)の知見(ちけん)を得(う)。
阿難、是の故に般若波羅蜜は最上最妙(さいじょうさいみょう)なり。阿難、若し般若波羅蜜を称量(しょうりょう)せんと欲せば、即ち是れ虚空(こくう)を称量するなり。何を以ての故に。是の般若波羅蜜は無量なるが故なり。阿難、我れ、般若波羅蜜に有限(ゆうげん)有量(うりょう)有りと説かず。阿難、名字章句言語(みょうじしょうくごんご)には有量あれども、般若波羅蜜は無量なり」と。
爾(その)時(とき)、須菩提(しゅぼだい)、是の念(ねん)を作(な)さく、「是の事は甚だ深し、我れ当に仏に問うべし」と。即ち仏に白して言さく、「世尊、般若波羅蜜は無尽(むじん)なるや」と。
仏、言(のたま)わく、「須菩提、般若波羅蜜は無尽なり。虚空は無尽なるが故に、般若波羅蜜も無尽なり」と。
須菩提、言さく、「世尊、応(まさ)に云何(いかん)が般若波羅蜜を出生(しゅっしょう)すべき」と。
[書き下し文]
仏(ほとけ)、言(のたま)わく、「須菩提(しゅぼだい)、色(しき)無尽(むじん)なるが故(ゆえ)に是(こ)れ般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を生(しょう)ず。受想行識(じゅそうぎょうしき)無尽なるが故に是れ般若波羅蜜を生ず。
須菩提、菩薩(ぼさつ)、道場(どうじょう)に坐(ざ)する時(とき)、是(かく)の如(ごと)く一(いち)の因縁(いんねん)を観(かん)じて、二辺(にへん)を離(はな)る。是(れ)を菩薩の不共(ふぐ)の法(ほう)と為(な)す。若(も)し菩薩、是の如く因縁の法を観ぜば、声聞(しょうもん)・辟支仏地(びゃくしぶつじ)に堕(だ)せずして、疾(と)く薩婆若(さつばにゃ)に近(ちか)づき必(かなら)ず阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)。須菩提、若し諸(もろもろ)の菩薩に退転(たいてん)する者(もの)有(あ)らば、是の如きの念(ねん)を得ず、菩薩の般若波羅蜜を行(ぎょう)ずるを知(し)らずして、云何(いかん)が無尽の法を以(もっ)て十二因縁(じゅうにいんねん)を観ぜん。須菩提、若し諸の菩薩に退転する者有らば、是の如き方便(ほうべん)の力(ちから)を得ず。須菩提、若し諸の菩薩の退転せざる者は、皆(みな)な是の如き方便の力を得。所謂(いわゆる)、菩薩、般若波羅蜜を行じ、是の如き無尽の法を以て十二因縁を観ずるなり。若し菩薩、是の如く観ずる時、諸法(しょほう)の因縁無(な)くして生ずるを見(み)ず、亦(また)た諸法の常(じょう)なるを見ず、諸法の作者(さしゃ)・受者(じゅしゃ)を見ず。須菩提、是を菩薩、般若波羅蜜を行ずる時に十二因縁の法を観ずと名(なづ)く。
須菩提、若し菩薩、般若波羅蜜を行ずる時、色を見ず、受想行識を見ず、此(こ)の仏世界(ぶつせかい)を見ず、彼(か)の仏世界を見ず。亦た法(ほう)の此の仏世界・彼の仏世界を見る有るを見ず。須菩提、若し菩薩の能(よ)く是の如く般若波羅蜜を行ずる有らば、是の時、悪魔(あくま)憂愁(ゆうしゅう)すること箭(や)の心(こころ)に入(い)るが如く、譬(たと)えば新(あらた)に父母(ふぼ)を喪(うしな)いて甚(はなは)だ大(おお)いに憂毒(ゆうどく)なるが如し。菩薩、亦た是の如く般若波羅蜜を行ずれば、悪魔は甚だ大いに憂毒す」と。
須菩提、言(もう)さく、「世尊(せそん)、但(た)だ一(いち)の悪魔のみ愁毒(しゅうどく)するや、三千世界(さんぜんせかい)の悪魔、皆悉(ことごと)く愁毒するや」と。
仏、言わく、「須菩提、是の諸の悪魔、皆悉く憂毒し、各(おのおの)坐処(ざしょ)に於(お)いて自(みずか)ら安(やす)んずる能(あた)わず。須菩提、菩薩、是の如く般若波羅蜜を行ずれば、一切世間(いっさいせけん)の天(てん)・人(にん)・阿修羅(あしゅら)も、便(たより)を得る能うこと無(な)く、退(しりぞ)くべき法有るを見ず。是の故に須菩提、菩薩、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲(ほっ)せば、当(まさ)に是の如く般若波羅蜜を行ずべし。
菩薩、是の如く般若波羅蜜を行ずる時、則(すなわ)ち檀波羅蜜(だんはらみつ)、尸羅波羅蜜(しらはらみつ)、羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)、毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ)、禅波羅蜜(ぜんはらみつ)を具足(ぐそく)す。菩薩、般若波羅蜜を行ずる時、則ち諸の波羅蜜を具足し、亦た能く方便の力を具足す。是の菩薩、般若波羅蜜を行じて、諸の所作(しょさ)有(あ)りて生(しょう)ずるを、便(すなわ)ち能く知る。是の故に須菩提、菩薩、方便の力を得んと欲する者は、当に般若波羅蜜を学(がく)すべし、当に般若波羅蜜を修(しゅ)すべし。
須菩提、若し菩薩、般若波羅蜜を行じ、般若波羅蜜を生ずる時、応(まさ)に現在(げんざい)の無量無辺(むりょうむへん)世界(せかい)の諸仏(しょぶつ)を念(ねん)ずべし。諸仏の薩婆若(さつばにゃ)の智(ち)は、皆な般若波羅蜜より生ず。菩薩、是の如く念ずる時、応に是の如く思惟(しゆい)すべし、十方(じっぽう)の諸仏の得(う)る所の諸法相(しょほうそう)の如く、我(われ)も亦た当に得べしと。須菩提、菩薩、般若波羅蜜を行じて、応に是の如きの念を生ずべし。
須菩提、若し菩薩、能く是の如きの念を生ずること、乃至(ないし)弾指(だんし)の頃(あいだ)なるも、恒河沙(ごうがしゃ)の劫(こう)の如き布施(ふせ)の福徳(ふくとく)に勝(まさ)れり。何(いか)に況(いわん)や一日(いちにち)半日(はんにち)をや。当に知るべし、是の菩薩は必ず阿毘跋致(あびばっち)に至(いた)らん。当に知るべし、是の菩薩は諸仏の念ずる所(ところ)と為(な)る。須菩提、菩薩、諸仏の念ずる所と為る者は、余処(よそ)に生ぜず。必ず当に阿耨多羅三藐三菩提に立(た)つべし。是の菩薩は終(つい)に三悪道(さんあくどう)に堕(だ)せず、常(つね)に好処(こうしょ)に生じて諸仏を離(はな)れず。
須菩提、菩薩、般若波羅蜜を行じ、般若波羅蜜を生ずること、乃至弾指の頃なるも、是の如きの功徳を得。何に況や一日、若(も)しくは一日を過(す)ぐるをや。香象(こうぞう)菩薩の、今(いま)、阿閦仏(あしゅくぶつ)の所(みもと)に在(あ)りて菩薩の道(どう)を行じ、常に般若波羅蜜の行を離れざるが如し」と。是の法を説く時、諸の比丘衆(びくしゅ)、一切大会(いっさいだいえ)の天・人・阿修羅、皆な大いに歓喜(かんき)しき。
[書き下し文]
摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ) 随知品(ずいちほん) 第二十六
仏(ほとけ)、須菩提(しゅぼだい)に告(つ)ぐ、「一切法(いっさいほう)は無分別(むふんべつ)なり。当(まさ)に知るべし、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)も亦(また)た是(かく)の如(ごと)し。
一切法は無壊(むえ)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は但(た)だ仮名字(けみょうじ)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は言説(ごんせつ)を以(もっ)ての故(ゆえ)に有(あ)り。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
又(ま)た此(こ)の言説も、無所有(むしょう)にして処所(しょしょ)無し。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は虚仮(こけ)にして用(ゆう)と為(な)す。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は無量(むりょう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
色(しき)は無量なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
受想行識(じゅそうぎょうしき)は無量なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は無相(むそう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は通達相(つうだつそう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は本来清浄(ほんらいしょうじょう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は無言説(むごんせつ)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は滅(めつ)に同(おな)じ。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は涅槃(ねはん)の如し。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は不来(ふらい)不去(ふこ)にして生(しょう)ずる所(ところ)無し。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は彼我(ひが)無し。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
賢聖(げんしょう)は畢竟清浄(ひっきょうしょうじょう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切の檐(たん)(※重荷)を捨(す)つ。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。何を以ての故に。色は無形(むぎょう)無処(むしょ)にして、自性(じしょう)無きが故なり。受想行識も無形無処にして、自性無きが故なり。
一切法は無熱(むねつ)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は無染(むぜん)無離(むり)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。何を以ての故に。色は無所有なるが故に無染無離なり。受想行識も無所有なるが故に無染無離なり。
一切法は性清浄(しょうしょうじょう)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は無繋著(むけじゃく)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は是れ菩提覚(ぼだいがく)なり、仏慧(ぶつえ)を以てす。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は空(くう)・無相(むそう)・無作(むさ)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は是れ薬(くすり)なり、慈心(じしん)を首(しゅ)と為す。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法は梵相(ぼんそう)慈相(じそう)にして無過(むか)無恚(むい)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
大海(だいかい)は無辺(むへん)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
虚空(こくう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
日照(にっしょう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
色は離(り)なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
受想行識は離なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切の音声(おんじょう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
諸性(しょしょう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
無量の善法(ぜんぽう)を集(あつ)む。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
一切法の三昧(ざんまい)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
仏法(ぶっぽう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
法は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
空は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
心(しん)・心数法(しんじゅほう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
諸心(しょしん)の所行(しょぎょう)は無辺なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
善法は無量なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
不善法(ふぜんぽう)は無量なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。
師子吼(ししく)の如し。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。何を以ての故に。
色は大海の如く、受想行識も大海の如し。
色は虚空の如く、受想行識も虚空の如し。
色は須弥山(しゅみせん)の荘厳(しょうごん)の如く、受想行識も須弥山の荘厳の如し。
色は日光の如く、受想行識も日光の如し。
色は声(こえ)の無辺なるが如く、受想行識も声の無辺なるが如し。
色は衆生性(しゅじょうしょう)の無辺なるが如く、受想行識も衆生性の無辺なるが如し。
色は地(ち)の如く、受想行識も地の如し。
色は水(みず)の如く、受想行識も水の如し。
色は火(ひ)の如く、受想行識も火の如し。
色は風(かぜ)の如く、受想行識も風の如し。
色は空種(くうしゅ)の如く、受想行識も空種の如し。
色は集善相(しゅうぜんそう)を離(はな)れ、受想行識も集善相を離る。
色は和合法(わごうほう)を離れ、受想行識も和合法を離る。
色は三昧なるが故に無辺にして、受想行識も三昧なるが故に無辺なり。
色は色離(しきり)にして色性(しきしょう)なり、色は是の如きの仏法なり。受想行識も識離(しきり)にして識性(しきしょう)なり、識は是の如きの仏法なり。
色相(しきそう)は無辺にして、受想行識相も無辺なり。
色空(しきくう)は無辺にして、受想行識空も無辺なり。
色は心の所行なるが故に無辺にして、受想行識も心の所行なるが故に無辺なり。
色の中(なか)に善(ぜん)・不善(ふぜん)は不可得(ふかとく)にして、受想行識の中にも善・不善は不可得なり。
色は不可壊(ふかえ)にして、受想行識も不可壊なり。
色は是れ師子吼なり。受想行識も是れ師子吼なり。当に知るべし、般若波羅蜜も亦た是の如し。」
小品般若経(しょうぼんはんにゃきょう) 巻第九
摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)巻第一(かんだいいち):書き下し文
小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第二:書き下し文
小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第三:書き下し文
『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第四:書き下し文
『小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』巻第五:書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第六:書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第七(かんのだいしち):書き下し文
『小品般若波羅蜜經(しょうぼんはんにゃはらみつきょう)』卷第八(かんのだいはち):書き下し文
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