『釋禪波羅蜜次第法門』 現代語訳(十六特勝:釈名)
次に「十六特勝(じゅうろくとくしょう)」について解説する。これには大きく三つの項目がある。一には名前の由来と定義(釈名)。二には観法の成り立ちに関する諸説の違い(観門制立の不同)を明らかにする。三には実践と証明(修証)について明らかにする。
【一、釈名(十六特勝の由来と定義)】
第一に名前の由来と定義について。いわゆる「十六特勝」とは、 一に、息が入るのを知る。 二に、息が出るのを知る。 三に、息の長短を知る。 四に、息が全身に行き渡るのを知る。 五に、諸々の身体の動き(身行)を除く。 六に、喜(喜び)を感じる。 七に、楽(安楽)を感じる。 八に、諸々の心の動き(心行)を感じる。 九に、心に喜びを生じさせる(心作喜)。 十に、心を統一・制御する(心作摂)。 十一に、心を解放する(心作解脱)。 十二に、無常を観察する。 十三に、散り壊れること(出散)を観察する。 十四に、欲から離れること(離欲)を観察する。 十五に、滅(煩悩が滅すること)を観察する。 十六に、すべてを捨てること(棄捨)を観察する。
これらを総じて「十六特勝」と名付ける理由は、「十六」とは数のまとまり(数法)である。「特勝(特別に優れている)」という名前は、その教えが生まれた背景(因縁)に由来している。
仏陀がまだ世に出現していなかった時代、外道(他の思想家たち)はすでに修行をして、四禅や四空定(深い集中状態)を得ていた。しかし、煩悩を根本から治す(対治する)観察の修行がなかったため、迷いの世界(生死)から抜け出すことができなかった。 仏陀(如来)が悟りを開かれた後、最初は拘隣(阿若・憍陳如)や舎利弗といった資質の優れた弟子たちのために「四真諦(四つの真理)」を説き、彼らはすぐに悟りの道を得た。しかし、摩訶迦葉や絺那などに対しては、直接四諦の真理を聞かせても悟りに至らなかった。そこで仏陀はさらに「不浄観」の法を説いて煩悩を対治し、打ち破った。これによって、初めに九想や背捨といった様々な不浄観の禅(身体が朽ちる姿などを観察する法)が明らかにされた。当時、この観察を修行して道を悟る者は無数にいた。
しかし、ある修行者たちはすでに貪欲が薄かった。もし彼らが強い嫌悪感を抱きながら不浄観を行えば、激しい嫌悪感(厭患)が生じ、自分の身体をひどく憎むようになってしまった。そして煩悩がなくなる(無漏)境地に達する前に、自分の身体を顧みて自害してしまう者が現れた。この出来事は律の文献に記されている通りである。 仏陀はこの事態を受けて比丘(出家修行者)たちに告げ、不浄観を一旦捨てさせ、さらに優れた法を修行させた。これを名付けて「十六特勝」とし、これを修行すれば道を悟ることができるとしたのである。
この十六特勝には、定(心を静める働き)と観(真理を観察する働き)の両方が備わっている。この中にすべての禅の要素が含まれている。「喜」や「楽」といった心地よい法を用いて心身を労り養うため、自害してしまうような過ちが起きない。しかも、ありのままを観察する「実観」が備わっているため、諸々の禅定の快感に執着することもなく、煩悩を滅する清らかな状態(無漏)を正しく起こすことができる。快楽と自己嫌悪という両極端に偏らず、進むも退くもゆったりとして(進退従容)、なおかつ確実に道を得ることができるため、「特勝」と名付けられたのである。
(問答:なぜ十六特勝を先に説くのか)
問う: もしそうであれば、観禅(不浄観などの激しい観法)の後に、浄禅(十六特勝などの清らかな法)を説くべきではないか。なぜかと言えば、教えが説かれた順序からすれば観禅の後であり、修行の法として論じても、すでに両極端を離れて優れているのだから、やはり後に配置されるべきではないか。
答える: 今ここで明らかにしているのは、禅定の持つ力(力用)の浅深の姿である。人々の能力に応じて教えを説く順序の話をしているのではない。なぜか。背捨や勝処(不浄観系の観法)は、すべて対象を思いのままに変容させる「得解の観」である。観察する力がすでに強く、思いを転じ心を転じるため、煩悩の結び目(結)を断ち切る力において強力である。 一方、今回の十六特勝は、ただありのままを観る「実観」であり、対象もこの身体内の三十六の構成要素にとどまる。力としては相対的に弱く、速やかに煩悩の根源(結使)を断ち切ることはできない。功徳の現れ方が浅く薄いため、先に(基礎として)説かれるべきなのである。
また次に、もし不浄観によって自分の体を白骨化させ散滅させてしまったら、その後で「身体の毛穴や息の出入りの状態を観察する(十六特勝の初期プロセス)」ことができなくなってしまう。もし先に実観(十六特勝)を行ってから、後で九想や背捨(不浄観)に移行するのであれば、すべてを完全に成就することができ、理屈の上で間違いがない。 さらに、『大品般若経』の広乗品においては、先に十六特勝を観ずると説き、その後に九想・背捨などの諸々の観禅を説いている。これを明確な証拠とし、疑いを持つべきではない。
『釋禪波羅蜜次第法門』 現代語訳(十六特勝:観門制立の不同)
【二、観門制立の不同(観法の成り立ちに関する諸説の違い)】 第二に、観法の成り立ちに関する諸説の違い(観門制立の不同)を明らかにする。これには二つの解釈がある。
ある一人の人が言うには、「この呼吸の観察(阿那波那)などの十六法は、四念処(身・受・心・法の四つの観察領域)に対応している。もし四念処に当てはめて明らかにするならば、まさに知るべきである。ただ欲界の未到地(初期の浅い集中状態)から初禅の段階にかけてのみ、完全に備わるのである。それより上の段階へ至ろうと欲しても得られないわけではないが、ただ観法の形式が少し欠けてしまう。例えば、四禅にはすでに息の出入りや喜び、楽しみなどが存在しないようなものである。もし息や喜びを基準にして念処を明らかにしようとすれば、不都合が生じるのである。上の段階も下の段階も、これに準じて理解すべきである」と。
また、四念処に対応させることについても、さらに二つの異なる解釈がある。
(第一の説:五・三・三・五の分割) 一人の論師が解釈して言う。「最初の五つは『身(身体)』に対応する。中間の三つは『受(感覚)』に対応する。次の二つ(※訳注:後の記述では三つ)は『心』に対応する。後の五つは『法』に対応する。この論師は、十六特勝を明らかにして自らこう言った。『禅の経典の中の説に依拠している』と。
一には、入る息が滅する(限界)に至るのを観る。 二には、出る息が鼻の先に至って止まるのを観る。 三には、息の長短を観る。もし身体が安らかでなく、心が激しく散乱していれば、出入りの息はともに短い。もし身体が安らかで心が静かであれば、出入りの息はともに長い。 四には、息の遍身(全身に行き渡ること)。身体と心がすでに安らかであれば、気道に塞がりがない。気を飲み込んで、すでに身体中にあまねく行き渡るかのようである。 五には、諸々の身行(身体の働き)を除く。感覚器官の受け取りを『心行』とし、思いや観察を『口行』とし、出入りの息を『身行』とする。すでに息が身体中に広がり、あの感覚の動きという粗い雑念(麁念)を煩わしく思い、諸々の粗いものを除くため、『諸々の身行を除く』と名付ける。 【これら五つは『身念処』に属する。】
『受念処』には三つある。粗い息を除いたことにより、身心が安穏になるからである。 六には、喜(喜び)を受ける。 七には、楽(安楽)を受ける。微かな喜びや安楽であっても、よく身体の感覚(身識)に満ち渡る。すでに満ちて内面が喜悦するため、『楽』と名付ける。 八には、諸々の心行を受ける。すでに安楽を受けて心に抱いていれば、必ず様々な心の働き(数法)がそれに伴い、心を楽しい対象(楽境)に寄りかからせるため、『諸々の心行を受く』と名付ける。
『心念処』には三つある。 九には、心作喜(心に喜びを作る)。すでに心を一つの対象に留めても、まだ智慧による理解がなく、必ず心が沈み込んで覆われる状態(沈没)になる。喜びをもってこれを持ち上げ、沈み込ませないようにするため、『作喜』と名付ける。 十には、心作摂(心を統一・制御する)。喜びの心が激しく動いて散乱すれば、高揚して通常を超えてしまう。これを収め(摂)て元に戻し、様々な対象へ散らばらせないため、『作摂』と名付ける。 十一には、心作解脱(心を解放する)。心が揺れ動いたり散乱したりせず、均等に保たれて煩わしさがないため、『解脱』と名付ける。
『法念処』には五つある。 十二には、無常を観ずる。すでに自在を得て、心が沈んだり浮いたりすることに敗れなくなる。ゆえによく、あらゆる物事(諸法)は無常であり、一瞬一瞬(念念)生じては滅し、楽しむべきものではないと観察するのである。 十三には、散壊を観ずる。この身体は長く続かず、いずれ散り壊れるべきものである。すり減り滅びゆく法則であって、真実に存在するものではないと観る。 十四には、離欲を観ずる。この身体はただ苦しみの根本であり、心がこれから離れようと欲するため、『離欲』と名付ける。 十五には、滅を観ずる。この心が滅した状態に留まろうとすれば、多くの場合そこには過ち(過患)があり、留まることを欲しないからである。 十六には、棄捨を観ずる。これらのあらゆる物事(諸法)はすべて過ちであると観察するため、『棄捨』と名付ける。
この阿那波那などの十六の行法は、智慧の性質(慧性)である。一回の息の出入りにおいて、覚知しないものはないからである」と。
(天台智顗の注釈:)彼の論師は自ら「経典に依拠して十六特勝を明らかにする」と言うが、私は今、まだその経文を見ていない。ただ彼が述べているだけであり、私自身も未だ敢えてそれが正しいと確定(治定)することはしない。
次の論師は別の解釈をして言う。「四念処(身・受・心・法の四つの観察領域)に対して、この十六の行法を対応させること自体は道理に合わないことではない。ただ、それ(先ほどの分け方)は分類として調和がとれていない。煩悩のない(無漏の)十六の行相を四つの真理(四諦)に当てはめる際、一つの真理の下に四つがあり『四×四で十六』になるように、煩悩が残る状態(有漏)の行法もまた同じようになるべきである。したがって四念処に当てはめる際も、一つの念処の中に四つがあり『四×四で十六』になるという理屈が正しい。
先に『身念処に四つある』と言い(※訳注:前段の論師は五つとしていたことへの言及)、第五の『身体の動き(身行)を除くこと』を身体に属させるとしたのは、この理屈に合わない。なぜか。 もし心と息を身行とするなら、『大集経』の説にあるように、息は三つの行(身・口・心)すべてに通じるものであり、身行だけに属するものではない。今まさに身行を明らかにするにあたり、大乗(摩訶衍)の説にあるように、行(行為)を『身業』と名付ける。今ここで明らかにするが、善悪の様々な業はすべて心から生じる。身体と息は認識を持たない(無知の)法であり、それ自体が善悪を造ることはできず、ただ行の条件(縁)となるだけである。今、身体と心を用いて(過去の業から)身体を受け、その身体に造作させることを、名付けて『身』とする。今、『行が、感受する心(受心)によって打ち破られる』ことを明かしているのは、すなわち行そのものを破っているのである。ゆえにこれ(第五の『諸の身行を除く』)は『受念処』に属するのだと知るべきである。当然、受念処の中にもまた四つの法が備わっているのである。
また先に『法の中に五つあり、無常を観ずる(第十二の法)は法念処に属する』と言ったが、これも正しくない。なぜか。 経典の中では常に『心を無常と観じ、法を無我と観ず』と説かれている。今、無常を観ずることは、まさに『心念処』である。 これによって、一つの念処の中に各々四つがあり『四×四で十六』になるという理屈において、完全な整合性がとれるのである」と。
(第三の説:禅定の深さによる縦の階層構造) 次に、第二の論師(別の派閥の論師)が言う。「この十六法は、(四念処という横の分類ではなく)縦(竪)に、諸々の禅定から発する八つの観法に対応させるべきである。なぜか。
一に、息の入るを知る。二に、息の出づるを知るは、数息(呼吸を数える基礎的な法)に対応する。 三に、息の長短を知るは、欲界定(欲界の集中状態)に対応する。 四に、息の遍身なるを知るは、未到地定(初禅の手前の段階)に対応する。 五に、諸の身行を除くは、初覚支(悟りの要素の始まり)に対応する。 六に、喜を受くは、初禅の『喜』の要素に対応する。 七に、心楽を受くは、初禅の『楽』の要素に対応する。 八に、諸の心行を受くは、初禅の『一心(集中)』の要素に対応する。 九に、心作喜は、二禅の『内浄喜(内なる清らかな喜び)』の要素に対応する。 十に、心作摂は、二禅の『一心』の要素に対応する。 十一に、心解脱に住すは、三禅の『楽』の要素に対応する。 十二に、無常を観ずは、四禅の『不動定』に対応する。 十三に、出散を観ずは、空処(無色界の最初の定)に対応する。 十四に、離欲を観ずは、識処(無辺の意識の定)に対応する。 十五に、滅を観ずは、不用処(無所有処:何もないという定)に対応する。 十六に、棄捨を観ずは、非想非非想処(思考があるでもなく無いでもない定)に対応する。
これすなわち、最初の心の調律から始まり、最終的にあらゆる禅定を発動させるに至るまで、観察の実践(観行)が完全に備わっていることを明かしている。この解釈が最も優れているとするのである」と。

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