龍樹の般若解釈

龍樹の般若解釈は、小品が問答で外していることを、論として締め直したものです。空を増やすことではなく、法実有を立てられなくすることが中心です。

何を相手にしているのか?

龍樹の主たる相手も、経と同じく法の自性有です。法は因縁の上に仮に見える。そこに「その法自身の有」を置けない。置けないことを空と言う。空は、何も無いという結論ではなく、自性として生じない、という見方です。『中論』の骨格はここに尽きます。

  • 縁起するがゆえに空
  • 空であるがゆえに仮に言える
  • それが中道である

無生も同じ線です。自性として生まれない。生まれないものを、無という実体に持ち替えるのでもない。有の辺を捨てて無の辺に住むのは、龍樹にとっては般若ではありません。

般若とは、何を見る智慧か

龍樹系で般若は、対象をよく知る知ではありません。対象が対象として自立していないことを見る知です。

見る当の空にも自性はない。空を得物にすると、空が法実有に戻ります。小品④の「空ずることさえ行相」と同じ切れ方です。龍樹はそれを論の形で言います。空に執すれば、仏も治せない、と。

だから龍樹の般若は、

  • 法を有として立てない
  • 空を有として立てない
  • そのどちらにも住しない

この三段です。二諦はそのための道具です。世俗では因果も菩薩も言える。勝義ではそれらに自性がない。勝義を口実に世俗を捨てると、度生も戒も消える。それは般若の不足であって、徹底ではありません。

経と論の役割

東アジアでは、この解釈の現場がほとんど羅什門下です。

  • 経の側:大品・小品の問答
  • 論の側:『中論』『十二門論』『百論』
  • 経の注として読まれたもの:『大智度論』

『大智度論』は大品の注で、伝統的に龍樹造とされます。今の学問では、中論の龍樹と同一著者かには議論があります。ただし羅什が般若を読ませるとき、経の問答と中観の論を一套にした、という事実は動きます。僧叡が序で般若と法華を相待させた場所も、その一套の中です。

『大智度論』の読みで大事なのは次です。

  • 般若は諸仏の母
  • 五波羅蜜は般若に護られて岸に至る
  • 空を見るだけで声聞に堕ちるのは方便が無いから
  • 菩薩は空を行じつつ衆生を捨てない

これは中論の否定だけを取った像より、小品の現場に近い。龍樹の名で東アジアに入った般若は、「何も無い」ではなく、「護られた空」です。

小品の無生との対応

初品の無生を、龍樹の語に移すとこうなります。

小品龍樹の側
菩薩を見ず、得ず菩薩に自性なし
非心、有無を得ず心を有無の辺に置かない
空じても行相空執も自性執
無生法は得られず空も所得にならない
中道で般涅槃せず勝義に住して行を閉じない

龍樹は無生を「何も起こらない」とは読みません。自性としての生起がない、と読みます。起こるものは縁起として起こる。起こる主体を法として実有にしない。因果は残る。残るのは器としての法体ではなく、縁の仮の働きです。

法華との関係で見ると

龍樹自身の論は、法華を軸にはしません。一乗・久遠を組織したのは、あとの中国の読みです。ただし龍樹の般若を「法実有を破って止まる空」に縮小すると、経にも論にも合いません。

破ったあと、仮を言い、衆生を度し、波羅蜜を行ずる。その布の延び方は、すでに大乗の中にあります。僧叡が法華を本の鏡にしたのは、龍樹の空を捨てるためではなく、空で終わらせないためです。兆候は小品にあり、論はそれを鋭くし、法華はその先の「実」を名指す。層は違っても、相手は同じ法実有です。

一句で持つなら

龍樹の般若解釈は、空を信じることではありません。法を実有にできなくし、その空すら実有にしないことです。

そこを目的にすると、また辺に堕ちます。手段として使うと、小品の無受・無生と同じ場所に出ます。読む順番は、論から入っても経から入ってもよい。外す相手を法実有に定めておかないと、どちらも「何もない話」に落ちます。

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