小品般若経 巻第二③ 経巻の供養は、塔に勝る

目次

  • 今回の位置
  • 書き下し
  • 現代語の要約
  • ポイント 量を積んでから、出所へ戻す
  • つまずきやすい所
  • 次回
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今回の位置

①は不離の行、②は受持すれば毀乱が滅する、現世の功徳でした。経巻の住処は、道場の四辺に重ねられました。

今回は、その経巻を、舎利と塔と較べます。問いは単純です。経巻を書写して花香幢幡で供養するか。如来の舎利を同じように供養するか。どちらが福が多いか。答えは、経巻です。理由は、仏の身が貴いからではなく、薩婆若がその身に依ったからであり、薩婆若は般若から生ずるからです。

途中に、閻浮提の人の話が挟まります。信を得る者は少なく、道を行ずる者はさらに少ない。そこで「般若波羅蜜は是れ我が大師なり」という一句が出ます。塔との比較は、そのあとに来ます。

読む範囲は、塔品のうち、「般若波羅蜜を書し、経巻を受持し」の比較から、「算数譬喩も及ぶ能わざる所なり」まで。舎利を一分、経巻を一分として取る段は、舎利品に入ります。次回ではなく⑥です。

書き下し

釈提桓因(しゃくだいかんいん)、仏に白(もう)して言わく。

「世尊、若し善男子・善女人、般若波羅蜜を書し、経巻を受持し、供養恭敬し、尊重讃歎し、好花香・瓔珞(ようらく)・塗香・焼香・末香・雑香・繒蓋(そうがい)・幢幡(どうばん)を以て而して供養せん。若しまた人有りて、如来の舎利を以て、供養恭敬し、尊重讃歎し、好花香・瓔珞・塗香・焼香・末香・雑香・繒蓋・幢幡を以て而して供養せん。其の福、何の為す所か多き」と。

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仏言わく。「憍尸迦(きょうしか)、我還って汝に問わん。汝が意に随って答えよ。意に於て云何。如来は何の道を行じて、薩婆若(さつばにゃ)の所依止(しょえし)の身を得、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえるや」と。釈提桓因、仏に白して言わく、「世尊、如来は般若波羅蜜を学びたまえるが故に、是の身を得、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」と。

「憍尸迦、仏は身を以ての故に名づけて如来と為すにあらず。薩婆若を得たもうが故に名づけて如来と為す。憍尸迦、諸仏の薩婆若は、般若波羅蜜より生ず。是の身は薩婆若智の所依止なるが故に、如来は是の身に因りて薩婆若智を得、阿耨多羅三藐三菩提を成じたもう。是の身、薩婆若の所依止なるが故に、我滅度の後、舎利、供養を得。憍尸迦、若し善男子・善女人、般若波羅蜜を書し、受持読誦し、供養恭敬し、尊重讃歎し、好花香乃至幢幡を以て而して供養せば、是の善男子・善女人は、すなわち是れ薩婆若智を供養するなり。是の故に、若し人、般若波羅蜜を書写し、供養恭敬し、尊重讃歎せば、当に知るべし、是の人は大福徳を得。何を以ての故に。薩婆若智を供養するが故に」と。

釈提桓因、仏に白して言わく、「世尊、閻浮提(えんぶだい)の人、般若波羅蜜を供養恭敬し尊重讃歎せざるは、是の如き大利益を得ることを知らざるが為なるか」と。

仏言わく、「憍尸迦、意に於て云何。閻浮提に幾所(いくばく)の人か、仏に於て不壊(ふえ)の信を得たる。幾所の人か、法に於て、僧に於て不壊の信を得たる」と。釈提桓因言わく、「少(すくな)き所の人のみ、仏に於て不壊の信を得、法に於て、僧に於て不壊の信を得たり。世尊、閻浮提には少き所の人のみ、須陀洹(しゅだおん)・斯陀含(しだごん)・阿那含(あなごん)・阿羅漢を得たり。辟支仏(びゃくしぶつ)を得る者は転(うた)た復た減少す。能く菩薩の道を行ずる者もまた復た転た少なし」と。

「是の如し、是の如し、憍尸迦。閻浮提には少き所の人のみ、仏に於て不壊の信を得たり。乃至、能く阿耨多羅三藐三菩提の心を発して菩薩の道を行ずる者もまた復た転た少なし。憍尸迦、無量無辺阿僧祇(あそうぎ)の衆生、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すも、中に於て若しは一、若しは二のみ阿毘跋致(あびばっち)の地に住す。是の故に当に知るべし、善男子・善女人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発し、乃至能く般若波羅蜜を受持読誦し、供養恭敬し尊重讃歎す、と。何を以ての故に。是の人は是の念をなせばなり。『過去の諸仏、菩薩の道を行ぜし時、是の中より学べり。我等もまた応に是の中に於て学ぶべし。般若波羅蜜は是れ我が大師なり』と。憍尸迦、我が現在に若(お)いても、我が滅後に若いても、菩薩は常に応に般若波羅蜜に依止(えし)すべし。

「若し善男子・善女人、我が滅後に於て、如来を供養せんが故に七宝塔を起て、其の形寿を尽して、好花香・塗香・末香・衣服・幢幡を以て是の塔を供養せば、意に於て云何。是の善男子・善女人、是の因縁を以ての故に、福を得ること多きや不や」と。釈提桓因言わく、「甚だ多し、世尊」と。

仏言わく。「憍尸迦、若し善男子・善女人、般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、好華香・塗香・末香・衣服・幢幡を以て而して供養せば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の一塔を置く。若し閻浮提に満てる七宝塔、善男子・善女人、其の形寿を尽して、好華香乃至伎楽を以て是の塔を供養せば、意に於て云何。是の人、是の因縁を以ての故に、福を得ること多きや不や」と。釈提桓因言わく、「甚だ多し、世尊」と。

仏、憍尸迦に告ぐ。「若し善男子・善女人、般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、好華香・塗香・末香・衣服・幢幡を以てせば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の閻浮提に満てる七宝塔を置く。若し四天下に満てる七宝塔、若し人、形寿を尽して、花香を以て供養し乃至伎楽すとも、若しまた人有りて般若波羅蜜を供養せば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の四天下に満てる七宝塔を置く。若し周梨迦(しゅりか)の小千世界に満てる七宝塔、若し人、形を尽して、好華香を以て供養し乃至幢幡すとも、若しまた人有りて般若波羅蜜を供養せば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の周梨迦の小千世界の七宝塔を置く。若し二千中世界に満てる七宝塔、若し人、形を尽して、花香を以て供養し乃至幢幡すとも、若しまた人有りて般若波羅蜜を供養せば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の二千中世界を置く。若し三千大千世界に満てる七宝塔、若し善男子・善女人、其の形寿を尽して、花香を以て供養し乃至幢幡せば、憍尸迦、意に於て云何。是の人、是の因縁を以ての故に、福を得ること多きや不や」と。釈提桓因言わく、「甚だ多し、世尊」と。

仏、憍尸迦に告ぐ。「若しまた人有りて般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、花香乃至幢幡せば、其の福甚だ多し。

「憍尸迦、是の三千大千世界に満てる七宝塔を置く。仮令(たと)い三千大千世界の所有(あらゆる)衆生、一時に皆人身を得て、是の一一人、七宝塔を起て、其の形寿を尽して、一切の好華・名香・幢幡・伎楽・歌舞を以て是の塔を供養せんに、憍尸迦、意に於て云何。是の人、是の因縁を以ての故に、福を得ること多きや不や」と。「甚だ多し、世尊」と。

仏、憍尸迦に告ぐ。「若し善男子・善女人、般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、花香乃至幢幡せば、其の福甚だ多し」と。

釈提桓因言わく、「是の如し、是の如し、世尊。若し人、般若波羅蜜を供養せば、すなわち是れ過去・未来・現在の諸仏の薩婆若を供養恭敬するなり。世尊、是の三千大千世界の一一の衆生の起てし七宝塔を置く。若し十方恒河沙(ごうがしゃ)等の世界の衆生、皆人身を得て、一一人、七宝塔を起て、若しは一劫、若しは減一劫、好華香乃至伎楽を以て是の塔を供養すとも、若しまた人有りて般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、華香乃至伎楽を以てせば、其の福甚だ多し」と。

仏言わく、「是の如し、是の如し、憍尸迦。是の善男子・善女人、是の般若波羅蜜の経巻を供養する因縁を以ての故に、其の福甚だ多く、無量無辺にして、得て数うべからず、不可思議なり。何を以ての故に。憍尸迦、一切諸仏の薩婆若智は、皆般若波羅蜜より生ず。憍尸迦、是の因縁を以ての故に、若し善男子・善女人、般若波羅蜜の経巻を供養し、恭敬尊重讃歎し、華香乃至伎楽もて供養せば、前の功徳に於て、百分も一分に及ばず、千分・万分・百千万億分も一に及ばず、乃至算数譬喩も及ぶ能わざる所なり」と。

現代語の要約

帝釈が問います。経巻を書写して花香幢幡で供養するか。如来の舎利を同じように供養するか。どちらが多いか。

仏は先に道を問い返します。如来はその身で如来なのではない。薩婆若を得たから如来である。薩婆若は般若から生ずる。滅後の舎利が供養されるのも、その身が薩婆若の依り所だったからだ。だから経巻を供養する者は、薩婆若智そのものを供養している。

帝釈が重ねて問います。ではなぜ閻浮提の人は供養しないのか。知らないからか。仏は逆に問い返します。この地で、仏法僧に破れない信を持つ者がどれだけいるか。帝釈は答えます。少ない。四果を得る者も少なく、辟支仏はさらに少なく、菩薩の道を行ずる者はもっと少ない。仏は認めます。発心する者は無量にいても、不退転の地に住するのは一人か二人だ、と。その人はこう思っている。過去の諸仏も、菩薩の道を行じたとき、ここから学んだ。般若波羅蜜こそ我が大師である、と。仏がいてもいなくても、菩薩は般若に依れ、と仏は言います。

そこから塔です。一基の七宝塔を尽形寿に供養する福は多い。閻浮提に満てる塔、四天下、小千、中千、三千大千。その世界の衆生一人ひとりが塔を起てても、十方恒河沙の世界まで拡げても、経巻の供養はなお多い。百分の一にも及ばない。

途中で帝釈が言います。般若を供養するとは、三世の諸仏の薩婆若を供養することだ、と。仏はそれを印します。

ポイント 量を積んでから、出所へ戻す

比較が長いのは、塔を罵るためではありません。物量の福を、先に十分認めます。甚だ多し、と何度も言わせる。そのうえで、出所へ戻します。

舎利が貴いのは、骨が貴いからではない。薩婆若がその身に依ったからだ。塔が貴いのは、七宝が貴いからではない。如来を供養する形だからだ。その如来を如来にしたのが般若である。だから経巻は、結果の器ではなく、結果の生まれた場所を供養している。

①で天子が言った「般若は薩婆若を摂取す」が、ここで開きます。摂取は所有ではない。一切智はここから生ずる、という取り込みです。

閻浮提の一段が、比較の前に置かれている意味も同じです。仏はここで、供養する人が少ないことを認めます。発心しても、不退転まで行くのは一人か二人。そのうえで「般若波羅蜜は是れ我が大師なり」と言わせる。師は人ではなく、この法である。仏の在世も滅後も変わらない、と続きます。

塔と較べる話は、この一句のあとに来ます。塔は仏の在世と滅後を分ける建物です。大師は分かれません。

量を積むほど、差は開きます。開く理由は、数が勝つからではない。出所を供養しているか、出所から生まれた器を供養しているかです。

つまずきやすい所

舎利を軽んじてはいません。 仏は舎利供養を否定しません。身が薩婆若の依り所だったから、滅後も供養される、と先に認めています。較べて取るのは、軽視ではなく、出所を見失うな、です。

「般若波羅蜜は是れ我が大師なり」は、経典崇拝の宣言ではありません。 これは修行者の側の念として置かれています。過去の諸仏もここから学んだ、だから自分もここで学ぶ、という筋です。巻を拝むのではなく、巻が指しているものを師とする。①の「不離」から続いている線です。

七宝塔の列挙は、計算問題ではありません。 閻浮提、四天下、小千、中千、大千、恒河沙。ほとんど同じ文を、規模だけ変えて置いていきます。読んでいると途中で「また塔か」となる。その倦みが、この段の働きです。物を盛っても、出所には届かない。

「如来は身を以ての故に如来にあらず」。 仏像も舎利も、身の側です。身を捨てよ、ではない。身で名づけた瞬間、如来が器になります。

花香幢幡は、高い資具の勝負ではありません。 経巻の側も、同じ花香幢幡で供養します。差は供物の質ではなく、何に向かって供えるかです。器の値段が福を上げる、とは書いてありません。

国宝の尺度と混ぜないでください。 塔が多いほど貴い、は物の視点です。経巻が一紙でも勝つ、は出所の視点です。塔の福は経が認めています。ただし、どれだけ積んでも、生まれた場所には届かない、という順序です。

次回

次回は明呪品です。 帝釈が般若を誦すれば、阿修羅の悪心も、外道の求短も、魔の四兵も退く。大明呪は、あとから足した真言ではありません。巻第二④は無料で出します。


タグ:小品般若経/小品般若波羅蜜経/塔品/舎利/七宝塔/経巻供養/我が大師/薩婆若/帝釈天/経典解説

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