1. 前置き —— 漢訳では区別が消える
羅什訳の経論を読んでいると、「相」の字が至るところに出てくる。取相、無相、実相、何相何性何体何実。だが、この一字の背後には少なくとも二つの別語がある。
- nimitta(ニミッタ)
- lakṣaṇa(ラクシャナ)
羅什はどちらも「相」と訳す。だから字面では分かれない。分かれないまま読むと、「相を取るな」と「相の如くに随え」が同じ一つの主張の矛盾に見えてしまう。実際には別語が二つ並んでいるだけである。
まずこの二語を分けておく。
2. ラクシャナ —— ものの側にある標識
lakṣaṇa は、そのものに具わる特徴・標識である。他から分かつ印であり、事実上、定義の役を果たす。
火の相は熱である。
この言い方の「相」がラクシャナ。アビダルマで法の svalakṣaṇa(自相) と言うとき、その法をその法たらしめている規定を指す。共通の相であれば sāmānyalakṣaṇa(共相)。
重要な性格は、掴む者がいなくても、法の側にあるとされるという点である。誰も見ていなくても火は熱い、という向き。認識の手前に置かれる。
3. ニミッタ —— 心が掴むときの目印
nimitta は、心が対象を掴むときの手がかり・目印である。「取相」(原語では nimitta を取る = udgrahaṇa / grāha の系)と結びつくのは、こちらの語だ。
ラクシャナと違い、ニミッタは掴む働きから切り離せない。目印は、目印として使う者がいて初めて目印になる。だからニミッタは常に、心の側の作業とセットで語られる。禅定論で修行者が心に結ぶ「相」もこの語である。
ここで一つ、書き方の注意がある。「心が対象に相を付ける」と説明すると、無いものを心が貼り付けている、という空見寄りの読みになりやすい。ニミッタは貼り付けた偽物というより、掴むための取っ手である。「対象を掴むときの目印として取る」の方が近い。
4. 見分けの目安
| ラクシャナ (lakṣaṇa) | ニミッタ (nimitta) | |
|---|---|---|
| どこにあるか | 法の側 | 心が掴む側 |
| 働き | 標識・規定・定義 | 手がかり・目印 |
| 掴む者との関係 | 独立して立つとされる | 掴む働きと不可分 |
| 典型語 | 自相、共相、実相、何相何性何体何実 | 取相、取相分別 |
| 譬え | ものの形そのもの | ものを持ち上げるための取っ手 |
5. 字相・字義はどちらに当たるか
「字相・字義」の対で言えば、字義がラクシャナ側に近い。
字義とは、語がそれとして持っている意味・定義である。他の語から分かつ規定であり、その点でラクシャナの働きと重なる。「火」という語の義を立てることと、火の自相を言うことは、近い場所にある。
ただし、二つ留保が要る。
留保① 字相・字義は語の平面に限られる。 ニミッタ/ラクシャナの対は、言葉に限らない。心が量として立てた対象の形も、法の側の規定も含む。たとえば「合集稱量した福徳」というのは、言葉以前に、心が「これだけの福がある」と立てた形である。これはニミッタだが、「字相」とは呼びにくい。字相・字義の枠を持ち込むと、名前の相・言葉の相という限定が余計に入る。対応は近似であって、一対一ではない。
留保② 密教の術語としての字相・字義は別。 弘法大師『吽字義』などで言う字相・字義は、一字についての浅略の義と深秘の義という、密教内部の対である。ここでの一般的な用法(語の相と語の義)とは階層が違う。混ぜないほうがよい。
6. 本文での効き方
④「如心取相」
須菩提が問うたのは、心が縁として立てた諸縁諸事は得られるか、である。彌勒の答えは「不可得なり」で切れず、「如心取相」が付く。
ここの相はニミッタである。だから、
- 得られないのは福徳そのものではない。彌勒は隨喜の最大最勝を先に置いており、取り消していない。
- 得られないのは、迴向する心が所縁として立てた諸縁諸事。しかも「心が相を取った、その取り方のままでは」という限定付きである。
- 「無い」とは言っていない。「法にラクシャナが無い」とも、まだ言っていない。
④が無相まで運ばないのは、この線である。取り方の話にとどまっている。
⑤ 二語が同居する
⑤に入ると、両方が出る。同じ「相」の字で、原語が二つ並ぶ。
- 「取相分別する故に雑毒と名づく」 → ニミッタ側。取るな、と言う。
- 「諸仏の知りたまう所の福徳、何相何性何体何実なるが如く、我も亦た是の如く隨喜す」 → ラクシャナ側。
そしてここが要点になる。⑤はラクシャナ側を、人に定義させない。相・性・体・実がどうであるかを自分で立てて、その定義に随って迴向するのではない。「諸仏が知っているその如くに」とだけ言い、中身は開かれない。
つまり⑤は、ニミッタを取るなと言い、ラクシャナも自分では立てさせない。相の字が二度出て、二度とも、こちらが持てるものにはならない。
「字義の側だから安全」という開き方をすると、諸仏の知る所を自分の定義で埋めることになる。経が書いていない場所に理由を住させる、という同じ形のつまずきである。
7. 一つ検討を残す点 —— 「無相」はどちらか
「若し法過去に尽滅せば、是の法は無相なり、相を以て得べからず」(⑤後半)。
これをラクシャナ側(尽滅した法に標識が無い)と読むのは自然だが、断定は保留したい。般若経の術語としての「無相」は、三解脱門(空・無相・無願)の animitta であることが多く、その場合はニミッタ側の語になる。つまり「無相」の一語だけでは、どちらの原語か決まらない。
まさにこの箇所が、「漢字一字では分かれない」という本稿の主題が実地に効いてくる場所である。⑤の語注を立てるなら、ここは原語の確認を経てから断ずるのが安全だろう。
まとめ
- 漢訳の「相」には、ニミッタとラクシャナの二語が畳み込まれている。
- ラクシャナは法の側の標識・定義。ニミッタは心が掴むときの目印で、掴む働きと不可分。
- 字義はラクシャナ側に近いが、字相・字義の対は語の平面に限られるので、対応は近似にとどまる。
- ④の「如心取相」はニミッタ。得られないのは掴み方であって、福徳でも法の相でもない。
- ⑤は両語を並べ、ニミッタは取るなと言い、ラクシャナは自分で立てさせない。どちらも所有物にならない。
- 「無相」がどちらの原語かは、字面では決まらない。
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