小品般若経 巻第一⑤ 幻師が化人の頭を断つ

今回の位置

前回は、空じても行相になること、学ばずして学ぶことを見ました。
今回は、学ぶ者そのものが薄くなります。菩薩は幻人の如く学び、衆生を度しても、度された者は残りません。

今回読む範囲

初品第一のうち、「幻人の薩婆若を学ぶ」から、「大荘厳を発して自ら荘厳す」まで。

書き下し(冒頭)

須菩提(しゅぼだい)、仏に白して言わく。「世尊(せそん)、若し幻人(げんにん)の薩婆若(さつばにゃ)を学んで当に薩婆若を成就するや不やと問うこと有らば、世尊、我当に云何が答うべき」と。

須菩提、我還って汝に問わん、意に随って答えよ。「意に於て云何。幻は色に異なり、色は幻に異なるか。幻は受想行識(じゅそうぎょうしき)に異なるか」と。

学ぶ主体を、先に幻へ戻します。次から五陰と菩薩の名が、同じ骨格で開きます。

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書き下し

須菩提言わく。「幻は色に異ならず、色は幻に異ならず。幻は即ち是れ色にして、色は即ち是れ幻なり。幻は受想行識に異ならず、識は幻に異ならず。幻は即ち是れ識にして、識は即ち是れ幻なり」と。

「須菩提、意に於て云何。五受陰(ごじゅおん)を名づけて菩薩と為すや不や」と。「是の如し、世尊」と。仏、須菩提に告ぐ。「菩薩、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を学ばば、当に幻人の如く学ぶべし。何を以ての故に。当に知るべし、五陰(ごおん)は即ち是れ幻人なり。所以は如何。色を説くに幻の如くし、受想行識を説くに幻の如くす。識は是れ六情(ろくじょう)なり、五陰なり」と。

「世尊、新発意(しんぽっち)の菩薩、是の説を聞かば、将に驚怖し退没すること無からんや」と。仏、須菩提に告ぐ。「若し新発意の菩薩、悪知識(あくちしき)に随わば、則ち驚怖し退没せん。若し善知識(ぜんちしき)に随いて是の説を聞かば、則ち驚怖没退無けん」と。

須菩提言わく。「世尊、何等か是れ菩薩の悪知識なる」と。仏言わく。「教えて般若波羅蜜を遠離せしめ、菩提を楽わざらしむ。また教えて相を取り分別して文頌(もんじゅ)を厳飾することを学ばしむ。また教えて雑声聞・辟支仏の経法を学ばしむ。また与に魔事の因縁をなす。是を菩薩の悪知識と名づく」と。

「世尊、何等をか菩薩の善知識と為す」と。「若し教えて般若波羅蜜を学ばしめ、為に魔事を説き魔過悪を説き、魔事と魔過悪を知らしめ已って、教えて遠離せしむ。須菩提、是を大乗心を発し大荘厳(だいしょうごん)せる菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の善知識と名づく」と。

須菩提、仏に白して言わく。「世尊、菩薩と言う所は、菩薩に何なる義か有る」と。仏、須菩提に告ぐ。「一切法に障礙(しょうげ)無きを学ぶが為に、また如実に一切法を知る。是を菩薩の義と名づく」と。須菩提、仏に白して言わく。

「世尊、若し一切法を知るを名づけて菩薩の義と為さば、また何なる義を以てか、名づけて摩訶薩(まかさつ)と為す」と。仏言わく。「当に大衆の為に上首と作るべし。名づけて摩訶薩の義と為す」と。

舎利弗(しゃりほつ)、仏に白して言わく。「世尊、我もまた摩訶薩の義と為す所以を説かんことを楽う」と。仏言わく。「説くことを楽わば便ち説け」と。舎利弗、仏に白して言わく。「世尊、菩薩は我見・衆生見・寿者見(じゅしゃけん)・人見・有見・無見・断見・常見等を断たんが為に而も為に法を説く。是を摩訶薩の義と名づく。是の中に於て心、著する所無し。また摩訶薩の義と名づく」と。舎利弗、須菩提に問う。「何の故に是の中に於て心、著する所無き」と。須菩提言わく。「無心なるが故に是の中に於て心、著する所無し」と。

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、仏に白して言わく。「世尊、菩薩は大荘厳を発し大乗に乗ずるが故に。是を摩訶薩の義と名づく」と。須菩提、仏に白して言わく。「世尊、菩薩の大荘厳を発すと言う所は、云何が名づけて大荘厳を発すと為すや」と。仏言わく。

「菩薩、是の念をなさば。我、応に無量阿僧祇(むりょうあそうぎ)の衆生を度すべし。衆生を度し已るも衆生として滅度(めつど)する者有ること無し、と。何を以ての故に。諸法の相、爾なり。譬えば工幻師(くげんし)の四衢道(しくどう)に於て、化して大衆をなし、悉く化人の頭を断つが如し。意に於て云何、寧ろ傷るる者、死する者有らんや不や」と。須菩提言わく、「不なり世尊」と。仏言わく。「菩薩もまた是の如し。無量阿僧祇の衆生を度し已って、衆生として滅度する者有ること無し。若し菩薩、是の事を聞きて驚かず怖じずんば、当に知るべし、是の菩薩は大荘厳を発せり」と。

須菩提言わく。「我が仏の説きたまう所の義を解するが如くんば、当に知るべし、是の菩薩は大荘厳を発して自ら荘厳すと。何を以ての故に。薩婆若は是れ不作不起(ふさふき)の法なり。衆生の為の故に大荘厳を発す。是の衆生もまた是れ不作不起の法なり。何を以ての故に。色は無縛無解(むばくむげ)なり。受想行識も無縛無解なるが故に」と。

富楼那、須菩提に語る。「色は無縛無解にして、受想行識も無縛無解なるや」と。須菩提言わく。「色は無縛無解にして、受想行識も無縛無解なり」と。富楼那言わく。「何等の色か無縛無解にし、何等の受想行識か無縛無解なる」と。須菩提言わく。「幻人の色は是れ無縛無解にして、幻人の受想行識も是れ無縛無解なり。無所有なるが故に無縛無解なり。離なるが故に無縛無解なり。無生なるが故に無縛無解なり。是を菩薩摩訶薩、大荘厳を発して自ら荘厳すと名づく」と。

現代語の要約

幻と色は別ではない。五陰が菩薩と呼ばれるなら、菩薩は幻人の如く学ぶ。この説に驚くかどうかは、誰に随うかで分かれる。

悪知識は、般若から遠ざける。相を取らせ、文を飾らせ、声聞・縁覚の法へ混ぜ、魔事の縁を作る。善知識は、般若を学ばせ、魔事を知らせて遠離させる。

菩薩の義は、一切法に障りなく、如実に知ること。摩訶薩の義は、大衆の上首となること、諸見を断つために説き、その中に著しないこと、大乗に乗ること。

大荘厳とは、無量の衆生を度すと発しながら、滅度する者がいないと見ること。十字路の幻師が化人の頭を断っても、傷つく者はいない。縛もなく、解もない。それが自らを荘厳することである。

ポイント 度しても、度した者は残らない。

今回の核は、慈悲をやめることではありません。度する成果を残さないことです。

幻師の喩えは、残酷な話ではありません。化人は初めから実の命として立っていない。だから頭を断っても死者は出ない。菩薩の度生も、その相で見よ、と経は言います。衆生が実なら、度し終えた人数が残る。残った人数は、また所有です。

大荘厳は、その所有を先に捨てた発心です。「度す」と発する。しかし度された者がいない。発心が消えるのではなく、発心の獲物が消える。

善知識・悪知識も、同じ線にあります。悪知識は、空を聞かせて退かせるか、逆に相と文飾と小乗の法へ戻す。どちらも、行を何かの所有に戻します。善知識は、般若から離さず、しかも魔事を隠さない。怖さを消す人ではなく、退かない場所へ返す人です。

つまずきやすい所

「五陰は即ち幻人なり」は、体が嘘だという冷笑ではありません。色と幻を別々に置かない、ということです。幻を残して色だけを虚構にすると、また二物になります。

「無心なるが故に著無し」も、感情を消すことではありません。著する心を、有る物として置かないことです。

「不作不起」は、何も起こらない世界ではありません。薩婆若も衆生も、作って立ち上げた実体ではない、という意味です。起こるものは起きます。ただし、起こした所有者は残りません。

新発意が驚くのは、未熟だからだけではありません。この説は、度したい気持ちの足場を外します。足場を外されても退かないか。それが、大荘厳のしるしです。

次回

次回は、大乗そのものが問われます。
この乗はどこから出て、どこに住するのか。虚空の如く衆生を受け、前際も後際も得ない。初品は、無生の問答へ入ります。

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