小品般若経 巻第一⑦ 菩薩はどこにも住しない

今回の位置

初品は、無生の法は得られない、で閉じました。得ない法に、住む場所もありません。
今回から釈提桓因品第二です。帝釈と諸天が会座に加わり、問いが変わります。

般若を行ずるとは何か、から、般若にどこで住するのか、へ。無生を得た場所に居座るな、というのが、この品の入り口です。

今回読む範囲

釈提桓因品第二のうち、諸天の集会から、「住にも非ず不住にも非ず」まで。

書き下し

釈提桓因品(しゃくだいかんいんぽん)第二

その時、釈提桓因(しゃくだいかんいん)、四万の天子と倶に会中に在り。四天王、二万の天子と倶に会中に在り。娑婆世界(しゃばせかい)の主梵天王(ぼんてんのう)、万の梵天と倶に会中に在り。乃至、浄居天衆(じょうごてんしゅ)、無数千種にして倶に会中に在り。是の諸の天衆の業報の光明、仏身の神力の光明を以ての故に皆また現ぜず。

その時、釈提桓因、須菩提(しゅぼだい)に語って言わく。「是の諸の無数の天衆、皆共に集会して、須菩提が般若波羅蜜の義を説くを聴かんと欲す。菩薩、云何が般若波羅蜜に住するや」と。須菩提、釈提桓因及び諸の天衆に語る。

「憍尸迦(きょうしか)。我今当に仏の神力を承けて般若波羅蜜を説くべし。若し諸の天子、未だ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)心を発さざる者は、今応に当に発すべし。若し人すでに正位に入らば、則ち阿耨多羅三藐三菩提心を発すに堪任せず。何を以ての故に。すでに生死に於て障隔(しょうきゃく)をなすが故に。是の人、若し阿耨多羅三藐三菩提心を発さば、我もまた随喜す。終にその功徳を断たず。所以は如何。上人は応に上法を求むべきなればなり」と。

その時、仏、須菩提を讃めて言わく。「善きかな、善きかな。汝能く是の如く諸の菩薩を勧楽(かんぎょう)す」と。須菩提言わく。「世尊、我当に仏恩を報ずべし。過去の諸仏及び諸の弟子、如来に教えて空法中に住せしめ、また教えて諸の波羅蜜を学ばしむるが如くす。如来、是の法を学んで、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。世尊。我今もまた当に是の如く諸の菩薩を護念すべし。我が護念の因縁を以ての故に、諸の菩薩は当に疾く阿耨多羅三藐三菩提を得べし」と。須菩提、釈提桓因に語って言わく。

「憍尸迦。汝一心に菩薩の般若波羅蜜に住するを聴け。憍尸迦。菩薩は大荘厳の乗を発し、大乗に於て空法を以て般若波羅蜜に住するも、色に住すべからず。受想行識(じゅそうぎょうしき)に住すべからず。色に若しは常、若しは無常として住すべからず。受想行識に若しは常、若しは無常として住すべからず。色に若しは苦、若しは楽として住すべからず。受想行識に若しは苦、若しは楽として住すべからず。色に若しは浄、若しは不浄として住すべからず。受想行識に若しは浄、若しは不浄として住すべからず。色に若しは我、若しは無我として住すべからず。受想行識に若しは我、若しは無我として住すべからず。色に若しは空、若しは不空として住すべからず。受想行識に若しは空、若しは不空として住すべからず」と。

「須陀洹果(しゅだおんか)に住すべからず。斯陀含果(しだごんか)に住すべからず。阿那含果(あなごんか)に住すべからず。阿羅漢果に住すべからず。辟支仏道に住すべからず。仏法に住すべからず。須陀洹の無為果に住すべからず。須陀洹の福田に住すべからず。須陀洹、乃至七たび生死に往来するに住すべからず。斯陀含の無為果に住すべからず。斯陀含の福田に住すべからず。スダゴン、一たび此の間に来たって当に苦を尽くすことを得るに住すべからず。阿那含の無為果に住すべからず。阿那含の福田に住すべからず。阿那含、彼の間に滅度するに住すべからず。阿羅漢の無為果に住すべからず。阿羅漢の福田に住すべからず。阿羅漢、今世に無余涅槃(むよねはん)に入るに住すべからず。辟支仏道の無為果に住すべからず。辟支仏の福田に住すべからず。辟支仏、声聞地を過ぎて仏地に及ばずして而も般涅槃するに住すべからず。仏法に住すべからず。無量の衆生を利益すとも。無量の衆生を滅度すとも」。

その時、舎利弗(しゃりほつ)、是の念をなす。「菩薩、当に云何が住すべき」と。須菩提、舎利弗の心に念う所を知りて、舎利弗に語る。「意に於て云何。如来は何処にか住すと為すや」と。舎利弗言わく。「如来は住する所無く、住心無きを名づけて如来と為す。如来は有為性(ういしょう)に住せず。また無為性(むいしょう)に住せず」と。「舎利弗。菩薩摩訶薩もまた応に是の如く住すべし。如来の一切法に住する如く、住にも非ず不住にも非ず」。

※書き下し中の「スダゴン」は誤りです。本文は「斯陀含、一たび此の間に来たって当に苦を尽くすことを得るに住すべからず。」です。投稿時はこちらに直してください。

現代語の要約

諸天が集まり、菩薩は般若波羅蜜にどう住するかを問います。須菩提は、未発心の天子には発心を勧め、すでに正位に入った者には発心しがたいと言いながら、発せば随喜します。

そのうえで、空法を以て住するとも、色にも識にも住するな、と開きます。常にも無常にも、空にも不空にも住するな。四果にも、縁覚にも、仏法にも、福田にも、滅度にも住するな。無量の衆生を度しても、そこに住するな。

ではどこに住するのか。如来は住する所がなく、住心がない。有為にも無為にも住しない。菩薩の住もそれと同じです。住するのでもなく、不住なのでもない。

ポイント 空に住するな、果に住するな

初品の無生は、得ないことでした。この品の住は、居座らないことです。得ない場所を、新しい住所にしてはいけない。

列挙が長いのは、漏れを減らすためです。色は粗い足場です。無常も、無我も、空も、より細い足場です。四果は清らかな足場です。仏法と度生は、いちばん正しい足場に見えます。須菩提は、そこにも住するな、と言います。正しさに住すれば、また法実有です。破った当の見方が、今度は空や仏法の形で戻ってきます。

如来の住が「住心無し」であるのも、同じ切れ方です。どこにもいない、ではありません。居場所を心の対象にしない。有為を捨てて無為に住むのも、辺です。住にも非ず、不住にも非ず。否定の住所を作らない、ということです。

つまずきやすい所

「正位に入れば発心に堪任せず」は、声聞を貶めるための一文だけではありません。生死を障として超えた位置に住すると、大乗の発心が起きにくい。それでも発せば随喜する。破っても、門は閉じない。

「空法を以て般若に住するも」の「住するも」が大事です。空法で住すること自体を、先に許可してから外しています。空を使うな、ではない。空に居るな、です。

「仏法に住すべからず」は、仏法を捨てることではありません。仏法を足場の法体にしない、ということです。法実有を破る布は、ここで仏法の実有にも及んでいます。兆候は、すでにこの列挙の中にあります。

次回

次回は、諸天が「解しがたい」と言う段です。
聴く者も幻、果も幻、仏法も幻、涅槃も幻。帝釈が華を散らし、その華すら生じていない。巻第一⑧は有料で出します。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次