今回の位置
前回は、五蘊にも四果にも仏法にも住しない、と見ました。如来の住は住心がないことです。
今回、諸天はそれを「解しがたい」と言います。須菩提は、解る側を増やしません。聴く者も幻、涅槃も幻。巻第一は、ここで一度閉じます。
今回読む範囲
釈提桓因品第二のうち、「解を得ること難し」から、巻第一の終わりまで。
書き下し(冒頭)
その時、衆中に諸の天子有りて是の念をなす。「諸の夜叉衆の語言章句もなお義を知るべし。須菩提(しゅぼだい)の説く所論ずる所は解を得ること難し」と。
須菩提、諸の天子の心に念う所を知りて、諸の天子に語って言わく。「是の中に説無く示無く聴無し」と。
解らない、と言われたあと、説明を足しません。説も示も聴もない。次から、聴く者まで幻に重ねられます。
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書き下し
諸の天子、是の念をなす。「須菩提、此の義をして解し易からしめんと欲して、而も転た深妙なり」と。須菩提、諸の天子の心に念う所を知りて、諸の天子に語って言わく。「若し行者、須陀洹果(しゅだおんか)を証せんと欲し、須陀洹果に住せんと欲せば、是の忍を離れず。斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなごんか)・阿羅漢果を証せんと欲し、辟支仏道を証せんと欲し、仏法を証せんと欲すも、また是の忍を離れず」と。
その時、諸の天子、是の念をなす。「何等の人か能く随順して須菩提の説く所を聴かんや」と。須菩提、諸の天子の心に念う所を知りて、諸の天子に語って言わく。「幻人は能く随順して我が説く所を聴かん。而も聴無く証無し」と。諸の天子、是の念をなす。「但だ聴く者のみ幻の如きのみならず、衆生もまた幻の如く、須陀洹果、乃至辟支仏道もまた幻の如きか」と。須菩提、諸の天子の心に念う所を知りて、諸の天子に語って言わく。「我、衆生は幻の如く夢の如しと説く。須陀洹果もまた幻の如く夢の如し。斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道もまた幻の如く夢の如し」と。
諸の天子言わく。「須菩提、また仏法も幻の如く夢の如しと説くや」と。須菩提言わく。「我、仏法もまた幻の如く夢の如しと説く。我が涅槃を説くもまた幻の如く夢の如し」と。諸の天子言わく。「大徳須菩提、また涅槃も幻の如く夢の如しと説くや」と。須菩提言わく。「諸の天子、設いまた法の涅槃に過ぐること有るも、我もまた幻の如く夢の如しと説かん。諸の天子。幻夢(げんむ)と涅槃は無二無別なり」と。
その時、舎利弗(しゃりほつ)・富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)・摩訶拘絺羅(まかくちら)・摩訶迦栴延(まかかせんねん)、須菩提に問う。「是の如く般若波羅蜜の義を説く。誰か能く受くる者なるや」と。時に阿難(あなん)言わく。「是の如く般若波羅蜜の義を説くに、阿毘跋致(あびばっち)の菩薩、正見を具足する者、満願の阿羅漢。是等の者は能く受く」と。須菩提言わく。「是の如く般若波羅蜜の義を説くに能く受くる者無し。所以は如何。此の般若波羅蜜の法中に於て、法として説くべき無く、法として示すべき無し。是の義を以ての故に能く受くる者無し」と。
その時、釈提桓因(しゃくだいかんいん)、是の念をなす。「長老須菩提、為に法雨を雨らす。我寧ろ化して華をなして須菩提の上に散ずべし」と。釈提桓因、すなわち化して華をなして須菩提の上に散ず。須菩提、是の念をなす。「釈提桓因、今散ずる所の華、我が忉利天上(とうりてんじょう)に於て未だ曾て見ざる所なり。是の華は心樹(しんじゅ)より出でて樹より生ぜず」と。釈提桓因、須菩提の心に念う所を知りて、須菩提に語って言わく。「是の華は生華に非ず。また心樹の生にも非ず」と。須菩提、釈提桓因に語って言わく。「憍尸迦(きょうしか)。汝は是の華は生華に非ず、また心樹の生にも非ずと言う。若し生法に非ずんば名づけて華と為さず」と。
釈提桓因、是の念をなす。「長老須菩提の智慧は甚だ深し。仮名(けみょう)を壊らずして而も実義を説く」と。念い已って須菩提に語って言わく。「是の如し、是の如し、須菩提。須菩提の説く所の如く、菩薩は応に是の如く学ぶべし。菩薩、是の如く学ぶ者は、須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道を学ばず。若し是の地を学ばざるを、是を仏法を学び薩婆若(さつばにゃ)を学ぶと名づく。若し仏法を学び薩婆若を学ばば、則ち無量無辺の仏法を学ぶ。若し無量無辺の仏法を学ぶ者は、色を増減せんが為に学ばず。受想行識(じゅそうぎょうしき)を増減せんが為に学ばず。色を受けんが為に学ばず。受想行識を受けんが為に学ばず。是の人は法に於て取る所無く滅する所無きが故に学ぶ」と。
舎利弗、須菩提に語る。「行者は薩婆若を取らんが為にせず、薩婆若を滅せんが為にせざるが故に学ぶや」と。須菩提言わく。「是の如し、是の如し、舎利弗。菩薩は乃至薩婆若も、取らず滅せざるが故に学ぶ。是の如く観ずる時、能く薩婆若を学び能く薩婆若を成就す」と。
その時、釈提桓因、舎利弗に語る。「菩薩摩訶薩の般若波羅蜜は、当に何に於てか求むべき」と。舎利弗言わく。「般若波羅蜜は当に須菩提の転ずる所の中に於て求むべし」と。釈提桓因、須菩提に語る。「是れ誰の神力なる」と。須菩提言わく。「是れ仏の神力なり。憍尸迦。問う所の如くんば般若波羅蜜は当に何に於てか求むべきや。般若波羅蜜は色中に求むべからず。受想行識中に求むべからず。また色を離れて求めず。また受想行識を離れて求めず。何を以ての故に。色は般若波羅蜜に非ず。色を離るるもまた般若波羅蜜に非ず。受想行識は般若波羅蜜に非ず。受想行識を離るるもまた般若波羅蜜に非ず」と。
釈提桓因言わく。「摩訶波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり。無量波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり。無辺波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり」と。須菩提言わく。「是の如し、是の如し、憍尸迦。摩訶波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり。無量波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり。無辺波羅蜜は是れ般若波羅蜜なり。憍尸迦。色は無量なるが故に般若波羅蜜無量なり。受想行識は無量なるが故に般若波羅蜜無量なり。縁は無辺なるが故に般若波羅蜜無辺なり。衆生は無辺なるが故に般若波羅蜜無辺なり」と。
「憍尸迦。云何が縁の無辺なるが故に般若波羅蜜無辺なる。諸法には前無く中無く後無し。是の故に縁の無辺なるは般若波羅蜜無辺なり。また次に憍尸迦。諸法は無辺なり。前際も得べからず。中際・後際も得べからず。是の故に縁の無辺なるは般若波羅蜜無辺なり」と。
釈提桓因言わく、「長老須菩提。云何が衆生の無辺なるは般若波羅蜜無辺なるや」と。「憍尸迦。衆生の無量にして算数も得べからず。是の故に衆生の無辺なるは般若波羅蜜無辺なり」と。釈提桓因言わく。「大徳須菩提、衆生には何なる義か有る」と。須菩提言わく。「衆生の義は即ち是れ法の義なり。意に於て云何。言う所の衆生、衆生には何なる義か有る」と。釈提桓因言わく。「衆生は法義に非ず。また非法義にも非ず。但だ仮名有るのみ。是の名字は本無く因無し。強いて為に名を立てて名づけて衆生と為す」と。須菩提言わく。「意に於て云何。此の中に実に衆生として説くべく示すべき有るや不や」と。「不なり」と。
須菩提言わく。「憍尸迦。若し衆生は説くべからず示すべからずんば、云何が衆生無辺なるが故に般若波羅蜜無辺なりと言うや。憍尸迦。若し如来、住寿すること恒河沙劫(ごうがしゃこう)の如くして、衆生と言葉を説くも、衆生には実に衆生の生滅有るや不や」と。釈提桓因言わく、「不なり。何を以ての故に。衆生は本より已来、常に清浄なるが故に」と。「憍尸迦。是の故に当に知るべし、衆生の無辺なるは般若波羅蜜無辺なり」と。
小品般若経 巻第一
現代語の要約
諸天は、須菩提の説が解しがたいと言います。須菩提は、この中に説も示も聴もない、と返します。聴けるのは幻人である。聴もなく証もない。衆生も四果も縁覚も仏法も涅槃も、幻の如く夢の如し。涅槃を超える法があっても、なお幻夢である。幻夢と涅槃は二ではない。
誰が受けられるか、と問われて、阿難は不退転の菩薩と正見の者と満願の阿羅漢を挙げます。須菩提は、受け手はいない、と言います。説くべき法も、示すべき法もない。
帝釈が華を散らす。その華は生じていない。生じた法でなければ、華とも名づけない。仮名を壊さずに実義を説く。四果の地を学ばないことが、仏法を学び薩婆若を学ぶことである。取るためでも滅するためでもなく学ぶ。
般若は色の中にも、色を離れた所にも求められない。無辺なのは、縁に前後がなく、衆生が数えられないからである。衆生は仮名のみで、本より清浄である。だから衆生の無辺が、般若の無辺である。
ポイント 破った先に、涅槃を残さない
巻第一の終わりは、空の徹底ではありません。空で壊した相手を、最後に涅槃として残さないことです。
天子が「解しがたい」と言うのは、正しい反応です。解る側を確保すると、また受け手が実有になります。須菩提は、解りやすい説明を足さない。説無し、示無し、聴無し。受け手もいない。これは冷淡さではなく、法実有を最後まで戻さないことです。
華の一段がそれを実演します。散った華はある。だが生華ではない。生じた法でなければ華と名づけない。仮名は残る。残る仮名で実義を説く。名前を消して沈黙するのではなく、名前を実体にしない。帝釈が「仮名を壊らずして実義を説く」と見たのは、この切れ方です。
衆生が無辺だから般若が無辺だ、も、人数が多いから智慧が大きい、ではありません。衆生に生滅の実がない。実がないから、数え終わらない。数え終わらない場所が、般若の広さです。広さは分量ではなく、所有のなさです。初品の虚空の大乗と、ここで一つになります。
つまずきやすい所
「涅槃も幻の如し」は、解脱を嘲ることではありません。涅槃を最後の実有にしない、ということです。法実有を破る布は、世間の法だけでなく、出世間の果にも及びます。兆候は、すでにここにあります。止まり先を涅槃にしても、また法体です。
「能く受くる者無し」と阿難の答えは、矛盾ではありません。阿難は、退かない者なら聞ける、と言う。須菩提は、聞ける主体を法として立てない、と言う。聞ける行と、聞ける者の実有は別です。
「色を離れて求めず」。空の外側に般若がある、のでもない。色を捨てた場所を新しい住所にすると、⑦の住が戻ります。中にも無く、離れた所にも無い。求める場所が残らないことが、求めることです。
巻第一を閉じる
序は、般若が末の懸を解くと言いました。巻第一はその解く手つきです。菩薩を得ず、空じても行相、度しても残さず、無生を得ず、どこにも住せず、涅槃すら幻とする。手段はここまで揃いました。揃った手段を目的にしないこと。それが、この巻の読みです。
次回
巻第二は宝塔品から入ります。
解いた空が、今度は功徳と受持の比較へ開きます。経巻そのものを、どう持つか。巻第一の「得ない」が、持つな、で終わらないことを、そこで見ます。
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