記事の説明
舎利品。閻浮提に満てる舎利を一分、経巻を一分として、帝釈は経巻を取る。舎利を敬わないのではない。舎利は般若から生じ、般若に熏じられたから供養される。負債人と宝珠の喩え。
目次
- 今回の位置
- 書き下し
- 現代語の要約
- ポイント 取るのは、舎利を捨てることではない
- つまずきやすい所
- 次回
今回の位置
③は塔品で、七宝塔の量を積んでから出所へ戻しました。⑤は、五波羅蜜を導くのが般若であること、諸天が経巻の所に集うことまでです。今回は舎利品第五です。較べる相手が、塔から舎利そのものに移ります。仏が帝釈に問う。満閻浮提の舎利を一分、経巻を一分として、どちらを取るか。帝釈は経巻を取る。理由を、善法堂の座、負債人、無価の宝珠で開きます。読む範囲は、舎利品の冒頭から、恒河沙世界の舎利を置いても経巻を取るまで、三世の仏が般若によって菩提を得た、という印可まで。菩薩は余の波羅蜜を行じないのか、写して他人に与える功徳は⑦です。
摩訶般若波羅蜜 舎利品第五
その時、仏、釈提桓因(しゃくだいかんいん)に告げて言わく、「憍尸迦(きょうしか)、閻浮提(えんぶだい)に満てる舎利を以て一分と為し、般若波羅蜜の経巻を以て一分と為す。二分の中、何の分をか取ると為す」と。
釈提桓因、仏に白(もう)して言わく、「世尊、我、般若波羅蜜を取る。何を以ての故に。世尊、我、舎利に於て恭敬せざるには非ず。舎利は般若波羅蜜より生ずるが故に、般若波羅蜜の熏ずる所なるが故に、供養を得。
「世尊、我、忉利(とうり)天上の善法堂の中に、我に坐処有り。忉利の諸天、我を供養し来るが故に、若し我、座上に在らずとも、諸天子、我が坐処の為に作礼恭敬し、遶り已(おわ)りて去る。是の念をなす、『釈提桓因、此の処に於て坐して、忉利の諸天の為に説法す』と。諸仏の舎利もまた是の如し。般若波羅蜜より生じ、薩婆若(さつばにゃ)の所依止なるが故に、供養を得。是の故に世尊、我、二分の中に於て般若波羅蜜を取る。
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「世尊、閻浮提に満てる舎利を置く。若し三千大千世界に満てる舎利を以て一分と為し、般若波羅蜜の経巻を以て一分と為す。二分の中、我、般若波羅蜜を取る。何を以ての故に。諸仏の舎利は、般若波羅蜜に因りて生ずるが故に、供養を得。世尊、譬えば負債の人、常に債主を畏るるも、親近して王に奉事することを得るが故に、債主、反って更に恭敬し怖畏す。何を以ての故に。国王に依恃し、其の力大なるが故に。世尊、舎利もまた是の如し。般若波羅蜜に依止するが故に、供養を得。世尊、般若波羅蜜は王の如し。舎利は王に親近する人の如し。如来の舎利は、一切智慧に依止するが故に、供養を得。世尊、諸仏の一切智慧もまた般若波羅蜜より生ず。是の故に我、二分の中に於て般若波羅蜜を取る。
「世尊、譬えば無価の宝珠、是の如き功徳有り。其の所住の処、非人、能く其の便を得ず。若しは男、若しは女、若しは大、若しは小、非人の持する所と為るも、宝珠其の処に至れば、非人則ち去る。若し熱病有れば、珠能く除滅す。若し風病有れば、珠を身上に著くれば、風患すなわち除く。若し冷病有れば、珠を身上に著くれば、冷患また除く。是の珠の住處、夜時能く明と為り、熱時能く涼と為り、寒時能く温と為る。珠の所住の処、蛇毒入らず。若しは男、若しは女、若しは大、若しは小、毒虫に螫(さ)さるるも、珠を以て之に示せば、毒すなわち除滅す。若し諸の目患、珠を目上に著くれば、目患すなわち除く。世尊、また是の宝珠、若し水中に著くれば水と同色なり。若し白繒を以て裹みて水中に著くれば、水色すなわち白なり。若し青黄紫赤種種の色の繒を以て裹みて水中に著くれば、水すなわち各其の色に随う。水濁ればすなわち清と為る。是の珠、是の如き功徳を成就す」と。
その時、阿難、釈提桓因に問う、「此れは是れ閻浮提の宝か、是れ天上の宝か」と。釈提桓因言わく、「此れは是れ天上の宝なり。閻浮提の人にもまた是の宝有り。但だ功徳少なくして重し。天上の宝珠は功徳多くして軽し。人宝の天宝に比ぶれば、算数譬喩も及ぶ能わざる所なり。
「世尊、若し是の珠、篋(きょう)の中に在れば、珠を挙げて去ると雖も、珠の功徳を以ての故に、其の篋則ち貴し。世尊、般若波羅蜜・薩婆若智の功徳を以ての故に、如来滅後、舎利、供養を得。如来の舎利は、是れ薩婆若智の所住の処なるが故に。我、二分の中に於て般若波羅蜜を取る。
「世尊、是の三千大千世界に満てる舎利を置く。若し恒河沙等の世界の中に満てる舎利を以て一分と為し、般若波羅蜜の経巻を以て一分と為す。二分の中、我、般若波羅蜜を取る。何を以ての故に。諸仏如来の薩婆若智は、皆般若波羅蜜より生ず。薩婆若の熏ずる所なるが故に、舎利、供養を得。
「また次に世尊、若し善男子・善女人、如実に十方無量阿僧祇の諸仏を見んと欲せば、当に般若波羅蜜を行ずべし。当に般若波羅蜜を修すべし」と。
仏言わく、「是の如し、是の如し。憍尸迦、過去の諸仏は皆般若波羅蜜に因りて、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得。未来の諸仏もまた般若波羅蜜に因りて、阿耨多羅三藐三菩提を得。現在の十方無量阿僧祇世界の諸仏もまた般若波羅蜜に因りて、阿耨多羅三藐三菩提を得」と。
現代語の要約
仏が帝釈に問います。閻浮提に満てる舎利を一分、経巻を一分として、どちらを取るか。帝釈は経巻を取る。舎利を敬わないのではない。舎利は般若から生じ、般若に熏じられたから供養される、と。善法堂の座を喩えます。帝釈が座にいなくても、諸天はその座を礼して去る。ここに帝釈が坐して法を説いた、と思うからだ。舎利もその座である。薩婆若の依り所だったから貴い。
三千大千に満てる舎利を置いても、なお経巻を取る。負債の人は債主を畏れる。王に仕えるようになると、債主のほうが畏れる。王の力が大きいからだ。般若は王、舎利は王に仕える人である。
無価の宝珠は、非人を退け、病を除き、夜を明にし、毒を消し、水の色を変え、濁りを清くする。阿難が問う。閻浮提の宝か、天上の宝か。帝釈は天上の宝だ、と言う。人の宝は重くて功徳が少ない。天の宝は軽くて功徳が多い。珠を篋から取り出しても、篋は珠の功徳でなお貴い。滅後の舎利は、その篋である。薩婆若智の住處だったからだ。
恒河沙の世界に満てる舎利を置いても、なお経巻を取る。十方の諸仏を如実に見ようとするなら、般若を行じ、修せよ、と。仏は印します。三世の仏は、みな般若によって菩提を得た、と。
ポイント 取るのは、舎利を捨てることではない
帝釈は先に言います。恭敬せざるには非ず。③と同じ切り方です。器を罵って出所を取るのではない。器が器として貴い理由を、出所へ戻す。座の喩えが分かりやすい。帝釈がいない座を、諸天は礼する。
座が帝釈なのではない。そこで法が説かれたからだ。舎利は骨ではない。薩婆若がその身に依った跡である。跡を取るより、依った当のものを取れ、と。
負債人は、借りを消す話ではありません。債主が貴いのでもない。王に依る力が、債主の位置を変える。舎利の貴さは、舎利の側から湧くのではない。王である般若に依っている。
篋も同じです。珠を出しても篋は貴い。貴さの出所は珠である。舎利は篋、薩婆若智は珠、その珠を生むのが般若である。篋を捨てよ、ではない。空の篋を本尊にするな、です。
恒河沙まで拡げるのは、③の塔と同じ倦みです。量を積んでも、熏じた側には届かない。
つまずきやすい所
「熏ず」は、香りが染みる、です。 舎利が別物になってから後付けで貴くなる、のではない。般若に熏じられた身が、滅後も供養される。③の「摂取」と同じ向きです。
善法堂の座を、帝釈の権威の話にしない。 いない座が礼されるのは、人が神だからではない。そこで法が説かれたからです。
宝珠の効能表を、護符の商品にしない。 帝釈は天上の珠だ、と言います。人の珠は重くて功徳が少ない。重さは、物としての立派さです。軽くて功徳が多い、がこの段の尺度です。国宝の重さと混ぜない。
阿難が珠の出所を問う。 帝釈の喩えが、地上の宝石の自慢に落ちないように、天の宝だ、と位置を戻しています。
「如実に諸仏を見る」。 仏の姿を視覚で得る技法ではありません。般若を行じ、修する、です。見る対象を先に持たない。巻第一の「見ず得ず」から、この巻の「行ず修す」へ開いています。所持して見る、ではない。
次回
次回で巻第二を閉じます。 菩薩は余の波羅蜜を行じないのか。行ずる。ただし布施の時も般若が上首である。樹の形はさまざまでも、陰は一つ。経巻を自分だけ供養するより、写して他人に与え、人のために説け。巻第二⑦は無料で出します。
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