無生の法とは何か|得られない智慧の急所

今回の位置

『小品般若波羅蜜経』巻第一⑥で、須菩提(しゅぼだい)はこう言います。菩薩も無生、薩婆若(さつばにゃ)も無生、凡夫も無生である。だが無生を以て無生を得るのではない。無生法は得られない。

連載の本文は⑥に置いてあります。この記事は、その一句だけを開くための解説です。定義を先に持って⑥を読んでもよいし、⑥のあとで戻ってもよいです。

無生とは何か

無生は、梵語ではアヌトパーダ(anutpāda)、生じないことです。対になるのは無滅です。生まれず、滅しない。

ここで言う「生じない」は、目の前の色も人も出来事もない、ではありません。色は見えます。衆生もいます。問答も続きます。生じないのは、それらが自分の力で、自分として、独立に立ち上がることです。

小品の言い方では、色に自性がない。自性として生じないなら、その色は「色」として確定しません。だから須菩提は言います。色が無生なら、すなわち色に非ず。無生無滅で、無二無別である、と。

無生は、有を消して無にすることではありません。有無のどちらにも置かないことです。置いた瞬間、それはまた生じた法になります。

初品で無生が及ぶ範囲

⑥で無生は、一段ずつ広がります。

  • 菩薩は無生である
  • 薩婆若も無生である
  • 凡夫も無生である
  • 菩薩法も、薩婆若法も、凡夫法も無生である

ここを「みな同じ完成だ」と読むと外れます。凡夫と仏が同じ位だ、と言っているのではありません。どれも、固有の性として生まれてはいない、と言っているのです。

違いが消えるのではありません。足場が消えます。凡夫は、その無生の法を分別し、名色に貪著する。菩薩は、同じ無生を著しない。法の生まれ方が違うのではなく、受け取り方が違います。

いちばん大事な一文

舎利弗(しゃりほつ)が問います。無生を以て無生を得るのか。菩薩は薩婆若を得べきか。須菩提は「得る」側に立ちません。

我、無生法をして所得有らしめんと欲せず。無生法は得べからざるが故に。

これが無生の法の急所です。

無生は到達点ではありません。手に入る果でもありません。手に入るなら、その無生はすでに「有るもの」として生じています。⑥の「不生もまた生ぜず」も同じです。不生を対象にして持つと、不生が生になります。

だからこの経では、次の三つは別です。

  • 無生を見る
  • 無生に住する
  • 無生を得る

見ることは開きます。住すれば行相になります。得ようとすれば、初品の全体が崩れます。②で菩薩を得ず、③で心を念わず、④で空じても行相、⑤で度した者が残らない。⑥はその線の終わりです。得ないことが、無生の法の使い方です。

空・無受・無生

三つは近いですが、同じ単語ではありません。

  • 空は、諸法に自性がないというあり方
  • 無受は、それを受け取らない行
  • 無生は、それが「生じたもの」として立たないこと

空だけを取ると、何もない場所へ逃げられます。無生だけを取ると、「もう生まれていない」という境地を所持できます。無受だけを取ると、感受を消した静けさと間違えられます。

小品が求めているのは、空を見て止まり、無生を得て終わり、感受を消して済むことではありません。生じない法を、なお衆生のところで行ずることです。だから⑥では、無生の直後に難行想を否定します。苦行を自分の相にすると、衆生を利益できない。無生は、苦しさの自慢を外す言葉であって、行を閉じる言葉ではありません。

後の経文との続き

この語は、初品で終わりません。小品の後半では無生法忍が出ます。生じない法を、耐え、受け入れることです。忍は、我慢というより、退かない認可です。

ただし忍も、無生を握った証明書ではありません。⑤の幻師と同じです。化人の頭を断っても死者は出ない。その相を、驚かない。⑥の「驚かず怖じず」が、のちの無生法忍の先触れです。得た人が忍を持つ、のではなく、得ない法から退かない人に、忍の名が後からつきます。

つまずきやすい所

「何も起こらない」
起こります。起こったものを、実体として立てない、です。

「生まれていないのだから、因果もない」
この経は因果を廃棄しません。廃棄するのは、因果を担う固定の主体です。

「凡夫も無生だから、修行は要らない」
凡夫法が無生なのは、凡夫がすでに岸にいる、という意味ではありません。足場がないのに足場だと思っている、という意味です。その思いが無明です。

「無生を悟れば菩薩である」
須菩提は等式を結びません。衆生に性がなく、念にも性がない。だから衆生=菩薩、としない。結べば、また得られます。

ポイント 生じないことを、なお得ようとしない

無生の法とは、生じないことを知ることではありません。生じない法を、なお得ようとしないことです。

得ようとした瞬間、無生は普通の法に戻ります。初品がそこに閉じるのは、次の釈提桓因品で「どこに住するか」を問うためです。得ない法に、住む場所もありません。

この先

本文は『小品般若経 巻第一⑥ 無生の法は得られない』にあります。
その次は釈提桓因品第二です。諸天が集まり、菩薩はどこに住するのか、と問います。住しないことが、如来の住に重なります。

マガジンでは、⑥の直前か直後に。
「般若波羅蜜とは何か」と同じ棚、連載本文の横道です。

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