今回の位置
巻第一は、得ない、住しない、涅槃も幻、で閉じました。
巻第二は塔品第三です。諸天が歓喜して、同じ般若を「持って行ずる」側へ開きます。
持つ主体を立て直すのではありません。離れない行を、仏の相で見よ、と先に置きます。受持も読誦も、このあとに来ます。
読む範囲は、塔品第三の冒頭から、燃燈佛の授記、「般若波羅蜜は薩婆若を攝取す」まで。
書き下し小品般若波羅蜜経 巻第二
後秦・亀茲国の三蔵 鳩摩羅什訳
塔品第三
その時、釈提桓因、梵天王、自在天王、及び衆生主・諸の天女等、皆大いに歓喜す。同時に三たび唱う、「快哉、快哉。仏、世に出でたまえるが故に、須菩提(しゅぼだい)乃ち能く是の法を演説す」と。
その時、諸天の大衆、倶に仏に白(もう)して言わく、「世尊、若し菩薩、能く般若波羅蜜を離れずして行ぜば、当に是の人を視ること仏の如くすべし」と。
仏、諸の天子に告ぐ。「是の如し、是の如し。昔、我、衆華城の燃燈佛(ねんとうぶつ)の所に於て、般若波羅蜜を離れずして行ぜし時、燃燈佛、我に記して、来世に阿僧祇劫を過ぎて当に作仏することを得べし、号して釈迦牟尼如来・応供(おうぐ)・正遍知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師・仏・世尊と曰えり」と。
諸天子、仏に白して言わく、「希有なり、世尊。諸の菩薩摩訶薩の般若波羅蜜は、能く薩婆若(さつばにゃ)を攝取す」と。
現代語の要約
帝釈も梵天も、須菩提がこの法を説けたのは仏が世に出たからだ、と三たび歓ぶ。そして言う。般若を離れないで行ずる菩薩を、仏の如く見よ、と。
仏はそれを印します。かつての衆華城、燃燈佛の前で、自分も般若を離れずに行じた。そのときに授記を受けた、と。天子たちは、菩薩の般若は薩婆若を攝取する、と受けます。
ポイント 持つ前に、離れない
巻第二は、経巻の功徳から入りません。先に行の相を置きます。受持も読誦も、この「不離」のあとに来ます。離れたまま巻を持てば、巻が新しい法体になります。
離れずに行ずる人を仏の如く見る、とは、人を神にすることではありません。その行が、すでに仏の行と同じ場所にある、ということです。
燃燈の授記も、別の能力の賞ではありません。不離の行の上に記が置かれます。巻第一④で、分別しない者にすでに記がある、と見た線です。記は成績表ではなく、離れなかったことの名です。
つまずきやすい所
**「視是人如仏」**は、その人を仏と同一視せよ、ではありません。見る目を、人の器量ではなく、不離の行に置け、です。
**「攝取薩婆若」**は、般若が一切智を所有する、ではありません。一切智はここから生じる、という取り込みです。この巻の後半で、舎利が貴いのは般若に依るからだと説かれます。種はすでにここにあります。
巻第一と矛盾しません。 得ないことと、離れないことは別です。対象として得ない。行として離れない。持つな、ではない。
次回
次回から、受持・読誦の現世功徳に入ります。
魔も非人も便を得ず、横死せず、空舎でも道でも恐れない。毀乱は、蛇が薬の気を聞いて退くように滅します。巻第二②は有料で出します。
コメント