『小品般若波羅蜜経』を読み始めると、最初から「般若波羅蜜を説け」と出てきます。
経文に入る前に、この語だけを一度開いておきます。知ってから読むための予備知識ではなく、読みながら何度も戻るための骨格です。語の形般若波羅蜜は、梵語プラジュニャーパーラミター
(Prajñāpāramitā)の訳
- 般若(はんにゃ)=智慧。普通の知識や分別知ではない
- 波羅蜜(はらみつ)=完成、到彼岸。此岸から彼岸へ渡りきること
二つを合わせると、「智慧が渡りきること」「彼岸へ至る智慧」です。
漢訳では音写を残しています。意味だけを「智慧の完成」と訳し切らないのは、ただの優秀な理解ではない、と示すためです。何ではないか般若波羅蜜は、まず次のものではありません。
- 物知りになること
- 空という言葉を操ること
- 何も感じなくなること
- 世間を捨てて一人で済むこと
知識は増えても、対象を握ったままなら、それはまだ此岸の知です。空を理解しても、「空を得た私」が残れば、また住みます。感受を消しても、消した行に住すれば、その行になります。
小品般若経がくり返すのは、このずれです。智慧がある、ではなく、得るところがない智慧です。
経の中での使い方
この語は、場面によって厚みが変わります。少なくとも三つあります。
一つは、行です。菩薩が般若波羅蜜を行ずる、というときの行。色にも識にも住せず、しかも衆生を捨てない。
一つは、果です。その行が渡りきった智慧。薩婆若(さつばにゃ)、一切智へ近づく智慧です。
一つは、経そのものです。書写し、読誦し、人のために説く対象としての般若。小品では、この経巻を受持する功徳が、くり返し他の福徳と比較されます。
三つは別物というより、同じ語の三つの面です。行がなければ経は文字に閉じ、果だけを急げば名を握り、経だけを持てば功徳を物にします。
六波羅蜜の中で
大乗の菩薩行は、よく六波羅蜜で語られます。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若です。
前の五つは、この第六を欠くと岸へ届きません。船の喩えがそれを示します。信と精進があっても、般若の方便がなければ中道に没し、声聞地へ堕ちる。護られて初めて薩婆若に至る。
逆に、般若だけを切り離して「空を見る」ことにすると、衆生を捨てます。経が求めるのは、方便に護られた般若です。空だけでも、衆生だけでもない。
小品で最初に起こること
初品で須菩提(しゅぼだい)は、仏に「菩薩のために般若波羅蜜を説け」と命じられて、すぐ定義を述べません。先にこう返します。
菩薩を見ず、菩薩を得ず。般若波羅蜜も見ず、得ず。では、誰に教えるのか。
これが、この経における般若波羅蜜の入り口です。智慧を渡す相手を先に確保しない。渡す当の智慧も、対象として持たない。そのうえで、驚かず退かず、説かれたとおりに行ずるなら、それを「教えた」と名づける。
般若波羅蜜とは、先に所持する道具ではありません。得ない場所で、なお菩薩の道が消えないこと。その消えなさが、この語の実です。
ポイント 得ない智慧が、岸である
波羅蜜を「完成」とだけ読むと、何かが満ちた状態を想像します。小品は、その想像を先に壊します。
近づくのは、生もなく成就もないと見る行です。無受の三昧は、相として所持できません。「今、智慧を得た」と確認した時点で、すでに相です。
それでも岸は消えない。岸は、向こうに積まれた成果ではなく、此岸の所有が尽きることです。尽きても衆生を捨てない。その両立を、この経は般若波羅蜜と呼びます。
つまずきやすい所
般若心経の「般若」と同じ語ですが、小品は心経の要約ではありません。心経は短い要点、小品はその要点が問答として開いた骨格です。心経が読めるから小品が分かった、とは限りません。
「空」と「般若波羅蜜」も、すぐ同じにはできません。空は諸法のあり方を示す語、般若波羅蜜はそれを行じきる智慧と道です。空を見て止まるなら、経はそれを中道の涅槃として戒めます。
「波羅蜜=完成」も、上手になった、ではありません。渡りきる、です。上手さは此岸でも増えます。渡るとは、増えた自分を足場にしないことです。
この先
この語の実は、定義文より問答の中に出ます。
次は『小品般若波羅蜜経』そのものを、序から初品へ進みます。まず僧叡(そうえい)の序、つづいて「菩薩を見ず、得ず」です。
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