小品般若経 巻第一② 菩薩を見ず、般若を得ず

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前回は僧叡(そうえい)の序でした。訳出の経緯と、般若と法華の相待です。
今回から本文に入ります。会座は王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。対告の中心は須菩提(しゅぼだい)です。初品は、般若の定義から始まりません。先に、誰に説くのかが崩れます。

書き下し

小品般若波羅蜜経(しょうぼんはんにゃはらみつきょう) 巻第一
後秦(こうしん)・亀茲国(きじこく)の三蔵 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳
(丹本(たんぽん)には「摩訶」の上に「小品」の二字あり)

初品第一

如是我聞(にょぜがもん)。一時、仏、王舎城の耆闍崛山中に在す。大比丘僧千二百五十人と倶なり、皆是れ阿羅漢(あらかん)なり。諸漏(しょろう)すでに尽きて調象王(じょうぞうおう)の如し。所作すでに弁じ、重担を捨て、己利(こり)を逮得(たいとく)し、諸有の結を尽くす。正智解脱して、心、自在を得たり。唯だ阿難(あなん)を除く。

その時、仏、須菩提に告ぐ。「汝、説くことを楽う者は、諸の菩薩の為に、成就すべき所の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を説け」と。

舎利弗(しゃりほつ)、すなわち是の念をなす。「須菩提、自らの力を以て説くか、仏の神力を承けて為すか」と。須菩提、舎利弗の心に念う所を知りて、舎利弗に語って言わく。「仏の諸の弟子、敢て説く所有るは、皆是れ仏の力なり。所以は如何。仏の説く所の法、その中に於て学ぶ者は、能く諸法の相を証す。証し已って言説する所有るも、皆法相(ほっそう)と相違背せず。法相の力を以ての故に」と。

その時、須菩提、仏に白して言わく。「世尊(せそん)、仏、我をして諸の菩薩の為に成就すべき所の般若波羅蜜を説かしむ。世尊、菩薩と言う所は、菩薩とは何等の法義ぞや。是の菩薩、我、法有って名づけて菩薩と為すを見ず。世尊、我、菩薩を見ず、菩薩を得ず。また見ず、般若波羅蜜を得ず。当に何等の菩薩に般若波羅蜜を教うべきや。若し菩薩、是の説をなすを聞いて、驚かず、怖じず、没せず、退かずして、説く所の如く行ぜば、是を菩薩に般若波羅蜜を教うと名づく」と。

現代語の要約

仏は須菩提に、菩薩のために成就すべき般若波羅蜜を説け、と命じます。舎利弗は、それが須菩提自身の力か、仏の力かを疑います。須菩提は、弟子の説はみな仏の力であり、証した法相に背かないから言える、と返します。

そのうえで須菩提は、説く相手を先に問います。菩薩とは何か。菩薩という法を見ない。菩薩を得ない。般若波羅蜜も見ず、得ない。では、誰に教えるのか。この説を聞いて驚かず、退かず、説かれたとおりに行ずるなら、それを「菩薩に般若を教えた」と呼ぶ、と言います。

ポイント 教える前に、相手の名が空になる

初品の急所は、般若の内容より先にここにあります。

普通なら、「菩薩とはこういう行者である。その人に般若を授ける」と始まります。須菩提は逆です。相手を確保してから説かない。相手という法が見えない、と言います。

これは、菩薩を否定して声聞の席に戻ることではありません。名があるから教えられる、という前提を外しています。名が残ったまま説けば、その名に住します。住した名に向かって般若を渡せば、渡す当のものがすでに対象になります。

だから「見ず、得ず」のあとに、すぐ実践のしるしが置かれます。驚かず、怖じず、没せず、退かず、説く所の如く行ずる。相手を確定できない説を聞いて、それでも退かないこと。それが、この経における「教えた」の定義です。

つまずきやすい所

会座の比丘は、すでに漏尽の阿羅漢です。この経は初心者に空の単語を教える入門書として書かれていません。すでに行がある者の前で、その行の足場を外しています。

舎利弗の問いも、ただの謙遜ではありません。誰の口から説かれるのか。須菩提は、自分の智慧を独立させません。証し已って言うことも、法相に背かない限りにおいて言える。説く主体も、先に膨らませない、ということです。

「当に何等の菩薩に教うべきや」は、教える相手がいないから中止せよ、ではありません。相手を確保できない場所で、なお行が続くか、を見ています。

次回

次回から有料回に入ります。
巻第一③は、「是の菩薩の心を念わざるべし。是の心は非心なり」から、諸法無受三昧までです。見ず得ない、で終わりません。心を心として握らない行へ進みます

行が続くとは修行のことか

この経の「行ずる」は、説かれたとおりに退かずに生きることです。座禅の回数や課目を積む、という意味が先ではありません。②の段で須菩提が置いている条件は、これだけです。

  • 驚かず
  • 怖じず
  • 没せず
  • 退かず
  • 説く所の如く行ずる

つまり、「菩薩」も「般若」も対象として取れない、と聞いたあとでも、そこで止まらないこと。相手の名が空になっても、菩薩の道そのものが消えないこと。それを「行が続く」と書きました。注意が必要なのは、次の③④です。この経はすぐ後で、その「行」自体も疑います。

  • 色の中に住すれば、色の行になる
  • 空じても、空じたという行相になる
  • 「私はこう行じた」が残れば、まだ方便ではない

だから、

  • ②の「行ずる」=退かないこと
  • ④の「行相」=その行を自分の所有物にすること

この二つは別です。

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