小品般若経 巻第一④ 空ずることさえ行相である

前回は、心は非心であり、五蘊に住せず、受けないことが三昧だ、と見ました。
今回は、その空じ方そのものが問われます。空を見ても、空じた私の行が残れば、また住みます。

今回読む範囲

初品第一のうち、「色を行ぜば行相と為す」から、「是の如く学ぶを薩婆若を学ぶと名づく」まで。

書き下し(冒頭)

その時、須菩提(しゅぼだい)、舎利弗(しゃりほつ)に語って言わく。
菩薩、若し色を行ぜば行を行相(ぎょうそう)と為す。若し色を生ぜば行を行相と為す。若し色を滅せば行を行相と為す。若し色を壊せば行を行相と為す。若し色を空ぜば行を行相と為す。我是の行を行ずるも、また是れ行相なり。」

空じても行相になる。今回の入口はここです。では、何をすれば般若波羅蜜を行ずると言えるのか。次からその問いが開きます。

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書き下し

「若し受想行識(じゅそうぎょうしき)を行ぜば行を行相と為す。若し識を生ぜば行を行相と為す。若し識を滅せば行を行相と為す。若し識を壊せば行を行相と為す。若し識を空ぜば行を行相と為す。我是の行を行ずるも、また是れ行相なり。若し是の念をなして、能く是の如く行ずる者は、是れ般若波羅蜜を行ずるなりとせば、また是れ行相なり。当に知るべし、是の菩薩は未だ善く方便を知らざるなり」と。

舎利弗、須菩提に語る。「今菩薩は云何が行ずるを、名づけて般若波羅蜜を行ずと為すや」と。須菩提言わく。

「若し菩薩、色を行ぜず。色の生を行ぜず、色の滅を行ぜず。色の壊を行ぜず、色の空を行ぜず。受想行識を行ぜず。識の生を行ぜず、識の滅を行ぜず。識の壊を行ぜず、識の空を行ぜずんば、是を般若波羅蜜を行ずと名づく。般若波羅蜜を行ずと念わず。行ぜずと念わず。行じ行ぜずと念わず。また行ずるにも非ず行ぜざるにも非ずと念わず。是を般若波羅蜜を行ずと名づく。所以は如何。一切法に受無きが故に。是を菩薩の諸法無受三昧(しょほうむじゅざんまい)、広大無量にして定め無く、一切の声聞・辟支仏の壊る能わざる所と名づく。菩薩、是の三昧を行じて、疾く阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得」と。

須菩提、仏の威神を承けて、而も是の言をなす。「若し菩薩、是の三昧を行ずるに、念わず分別せざらん。是の三昧に、我当に是の三昧に入るべし、我今入る、我すでに入る、と。是の如き分別無くんば、当に知るべし、是の菩薩はすでに諸仏より、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得たり」と。舎利弗、須菩提に語る。「菩薩の行ずる所の三昧、諸仏より阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得る、是の三昧は示すことを得べしや不や」と。須菩提言わく。「不なり、舎利弗。何を以ての故に。善男子は是の三昧を分別せざればなり。所以は如何。三昧の性、無所有なるが故に」と。

仏、須菩提を讃めて言わく。「善きかな、善きかな。我、汝は無諍三昧(むじょうざんまい)の人中に於て最も第一と為すと説く。我が説く所の如く、菩薩は応に是の如く般若波羅蜜を学ぶべし。若し是の如く学ぶ者は、是を般若波羅蜜を学ぶと名づく」と。

舎利弗、仏に白して言わく。「世尊、菩薩、是の如く学ばば、何なる法をか学ぶと為すや」と。仏、舎利弗に告ぐ。「菩薩、是の如く学ぶとも法に於て学ぶ所無し。何を以ての故に。舎利弗、是の諸法は凡夫の著する所の如く爾らず」と。

舎利弗、仏に白して言わく。「世尊、今云何が有る」と。仏言わく。「無所有なるが如く、是の如く有り。是の如く諸法は無所有なるが故に無明(むみょう)と名づく。凡夫は無明を分別し、無明に貪著(とんじゃく)し、二辺に堕して知らず見ず。無法中に於て憶想分別(おくそうふんべつ)し、名色(みょうしき)に貪著す。貪著に因るが故に、無所有の法に於て知らず見ず、出でず信ぜず住せず。是の故に堕して凡夫の貪著の数中に在り」と。

舎利弗、仏に白して言わく。「世尊、菩薩は是の如く学ぶとも、また薩婆若(さつばにゃ)を学ばず」と。仏、舎利弗に告ぐ。「菩薩は是の如く学ぶとも、また薩婆若を学ばず。是の如く学ぶを、また薩婆若を学ぶと名づけ、薩婆若を成就す」と。

現代語の要約

色を行じても、生ぜしめても、滅しても、壊しても、空じても、その行を「私の行」として持てば行相になる。「これが般若を行ずることだ」と思っても、また行相である。それはまだ方便を知らない。

行ずると念わず、行ぜずとも念わない。入る前・入る今・入った後を分別しない。その三昧は示すことができない。学ぶ法もなく、薩婆若を学ばない。学ばないその学びが、薩婆若を学ぶと呼ばれる。

ポイント 空じた、と思った瞬間に、また住む

③で「受けない」と見たあと、すぐこの段が来ます。空は安全な到達点ではない、ということです。

行相は、悪い行だけではありません。色を追う行も、色を空ずる行も、同じように行相になり得ます。違いは対象ではなく、その行を自分の相として残すかどうかです。

方便を知る、とは、上手に空ずることではありません。空ずる私を残さないことです。「我当に入るべし、我今入る、我すでに入る」を立てない。三昧を指さして示せない。示せるなら、すでに所有です。

仏が最後に言う「学ばずして学ぶ」も、同じ骨格です。薩婆若を対象にして近づかない。近づかない行が、近づく。

つまずきやすい所

「色を行ぜず、空をも行ぜず」は、何もしないことではありません。②で見た「退かない行」は、ここでは消えていません。消えるのは、行の所有です。

「学ぶ所無し」も、勉強をやめることではありません。凡夫が著するように、法を有る物として学ばない、ということです。無所有のまま有る。有ることを否定して無へ落ちるのも、また二辺です。

「記を受く」は、その三昧を成績として確認した人に与えられるのではありません。分別しない者に、すでに記がある、と説かれます。確認が先に来ると、記は相になります。

次回

次回は、幻人の喩えです。
菩薩が薩婆若を学ぶとは、幻人が学ぶように学ぶこと。五陰は幻人である、と開きます。度する相手も、度する自分も、ここでさらに薄くなります。

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