小品般若経 巻第一⑥ 無生の法は得られない

今回の位置

前回は、幻人が学ぶように学び、度しても度した者が残らない、と見ました。
今回は、その乗そのものが問われます。大乗はどこから出て、どこに住するのか。菩薩は無生か。無生なら、何を得るのか。初品はここで一度閉じます。

今回読む範囲

初品第一のうち、「云何が大乗と為す」から、初品の終わりまで。

書き下し(冒頭)

須菩提(しゅぼだい)、仏に白して言わく。「世尊(せそん)、云何が大乗と為す。云何が菩薩大乗に発趣(ほっしゅ)すと為す。是の乗は何処にか住する。是の乗は何処よりか出ずる」と。

仏、須菩提に告ぐ。「大乗なる者は、有量無く分数無きが故に。是の乗は何処より出でて何処に住するかとは。是の乗は三界より出でて薩婆若(さつばにゃ)に住す。是の乗に出ずる乗無き者は、何を以ての故に。出法も出ずる者も倶に無所有なれば、何なる法か当に出づべき」と。

乗るものも、出ることも、先に持てない。次から摩訶衍(まかえん)が虚空に重ねられます。

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書き下し

須菩提、仏に白して言わく。「世尊、摩訶衍と言う所、摩訶衍なる者は、一切世間の天・人・阿修羅に勝出す。世尊、摩訶衍は虚空と等し。虚空が無量阿僧祇(むりょうあそうぎ)の衆生を受くる如く、摩訶衍もまた是の如し。無量阿僧祇の衆生を受く。是の摩訶衍は、虚空に来処無く去処無く住処無きが如く、摩訶衍もまた是の如し。前際(ぜんざい)を得ず、中際(ちゅうざい)を得ず、後際(ござい)を得ず。是の乗は三世に等し。是の故に名づけて摩訶衍と為す」と。仏、須菩提を讃めて言わく。「善きかな、善きかな。諸の菩薩摩訶薩の摩訶衍は、応に汝が説く所の如くなるべし」と。

その時、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)、仏に白して言わく。「世尊、仏、須菩提をして般若波羅蜜を説かしむるに、すなわち摩訶衍を説く」と。須菩提、仏に白して言わく。「世尊、我が説く所、将に般若波羅蜜を離るる無からんや」と。「不なり須菩提。汝が説く所は般若波羅蜜に随順す」。

「世尊、我、過去世の菩薩を得ず。また未来現在世の菩薩を得ず。色無辺なるが故に、菩薩もまた無辺なり。受想行識(じゅそうぎょうしき)無辺なるが故に、菩薩もまた無辺なり。世尊、是の如く一切処・一切時・一切種に菩薩は得べからず。当に何等の菩薩に般若波羅蜜を教うべき。我、菩薩を得ず見ず。当に何なる法にか般若波羅蜜に入るを教うべき」と。

「世尊、菩薩と言う所、菩薩なる者は但だ名字のみ有り。譬えば所説の我、我法は畢竟じて生ぜざるが如し。世尊、一切法の性もまた是の如し。此の中に何等か是れ色として著せず生ぜざらん。何等か是れ受想行識として著せず生ぜざらん。色は是れ菩薩なりとも得べからず。受想行識は是れ菩薩なりとも得べからず。不可得もまた得べからず。世尊、一切処・一切時・一切種に菩薩は得べからず。当に何なる法にか般若波羅蜜に入るを教うべき。世尊、菩薩は但だ名字のみ有り。我の畢竟じて生ぜざるが如く、諸法の性もまた是の如し。此の中に何等か是れ色として著せず生ぜざらん。何等か是れ受想行識として著せず生ぜざらん。諸法の性、是の如し。是の性もまた生ぜず。不生もまた生ぜず。世尊、我、今当に不生の法に教えて般若波羅蜜に入らしむべきや。何を以ての故に。不生の法を離れては得べからざればなり。菩薩、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を行ずるに、若し菩薩、是の説をなすを聞いて驚かず怖じずんば、当に知るべし、是の菩薩は般若波羅蜜を行ぜり」と。

「世尊、菩薩、随って般若波羅蜜を行ずる時、是の観をなす。諸法は即ち色を受けず。何を以ての故に。色、無生なるは即ち色に非ず、色、無滅なるは即ち色に非ず。無生無滅にして無二無別なり。若し是の色を説かば、即ち是れ無二の法なり。菩薩、般若波羅蜜を行ずる時、受想行識を受けず。何を以ての故に。識、無生なるは即ち識に非ず、識、無滅なるは即ち識に非ず。無生無滅にして無二無別なり。若し識を説かば、即ち是れ無二の法なり」と。

舎利弗(しゃりほつ)、須菩提に問う。「我が須菩提の説く所の義を解するが如くんば、菩薩は即ち是れ無生なり。若し菩薩、無生ならば、何を以ての故に、難行有りて衆生の為の故に苦悩を受くるや」と。須菩提言わく。「我、菩薩をして難行有らしめんと欲せず。何を以ての故に。難行想、苦行想を生ぜば、無量阿僧祇の衆生を利益すること能わず。衆生に於て易想・楽想・父母想・子想・我所想(がしょそう)を生ぜば、則ち能く無量阿僧祇の衆生を利益す。我の法は一切処・一切時・一切種に得べからざるが如く、菩薩は内外の法中に於て、応に是の如き想を生ずべし。若し菩薩、是の如き心を以て行ぜば、また難行と名づく。舎利弗の言う所の菩薩は無生なりとは、是の如し、舎利弗。菩薩は実に無生なり」と。

舎利弗言わく。「但だ菩薩無生なるのみならず、薩婆若もまた無生なるや」と。須菩提言わく。「薩婆若もまた無生なり」と。舎利弗言わく。「薩婆若無生ならば、凡夫もまた無生なるや」と。須菩提言わく。「凡夫もまた無生なり」と。舎利弗、須菩提に語る。「若し菩薩無生ならば、菩薩法もまた無生なり。薩婆若無生ならば、薩婆若法もまた無生なり。凡夫無生ならば、凡夫法もまた無生なり。今、無生を以て無生を得るか。菩薩、応に薩婆若を得べきか」と。須菩提言わく。「我、無生法をして所得有らしめんと欲せず。何を以ての故に。無生法は得べからざるが故に」と。

舎利弗言わく。「生生なりや、無生生なりや。汝が言う所の楽説(ぎょうせつ)は、生と為すか無生と為すか」と。須菩提言わく。「諸法は無生なり。言う所も無生にして、楽説もまた無生なり。是の如く楽説す」と。

舎利弗言わく。「善きかな、善きかな。須菩提。汝は説法人中に於て最も第一たり。何を以ての故に。須菩提、問う所に随って皆能く答うるが故に」と。須菩提言わく。「法、応に爾るべし。諸仏の弟子、無依止(むえし)の法に於て問う所に能く答う。何を以ての故に。一切法に定め無きが故に」と。

舎利弗言わく。「善きかな、善きかな。是れ何なる波羅蜜の力なるや」と。須菩提言わく。「是れ般若波羅蜜の力なり。舎利弗、若し菩薩、是の如き説、是の如き論を聞く時、疑わず、悔いず、難ぜずんば、当に知るべし、是の菩薩は是の行を行じて是の念を離れず」と。

舎利弗言わく。「若し菩薩、是の行を離れず是の念を離れずんば、一切の衆生もまた是の行を離れず是の念を離れず。一切の衆生もまた当に是れ菩薩なるべし。何を以ての故に。一切の衆生も是の念を離れざるが故に」と。須菩提言わく。「善きかな、善きかな、舎利弗。汝、我を離れて我が義を成ぜんと欲す。所以は如何。衆生に性無きが故に、当に知るべし、念もまた性無し。衆生、離なるが故に念もまた離なり。衆生、得べからざるが故に念もまた得べからず。舎利弗。我、菩薩をして是の念を以て般若波羅蜜を行ぜしめんと欲す」と。

現代語の要約

大乗は量も分数もない。三界から出て薩婆若に住する、と言っても、出る法も出る者もない。摩訶衍は虚空のようで、無量の衆生を受け、来処も去処も住処もない。

菩薩は三世に得られない。ただ名字だけがある。不生の法を離れて般若に入ることもできない。色が無生なら、それはもう色ではない。無生無滅で、二ではない。

菩薩は無生である。だが難行想を立てて苦しむことを、須菩提は求めない。衆生を父母の如く見る方が、利益できる。薩婆若も無生、凡夫も無生。だから無生を以て無生を得る、とは言わない。無生法は得られない。言うことも、楽説も無生である。

ポイント 無生は、到達点ではない

初品の終わりで一番取り違えやすいのは、「無生を得た」と読むことです。舎利弗はそこを突きます。菩薩も薩婆若も凡夫も無生なら、無生で無生を得るのか。須菩提は、所得を欲しがらない。無生は、手に入る果ではないからです。手に入るなら、また生です。

大乗も同じです。虚空が衆生を受けるのは、虚空が大きな容器だからではありません。来処も住処もないから、拒む壁がない。乗に乗る者が残らないから、乗は広大に見えます。広さは分量ではなく、所有のなさです。

難行の一段も、無生の否定ではありません。無生だから何もしない、のでもない。苦行を自分の相にすると、衆生を利益できない。易く、親しく、我所を立てすぎない想の方が、行は続きます。無生は、苦労の自慢を外すための言葉です。

つまずきやすい所

富楼那が「般若ではなく摩訶衍を説いている」と言うのは、脱線の指摘ではありません。この経では、般若を説くことが、そのまま大乗を開くことです。仏も、離れていない、と印します。

「凡夫も無生なり」は、凡夫と仏が同じ完成だという意味ではありません。凡夫法も、固有の性として生じてはいない、ということです。同じ無生を、凡夫は著し、菩薩は著しない。違いを消す話ではなく、足場を消す話です。

「一切衆生も菩薩か」も、須菩提は受けません。衆生に性がなく、念にも性がない。だから衆生=菩薩、と等式で結ばない。結べば、また得られます。

「不生もまた生ぜず」。不生を対象にして持つと、不生が生になります。初品は、その寸前で閉じます。

次回

次回から釈提桓因品第二です。
諸天が集まり、菩薩はどこに住するのか、と問います。須陀洹果にも、仏法にも住しない。住しないことが、如来の住に重なります。巻第一⑦は無料で出します。

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